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【古事記】日本に強力なリーダーが少ない理由は?(前編)

投稿日:2014/10/30更新日:2021/11/29

日本では、政治の世界においてもビジネスの世界においても「欧米のリーダーたちのような、強力なリーダーシップを発揮できるリーダーは不在だ」と言われ続けて久しいと思います。とはいえ、「欧米のような強力なリーダー」とは何かを厳密に定義づけすることは難しいのですが、たとえば大河ドラマで取り上げられるような戦国の武将や幕末の志士たちをはじめ、近現代の日本を導いた政財界のリーダー、今日の様々な分野のリーダーたちの中にも、優れたリーダーが数多くいたことは事実です。

しかし、「日本には強力なリーダーシップを発揮するリーダーは少ない」といわれることについて「当たらずとも遠からず」という雰囲気も、日本人であればなんとなく理解できるのではないでしょうか。近年の例でいえば、短期間のうちに首相が何人も入れ替わっていることや、大災害などの緊急非常時における政府や行政の対応、バブル経済の崩壊やリーマンショックといった経済情勢が不安定な時代を乗り越えきれなかった企業の経営破たん、後を絶たない企業の様々な不祥事で目にする経営者たちの態度や対応に、「やっぱり日本には、しかるべき方向に導いてくれる強力なリーダーはいないんだな」という思いが募った方も多いのではないでしょうか。

とはいえ、それで日本という国が混乱して消失するわけでもありませんし、渦中にあった企業(経営破たんしたところはともかくとして)も何かしらの形で息を繋いできたことを考えると、「“強力なリーダー”がいなくてもなんとかやっていけるのが日本という国であり、組織のあり方だ。その“なんとかやっていける”ようにしているのが、現場で実際に手を動かしているスタッフであり、それを取りまとめるミドルのリーダー(中間管理職的な職位にある人)たちだ」という実感を私は持っています。

強力なリーダーが不在でも組織が成り立つことについて、組織論の面からも日本の組織の特徴の一つとして以下のように説明されることがあります。

例えば、欧米でよくみられる経営者層のトップリーダーが組織の向かうべき全体の方向性を練り、ミドル層のリーダーを通じて現場にまで指示を行きわたらせる、いわゆるトップダウン式の組織やリーダーシップを“欧米のような強力なリーダーシップ”とするならば、日本においては、ミドル層のリーダーがトップリーダーのだいだいの方向性を汲み取り、一方で現場の声を吸い上げて調整する。そして、それらをすり合わせたものがトップリーダーに伝えられ全体の方向が決まるというミドルアップ式、あるいはボトムアップ式と呼ばれるもので、これが「強力な(トップ)リーダーは不在」「日本の組織はミドルや現場が強い」といわれるゆえんなのです。

当然、組織はトップダウン式もしくはミドルアップ、ボトムアップ式のいずれか1つだけを選択していることはありませんが、日本の組織が「強力な(トップ)リーダーは不在」「ミドルや現場が強い」といわれるのは、日常の業務においては、ミドルアップ式もしくはボトムアップ式の組織運営やリーダーシップを選択している割合が高いということかもしれません。

先に挙げたような有事では、本来的にはトップダウンでトップリーダーが組織の向かうべき方向を明確に指し示し、それに基づいた権限委譲によって、ミドル層のリーダーやスタッフが現場の状況に合わせた処理や対応にあたることが必要となりますが、それが機能せずに現場が右往左往するのを目の当たりにすると、「やっぱり強力な(トップ)リーダーは不在」というレッテルを貼られてしまうことになるわけです。

ここからは、このように日本の組織が、強力なトップリーダーは不在でも成り立つ組織、つまりミドルアップ式あるいはボトムアップ式の組織と考えられていることについて、『古事記』の上巻にある神々による国造りの物語を読みながら、考えていきたいと思います。

『古事記』の世界観から組織を見る

前回の『古事記』の構成とストーリーの概要でも解説したように、上巻では神々による国土造りと国造りが語られ、中巻と下巻ではその神々に連なる天皇たちによる統治が語られます。特に上巻では、日本が「八百万(やほよろづ)の神(たくさんの神々)のおわす国」といわれるゆえんの多くの神々が登場しますが、『旧約聖書』に出てくるような絶対的な“神”は存在しません。

これを理解するために、少し『古事記』の世界観について触れておきましょう。

上巻の冒頭、「天地(あめつち)初めて発(あらは)れし時」に、天地(あめつち)の天(あめ)の側にある「高天原(たかあまのはら)」というところに、まず三柱の神(神は「人」ではなく、「柱」で数えます)が現れ、その後、二柱、二柱、十柱と次々に神が現れます。

その神々が一同に、十柱の最後に登場するイザナギとイザナミという男女の神に対して、天地(あめつち)の地(つち)の方が、海に浮かんでいる脂のように、くらげが漂っているように頼りない様子なので、国土としてきちんと形を整えるように、命を下します。

イザナギとイザナミはその仰せに従い、地(つち)の上に降り立ち、その交わりによって、猛烈な生産活動に入っていきます。日本の国土となる島々を生み、石、雨、海、風、木、山、野、火といった自然現象の神を次々と生み出します。その神がさらに自然現象を構成する要素、例えば海なら波や泡といったものの神を生み出していきます。この国土は、後にイザナギの息子でヤマタノオロチでも有名なスサノヲが出雲の地に降り立ち、その子孫であるオオクニヌシという神に引き継がれ、葦原中国(あしはらのなかつくに)と呼ばれるようになります。

オオクニヌシの尽力によりこの国が完成したころ、神々がおわす高天原(たかあまのはら)を治めるアマテラスという神(イザナギの娘でスサノオの姉)が、葦原中国(あしはらのなかつくに)は自分の息子が治めるべき国だと宣言して、その息子に国の様子を探りに行かせます。その息子の報告を受けて八百万(やほよろづ)の神々(たくさんの神々)が集まりどうすべきかを話し合います。そして、また別の神々を葦原中国に遣わし、すったもんだありながらも、オオクニヌシから国を譲り受けることになります。ここに天皇家の高祖神アマテラスの系譜による統治が始まります。

便宜的に『旧約聖書』創世記の冒頭「In the beginning God created the heaven and the earth.(初めに、神は天地を創造された)」と比べると分かりやすいのですが、『古事記』の冒頭は「天地(あめつち)初めて発(あらは)れし時に、高天原(たかあまのはら)に成りし神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かむむすひのかみ)。次に、……」とあるように、誰かの手によって天地(あめつち)が作られたというのではなく、最初から天(あめ)と地(つち)があり、その天(あめ)の方にある高天原(たかあまのはら)というところに神々が現れたという世界観です。『旧約聖書』では神が天地を創造しますが、『古事記』ではあくまでも天地(あめつち)が先にあり、そこに神々が現れるという位置づけなのです。

『旧約聖書』はトップダウン的、『古事記』はミドルアップ的

この後も『旧約聖書』では神は自らの手で様々なものを創造し、ついには自分の形に似せた人間を造りますが、『古事記』では、イザナギとイザナミの物語からも分かるように、特定の神による創造ではなく、高天原(たかあまのはら)の複数の神々の命により、別の神が創造活動を担い、その活動の中で派生した神がさらに自律的にその活動を推し進めていくという仕組みで、国土が整えられていきます。また、神々はイザナギとイザナミに「国を修理ひ(つくろひ)固め成せ」(国土としてきちんと形を整えるように)とはいいましたが、こういう国を造りなさいといった具体的な指示はありません。

また「葦原中国は自分の息子が治めるべきものだ」といったアマテラスは、父イザナギの命によって高天原(たかあまのはら)を治める中心的な存在ではありますが、審議は思金神(おもひかねのかみ)という参謀的な役割の神のもとに「八百万(やほよろづ)」(たくさん)の神が集められて行われ、具体的な策は思金神(おもひかねのかみ)が提案し、やはり別の神がそれを実行します。『旧約聖書』の神とは違って、アマテラスが具体的に何かを考えたり、直接実行したりすることはありません。

私は企業や社会の組織に属してからこの物語を読むようになったとき、命を下しながらも具体的に何かを考えたり実行したりすることのない神々やアマテラスのやり方は、「こんな方向で、あとは適当にやっておいて」といって、(今風の言葉でいえば)丸投げしていく上司たちと同じだなあと思ったものでした。また、「八百万(やほよろづ)」(たくさん)の神々が集まって協議しているくだりを読むと、緊急事態が生じて招集される取締役たちみたいだなと、どこかの会社の会議室が頭に思い浮かび、噴き出しそうになりました。

そのような視点で読んでみると、『旧約聖書』は神という強力なトップリーダーの意向と手によって世界の細部に至るまで形作られるトップダウン的な物語だとすれば、『古事記』は、自然発生した世界に現れた神々(トップリーダー)によってある程度の意向は示されるものの、実際には別の神々(ミドルリーダーや現場スタッフ)が国を形作っていくミドルアップ、ボトムアップ的な物語といえるのではないかと考えるようになっていました。

もちろん『古事記』には、律令制度の整った国家を天皇が統治することの正当性を国内外にアピールするという目的があったことを踏まえると、そこで語られるミドルアップ、ボトムアップ的な国家運営は、おのずと律令国家における天皇の在り方、つまり政治の実権と実務は太政官(今の内閣に相当)にあり、天皇はそれを超越して存在するという構図であり、日本の組織運営そのものであるということも不思議ではないでしょう。

これをさらに突き詰めると、日本の組織運営の特徴は太古より、その中心は周辺や下位組織に対して一定の働きかけはするものの、それが絶対的な力を持ってコントロールするということはなく、どちらかというと、その働きかけを受けた周辺や下位組織が自律的に機能することによって成り立っていることにあるのではないか、それこそが現代の日本人の組織における行動様式や思考の原型となっているのではないかと思うようになりました。

そして、このようなことを考え始めたときに出合ったのが、河合隼雄氏の日本神話論「中空構造」でした。次回は、この河合氏の「中空構造」を見ながら、「強力なリーダー不在でも成り立つ組織」の本質について考えたいと思います。
(Cover photo: serena_v - Fotolia.com)

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