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杉原千畝の葛藤――認知と行動、どちらを変えるか?

投稿日:2015/12/15更新日:2019/04/09

去る12月5日より戦後70周年記念の映画「杉原千畝」の全国ロードショーが始まりました。「日本のシンドラー」とも言われる杉原の名は今でこそ多くの日本人が知るようになりましたが、1980年代頃までは、それほど多くの人に知られる存在ではありませんでした。外交官としての存在を外務省が事実上抹殺していたからです。今回は、有名な「命のビザ」発給にまつわる杉原の葛藤について考察します。

杉原は、1900年1月1日という極めてキリの良い日に岐阜県に生まれました。いったん早稲田大学に進みますが、学費に困り、官費で学習できる日露協会学校(ハルビン学院)に移ります。そこでロシア語を学んだことが、後の外交官としての彼の礎になりました。

杉原の名前が最初に大きく取り上げられたのは、満洲国外交部でロシア科長兼計画科長として働いていた時に、ソビエト連邦(ソ連)との北満洲鉄道譲渡交渉を担当し、ソ連側の要求額を大きく下げさせた功績によるものでした。1933年のことです。実は杉原は諜報員としての能力も高く、語学力も生かしてさまざまな情報を各所より極秘に入手していました。それがソ連との交渉に非常に役に立ったのです。ただ、この時の杉原の活躍はソ連に目をつけられ、彼はソ連から「好ましからざる人物」とのレッテルを貼られることになります。

当時、誕生してから十数年の共産主義国家ソ連は、世界が注目する存在でした。杉原は、モスクワに赴いて実際にその実態を探るという夢を持っていたのですが、「好ましからざる人物」と指定されたことで、モスクワ赴任は夢と消えます。そこで杉原が領事代理として派遣されたのが隣国のリトアニアでした。そこでソ連の情報収集を行うことが杉原のミッションでした。

粛々と業務をこなしていた杉原ですが、1940年頃から領事館にナチスの迫害を逃れてきた多くのユダヤ難民が、ビザ発給を求めてなだれ込むようになりました。外交官として、当然彼は本国外務省の指示を仰ぎます、しかし、ドイツとの軋轢などを危惧した外務省からの指示はノーでした。当初のビザ発給の厳しい要件を満たすユダヤ人にこそビザは出したものの、それ以外の多くのユダヤ人は、日本領事館の外でなすすべもなく待つしかなかったのです。

ここで杉原に葛藤が生まれます。人道上はユダヤ人難民にビザを発行したいところです。それは杉原自身が心の平穏を得ることにもつながります。しかし、それは外交官としての義務と相反することにもなるのです。

人間はこうした時、「認知的不協和」という悩みを抱えることになります。大きな認知的不協和を抱えた人間は、その気持ち悪さを解消する行動をとるのが一般的です。問題は、その解消の方向です(図1参照)。

図1でいえば、健康のことを考えるのであれば、左側のように行動を変えることが望ましいと言えます。しかし、人間は弱い動物ですから、往々にして行動は変えずに、別の認知を持つことで、現状の行動を合理化しようとします。図1の右側のような解消の方向性です。いずれも認知的不協和の解消には成功したわけですが、健康に与える影響は大きく変わってしまいます。

さらに、人間には「確証バイアス」というバイアスもあります。これは、いったん自分が決めたことに関して、都合のいい情報ばかりを集めてしまい、都合の悪い情報は無視するか軽く見るというバイアスです。図1でいえば、一度右側の方向に行けば、確証バイアスも働く結果、その他にも都合のいい理由をつけることで、なかなか左側の行動変容には結び付かなくなるのです。

当時の杉原の抱えていた認知的不協和は、図2のように説明できます。この状況下で、皆さんならどちらの方向に向かうでしょうか? 右を選ばれる方も多いと思います。複雑な情勢を考えれば、それは決して非難されるべきものではないでしょう。

しかし彼は、夫人との会話なども通じて、最終的には左側の行動変容を選びます。「外交官としては間違っているかもしれないが、頼ってきた何千もの人を見殺しにすることはできない」というのが彼の最終結論だったのです。

杉原はこうして1940年7月29日から、リトアニアを退去せざるを得なくなるまで(8月にリトアニアはソ連に併合)ユダヤ人にひたすらビザを発行し続けました。その数は2139枚、約6000人分にも及びます。領事館が閉鎖されてからも、リトアニアを離れる汽車に乗る直前まで彼はビザにサインをし続けました。杉原の「命のビザ」のおかげで助かったユダヤ人の子孫は、現在は3万人を超えるとされています。

実は、杉原のビザでシベリアを渡ったユダヤ人は、それで苦難が去ったわけではりませんでした。政府の方針もあって、日本への渡航ができない状況だったのです。その窮地を救ったのは、ハルビン学院で杉原の先輩だったウラジオストク総領事代理の根井三郎でした。彼もまた人道的見地からユダヤ人を支援し、多くのユダヤ人を日本に逃したのです。

その時の行動を支えたのは、ハルビン学院のモットーである「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、報いを求めぬよう」という信念と、「(同じ教育を受け、人となりも知る)杉原がそういう判断をするのなら正しいことなのだろう」という確信だったとい言います。同じモットーに感化された先輩後輩の連係プレーが多くのユダヤ人を救ったのです。

杉原は戦後、この時の行為が元で外務省を離れざるを得なくなり、小さな商社などを転々とすることになります。しかし、1985年にはイスラエル政府より「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞し、生誕100年の2000年には外務省で名誉回復されることとなったのです。

このケースから、我々は以下のことを学べるのではないでしょうか。

・より大きな大義に従うことは、長い目で見たときに大きく報われることがある
・若い頃に受ける良き教育やそこで築き上げたネットワークのパワーは非常に大きい。それは信頼や一体感を生み、一人では成し遂げられないことを可能にする
・大きな葛藤に直面した時の行動こそ、人間の本質が現れる。それを多くの人は見ており、人物評価の材料とする

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