「上場すれば、ゴール」――いま、スタートアップをめぐるそんな認識は、崩れつつあります。
日本政府が2022年に「スタートアップ育成5か年計画」 を掲げて以来、国内のスタートアップエコシステムへの資金供給量は歴史的にも高水準で堅調に推移しています。スタートアップエコシステムへの「インプット(投資)」という観点では、資金供給の基盤が整備され、大型調達も実現しています 。

その影響か、筆者がグロービス経営大学院で担当しているファイナンス講座でも、受講生に占めるスタートアップ関係者や起業志望者の割合が目に見えて増えています。その中で増えているのが、彼らからの「M&Aによるエグジットを具体的にどう進めるべきか」という質問です。
かつてはスタートアップの出口戦略はIPOが主流であり、M&Aでの売却には「妥協」というイメージが伴っていました。しかし近年の傾向として、最初からM&Aを主軸に据えたエグジット・マネジメントを意図する動きが顕著になっています。本稿では、日米のエグジットの比較を通じて、スタートアップの有力なエグジット手段であるM&Aを阻む日本の要因を検討し、スタートアップの最適なエグジット・マネジメントのあり方について研究を深めていきましょう。
東証グロース市場改革:「量」から「質」への転換
上場スタートアップに浮上した「時価総額100億円問題」
東証は、グロース市場の信頼性回復と機能強化を目的として、2025年に上場維持基準の抜本的な厳格化を決定しました*1。具体的には、従来の「上場10年経過後に時価総額40億円以上」という基準が見直され、2030年3月以降は「上場から5年を経過した企業に対して時価総額100億円以上」を要求する新基準が適用される予定となりました。
この上場維持基準の見直しは、すでに上場を果たしたスタートアップに対して極めて大きな動揺をもたらすこととなりました。グロース市場上場企業のうち、時価総額100億円未満の企業は約7割(2025年4月時点)に上ります。基準に適合しない状態が続いた場合、原則1年間の改善期間を経た後、上場廃止となる可能性があるからです。もちろんスタンダード市場への市場区分変更も選択肢となり得ますが、別途申請・審査が必要です。
この「100億問題」が、新規上場(IPO)を目指すスタートアップにも大きな影響を及ぼしています。上場後の成長可能性がこれまで以上に重視される中、IPOを目指す企業や主幹事証券会社の間でも、一定の時価総額を確保できる成長性や収益性を早期に示すことが求められるようになっています。表2の通り、実際、2025年のスタートアップIPO件数は31社となり、2024年の49社から約37%減少しました。このようにIPOの難易度が大きく上がったことで、スタートアップの経営陣は未上場段階からの成長戦略の見直しを余儀なくされており、早期の経営判断としてM&Aを現実的かつ前向きなエグジット戦略と位置づけて模索する動きが加速していることが、筆者への相談件数の増加にもつながっていると推察されます。

小さく上場した企業を待つ、成長の踊り場
IPO件数の減少傾向は続いていて、2026年1~3月の国内IPOは6社にとどまり、東証グロース市場への上場も前年同期の13社から4社へ減少。IPOは更なる狭き門となっています。その中で2025年の初値時価総額の中央値は131億円にとどまっており 、100億円という水準を目安にすれば、上場時点で余裕のある規模とは言いがたい状況です。こうしたいわゆる「スモールIPO」は、依然として散見されています。
ところで、スモールIPOが内包する課題とは何でしょうか?
それは、時価総額が比較的小規模のまま上場を果たすと、上場後の成長戦略における選択肢が狭まり、将来的な発展が停滞するリスクが生じることにあります。INITIALの調査*2によれば、1999年から2020年までに公募時価総額100億円未満で上場した377社のうち、上場5年後に時価総額100億円を超えていたのは118社でした。この結果は、小規模での上場後に企業価値を大きく拡大することは容易でないことを示唆しています。
こうしたスモールIPOは、上場企業として求められる監査費用や情報開示義務などに伴う重い維持コストの負担を強いるのみならず、上場後の成長投資が十分に進まない場合には、将来の企業価値拡大の余地を狭める可能性があります。
よって適切なエグジット・マネジメントを通じて十分なキャピタルゲインを創出し、それを次世代のスタートアップへ循環させる「投資リサイクル」が健全に機能しなければ、日本市場からグローバル展開を牽引する巨大企業が連続的に輩出される仕組みの構築は極めて困難であると懸念されます。
スタートアップ投資のエグジット手法の日米比較
日本のM&Aエグジットの現在地:件数は増えても、金額は小粒
2025年のエグジット全体に占めるM&Aの比率を見てみると、過去10年で最も高い 84.5%まで上昇しています。M&Aによるエグジット自体は169件と、前年の178件から小幅に減少していますが 、IPO件数の減少もあり、出口の件数構成ではM&Aへのシフトが進んでいます。*3
しかしながら、その規模にはまだ課題があります。 2025年のM&Aでの取引金額の総額は約1000億円程度と、小規模から中規模の案件が中心であり、大型案件は一部にとどまっています。国内スタートアップへの資金供給は、2015年以降で総額約7兆円、2021年からだけでも4.3兆円が調達されており、拡大してきたと言えます。一方、前述のように投資資金を循環させるうえで十分な規模のM&Aエグジットを継続的に生み出せるかは、引き続き課題です。

日本と米国との差はIPOの入り口の広さにある
米国市場に目を向けると、2025年におけるM&Aによるスタートアップのエグジットは1,396件にのぼりました。このうち取引額が公表された193件の合計は1,090億ドルであり、1件あたりの平均取引額を単純計算すると5億6,480万ドルに達します。*4日米とも取引額の非開示案件が多く、開示率や案件構成も異なるため、市場全体の平均取引額を単純に比較することは困難ですが、公表された取引額を見る限り、米国では日本より大規模なM&Aエグジットが多いことが示唆されます。
それでは、この違いはなぜ生じるのでしょうか?
米国では、IPOは相対的に規模が大きく成熟した企業(ユニコーンやデカコーン)に集中し、件数ベースではM&Aが一般的なエグジット手段となっています。
これとは対照的に、日本では世界的にみてもIPOの形式基準が緩やかだった背景から、日本では、歴史的にエグジット件数に占めるIPOの割合が米国より高く、東証グロース市場を中心とした比較的小規模なIPOが有力な出口として利用されてきました。*5
もちろん、日本市場においても、大規模なスタートアップのM&Aが全く存在しないわけではありません。例えば2021年には後払い決済サービスを展開するPaidyが米PayPalによって約3,000億円で買収され、2023年には、無細胞DNA合成・増幅技術を持つオリシロジェノミクスが、米Modernaに8,500万ドルで買収されました。日本発スタートアップの世界水準の技術や事業モデルが高く評価されるポテンシャルがあることのよい例です。しかし、これらはあくまで例外的な成功事例であり、市場全体のトレンドを形成するには至っておりません。
スタートアップにおけるエグジットの問題は、単に「M&A案件の不足」や「取引規模の小ささ」といった表面的な事象にとどまらず、より深い課題も内在しています。本質的な問題は、起業家や投資家への資金回収・再投資のサイクルを停滞させ、エコシステム内で資金とノウハウを回すシリアルアントレプレナー(連続起業家)の輩出を阻んでいる点にあります。その結果、日本経済におけるイノベーションの新陳代謝が著しく停滞する要因となっているのです。
日本の大企業がスタートアップを「買わない」3つのワケ
米国においてスタートアップ投資のエコシステムにM&Aが深く根を下ろし、一般的な出口戦略として定着している背景には、複数の主要な要因が存在します。
第一に、買い手となる大企業におけるオープンイノベーションへの経営思想の違いが挙げられます。米国の巨大テクノロジー企業や大手製薬会社などは、自社内での研究開発(R&D)のみに頼るのではなく、「自社の基幹事業が陳腐化するリスクを回避するため、外部の優れた技術や市場シェア、ひいては成長のための時間を買い取る」という明確な経営哲学を持っています。そのため、将来性のあるスタートアップを早期の段階から高い評価額で積極的に買収する傾向にあります。*2
その一方で、日本の大手企業においては依然として自前主義の傾向が根強くみられ、外部の技術を導入することに対して消極的な姿勢が残っているのが現状です。
第二に、米国の場合、起業家側の意識として、IPOが唯一の最終ゴールではなく、事業を発展させるための多様な選択肢の一つに過ぎないという共通認識が浸透している点です。M&Aを通じて大きなキャピタルゲイン(売却益)を手にした起業家は、その豊富な資金と経験を活かしてエンジェル投資家へと転身したり、あるいは新たなベンチャーを再び立ち上げるシリアルアントレプレナーとして前線に戻ったりします。この一連の人材と資金の循環メカニズムこそが、米国におけるエコシステムの強固な生命線となっています。
日本では、「上場企業の社長」というステータスへの固執が強く、M&Aを「身売り」や「独立性の喪失」というネガティブな文脈で捉える価値観が依然として存在するように見受けられます。
そして第三に、人材の流動性を支える高度なインセンティブ設計の存在です。
米国では、優先株を持つVCの要求するリターン水準に届かないような中規模のM&A案件であっても、売却対価の一部を経営陣等に配分するマネジメント・カーブアウト(MCO)や、買収後の企業価値向上への参加を促すマネジメント・インセンティブ・プラン(MIP)が活用されています。
スタートアップの本質的な価値の源泉が「優秀な人材」にあることを買い手と投資家の双方が深く理解しているため、「参加型みなし清算条項」を柔軟に運用し、買収対価の一部をインセンティブとして「切り出し(カーブアウト)」て経営陣らに分配します。これにより、ファンドと経営陣との利害相反(エージェンシー問題)が緩和され、経営陣に対してM&Aを前向きに推進する強力な動機付けが生まれるのです。その結果、買収された企業のコア人材が大企業の中で新たな事業成長を牽引し、一定のロックアップ期間が明けた後に再び独立して次のイノベーションを起こすという、持続的なダイナミズムが維持されています。
日本の場合、参加型みなし清算条項がM&Aでのエグジットにおけるボトルネックになっているとよく指摘されています。参加型みなし清算条項では、M&A対価の分配に際し、優先株主がまず投資額相当額等の優先分配を受け、その後、残余対価の分配にも普通株主とともに参加します。この条項が存在することで、企業価値が投資時の想定ほど上昇していない状況でM&Aを実行した場合、優先株主への分配が大きくなり、普通株主である起業家の手残りが極端に少なくなる、あるいはゼロになる事態が発生してしまいます。
その他、日本固有の課題もあります。ひとつは、日本の会計基準(J-GAAP)に準拠している多くの国内企業では、M&Aの実施に伴って発生するのれんを最長20年以内にわたって規則的に償却する義務があります。この償却費用の発生が買収後の各事業年度における営業利益を直接的に押し下げる要因となるため、こうした利益圧迫を懸念して買収に踏み切れない企業が依然として数多く存在しています。
加えて、経営層の人材流動性が低い日本企業の多くでは減点方式の人事評価制度が採用されている場合も多く、担当役員にとって、期待通りのシナジーを発揮できずに減損処理を余儀なくされるリスクは、自身のキャリアにおける致命傷になりかねないという背景もあります。
「スタートアップM&Aガイダンス」が示す今後の道筋
このような課題意識に基づき、2025年から2026年にかけて、国内のスタートアップ資本市場の制度や環境は歴史的な転換期を迎えています。象徴的な動きとして、経済産業省は2026年5月21日に「スタートアップM&Aガイダンス―スタートアップ・エコシステムの成長・発展並びに新産業の創出に向けて―」を策定・公表しました。*6筆者は、IPOとM&Aを並列の成長手段として捉え、実務上の留意点を体系化した点で、重要な指針だと評価しています。
注目したいのは、 将来のM&Aを不必要に妨げない検討を促しているという点です。
具体的には、一部の株主が不当にM&Aを妨げることがないよう、マイノリティ投資の段階では「先買権(優先譲受権)」の設定を見送り、コントロール投資の段階になって初めて導入するという段階的な手法を選択肢の一つとして示しています。さらに、大株主が少数株主に対して売却を強制できる「ドラッグアロング条項」についても、一方的な買収を防ぐ目的で「経営陣の同意」を発動要件に組み込むことや、また、表明及び保証の違反等に基づき経営株主が負う補償責任について、受領する売却対価との関係で合理的な上限を設定する考え方も示されています。筆者は、このうち経営陣の同意要件と補償責任の上限設定が、売り手の予見可能性を高めるうえで特に重要だと考えます。
「IPO 100億問題」は、さらなるスケールを目指す未上場スタートアップだけでなく、既に上場したスタートアップにとっても成長戦略の再考を迫っています。スタートアップの買い手という意味では、近年では、大企業だけでなく、大型資金調達を実施した未上場スタートアップや新興上場企業が「買い手」として市場に参入しています*5。以下のように、SaaS企業やブランド運営企業が、周辺領域の企業・事業を買収し、自社のサービス基盤やブランドポートフォリオを拡張する事例が相次いでいます。
企業名 | 時期 | 詳細 |
|---|---|---|
SmartHR | 2025年4月 | 業務委託・フリーランス管理クラウド「Lansmart」を提供するCloudBrainsの全株式を取得 |
マネーフォワード | 2019年 | SaaS比較・資料請求プラットフォーム「BOXIL」などを運営するスマートキャンプの株式72.3%を取得して子会社化 |
freee | 2021年 | 電子契約サービス「NINJA SIGN」(現「freeeサイン」)を運営するサイトビジットの株式70%を取得して子会社化 |
東証が推し進めるグロース市場の基準厳格化(5年・100億円ルール)は、安易な上場を抑制し市場の質を担保する上で極めて正しい方向性だと筆者は考えています。その結果としてM&Aによるエグジットは今後増加すると思われますし、これを実効性のあるものとするため、やはりスタートアップとVC間の「投資契約・株主間契約の柔軟化」を推進すべきでしょう。
例えば、起業家の意欲を削ぐ極端な参加型みなし清算条項の運用については、独立した第三者による企業価値評価や複数候補との比較を経たM&Aにおいて、優先株主の同意を前提として、同条項の適用方法を柔軟に見直す仕組みを契約段階で設けることも検討に値します。
すなわち、適切なM&Aでのエグジットの場合、米国のように、普通株主である経営陣や主要人材にも合理的なインセンティブを配分できるマネジメント・カーブアウト(MCO)の活用を検討するのも一つの考えでしょう。また、複数回の調達ラウンドを経た企業においては、初期投資家の利益を圧迫する最新ラウンドの優先株主から順に分配するスタック構造を避け、複数ラウンドの優先株主を同順位とするパリパス構造も選択肢となります。ただし、後期投資家のリスク保護とのバランスを踏まえ、各ラウンドの条件を設計する必要があります。
また投資契約書に盛り込まれる、IPOのみを目的とする「上場努力義務」を契約で縛るのではなく、IPOだけでなくM&Aも含む複数の選択肢について、一定の時期に株主と経営陣が協議する義務や、合理的な範囲で検討を尽くす義務として設計し、企業の成長段階や市場環境に応じ、IPOとM&Aを並行して検討できる事業計画の策定も、経営者が最適な出口を選択するためにも重要といえるでしょう。
まとめ
M&Aは決して弱者の救済でも、起業家の敗北でもありません。M&Aは、投資家の資金回収の手段にとどまらず、買い手の顧客基盤、人材、資本を活用して事業の社会実装を加速させる選択肢です。法制度の整備に呼応し、大企業がリスク許容度とガバナンスを刷新し、スタートアップと投資家が契約のあり方を見直すことで、日本のスタートアップエコシステムは真のダイナミズムを取り戻し、世界に伍するイノベーションの源泉となると考えています。
【参考文献】
*1 「NVCA 2026 Yearbook The Venture Industry in Transition」NVCA
*2 「大企業によるスタートアップ買収はトレンドとなるか」GLOBIS学び放題×知見録
*3 「スタートアップM&Aガイダンス」経済産業省
*4 「上場2年目で分かれる「時価総額100億円」の明暗──377社のデータが示す、成長企業の分岐点」Speeda
*5 「EXITの8割がM&Aに ──データで読み解く日本のスタートアップM&A」Speeda
*6 「グロース市場の上場維持基準の見直し等について」日本取引所グループ
















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