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「絶対に後ろを向かない」Bリーグ創設で貫いたポジティブな信念~川淵三郎

投稿日:2022/05/04更新日:2023/07/19

本記事は2017年11月、Jリーグ初代チェアマンであり、Bリーグ創設者でもある川淵三郎氏をグロービスにお招きして開催したトップセミナー「夢があるから強くなる」の内容を書き起こしたものです。(全2回 前編)

川淵三郎氏(以下、敬称略):これまでも不特定多数の方を相手に講演でお話をしてきたことはありますが、こんな風に、授業のような感じでお話をするのは初めてです。今日は皆さんの参考になるかどうかわかりませんが、私が今まで生きてきたなかで感じ取ってきたことをはじめ、いろいろなお話ができればと思います。

サッカーが好きな人、嫌いな人、いろいろいると思いますが、今日はサッカーの川淵ということで我慢して聞いてください。ともかくも先日はオーストラリアに勝利し、ロシアW杯出場が決まってよかった。最終予選、オーストラリアおよびサウジアラビアとは引き分けでも駄目という状況で、かなり危ないと思っていました。でも、オーストラリア戦では井手口陽介が豪快なシュートを決めてくれたし、2対0で勝ってロシア行きが決まりました。

若手のモチベーションを高めたハリルホジッチ

今は世代交代期です。日本代表はこれまで本田圭佑を中心にやってきましたが、ロシアでも本田中心にやるのは難しいというか、まだ本田に頼っているようでは良い成績をあげられないと思います。そんななか、先日行われたベルギーとの親善試合では長澤和輝という浦和レッズの選手が出場しました。Jリーグで2回しかスタメン出場していない選手をハリルホジッチ監督が選んだ。最初は「もの好きな。呼んだってどうせロクな使い方はしないだろう」と思っていたし、僕の率直な感想としては、ハリルホジッチ監督のそういうやり方に心から賛同したことがほとんどありませんでした。オーストラリアに勝ったときぐらい(会場笑)。

でも、長澤の起用は良かった。ACLチャンピオンズリーグでそれなりにいいプレーをしたけれど、とりあえず練習でどうなるかを見るぐらいで、本番には出さないだろうと思っていました。長澤自身にもそういう経験がなかったし、同様の起用例があまりなかったので。ところが、ベルギー戦には長澤がいきなり出場して素晴らしいプレーをした。落ち着いたプレーで驚きましたよ。「なかなかやるじゃん」と、僕がハリルホジッチを認めたのは初めてです。

僕に認めてもらわなくたっていいと思うけれど、一時期までは「もう辞めたほうがいいのでは?」とすら思っていましたから。「いつまで調子の悪い本田を使うの?」とか。本田に関して言えば彼なりに苦心惨憺、薬を飲みながら病気を克服して戦っていることもあり、彼には常に同情的でした。ただ、W杯予選がはじまる頃は調子が出なくて、なぜ彼を起用するのかと疑問符を抱いていました。でも、今回の長澤起用は面白い。世代交代期に良い選手をどんどん使うことで、今度のW杯でもそれなりの代表チームができる可能性は出てきたと思うようになりました。

そのことを一番深く感じ取ったのはJリーグの選手ですよ。スタメン出場がたった2回でも代表に選ばれる。それなら今年のJリーグもあと2試合ほどあるし、来年の2月末頃からは次年度のJリーグもはじまります。W杯は6月からなので、4月までの2カ月ほどリーグ戦があります。「そのあいだに活躍したら、ひょっとして代表にも選ばれる可能性がある」と、多くの選手が思った。これは大きいですね。ハリルホジッチはそれを口に出して言うのでなく、実際に示した。日本人若手選手のモチベーションはすごく高まったと思います。

一筋縄ではいかなかった2002年W杯

それで思い出すのはフィリップ・トルシエです。会場の皆さんは彼をご存知ですか?僕が彼をあまり好きじゃなかったことも(会場笑)。2002年W杯での代表監督です。彼を選ぶまではいろいろありましたが、最終的には彼が2002年まで監督を務め、日本はW杯予選リーグを初めて突破しベスト16入りを果たした。その意味でトルシエには実績があります。

トルシエはいつも上から目線なんですよ。それはハリルホジッチも同じですが、トルシエには愛嬌も可愛げもあった。僕は当時Jリーグチェアマンでしたが、その頃は代表とJリーグがいつも試合スケジュールで揉めていたんです。そこでトルシエが僕のところへやって来て、「月火水のスケジュールは開けてくれ」なんて話を、下手な漢字で「月火水…」なんて書きながら言ってくる。「あれ、勉強しとるな」と。それで「なんとか日曜日は」なんて言われると、「まあ、聞いてやらなくちゃな」という感じになっていました。

ただ、サッカー自体は細かいんです。当時は「フラット3(フラットスリー)」という言葉が流行りました。ストッパーが3人いる最終ラインを上げ下げすることで攻撃も守備もコンパクトにする戦術で、これがトルシエのすべて。そのために各ポジションの役割分担を明確にして、フォワードはウェービングと呼ばれる動きをしたり、もう「いちいち細かく指示するな」というぐらいのことをトルシエはずっとやってきました。それなりに分かりやすい戦術というか、これを徹底したことが最終的にはベスト16につながったわけですね。

ただ、彼は本当にわけが分からなかった。たとえば昼食時、疲れで食が進まない選手たちを、見て、彼は「夜はワインでも飲ませてやれ」と言うわけです。ヨーロッパはそういうことも多いんですね。で、そう言われたスタッフが夕食時にワインを出したら「誰がワインなんか出せと言ったんだ!」って。わけが分からない。「午前10時から練習だ」と言われていた日の朝8時になって、突然「今から練習をはじめるぞ」と、まったく違う時間にスタートしたり。それは「皆が常に準備できているかどうか調べるため」なんて言うわけです。「嘘つけ」という話ですが、とにかく変わっていたし、その意味でトルシエの周りは常に緊張感で一杯でした。

では、次に監督となったジーコはどうだったか。トルシエとぜんぜん違っていて、選手の自由に任せていた。選手を大人として見ていたので、あまり細かいことも言いません。トルシエとは月とスッポンぐらいの差です。ただ、そうしたジーコ監督のもとでより良いチームができたかというと、必ずしもそうではなかった。その頃の日本代表は、もう少しいろいろと指示もあったほうが良かったんだと、のちのち思いました。

いずれにしても、トルシエの締め付け方は一筋縄ではいかないところがありました。たとえば練習で面白くないことがあったらしく、当時鹿島アントラーズにいた柳沢敦というフォワード選手に「グランド走ってこい」なんて言う。常識的に考えて、代表選手を罰則で走らせるなんてあり得ないですよ。何かのゲームで負けたほうが罰ゲームとして1周回るといった話なら分かりますが。で、柳沢は仕方なく何周か走っていたんですが、そのあいだにトルシエがフォワードのフォーメーション練習をやると言って「〇〇と〇〇と柳沢」と言う。でも、その場にいないから「柳沢はどこ行ったんだ!」って。「いや、走ってますよ」と。忘れっぽいというか、自分でしたことが頭に残らないようなところがあった。

ある海外遠征では、松田直樹という亡くなられたディフェンダーがトルシエと喧嘩して日本に追い返されたこともあります。そうなると、自分が帰国させた選手を再び起用することも常識的にはあり得ません。何があったか知りませんが、よほどのことがあって帰すわけですから。刃向かったりしたのかもしれません。トルシエはよく暴力も使う。スパイクで殴ったり突き倒したり。松田が血の気が多かったので、たぶん喧嘩したんだと思います。

ところが、その後松田は日本代表に呼び戻され、2002年W杯でもレギュラーを張りました。それを周りはよく見ていたんですね。日本社会には敗者復活がほとんどありません。1回駄目ならそれっきり。2度と起き上がれない。でも、トルシエは敗者復活をした。それで、他の選手の、Jリーグ全体のモチベーションは大きく高まりました。そういう素晴らしさはあった。柳沢の例を見ても、たぶんトルシエ自身は松田を帰国させたことも忘れていたんだと思いますが。

あと、トルシエは勝負運も結構強かった。あるとき、海外でフランスと試合をしたことがありました。当時はジネディーヌ・ジダンもいたし、フランス代表は本当に強かった。でも、その試合では西澤明訓という選手がすごいボレーを決めたりして2対2で引き分けたんです。実は「この試合で惨敗したらトルシエを辞めさせよう」と、サッカー協会の強化部門は話していました。でも、引き分けで続投になった。そんな風に、彼はいざというときに勝負強い。で、先ほど言ったように愛嬌もある。だからうちの女房なんかはトルシエが大好きでしたね。奥様連中には評判が良かったんです。

「最も大切なのはフェアプレー」という教え

それともう1つ。皆さんはあまりご存じないかもしれませんが、僕らの現役だった頃、日本サッカーを本当にレベルアップさせたのは、デットマール・クラマーというドイツの指導者です。僕は歴代の日本代表監督や外国人指導者をすべて知っていますが、いまだクラマーに勝る人はいません。僕らはクラマーに「最も大切なことはフェアプレーだ」と言われていました。2番目は良いゲームをすることで、そして3番目が勝つこと。とにかく「スポーツであるかぎりフェアプレーが1番大事だ」と。こんなことを言う指導者はほかにいませんでした。

それなのに、トルシエは「ユニフォーム引っ張れ」とか「違うほうを見ているフリしてこうやれ」とか。アンフェアなことを平気で教える監督はトルシエが初めてでした。それを選手が勝手にやるなら目を瞑ればいい。でも、監督がそれをやるように言うのは許せなかった。クラマーの教えが僕にインプットされていたからです。

そのうえで良いゲームをすること。サッカーであれば、「技術」「戦術」「体力」「精神力」という4つの要素において良いプレーをして、そして勝つ。これこそ指導者の一番の目標なんだと、クラマーに出会った1960年から僕の頭にはインプットされていました。だから日本代表の試合でも、僕は「内容が悪い。こんなのどうしようもない」なんて、新聞記者にいろいろ不平不満を言って記事にも書かれます。「勝ったのにそこまで言わなくても」と思われますが、僕のなかには常にクラマーの教えがあるからです。

ただ、ジーコが監督を務めた2006年W杯1次予選のシンガポール戦は違いました。ヨーロッパから中田英寿や高原直泰といったスターも合流して、5対0ぐらいで勝つかなと思っていたんです。でも、いざ試合がはじまると、1点取ったあとの追加点がなかなか奪えない。しかも途中で同点にされて、このままだと1対1の引き分けという状況になりました。それで試合も残り10数分という段階で、もう頭が混乱してしまった。ここで引き分けたら1次予選敗退の可能性もあるわけで、「それならジーコをクビにしなきゃ」なんて考えはじめたわけです。というか、もうクビにするという決意で、残り時間は「次の監督、誰にするか」なんて考えていました。すると、残り8分ぐらいで磐田にいた藤田俊哉が豪快なシュートを決めて2対1で勝ちました。

その試合後に新聞記者が大勢来て、「川淵さん、ジーコは更迭ですか?」と聞いてきた。それはそうですよね。シンガポール相手に2対1で辛勝ですから。でも、そのとき僕は「何で替えるんだ!こういう試合はね、どんな内容でも勝ちゃいいんだ!」って。そのときはクラマーの教えを完全に忘れていました(会場笑)。「フェアプレー」「良いゲーム」「勝つ」というプライオリティが、そのときだけ完全に逆転して。「ここだけは会長として仕方がないかな」と、自分で自分を慰めていましたけれども。自分の頭にインプットしていることもときと場合によって変わってしまうと、当時は自分なりに理解したというか、思い込ませたというところでしょうか。

トルコ戦もそれまでと同じように戦っていたら…

あと、トルシエは新聞等でいろいろ批判されるのも嫌いだったし、有名選手がメディアに取りあげられるのも好きではなかった。だからヒデ(中田英寿)や川口能活なんて相当いじめられました。「このチームにキャプテンはいない。監督の俺がキャプテンだ」という感じで。たとえばヒデがミーティングの5分ほど前にやってくると、遅れていないのに「なんだお前、こんな遅く!」と、訳せないほどの罵詈雑言を飛ばすそうなんです。で、ヒデも「遅れてないじゃないですか」なんて言うから余計カッカして。川口も同じです。練習でも普通は考えられないような酷い仕打ちを受けたような面もある。それはトルシエなりの刺激の与え方だったとは思いますが。

そのうえで、戦い方としては「フラット3」。(最終ラインを)上げろ上げろと徹底して言ってきたわけです。でも、W杯本番初戦のベルギー戦では最終ラインを上げた結果、背後にボール入れられて失点し、結果的には2対2で引き分けました。続くロシア戦はその辺も修正して、すごく良い試合をして1対0で勝ったわけです。

ただ、ロシア戦のあと、選手たちが新聞記者にいろいろ話したことをトルシエが読んでいた。普段から「ロクなことを書かないんだから新聞なんか見るな」と皆には言っていたんですが、本人はしっかり読んでいたんですね。当時通訳だったフローラン・ダバディに教えてもらって、誰が何を言っているかチェックしていた。それで自分の指導方法と違うことを言った選手には「チームワークを乱す」とか言ってガンガン責める。だから選手のほうもトルシエが怒るような話は記者にしていなかったんです。

でも、予選リーグの最後、チュニジア戦を控えていたとき、ディフェンダーの宮本恒靖が「トルシエは(最終ラインを)上げろと言うけど、ベルギー戦のこともあったからロシア戦ではあまり上げなかった」と、記者に話したそうです。それをトルシエが知って、「頭にきた」と。「俺が言うことと違うことをやって成功したなんて許せない」という感じだったんですね。それで、ベスト8をかけたトルコ戦では、それまで試合に出ていなかった西澤を初めて使い、他のメンバーも変えて挑みました。それまで着ていた背広も変えたんですよね。「そういうの、良くないのにな」と思っていましたが、結局、負けてしまった。自分が決めたことを皆が守ったから勝っていると思っていたら、違う部分があって頭にきて、それで「今までとは違うやり方でトルコに勝つ」という考えに行っちゃったのかな、と。それまでと同じようにしていたらトルコにも勝っていたんじゃないかなと思うんですが。

僕はトルシエの悪口ばかり言っているようですが、それなりに愛嬌もあってかわいいところはあったと思います。でも、当時のチームは選手全員が「アンチトルシエ」で結束していて、それで勝った。たとえば、2010~2014年に監督を務めたアルベルト・ザッケローニは常に日本文化に対する尊敬の念を持っていました。日本の食べ物も好きで、選手の話を聞くし、選手とのコミュニケーションもすごくいい。でも、W杯はいいところなく負けてしまった。結局、選手との人間関係も含め、チームとして仲良くまとまっていることが “勝つ”という目的に対して本当に良いことなのか。結果的には、わけの分からない緊張感を持たせていたトルシエのほうが、当時のチームには良かったということになりますね。

あのチームに本田がいたらそうはならなかったと感じるし、トルシエとも喧嘩になっていたと思います。でも、当時の日本代表は皆おとなしくてトルシエに歯向かう選手もいなかった。それがかえって良かったのかもしれません。いずれにせよ、今回のハリルホジッチの長澤選手起用は、多くの選手の期待やモチベーションを高める方向になっている。その点ではかなりいいと思っています。

Bリーグ誕生に向けた勝算とは

次はBリーグをつくることになったときのお話をします。まず、2005年に日本プロバスケットボールリーグ(bjリーグ)というプロリーグが6チームでスタートしました。もともと日本バスケットボール連盟(JBA)でプロ化の話はありましたが、企業チームとしては「利益をあげるのが難しい」「アリーナもない」等々、反対意見もあった。それに我慢できないところが6つのチームで2005年に独立したわけです。

ただ、JBAとすれば自分の言うことを聞かないのは面白くないからbjリーグを排除した。除名ですね。そのうえでJBA傘下にナショナル・バスケットボール・リーグ(NBL)という、協会色の強いリーグをつくりました。こちらは企業がついています。すべてのチームがそうではありませんでしたが、少なくとも日立、東芝、トヨタといった企業が中心で、かつプロ化には反対だった。また、Jリーグのように地域に根ざし、地域活性化に協力するといった考え方もまったくありません。自分たちがバスケットボールさえできていれば、企業が後ろ盾でいるわけだし、お客さんが入らなくても気にしない。給料もたくさん出るから代表クラスの選手は皆NBLに行きますね。

一方のbjリーグは自立して、なんとか地域に根ざし、地域の人に認められたいと考え、地域活性化という点でもすごく努力していました。お客さんに来て欲しいからエンターテインメントという点でも熱心でした。ですから両リーグは対照的。エンターテインメント性や地域への密着はbjリーグが良くてNBLはぜんぜん駄目。でも、給料は文句なしにNBLのほうが良く、bjリーグは赤字経営の自転車操業です。bjリーグに行ったら将来どうなるかわからないし、日本代表クラスは皆NBLに行きます。

この状況で、国際バスケットボール連盟(FIBA)から、「なんとか2つのリーグを1つにして、日本のバスケットボール界を立て直して欲しい」という話があったわけです。その辺の経過は話すと長くなりますが、結果的には2015年1月末、FIBAから私に「タスクフォースをつくり、チェアマンとして2つのリーグを1つにまとめてください」という話が来ました。

これに対する世間の評価はどうだったか。サッカーでJリーグをつくるまで5年かかりました。得意なフィールドで5年。今回は不得意なフィールドで6カ月です。「2015年6月までに2つのリーグを1つにしないかぎり、国際試合は出場停止ですよ」とFIBAに言われた。「たった5カ月でまとめられるわけがない」と、皆思っていました。

でも僕は「絶対まとめられる」と思っていましたね。いろいろ調査したうえで問題を洗い出し、3つのポイントに絞ったうえで、「これをなんとか解決すれば」と。バックにはFIBAも文科省もJOC(日本オリンピック委員会)もついていましたから。そういう人たちの権威を「笠に着る」という言い方も良くありませんが、実際には「俺の言うことを聞かなきゃ強化資金も出さないよ」と、言外には言えませんでしたが(笑)。ともかくも「やらなければどうするのか」という強い意志を持って多くのバスケットボール関係者に話をしました。

まずは2015年2月。このときはバスケットボールのことが分からないから一生懸命勉強しました。競技ルールを勉強したわけじゃありません。専門的なことは専門家に、代表強化は代表の技術トップに任せればいい。問題はガバナンスがまったく効いていなかった点です。学閥や派閥争いで足の引っ張り合いをしていた。僕がサポートをしていたときも会長が3人替わりましたから。夜に「川淵さん、明日会長辞めます」なんて電話が来る。そんな無責任な話が続いたものだから、もう怒り心頭に発したわけですね。僕は怒るとすべてのエネルギーが蓄積される。静かな人生を過ごせない。平和な状況は僕にはあまりフィットしないのかもしれません。

あるいはbjリーグも「国際試合の出場停止がどうしたっていうんだ。別にいいじゃないか」なんて言う。その頃はすでに国際試合の出場停止が決まっていて、しかも「6月までに解決しないとリオ五輪の予選にも出しません」と言われていた。にもかかわらず、全員ではないですが、bjリーグの一部の関係者は「代表も国際試合も関係ない」と言う。代表クラスがいないから。

「あなたたちは今まで何をしていたのか」

それを聞いた僕はまた怒り心頭。「なんとかしろ。バカ野郎め」、なんて口には出しませんが(会場笑)、怒ってばかりです。それで2月初めにbjリーグとNBLの責任者を別々に集めて、「あんたたちは今まで何をしていたんだ」と言いました。「自分たちのリーグの試合結果が新聞やスポーツニュースで取りあげてもらっているのか?」と。カーリングは登録選手が2,400人しかいないのに、試合があるとテレビでも大きく取り上げられます。でもバスケットボールのリーグは結果だけ。産経新聞ときたら一切書いていない。どちらのリーグもです。

これ、Jリーグ誕生前のサッカー界と似ていましたから、よく分かる。オリンピックに出ていないからです。「日本を代表するリーグが2つもあって、その2つが切磋琢磨して日本代表を強くしているならまだしも、まったく関係のない活動をしてなんの意味があるんだ。皆のビジョンはなんなのか。なんのためにバスケットボールのクラブを持っているんだ」と話しました。bjリーグのチームなんて当時は半分以上が赤字経営だったわけですから。

僕がこういうところ出てくると、マスコミの皆さんには「また川淵がいい歳して出しゃばっている。Jリーグを成功させたと思っていい気になっている」なんて書かれます。でもね、もうそれでいい。だってバスケットボールが記事にならないんだから、それなら僕の悪口でも何でもいいから記事になったほうがいい、と。実際、月初めに皆を集めたときは「新しいことが始まる」ということで、バスケットボールの会議としては珍しく後ろにテレビカメラが十数台並び、新聞記者の皆さんも大勢来ました。

ただ、普通は会議冒頭の頭撮りが終わると、「ではマスコミの皆さんはご退出ください」となるんです。だから僕は「ちょっと待って。今日ははじめから終わりまで全部聞いていって」と言いました。「川淵がまた云々」と見出しで書かれることも覚悟のうえで。そのうえで、まずは「5,000人以上収容でき、年間試合の80%をホームとして使えるアリーナを確保すること」。これをBリーグ入りの条件の1つにしました。そのときは3つか4つの条件を出しましたが、一番できそうになかったのがこれです。「5,000人?何を馬鹿なことを言っているんだ」と。

当時使われていたのは大きくても3,000人の体育館。しかも、そのほとんどが物販も土足も厳禁です。しかも、体育館にはハンドボール、バスケット、バレー等々、地域の人からいろいろな申し込みがあります。そこで年間試合の80%となる24試合ぐらいでホームアリーナを独占できるか。「できやしない。そんなことも川淵はわかっとらん」と、皆、陰で相当言っていたわけですね。それでも、「僕は皆さんに好かれようと思ってやってない。とにかく、バスケットボールのためを思って、どうすれば発展するかを真剣に考えてくれ」と言いました。

それに、僕はJリーグでの経験がありました。たとえば市長に会って、「このクラブは地域社会の発展や子どもの健全な発育のためにさまざまな努力をします」といった話をしていたわけですね。それで市長が「分かりました。うちの市のプロクラブとして認めましょう」と言えば、体育館の使用を許可する人も駄目とは言えません。そしたら自動的に80%使用できるようになることが、Jリーグの経験からよく分かっていました。

不可能を可能にした屋根付きスタジアム

Jリーグ創設時、鹿島が最後の加盟チームに決まったときの話も有名だと思います。当時、鹿島の人口は1万8,000~2万人。漁業と農業が中心でしたが、そこに鹿島臨海工業地帯ができて、都会から2万5,000人がやってきた。その4万5,000人をどう活性化するかが鹿島の大きな課題でした。ただ、当初は鹿島を加盟させる気が毛頭なかったんです。リーグ加盟条件の1つであった「1万5,000人収容のナイター照明を持った競技場」なんかつくったって、人口が4万5,000ですからね。人口の1/3がスタジアムに来るわけないでしょう。

でも、ともかく鹿島側は最後まで「街の活性化のため、なんとかプロリーグに参加したい」と粘るから、ちょっと排除できなかった。で、最後の段階になって「川淵さん、我々がJリーグに参加できる可能性はありますか?」と聞いてくる。そこで、「100%ありません」と言ったら身も蓋もないから「そうですね、申し訳ないけど99.9999%ありませんね」と言いました。そうしたら、「え? 100%じゃないんですね!」なんて言うから、「しまった。100%って言えばよかった」って(会場笑)。「99.9999%は100%と同じでしょ」「そんなことありません。0.0001%の可能性があるなら、それは何ですか?」とおっしゃる。そんなこと考えて言ったわけじゃないのに(会場笑)。

それで気まずい空気が流れたんですが、「そうだ。日本にないような、我々が一番強く希望するようなものができたら加盟できることにしよう」と閃きました。それで、「そうですね、観客席に屋根のついた1万5,000人収容の、ナイター照明のあるサッカー専用競技場をつくれるなら話は別です」と言いました。半分冗談ですよ。4万5,000人の鹿島にできるわけがない。それで皆さん帰られた。「他のチームには屋根つきなんて言っていないのに、なぜ我々だけ?」という顔もせず。まあ、「あまり変な顔をすると川淵がまたへそを曲げる」と思われたんでしょう。

それで2週間後に鹿島から再び電話があって、「どうしても川淵さんにお会いしたい」とおっしゃる。「お世話になりました。Jリーグ入りは断念せざるを得ませんが、リーグの成功を心から祈っています」なんて言いにいらっしゃるんだろうと思って、「どうぞどうぞ」とお伝えしたんです。そしたら12人もやってきた。「断念するわりには人が多いな」と思ったんですが(会場笑)、「川淵さん、観客席に屋根のついた1万5,000人収容の、ナイター照明のついたサッカー専用競技場、竹内(藤男)知事がつくると言っています」と。驚いたし、慌てましたよ。「そんなもの4万5,000人の街につくってもらっちゃ困る」って(会場笑)。「あれ、冗談で言ったんです」とは、もう言えなくなっちゃったけれども(会場笑)。

いずれにしても、そんな風にしてさまざまな条件をすべてクリアしたことが今の鹿島に詰まっています。これまでの優勝19回という圧倒的なタイトルも、あのとき、1万5,000人収容の日本初屋根つきサッカー専用競技場ができてなかったら実現していなかったわけですね。

「僕ほどバスケのことを考えている人間はいない」

そんな経験もあって、「こう言えば絶対に大丈夫だ」と分かっていたから、Bリーグ参加の条件設定については僕の独断で、「これは私案ですが、こういう風にしたいと思っています」と言いました。「川淵のばか野郎は何をぬかしているんだ」と、皆が最初は思ったわけです。「できるわけもないことをよく言うな」って。当たり前ですよね。まあ、鹿島に突きつけた条件のほうが厳しかったとは思いますが。

でも、ともかくも「この条件を持って市長のところへ行ってください」と言ったら、1カ月後、なんと20のクラブが「可能です」という話になりました。考えてもみなかったことが起きた。逆に言うと、あと5カ月で解決しなければいけないとき、「皆さん、なんとか日本のバスケットボール界を発展させたいので貴重なご意見賜りたい」なんて言ったって駄目。「その貴重な意見が出ていないから現在のような状態になったわけでしょ?」 「サッカー界がバスケットボール界を乗っ取りに来た」「バカぬかせ。こんなケチな協会を誰が乗っ取るんだ!」とかね、いろいろ憎まれ口もききましたが。

いずれにしても、そんな風にして1カ月後にはガラッと変わり、「川淵の言うことを聞いていれば何とかなりそうだ」ということで、すべてうまくいきました。理事会でもすごく綿密に考えて話をしていましたね。「皆さんのなかで僕に議論で勝てると思う方がいたら手を挙げてください。今、僕ほどバスケットボールのこと考えている人間は日本にいない!」なんて言って。いたかも分かりませんよ?(会場笑) ただ、そんな風に聞かれたら手も挙げられませんよね。

1人、手を挙げて「過去10年間かけてできなかった原因等、いろいろな問題を分析・抽出して、そのうえで将来どうすべきかという改革を考えてください」と言ってきました。俺が会長でいるあいだは絶対そんなことはしない。あと5カ月で問題を解決しなきゃいけないとき、後ろを向いて反省や分析なんてしていられるか、と。「大事なのは、前向きになって、ポジティブになって、成功するための条件を出したときに皆が倣ってくれるかどうかです。僕について来れるかどうかがBリーグが成功するかどうかを決めるんだ」と言いました。

当時、僕の後ろ盾には境田正樹先生という東大理事の先生がおられました。FIBAとの交渉をはじめ、いろいろな場面で境田先生がバックアップしてくださっていたからこそ言えたわけで、もちろん一人でそういうことはできません。ただ、とにかく自信を持って進めていました。バスケットボールの強化について僕は何も知りません。でも、経営に関しては、その場にいる誰よりも絶対に上だ、と。Jリーグを11年間、サッカー協会を6年間経営してきたし、サラリーマンとしても30年間そういう勉強してきました。だから、「何か文句があって自分が代われると思うなら言ってみろ。今までの体たらくを見れば、自分が何かできるなんて言える義理はないだろ」と言いました。そういう迫力で皆も大人しくなったんですね。だから、言ってみれば少しトルシエ風かなって(会場笑)。トルシエも勝ったからいいわけです。

正しいと思ったら積極果敢に突き進め

大切なのは、どんな成果を挙げるために、どういう力を発揮して、どんな行動を起こし、どのように説得していくかです。「これを言ったら皆の機嫌が悪くなるかな」なんていちいち気にしていたら何も前に進まない。JリーグとBリーグの経験を通じて僕が言えることは、自分の経験したことを積極果敢に突き進めるのが大事ということですね。これは絶対に正しいんだと思ったら、明確なビジョンを出して、そこに突き進む。ビジョンが大事なんです。「何のためにバスケットボールのクラブをつくったのか」「何のために自分は働いているのか」というビジョンもない状態で無駄に働いたって何の意味もない。大きなビジョンを持つことで働く意欲というか、モチベーションが高まります。単に働いていればいいわけじゃないんです。

日本人は働かされている側面が大きいと思いますが、Bリーグ設立にあたってはビジョンを持つことの大切さを、かなり強調して伝えたし、それが結果にもつながったと考えています。僕が初めて関わった頃に比べると各チームの売上も倍ぐらいになりました。平均するとB1で3~4億ぐらいだったのが、今は6~9億。平均で6億ぐらいになっています。観客動員数も同様です。今は平均2,700人ぐらいになりました。定量的な把握もしながら、将来に向けて発展させていくということをBリーグとしてできています。そのうえで、バスケットボール界としてのビジョンや希望を持つことができ、日本代表チームも強くなる可能性が出てきました。ということで、今後も茨城ロボッツの活躍を願うとともに、Bリーグとして発展していきたいと思っています。どうもありがとうございました。(後編に続く)

◆ビジョンの実現に向け「積極果敢」に突き進もうとするあなたに、グロービス経営大学院はこちらの講座を用意しています。

執筆:山本 兼司

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