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困難を乗り越え、夢を追い続けてきたから今がある 〜塩沼亮潤大阿闍梨

投稿日:2021/10/13更新日:2023/07/19

本記事は、2018年7月に開催された「あすか会議2018」のセッション「極限の世界で見つけた人生の歩み方」の内容を書き起こしたものです。(全2回 後編) ※前編はこちら

9日間、飲まず・食わず・寝ず・横にならず

塩沼亮潤氏(以下、敬称略):1,000日におよぶ修行を終えると、次の10年目には9日間におよぶ「四無行(しむぎょう)」という修行があります。「飲まず、食べず、寝ず、横にならず」。千日回峰行を行じた者は、この修行もしなければなりません。2つセットで大変お得な修行です(会場笑)。

四無の行2日目。やはりこの行は手強い。こたこたに力は抜けるし、心臓は踊るし、熱も少しばかり。それも、激しい激しい苦しみが時折襲う。たまになんとも言えない吐き気がする。畜生。でも、お山で1,000日の修行。この行の苦しみを体が覚えているから、どんなことがあっても今に自分の調子にしてみせる。必ず負けない。心臓の脈は座っているだけで90は超えている。自分では、1,000日の回峰でお山に鍛えられているからこのくらい我慢できるが、動作はかなり遅くなってきている。お線香の灰がこぼれて砕ける、その音も聞こえる。普段匂いを感じないものまで匂いがして嫌になり、吐き気もするほど五感が鋭くなっている。』

『今日で6日目。袴も引っかかるところがないくらい痩せてきた。心の中のやる気、元気はたくさんある。どんなに苦しくとも、今が幸せ。楽しい。

そして行の終わりの日に、こんなことを書いていました。

普段、私たちはいかに幸せでしょう。ご飯も食べることができない人たちが世界にどれほどいるでしょう。その苦しみ、痛みから見れば、私の苦しみなんて。どんなにつらくとも苦しくとも取り乱さず、優しさとおおらかさ、そして、のびのびと清らかなる心で行じれば、必ず守られるのです。たとえ時代が変わろうと、お釈迦様が示してくれたお手本通りに歩む道こそ、御仏に仕える者の定め。だから、行にはじまりも終わりもない。ただ無の心。

こうして、私の山の行が終わりました。

「執(とら)われ」を断ち切り、光のあるほうへ

「行がはじまる前と行が終わったあとで、何が変わりましたか?」と、皆さん思われるかもしれません。決定的に変わったのはただひとつでした。宇宙が光と闇からできている以上、その陰と陽、マイナスとプラスは常にぶつかり合い、交わり合うことによって命や光が生まれます。

人生とは不思議なものです。嫌なものと出会ってしまうと、どうしても嫌だなと思う方向に自分の心の針も振れてしまう。すぐに自分で戻せればいいのですが、心の針がマイナスを向いていると、あらゆる現象や人に対する“執(とら)われ”が出てしまいます。確執(かくしゅう)の執と書いて“執われ”。この執われがあると、私たちは心も体もなかなかプラス方向に進みません。ですから、“煩悩”とか“欲”とか“我”とか、こちら側に執われているさまざまなものを、「これではいけない」「こんな自分ではいけない」「自分の理想像を具現化しなければ」と、1本1本断ち切る必要があります。これが人生の修行なのだと思います。

100本のうち99本を切ったとしても、1本のロープが括られたままであれば私たちは光ある方向へと船出ができません。行くに行けず、戻るに戻れず。その苦しい状態が迷いの状態です。その1本のロープを許し切り、捨て切り、あるいは忘れ切ったとき、我々はプラスの方向へ運ばれていくのでしょう。

そうした大自然のルールを私たちは学ばなければなりません。自分たちの心がプラスに進んでいるかマイナスに進んでいるかによって、人生も仕事も運も縁も、すべて決まります。明るいほうを向いていれば、明日が、未来が、自然と明るい方向へ運ばれていきます。運ぶという漢字は「運(うん)」と読みます。運は「良い」「悪い」と言いますが、その原因は何かと言えば、自分自身の心の針がどちらを向いているかということなのだと思います。

軸を太くして、より大きな器の持ち主に

さて、山の修行を終えた私は仙台に帰り、お寺を建立しました。しかし、檀家もなく、お葬式もしないというスタイルのお寺ですから、ご飯を食べていくのは大変でした。本山という学校にいれば、お師匠さんが衣食住すべてにおいて面倒を看てくれます。しかし、ひとたび学校を卒業して仙台に帰ると、「どうやってご飯を食べていけばいいのか」「どうやって活動していけばいいのか」という、まさに里の行が待っていました。山の行よりも里の行。自分一人で宗教活動をしていかなければならないという意味でも、山の行より厳しい修行だったかもしれません。

33から50に至るまで続いた、この里における修行が、最終的に私を完成させてくれたのだと思います。皆さんも同じです。学校で学ぶのも大事ですが、学校を終えたあとの社会生活で、いかに1日1日、心の在りかたをプラスに転じていくか。マイナスなこともマイナスな人もすべて受け入れ、今日より明日、明日より明後日と、より大きな人生の器の持ち主になろうとする思いが大事です。

皆さんは今日私のお話を聞いてくださり、頭ではご理解いただけたと思います。ただ、実際に嫌な場面、嫌な境遇に立たされたときこそ、皆さんの心の器を大きくするチャンスです。人間の軸は、そういうところから感覚的に、目に見えないところで少しずつ太くなってきます。

石器時代、私たちは動物を獲り、それを食べて生きてきました。やがて穀物や野菜を育てる農耕生活に入っていったわけですね。そして産業革命以降、国や地域によっては社会がどんどん便利になっていきました。数十年前からは通信で世界がつながるようになりましたし、科学技術はさらに発展し、今はAIというものも出てきました。

ただ、AIは私たちにとって心地良い部分を満たすために開発されているようです。本来、私たちには避けられない現実があります。大自然と共存しているなかで、嫌なことを含め、さまざまな「思いも寄らぬもの」とも共存しているわけですね。そうしたものに対しても我々自身が軸を太くしていかなければ、バランスが崩れてしまうのではないでしょうか。常に光と闇がある。私たちはその2つとうまく共存し、日々を明るく楽しく生きていかなければなりません。おぎゃあと生まれ、大きくなって家庭をつくり、子どもをつくり育てたりして、やがて老いて朽ち果てていく。時代が変わり技術が進歩しても、その根源は石器時代から変わらないと思います。

今日は皆さんに、「夢というものをなるべく早く持ってください」というお話をさせていただきました。また、その夢を追い求める過程が、私たちをいかに育て、私たちの軸を太くしてくれるかというお話を、限られた時間で伝えさせていただきました。夢について、ある日、山の中で書いたことを拝読して私のお話を終わりにしたいと思います。

夢。ありとあらゆる夢に向かって、ありとあらゆる困難を乗り越えて、今があります。今日という日は、昨日まで夢を追い続けてきたからこそ、今があります。そしてまた、明日というまだ見ぬ夢に向かって歩いている。振り返ればただの思い出。もう2度と戻らない思い出。まだ見ぬ明日にビクビクすることはない。戻らぬ昨日にくよくよしても、どうにもなりません。今日夢を叶えようと努力している自分に自信を持つこと。人を恨まず、憎まず、忘れて、捨てて、許して、今ある自分に感謝をして、いつか私が仏様みたいな人になれるよう、一歩一歩、歩いていこう。

ぜひ皆さんの周りに多くの人が集まり、大きな大きな縁が広がっていくような、そんな人になってください。では、会場の皆さんから質問を受け付けたいと思います。

後ろ姿を見せることで人を導いていく

会場質問者A:修行による変化は、修行のなかで徐々に感じるものなのでしょうか。それとも修行後に感じるものなのでしょうか。

塩沼:自分自身では意外と自分の変化が見えませんし、人から言われたことで、「あ、変わったんだな」と思います。修行のなかで人にかけていただく、「最近変わったね」「最近また成長したね」という言葉が自分へのご褒美なのだと思います。そのときはすごく喜びます。で、次の日はまたそれも忘れて、さらに上へ向かって自分を育てていこうという思いになります。

皆さんも、たとえば久しぶりに会った仲間に対して、「この人、成長しているな」と思ったりしたことはありませんか? あるいは、「この人は成長しているけれど、あの人は変わってないな」ですとか。これは誰にでもあることだと思います。そのうえで、私は自分に対しては非常に厳しく、過小評価するようにしています。悲観的に考えるわけではありませんが、傲慢にならず、自分をもっと高めていこうとする心が生涯続けばいいのかなと思っています。

会場質問者B:私自身は夢に向かって精進するのが大好きですが、自分がリーダーになったとき、周囲の方々にも夢持っていただくために自分はどうあるべきでしょうか。

塩沼:私は亡くなられた自分のお師匠さんを今でも大変尊敬しています。19歳で行をはじめた頃、お師匠さんに言われてとても衝撃的だった言葉があります。「君たちに教えるものはない」とおっしゃるのです。こちらは何かを学びに行っているのに。でも、「君たちに教えるものはない。ただ一緒に生活をしてもらって、後ろ姿から学んでもらうしかないんや。ついてくるものはついてくるやろうけれども、ついてこれないものはついてこない。これは仕方がないことだ」と。

「なるほど」と思いました。私も住職となり弟子を授かったとき、「教えることというのは何もないな」と思いました。難しい勉強でもなく、厳しい修行でもありません。やりたければ勉強すればいいし、やりたくなければ修行しなくてもいい。行も宗教も決して強制であってはいけないと思うのです。やる気のない人間の心に火をつけるのは、水だらけの雑巾にマッチ1本で火をつけるようなもの。私たちもそれぞれ命があります。あまりそこに執われると、どんどん自分の命が削られていきます。その意味でも、うしろ姿を見せるということは非常に大事なことだと思います。

そして最後、皆さんにお伝えしたいことがあります。私は海外へ行ってよく言われることがあります。普通の服装でホームステイ等をすると、お坊さんとは分りません。ただ、数日間生活をともにしていると、「あなたはジェントルマンだ」と言われます。「どういうところがですかと?」訊くと、「いつも感謝の心を持っている。どんなことでも自己を省みることができる。そして、どんな人に対しても敬意の心がある」と。「どんな食べ物でも、嫌なことでも好き嫌いをしないわね。いつもニコニコ挨拶をしているし、絶対に約束は守る」とも言われました。

これはお師匠さんに教わったことでなく、小さい頃、親に教わったことです。この当たり前のことは、やはり親の後ろ姿、そしてお師匠さんの後ろ姿を見て学んだことなのですね。私たち一人ひとりが後ろ姿を見せて、教え、導いていくことが大事なのではないでしょうか。

たった1日ではどうにもなりません。長く続けることが大事です。お坊さんは毎日お勤めをします。その毎日のなかで、お線香の香りが少しずつ、この黒染めの衣に移っていきます。そうして1年後、この衣は香の香りが漂っています。長きにわたって人に影響を与え、だんだんと覚えていただくことを“薫習(くんじゅう)”といいます。この薫習ということが教育において一番大切なことだと思います。ありがとうございました。

執筆:山本 兼司

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