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ガリレオの真実――小を捨て、大を残す勇気を持つ

投稿日:2015/11/17更新日:2019/04/09

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今回はガリレオ・ガリレイの天動説をめぐる騒動と、意外に知られていないその後のガリレオの足跡について取り上げます。

「それでも地球は回っている」

ガリレオがローマ・カトリック教会の異端審問裁判に屈し、地動説を放棄せざるをえなかったときに反論するかのようにつぶやいたとされるこの言葉。実は、これは後世の創作で、ガリレオはこの言葉を実際には口にしなかったと言われています。天動説を選ぶか死を選ぶかという瀬戸際で、ガリレオは地動説を放棄せざるをえませんでした。しかし、ガリレオが誓わされたのは地動説を普及させないことであり、それにいたずらにこだわっていたわけではありません。

重要な点は、科学的手法――実験を通じての仮説検証など――を捨てるとは一切言わなかったことです。そして彼は地動説には触れることなく、後に『新科学対話』を著すことで科学的手法の啓蒙を目指し、ニュートンら後年の科学者に大きな影響を与えたのです。そこに至る経緯が今回の重要なポイントです。

さて、よく錯覚されることですが、ガリレオは、地動説を初めて唱えたからといって異端審問裁判にかけられたわけではありません。地動説を初めて唱えたのはポーランドのコペルニクスで、ガリレオの裁判に先立つことおよそ80年前のことです。ローマ・カトリック教会の影響が小さかったこともあり、コペルニクスはあまり迫害を受けていません。ガリレオは、コペルニクスの仮説を、当時発達しつつあった望遠鏡で検証したのです。

また、ガリレオが地動説を唱え始めてすぐに異端審問で地動説を完全に放棄させられたというのも誤解です。確かに、1616年に最初の異端審問裁判で地動説を唱えることを禁じられたのは事実です。しかし、この時は死との二者択一までは迫られていません。ローマ・カトリック教会の中にも、当時の著名な科学者であるガリレオのファンが多かったこともあり、この時は「警告」のような扱いで済まされています。

ガリレオに死との二者択一が迫られたのは、それから17年後の裁判でのことです。この時、ガリレオは『天文対話』という書籍を著していました。これは当時エリートのみが用いるラテン語ではなく、一般の人々が普通に読めるイタリア語で書かれていました。そのおかげもあって、この書籍はイタリアであっという間にベストセラーになっていたのです。翻訳もされ、国外でも読まれました。

『天文対話』の書き方はかなり工夫を凝らされていました。ストレートに地動説を唱えるのではなく、地動説と天動説をそれぞれ信じる2人を主役に据え、その2人の対話を通じて、地動説という仮説が正しいと自ずと読者に伝わるような書き方をしていたのです。

ガリレオがこのような書き方を選んだ理由としては、やはり1回目の異端審問裁判で普及を禁じられたという足かせに加え、彼自身が熱心なカトリック教徒だったという側面があります。

当時、神の作ったとされる世界の構造を疑うことは大きな罪でした。ガリレオは若い頃にも、実験を通じて「重いものほど速く落ちる」というそれまでの常識の否定はしていましたが、これは神を否定したわけではなく、アリストテレス以来信じられていた間違った物理法則を正したにすぎません。

しかし地動説となると話は別です。それは、神や聖書を否定することにもつながるため、ガリレオとしてもジレンマに悩まされていたのです。これは、彼が地動説を信じるようになってからずっと悩まされてきた問題です。そこで彼は上述したように、ダイレクトに地動説を唱えて神を否定するのではなく、あくまで2つの仮説を支持する者同士の対話という形を用いたのです。

しかし、このガリレオの工夫がかえって仇となってしまいました。2つを対比することで、かえって天動説の綻びが明らかになったからです。敬虔なクリスチャンであったことが、かえってガリレオを悪い立場に追い込んだことは皮肉としか言いようがありません。当時、カトリック教会がプロテスタントとの対立もあって保守化し、異端を厳しく取り締まっていたこともガリレオには不運でした。教会内のガリレオ擁護派も、彼を擁護できる状況ではありませんでした。

また、庶民の言葉であるイタリア語で書かれていたという点が大いに教会関係者の心象を悪くしました。現代にたとえるなら、日本語で書けばあまり炎上しなかったものが、英語で情報発信したおかげで、確かに世界中で多くの人には伝わったものの、騒ぎを大きくする原因となったようなものです。多くの庶民に支持されたことが、教会の権威を揺るがすものと見なされたのです。

そして1633年に2度目の異端審問裁判が行われます。この裁判の経緯については諸説ありますが、17年前の裁判でガリレオが同意しなかったことまで同意したと虚偽の報告をされ、立場がかなり悪くなったようです。ガリレオとしては抗弁するすべもなく、地動説の発信、普及を放棄せざるをえませんでした。ガリレオは以後、半ば軟禁状態に置かれ、余生を過ごすことになったのです。

しかし、ガリレオの真骨頂はここからです。彼は新しい書籍『新科学対話』を著します。ここでも、彼は対照的な人物を登場させる方式をとりました。古くからの思い込みをいたずらに信じ込む学者と、実験によって仮説検証を行い、真実を明らかにする学者を登場させ、科学的な手法がいかに優れているかを示したのです。当然、地動説そのものにはダイレクトには触れませんでした。この書籍は、ニュートンを始めとする17、18世紀の著名な科学者に影響を与えただけではなく、今に至るまで古典として読み継がれることになったのです。

この書籍も、考えようによっては、「科学的な検証に耐えうる地動説の方が正しい」と読めなくもありません。その意味でリスクはあったのですが、内容がやはり普遍的ということもあり、この書籍に関しては、お咎めはありませんでした。「地動説」という個別の説については放棄せざるをえなかったガリレオですが、「科学的手法」というより大きなテーマについてはそれを後世に残すことに成功したのです。

このケースから我々が学べることとして、以下の3つを挙げたいと思います。

・より大きな信念を貫くためには、相対的に小さな部分で譲ることも必要
・情報発信力は諸刃の剣。多くの人に発信することは重要だが、その影響を予測することも大事
・一方で、リスクを取らないと後世に影響を与えるような大きな仕事はできない。過去に学び、虎児を得るために虎穴に入る勇気も必要

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