51歳で会社を離れ、新たなビジョンを持ってサッカーに賭けた原動力とは ~川淵三郎

本記事は2017年11月、Jリーグ初代チェアマンであり、Bリーグ創設者でもある川淵三郎氏をグロービスにお招きして開催したトップセミナー「夢があるから強くなる」の内容を書き起こしたものです。(全2回 後編)※前編はこちら

堀義人氏(以下、敬称略):本当に面白いお話でした。皆さんにも川淵キャプテンの迫力や信念を感じていただけたと思います。さて、今回の対談にあたって川淵三郎キャプテンの著書を何冊か読ませていただきましたが、特に面白かったのが、『「J」の履歴書: 日本サッカーとともに』(日本経済新聞出版)にあったお話でした。小学生の頃は演劇部でラジオ演劇をやっていらいたんですね。

川淵三郎氏(以下、敬称略):NHKの放送劇ですね。当時はテレビもない時代です。トータルで100回以上JOBK(NHK大阪放送局)に出ていたし、お芝居の公演もしていました。当時はマイクもなかったので、稽古では当時師事していた児童文化研究家の吉岡たすく先生が会場の後ろに立っていて、発声を確認したりしていましたね。そんなこともあって、この会場ぐらいならマイクがなくても後ろまで聞こえるぐらいの声でお話しできます。

堀:リーダーの1つの役割は演じることだと思います。ときには怒りも交えたりして、信念や優しさ、そしてリーダーとしての姿を伝えていくことは非常に重要である、と。それを多くの人に分かりやすく伝える力は小学生時代の経験も影響していたのかなと感じました。川淵キャプテンのスピーチは何度も聞いていますが、この迫力、滑舌の良さ、メッセージ性、抑揚のある伝わり方等々、さすがだなと思います。

川淵:地声が大きくて、女房と話をしていても「私1人しかいないんだけど?」と、毎朝言われます(会場笑)。10人相手に喋っているような感じらしくて。サラリーマン時代も「川淵さんが電車に乗っていると隣の車両にいても分かる」と言われていました(笑)。

“最も無駄だった2年”が今の自分につながる

堀:高校は名門の府立三国丘に進まれて、そこでサッカー部に入ったんですよね。なんと中学時代は野球部で、サッカーは高校から。しかも1年目に辞めようと思っていたという話を知りました。辞めていたら今のJリーグはなかったと思いますが、そのあと2浪して大学に行かれた、と。

川淵:当時はサッカーなんてまるで人気がありませんでした。大阪の三国丘は前年の全国高校選手権で準優勝したぐらいの名門なのに、僕が入学した年の部員は10人いるかいないか。助っ人がいないと11人で試合もできない状況でした。僕のほうも、「サッカー部に入ったら四国に連れてってやる」って言われて入っただけ。当時、岡山と香川を結んでいた「宇高連絡船」に乗ってみたかったんです。で、それに乗ったら辞めてやろうと思っていました。それで四国から帰ったあと「辞めたい」と言ったら、「四国まで行ったんやから辞めんといてくれ」と頼まれ、「じゃあ、しょうがない。そのうち辞めよう」なんて思っていました。

でも、そのあとサッカーがどんどん面白くなって、上手にもなって、サッカー大好き少年になりました。大学受験に落ちて浪人が決まったときも放課後はサッカーばかり。それでまた浪人です。当時の僕は何を考えていたんだろうと、今は思いますね。「国立の良い大学に行きたい」とか、「大学に行けないなら会社員として働こう」とか、そんな目的もなかった。もちろんプロサッカーリーグもありません。だから何の目的もなくサッカーばかりしていた。ところが、それを川本泰三さんという当時の日本代表監督が見て、「あいつ、ちょっと面白そうだから早稲田に行かせたらどうだ」と。そこから人生が変わったんです。

僕の人生を振り返って最も無駄な時間だったのは浪人していたその2年間。でも、その2年がなければ今の人生はないんです。「人生って面白いな」と。目的もなく無駄な時間でしたが、「何かに一生懸命打ち込んでいると、それなりの結果が出るのかな」なんて、今では無理矢理こじつけていますが。

堀:高校3年のときは大阪で優勝して全国大会に出られたんですよね。で、2浪を経て早稲田に入り、そのあと日本代表になられた。

川淵:はい。当時大学で一番強かった早稲田でレギュラーになり、その頃アジア大会か何かがあって、暮れに日本代表候補になりました。で、2年生の終わり頃には代表として東南アジアに遠征しましたね。それからずっと全日本にいました。

堀:そして1964年東京五輪では代表フォワードとしてアルゼンチン戦でゴールも決めました。

川淵:一番華やかな記録ですね。ただ、当時五輪に出ていたサッカー選手はアルゼンチンを含めて全員アマチュアでしたから。やはりサッカーの世界はワールドカップがすべて。日本では「アルゼンチンに勝った。すごい」と言うけど、海外からすると「それがどうした」というぐらいです。それに、当時は東京五輪で多くの日本人が「何か競技を観に行きたいけど切符はないかな」と言っていて、そこで「他はすべて売り切れだけどサッカーだけはあるよ」と言われていました。それほど人気がなかった。

堀:その後、大学卒業後は古河電工に入りサッカーを続けられ、30歳ぐらいで引退をしてサラリーマン生活を続けられたわけですね。

川淵:51まで続けました。古河に30年ほど勤めたことになりますね。

堀:サラリーマンとしての経験は大きかったのではないかなと思います。

川淵:まったくその通りです。

堀:サッカーとまったく違うサラリーマンの世界で、営業を務めたり生産に携わったり、さまざまなお仕事をなさってきたと思います。その辺のご経験についても教えていただけますか?

川淵:当時の古河電工は入るのが大変難しい会社でした。サッカーをしていた僕は入社試験なしで入れましたが、当時は一般の入社試験のほかに、東大、一橋、東工大あたりで別の入社試験があったりして。関西では知られていない会社でしたが、ともかく一生懸命働きました。

当時は土日のほか、火曜と木曜も午後だけ会社を抜けて練習をさせてもらっていたんですが、当時はサラリーマンとして立派に勤めて周りに認めてもらいたいという気持ちも強かった。だから練習後も職場に戻って仕事を続けたりしたし、職場の人たちと親しい付き合いを続けていたのも良かったと思います。

堀:サッカーの遠征中に囲碁を覚えられたと伺いました。古河電工ではいかがでしたか?

川淵:当時の工場は昼休みになると将棋か囲碁をはじめるんです。それを周りの皆も見ている。今の職場とは雰囲気がまるで違っていて、囲碁も将棋も職場に欠くべからざるものでした。僕らは本社でも弁当を持参していたんです。で、午後に練習があるときは、その前の時間、食べるためだけに食堂へ行くのは時間がもったいないから、弁当を食べながら碁を打っていました。腕のある人に教わって少し強くなりました。

堀:会社員としてサッカーの世界で学べなかったことも多かったかと思います。

川淵:そうですね。サラリーマン時代は、たとえば最初にTQC(トータルクオリティコントロール)の研修を受けたり、物事の定量的な把握や分析をすごく勉強しました。それがJリーグをつくるときに大変役立っています。そういう学びがなければ、リーグ創設の方向性だとか、どういうことをチェックするのかというのもまったく分からなかったと思います。

堀:古河電工ではサッカー部の監督も務められましたよね。選手、監督、そして企業経営と、あらゆることを経験していらしたと思います。それぞれの役割で共通項や相違点として、何か感じていらっしゃることはありますか?

川淵:監督時代は毎年、シーズン最後に辞めさせなければいけない選手がいたんです。そこで、自ら辞めたいというケース以外で“引導”を渡すとき、自尊心を傷つけないよう職場へ戻してあげるという点にはすごく気を遣いましたね。本人と腹を割って話さなければいけない。「あいつはどこかへやっとけ」という無責任なやり方では恨みを買うというか、納得してもらえません。ですから、伝えるのは辛いのですが、やはり面と向かって「何故こうなったか」という話をしていました。「今のポジションにはこの新人が入るから、来期、君のポジションはない。それなら、将来の昇進その他を考えて今のうちに会社へ戻ったほうがいい」と。次の職場に関する希望を聞いて、できるかぎりサポートもしました。監督としてそういう部分まで経験したのは、経営を見るうえでも必要だったと思います。

欧州の芝生を見て「日本もこんな風になれば」

堀:そうしたご経験を経て51歳でサッカー界に戻り、以降はビジョンへ向かって突き進んだわけですね。

川淵:僕は1960年に初めてヨーロッパに行きました。そのときヨーロッパには素晴らしい練習場があることを知った。サッカーだけでなく、さまざまなスポーツを楽しめる場所が数多くあることを初めて知りました。すべて芝生のグラウンドです。日本では日本代表選手ですら土のグラウンドでやっていた。ロッカールームもありません。練習後は風呂屋へ行くのですが、雨の日は泥まみれで行くとお風呂屋さんに嫌われるから、行く前に水を浴びたりして。

ところがヨーロッパへ行くと、環境が整備された素晴らしい芝生のグラウンドで子どもたちがいろいろなスポーツをしている。「自分が子どもの頃、こんな施設があったらどれほど幸せだったか。こういう国に日本もなれたらいいな」と。

「将来、こういうものをつくるぞ」と、そのとき思ったわけではないです。日本では巨人軍ですら多摩川の土のグラウンドでやっていて、クラブハウスもなかった。彼我の差はあまりに大きく、日本だと何百年経っても同じものはつくれないという感じでしたから。ただ、頭の片隅に夢として残っていたというか、「あんなのがあればいいな」という思いはずっと持ち続けていました。

それがプロ化という動きのなか、「プロ化するなら、あの方向に行くべきだ。デュイスブルクのスポーツシューレで見たようなクラブハウスとグラウンドを日本につくることが、日本プロサッカーの成功、ひいては日本のプロスポーツ界の発展につながる」と。そういう大きな目標を、当時は具体的に見たわけです。そこへつなげる行程はまるで分からなかったけれど、「最後に行き着くところはここだ」というモデルを最初に見たことが、僕のエネルギーの原点になりました。

堀:そうした明確なビジョンとともにJリーグ構想が動き出すわけですね。たとえば企業はステークホルダーが結構限られていて、一部の株主がいるなかで小さく生んで大きく育てていきます。これに対してJリーグは企業に加えて自治体も国も巻き込んでいきました。そのプロセスが本当に圧巻だったと思うのですが、当時を振り返ってみて「これをやってみたのが良かった」と感じていることは何かありますか?

川淵:当時、最終的に10チームが市長や知事の許可を得て、1,500ルクスのナイター照明がついた1万5,000人収容のスタジアムをつくることになりました。当時はサッカー専用スタジアムなんてありません。陸上競技場として国体その他で使うスタジアムが各都道府県にあったぐらいです。それを「ホームとして使わせてください」と、市長や県知事に頼んで了解していただくため、僕はすべての市長に会いに行きました。

堀:全員に会われたんですか?

川淵:トヨタの豊田章一郎さんが先頭に立って動いてくださっていたので名古屋市長にだけはお会いしていませんが、あとは全員とお会いしました。もちろん茨城県知事だった竹内藤男さんとも。あと、当時の鹿島には、のちの経済産業省次官である北畑隆生さんという方も出向していたんです。で、数百億あった鹿島臨海工業地帯の基金のうち100億を出していただけるよう、北畑さんが竹内知事に直接かけあった。当時、鹿島には工場こそありましたが、映画館もコンビニもボーリング場も何もない街で若者が出ていってしまっていたんです。でも、プロサッカーチーム、そしてそのスタジアムができたら、若者が居着いて地方活性化につながる可能性がある、と。それが決断の背景です。

ただ、Jリーグのクラブといっても、いち企業であり、いちスポーツ。行政トップとすれば「なぜ1つの企業とスポーツにお金を出さなければいけないのか?」というのが、市民への説明責任もあって1番のネックでした。それで、僕が全員にお会いしてご説明したのは、「Jリーグはサッカーだけやるわけではありません」ということ。「サッカーであげた利益で、さまざまなスポーツをする地域の人たちのための施設をつくるんです。誰でもいつでも、そこへ行けば自分のしたいスポーツが楽しめるクラブを全国につくりたい。今はサッカーだけですが、将来に向けたスポーツ全体の発展につなげます」と、お会いした方々全員にお話ししました。市民の方々に自信を持って説明・主張していくうえでも、その点は不可欠だったと思います。

堀:そんな風にしてJリーグを成功させ、Bリーグも立ちあげていったわけですね。そうした明確なビジョンや強い信念はどのように培ってこられたのですか?

川淵:僕も30~40代の頃からそういうことを考えていたわけではないんです。ビジョンを抱くようになったのは51歳で左遷されたときですね。それまで抱いていたのは「会社のなかで偉くなりたい」「給料をたくさんもらいたい」といった私利私欲が中心。これはビジョンではないですよね。世の中のためになりたいという思いもゼロではなかったけれど、重要な要素ではありませんでした。

でも51歳で左遷になったとき、「このままサラリーマンとして進んだら先が見えている。それより、世の中のために生きるというのはどんなことなんだろう」と。ただ、それで会社を辞めたあと、自分はどんなスキルを売り込むのか。「僕はこういう能力がありますから雇ってください」と、若い頃は言えましたよ。でも、50になってからそんなことは言えない。そうなると、「あれ?俺はいままで古河電工の名刺だけで生きてきたんだな」と。「名刺がなければ生きていけないじゃないか。なんと情けない」という思いがありました。

そのなかで、「そうだ、サッカーがある」と。まだ日本で人気はなかったけれど世界では最も人気のあるスポーツです。各国でプロリーグが成功してお金も潤沢に回っている。だから、「日本でも皆がサッカーを好きになれば絶対にプロサッカーは成功する。そこに自分の残りの人生を突っ込もう」と。そのとき初めてサッカーに賭けようと思いました。それでビジョンというものを初めて持つようになった。情けないことに、51歳になってから。でも、そんなものですよね。

批判を受けても言いたいことを言う

んで感じたのですが、川淵キャプテンはすごくいろいろなことを調べますよね。プロサッカーリーグについても欧州のさまざまな事例を調べ、そこに到達するプロセスを日本に当てはめたうえで戦略を考えていらっしゃると感じます。あるお坊さんは「信念とは智の極み」とおっしゃっていました。考えに考え、考え尽くすと、あるところからそれが信念に変わる、と。確かにそうだなと思います。川淵キャプテンが大変深く多くのことを考えた結果、「これしかない」という信念になり、それが多くの人を説得する力になったのだと思います。

ただ、そうすると批判も増えると思います。たとえば東京都のアリーナに関する議論でも川淵キャプテンのご意見にはいろいろと反論があがっていました。でも、動じませんよね。自分が正しいと考え明確なビジョンを持っていたとしても、批判が多ければ嫌になってしまうことはあると思います。でも、川淵キャプテンはどんどん物事を前に進めていらっしゃる、と。気にしないというわけでもないと思いますが、批判や反論についてはどのように受け止めていらっしゃるのでしょうか。

川淵:新入社員のとき、こういうことがありました。新人200人ぐらいが集まった場で、「この会社で何か問題があると思うことがあれば、1つ、言いたいこと言っていいよ」と、総務部長が言ったんです。それで僕が手を挙げて「今は何か事故が起きてからいろいろ機械設備を変えている状態だけれど、それでは話にならないのでは?」と。「危険なところはもっと前もってケアすべきです」と言ったら、総務部長が「君、それは公文書で出したまえ!」って。痛いところを突かれたんでしょうね。烈火のごとく怒るから、僕のほうも「言いたいことを言えって言ったじゃないですか」なんて言い返したりして。

堀:上司の方々とすれば川淵さんをハンドルするのは大変だったと思いますが、結果的には会社を出たことで大きな価値が生まれましたよね。私も住友商事を辞めたことがグロービスを立ち上げる結果につながりました。もう批判はまったく気になさらない感じですか?

川淵:当初は相当気にしていました。なんだかんだとケチをつけられて。そもそもJリーグをつくる段階でも、協会の幹部から「時期尚早」「前例がない」「成功するわけない」なんて言われて。仲間内で反対されて腹が立ちましたし、理事会でもガンガンぶつかり合いました。反対されることのほうが多かったです。

選手だった頃からそうですね。日本代表で初めて東南アジアへ遠征したのが大学2年のとき。当時の日本サッカーは東南アジアでも勝てなかったのですが、遠征から帰ったとき、協会幹部の前で一人ひとり反省を言わされる機会があったんです。そこで、ほかの皆は「自分が下手だった」とかなんとか、自分が悪かったという言い方をするから僕は頭にきちゃって。「僕はやるだけのことを十分やった。いいプレーができたと思います」と言ったら、先輩に「君は生意気だ」と言われました。昔からそういうことが多いんです。あまり皆と一緒のことを言いたくない。

堀:逆に言えば批判には慣れているし、その意味では気にならないというか、気にはなるけれど、「仕方がないよ」と。

川淵:そういうことです。だからバスケットボールでも「また目立ちたがり屋の川淵が出しゃばっている」とか書かれるだろうなと思ったら、何も書かれなくて少し物足りなかったね。

堀:その後は東京都知事ともいろいろ議論がありました。

川淵:あれも先ほどの話と似ていますが、とにかく「うしろを振り返らず前向け」と。小池さんは「誰が築地をあんな風にしたのか」とか、犯人探しをずいぶんやっていたけれど、そんなことをしている時間なのかと思っていました。前を向いて解決するほうが先で、犯人捜しはその後でやればいい。プライオリティが違うんです。「都民ファーストだ」って、そりゃ当たり前ですよね(会場笑)。そうでなきゃ誰がファーストなんだ、と。

堀:Jリーグ発足当時は渡辺恒雄さんとも論争していました。

川淵:昔はね。若い皆さんはご存じないかもしれませんが、かつては読売新聞グループの渡辺恒雄さんと侃々諤々の議論をしていました。「Jリーグの理念は空疎。川淵がチェアマンでいるかぎりサッカーは成功しない」とか言われて新聞の一面を飾りました。たとえば僕のことを独裁者と言って、それで記者が僕のところに来るわけです。その受け答えが新聞に載るから、「これはスマートにやらなきゃいかん」と。自宅前に集まった新聞記者たちに、「独裁者から独裁者と言われて光栄です」なんて答えて(会場笑)、それがまた紙面を飾ったり。でも、今度対談することになっているんです。今はすっかり、もう10年ほど前からすごく理解していただいています。今はプロ野球の方々も地域に根ざしていますよね。

堀:僕は当時から川淵キャプテンの考えが正しいと思っていました。当時は「読売ヴェルディ」という名前を残したいという読売に対し、「それは駄目」と。地域に根ざすためには企業名を入れてはいけないということで論争になったわけですよね。プロ野球はいまだに会社名です。僕としては地域名をもっと出すほうがいいと感じています。

川淵:昔よりは地域名が前に出るようになりましたけどね。Bリーグでも最後に企業が反対していたのは法人化でした。法人化すれば母体の経費で落とせなくなるから赤字の垂れ流しになる。「だから法人化は絶対無理だ」と、どのチームも反対していました。Jリーグのときとまったく同じです。でも、法人化しないと、クラブの収支も選手の年俸も、管理費がどうなっているかも分からない。それが分からなければ世間は納得してくれないし、地域の行政も支援してくれません。だから法人化は必須条件でした。

ただ、企業名も外すとなると、これまでバスケットボールを長いあいだ支援してくれた企業が反対するのではないかな、と。そうなれば、日本代表クラスの良い選手が就職先をなくしてしまう。「それはかわいそうだ。この話は据え置いたほうがいいな」と。その代わり、企業名を出す場合は毎年3,000万ぐらいをBリーグに入れて欲しいという話をしました。たとえば茨城ロボッツに他の会社が「ちょっと2,000万で企業名を出してくれ」となったりして、もう野放図に企業名をすべて入れてしまうようになると困るから。

ところが、そうこうしているうちにトヨタの豊田章男社長、続いて三菱電機の社長が、「企業名は出すな」と言ってくださった。それでどこも出さなくなりました。これほどスムーズに希望通り話が進んだことはなくて、むしろ「ちょっと3,000万欲しかったな」と(会場笑)。

「愚者は経験に学ぶ」は本当か?

堀:では、会場からも質問を募りたいと思います。

会場質問者A:80歳を超えられてもお元気でい続けるためのルーティンが何かあれば教えてください。

会場質問者B:もしご自身が誰でも選べるとしたら、サッカー日本代表監督にはどなたを選びますか?

会場質問者C:正しいと思ったことで突き進んでいけるのはなぜでしょうか。確信に至るまでの“スイッチ”等があれば教えてください。

川淵:ルーティンに関して言うと、今はつま先立ちをやっています。僕は何をやるにしても三日坊主が多いけれど、これだけは娘が毎朝チェックしてくるからやっています。で、当初は30回と言われたんですが、それは僕にしたらやっていないも同じだから150回ほどやっていましたね。そうしたら、6カ月ほどたった頃かな、ズボンも靴下も片足立ちで履けるようになった。それまではぜんぜん駄目だったのに。それで、「あれ?これはつま先立ちおかげだ」と思って、もう3年ぐらい続けています。

歳を取った人はつま先立ちをするといいです。ふくらはぎは「第2の心臓」とも言われていて、血液をポンプアップするんですって。30回なら1分もいりませんし、50回ぐらいやっておけばいい。いつでもどこでも、すぐできますし。僕のほうは、今はこれだけじゃつまらないから、肩甲骨の運動をしたり腕を回したり、つま先立ちと同時にいろいろなことをやっています。それでゴルフも飛ぶようになりました。エージシュートは7回ぐらいやったし。今はつま先立ちが僕の健康を支えている感じですね。

日本代表監督については、たとえば「アーセン・ベンゲルやジョゼ・モウリーニョが来たら云々」という話でもないと考えています。選手の特徴をどう生かし、日本代表としてどう戦うのか、見極める監督でないと駄目。ですから、やってみないと誰が適任かも分からないですね。「この監督なら絶対強くなる」という話にはなかなかならない。今のハリルホジッチはあまりいいと思いませんが(会場笑)。あえて1人挙げるとしたらベンゲルです。名古屋グランパスに何年もいて、日本人選手やその気質を知っているという意味で、経験を生かせられるかもしれない。ただ、彼を雇うには10億必要です。それでワールドカップ優勝が確約できるなら安いものですが、そうはいかないですからね。

あと、3つ目のご質問に関連して思うことがあります。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というビスマルクの言葉があるでしょ?先人の言葉はいつも正しいと思っていたけれど、「愚者は経験に学ぶというのは、ちょっと違うんじゃないか?」って。僕は賢者でもなんでもないけど、経験から学んで何が悪いのか。「おかしなことを言うもんだ」と思っていました。それで最近調べてみたら、ビスマルクは決してそうは言っていなかったんですね。

愚者は経験に学ぶというのは、自分の経験したことが正しいかどうかを客観的に考えないまま、「これは正しいんだ」と思い込んでしまうこと。これに対して、賢者は他の経験者にも話を聞いて、それらを客観的に見ることができる。そんな風にして他者の経験も生かしたほうがいいという意味だと知って、それで納得がいきました。

実際、そうでないと僕が経験してきたことをここで聞いている皆さんは愚者の話を聞いていることになっちゃう(会場笑)。そりゃあ、僕は賢者ではないけれど、自分の経験を皆さんに自信を持って伝えることができるのは、失敗は失敗として確信を持っているからです。

僕がJリーグのチェアマンを辞めるとき、新聞記者の皆さんが「川淵さん、失敗したことは何ですか?」と質問してきたので、「僕は失敗したことなんかありませんよ」と言いました。失敗したら次にどうするかを考えればいいわけだから。そのまま終わらせたら本当に失敗。実際、僕はたくさん失敗してきたけれど、それを次にどう活かすかを常に考えてきました。それがJリーグの成功やBリーグの現在にもつながっていると思っています。

とにかく、この歳になってもいろいろ学ぶことは多くて、賢者と愚者の話もつい最近知ったことです。先人や偉人の言うことは必ずしも正しいばかりじゃないし、途中でいろいろ修正が入って言い方が変わったりしているんですね。「愚者は経験から、賢者は歴史から」なんて表現すれば分かりやすいから。だから、あまり言葉にも惑わさず、「本当にそれで合っているの?」というぐらいの猜疑心は常に持ったほうがいいと思います。

そのうえで、僕はいろいろなことをすごく調べます。アリーナをつくるときもそう。世界の先行事例を調べてみると、マディソン・スクエア・ガーデンは365日で400回も使われていた。アイスホッケーのニューヨーク・レンジャーズは年間30試合以上使っていて、バスケットのニューヨーク・ニックスもホームスタジアムとして使っています。で、アイスホッケーの試合が終わった8時間後には次の競技ができるようになっていたり。それでアリーナ周辺にはホテルやレストランもできているわけです。

物事を深く調べ、常に定量的な議論を

会場質問者D:強いリーダーのもとにはイエスマンが集まってしまう面があると感じます。チームメンバーはどのように選抜していらっしゃいますか?

会場質問者E:隠れてはしごを外すような人だったり、面従腹背だったり、影で暗躍するような人たちとはどのように向き合っていらっしゃいますか?

会場質問者F:50代で「自分にはサッカーがある」との思いに至った気持ちの変化を、もう少し詳しく伺いたいと思いました。

川淵:チームメンバーについて言うと、Jリーグをつくるときは3人のスタッフがいました。同じ年代も若い世代もいたし、それぞれ特徴がありました。イケイケドンドンの人、総務系に強い人、それからバランス感覚のとれた人。その3人が僕を全面的にバックアップしてくれたんですが、1人、気性がまったく合わなくて本当に嫌いなのがいたんですよ。でも、その人は僕にないものを持っていたし、僕がコントロールしていれば変なことにはならないし、何より、なくてはならない存在だった。意見も積極的に出してくれました。

その3人はイエスマンではありませんでしたね。自分の下にイエスマンを置いて得することは絶対にありません。賛成ばかりされたら自分以外に良い意見なんて出ませんから。「常に良い意見を出すように」と言っても無理ですが、10のうち1つ、「こいつはいいこと言うな」というときがあれば、そこを評価していきます。

そして、Bリーグもそうでしたが、短期間で改革していくなら絶対にトップダウンです。今までろくな意見が出てこなかったんだから。そのうえで、皆さんの意見から「これはいいんじゃないか?」という風に拾いあげると、ボトムアップでも出てくるようになる。トップダウンでものを言えるぐらいの自信と説得力を持つためにも、背景ではいろいろな知識を持ち、物事を定量的に把握している必要があります。

たとえばアリーナについても、代々木の第一体育館はスポーツで年間120日ほど、音楽関連で同200日ほど使っていて、それで利益をあげているとか。そうした具体的な数字を念頭に入れて話をすること。定性的でなく、できるだけ定量的なものの言い方をすることが説得力につながります。

Jリーグに清水エスパルスを入れるかどうかの議論をしていたときもそうでした。当時は静岡の県リーグに属していたチームでしたが、「補強すれば変わる。外国人選手や新人選手が毎年数人入れば3年で20数人が入れ替わる」と。あるいは、昔のJSL(日本サッカーリーグ)では2部だった読売クラブ(現東京ヴェルディ)が1部に昇格してすぐ2位になり、そのあと優勝したこともあります。そうした前例をすべて示したうえで、「戦力というのは思い切った補強でガラッと変わるんだ」と。そんな風に、できるだけ具体的な事例で皆に説明していました。

堀:「イエスマンはいらない」とのお話ですが、川淵キャプテンに何か申しあげるのもなかなか難しいのではないかなと、会場の皆さんも感じているかもしれません(会場笑)。周囲の方々は結構言ってきますか?

川淵:結構言ってきます。まあ、そうは言っても難しいときはあるかもしれないね(笑)。ですから、話をしているときも「この人は何か言いたそうだな」とか、相手の表情なりなんなりを見極めて言わせてあげることも必要です。頭ごなしにすべて押さえ込むのは絶対駄目ですね。

あと、裏でいろいろ動く人についてですが、以前、文部大臣だった故・鳩山邦夫さんに依頼され、ある人と一緒にお仕事をしたことがあります。でも、やりはじめたら少し右翼的なところがあって、ちょっと調べてみたら、やはり問題のある人だった。今はそんなこともないと思いますが、当時は「大臣の紹介ならそれなりの人だろう」と、世間で思われるようなところがあったので。なので、以降、新しい商売や商談があったときは必ず全部チェックするようにしました。企業と同様です。Jリーグ創設のときもすべてチェックしました。最低限の調査は必要だし、問題がある人とは絶対に関わらない。今お話しした人も大臣にお電話してキッパリお断りしました。

で、51歳で左遷されたときの気持ちですが、初めからサッカーに戻りたいと考えていたわけじゃないんです。当初は他の会社でも生きていける筈だと思っていた。それだけの能力があり、名古屋に勤務していたときは業績もあげていたので。でも、業績というのはトヨタの自動車が売れたという話で、その材料を古河電工が入れていただけ。僕でなくトヨタの活躍です。僕はそこで誤解して、会社でも偉くなれると思っていたんですね。

だから、左遷された当時は頭にきて、「どこか別の会社へ移ってやろう」と思いましたが、そんなこと言ったって「他の会社に売り込むような能力は何もないな」と。古河電工のなかでだけ生きてきた、それだけの人間だったということについて、情けなさがずっとありました。そんなことがあって、「何が自分の生き甲斐なんだろう。どこで自分の実力を発揮できるんだろう」といろいろ考えた末、最終的にサッカーの道を選んだという流れになります。

とにかくポジティブシンキングで

会場質問者G:スポーツへの協賛は、企業ビジネスとしては大きなメリットがないように感じますが、企業と交渉するうえではどんな点を意識していらしたのでしょうか。

会場質問者H:サッカー、バスケットボールと来て、次の“行き先”があれば教えてください。

会場質問者I: 2年後の東京オリンピックが日本のスポーツ界に与える影響として期待している点を教えてください。

会場質問者J:川淵キャプテンご自身が尊敬しているリーダーはいらっしゃいますか?

川淵:数字上で協賛の価値がどれほどあるかと言えば、たとえば試合中継で「広告が画面に何十秒表示されたら計算上はこうなります」といった話はあります。ただ、企業にスポンサーとなってもらうことの基本的な意味は、スポーツが社会にとって大事であり、それを応援することに意義があるという部分です。

以前、ソフトバンクの孫さんにBリーグとの契約をお願いしたら、年間数十億で契約いただきました。たった2日でそこまで話が進んだ。そのとき孫さんは、「スポーツは人間の闘争心を燃焼させる要素の1つ。人間である以上は闘争心があるけれど、それをスポーツで消化することが世界平和につながる」とおっしゃっていて、すごいことを言うなと思いましたね。「健全な精神は健全な肉体に育つからスポーツは大事なんだ」という前提で、年間数十億、代表クラスにも何億という資金の援助をしてくださったわけです。

やはりスポーツの意義は大きいと思うんです。今から20年後、AIが発達して世の中の仕事が半分ぐらいに減ったとします。それで、もしベーシックインカムなんていう形で国からお金がもらえるようになったら、「余暇はどうするのか」という話にもなるでしょう。そこで「余暇はスポーツしたほうがいいに決まっている」とは言わないけれど、動かなければ人間の体からは動物的機能がどんどん損なわれ、さらに衰えます。ちょっとしたものも持てなくなって、お父さんやお母さんが倒れたときに抱えられなくなったらどうするのか。動物的機能を維持・発揮するため、これからは遊びのなかで自然と体を鍛えられるような新しいスポーツを発明する必要もあると思います。

次の行き先ですが、先般はホッケーに関してうまく収拾がついたところです。ガバナンスに問題があったものの、ホッケー協会会長の中曽根弘文さんに出ていただき、資金面でもスポンサーが見つかって丸く収まりました。で、今はハンドボール協会でその闘争の真っ最中(会場笑)。新聞にもいろいろ書かれたけれど、とにかく考えなければいけないのはハンドボール界の発展です。たとえば「東京オリンピックのときに役員でいたい」とか、そういうケチな考えの人は全員去って欲しい。「ハンドボールが好きな子どもたちのために何をすべきか」を前提に努力できる経営者が出てくるようにしたいですね。今はそんなことをやっている最中で、最後はバレーボールをやろうと思っています。もう、あまり怖いものもないからね(会場笑)。

東京オリンピックで期待するのはやっぱりサッカー(笑)。それと、ボルダリングとか、今まで日本にあまり馴染みのないスポーツが目立つのもいいなと思います。それで今は街中にボルダリングできるような場所も数多くできたりしているから。日常の遊びのなかで子どもたちがそういうことを自然にやれるようになるのは、すごく嬉しいです。

あと、とにかくオリンピックでは子どもたちが「こんなスポーツをやってみたいな」と思えるようになれば。上手な人のプレーを観たことで「自分もああなりたい」と思って、その競技をはじめる子は多いですから。選手になることを夢見たとして、トップアスリートにはなかなかなれないかもしれないけれど、スポーツをやることの楽しさを覚えてほしい。それが一番の望みです。

堀:男子バスケも頑張って欲しいですね。

川淵:本当に。今は渡邊雄太も八村塁もいるし、ほかにもアメリカの大学でやっているような、まだ皆が知らない日本人選手も結構います。そうした選手たちも含めてスカウティングしていくと、結構いい代表チームができると思います。今の強化委員長は情報収集能力も高いですから。あと、リーダーについて言うと、小泉進次郎さんはいいなと思いますね。それと、僕は小松製作所の坂根正弘さんを経営者として尊敬しています。

堀:ありがとうございます。そろそろ時間となりました。最後に一言、将来のリーダーを目指している、あるいは今リーダーとして頑張っている会場の方々に、何かメッセージをいただけたらと思います。

川淵:ネガティブシンキングでなくポジティブシンキング。言うのは簡単だけど、皆、なかなかポジティブになりにくい。どうしてもネガティブのほうが先行しちゃうから。でも、それを断ち切って常にポジティブでいること。そのほうが人生は絶対得だし道が拓けます。この年になって言えることですが、ネガティブシンキングで得することはないです。周りも含めて常にポジティブで行こうという気持ちで、ぜひ皆さんも頑張って欲しいと思います。

堀:ポジティブということに関して申しあげると、実は今、茨城ロボッツはB2リーグ中地区で首位なんです。去年は「うちはホーム9連敗。どうしたらいいのか」なんて川淵キャプテンに質問していたぐらいなんです。で、その後もホーム13連敗でどん底に落ちたものの、最後の20試合で17勝3敗。なんと去年はB2東地区で2位になりました。そして今は中地区首位。明日も水戸まで応援に行きます。ぜひ川淵キャプテンにも水戸へお越しいただきたいと思います。今は街のど真ん中に、カフェなども併設した茨城ロボッツのアリーナをつくっていますし、これからも皆でJリーグやBリーグを応援してスポーツを盛りあげることができたらと思います。JリーグもBリーグも、日本における真の意味でのプロスポーツの集積。そうしたプロリーグをつくられた川淵キャプテンにグロービスへお越しいただいたこと、改めて感謝を申しあげるとともに、盛大な拍手をお送りしたいと思います。川淵キャプテン、ありがとうございました(会場拍手)。

川淵:皆さん、ありがとうございました。頑張ってください。ポジティブシンキングです。

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