金柿 秀幸/カナガキ ヒデユキ
金柿 秀幸氏
株式会社絵本ナビ代表取締役社長
1968年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。
大手シンクタンクにて、システムエンジニアとして民間企業の業務改革と情報システム構築を推進。その後、総合企画部調査役として経営企画に従事する。
2001年、愛娘の誕生にあわせて退職。約半年間、子育てに専念した後、株式会社絵本ナビを設立し、代表取締役社長に就任。
2002年、絵本選びが100倍楽しくなるサイト『絵本ナビ』をオープンし、事務局長に。
2003年、「パパ’s絵本プロジェクト」を結成、全国で絵本おはなし会を展開中。
雑誌など各メディアにて絵本紹介、講演など多数。
NPO法人ファザーリング・ジャパン初代理事
【著書】
『幸せの絵本 大人も子どももハッピーにしてくれる絵本100選』、
『幸せの絵本2 大人も子どもも、もっとハッピーにしてくれる絵本100選』
『幸せの絵本 家族の絆編 大人と子どもの心をつなぐ絵本100選』
(ソフトバンククリエイティブ)
『大人のための絵本ガイド 心を震わす感動の絵本60』(ソフトバンク新書)
【共著】
『絵本であそぼ!子どもにウケるおはなし大作戦』(小学館)
絵本や児童書のビジネスを介在に、多くの家族の“幸せな時間”を創り出し、自らも社員にも家族で食卓を囲める働き方や生活を推奨。しかしその前身は、超長時間労働が当たり前の“モーレツ企業戦士”だった——。孤高さすら感じさせるユニークネスと、多くの者の共感を呼び揺り動かすビジョン。一見、相矛盾する要素を兼ね備え、圧倒的な価値を生み出す“バリュークリエイター”の実像と戦略思考に迫る新連載、第2回前編。
面白ければ子どもは何度でも繰り返し読みたがる、読んでもらいたがる
オフィスに足を踏み入れたとたん、それまでパソコンに向かって仕事をしていた社員が一斉に立ち上がって、あいさつした。
社内は入り口から見て右手がオフィススペース、左手が来客スペースと分かれている。両者を区切る低めの本棚には、絵本や児童書がぎっしり詰まっており、棚の上には、絵本作家の色紙がずらりと並ぶ。ここで働いている、インターンを含めた30名のスタッフは、インターネットを使い、絵本が大好きな親子に向けて「幸せな時間を共有する場」を提供している。
絵本ナビは、その名の通り、0歳から大人までに向けて、絵本を紹介し販売するウェブサイトで、年間利用者数は555万人、読者の投稿数20万件以上、絵本の売り上げは30万冊以上にのぼる。ユーザーの中には女優の紺野美沙子もいて、このオフィスを訪れたことがある。企業としては、絵本サイトの運営に加え、子育てに特化したハウツーサイトを運営する他、ユーザーデータをもとに出版社など企業のマーケティング支援、絵本関連のキャラクターグッズや知育玩具の販売などを行っている。
現在、収益の主軸を担っている絵本ナビのサイトの特徴は、ウェブサイト上で1冊につき1回に限り絵本の「全ページ試し読み」ができること、そして、利用者による絵本紹介が充実していることだ。紹介文は書評というより、絵本を見た時の我が子の反応や、それを見守る親の目線、親子の幸せなエピソード集というほうが似つかわしい。
一見すれば「絵本を紹介して売るウェブサイト」の絵本ナビ。ただし、それだけの機能なら、大手ネット書店と互角に戦うのは難しい。「丸ごと試し読みなどさせてしまっては、むしろ購入意欲が削がれるのでは?」と思われた方もいるかもしれない。けれど、実は絵本ナビが扱っているのは「本」ではなく「幸せな時間」であると、社長の金柿秀幸は説明する。
金柿は社業の傍ら、全国を回って絵本のおはなし会を開いている。もう10年以上続く取り組みで、延べ4000人以上の子どもと話をしてきた。「絵本を読んでいると子どもたちと心が通じ合う。読む前の私は単なる“知らないおじさん”ですが、絵本を読んでいると子ども達が寄ってきてよじ登ったりする。私たちはこういう時間を“幸せな時間”と呼んでいるのです」。企業としても、そんな幸せな時間を応援する生活ナビゲーションカンパニーになろうという理念を掲げている。「絵本を買うだけなら大手ネット書店でいいのですが、私たちがやっているような“幸せの時間の共有”は、大手ネット書店ではできません」。その含意はこうだ。
私事になるが、筆者が5歳と2歳の子どもに絵本を読む際も、気になるのは本の内容だけでなく子どもの反応だ。例えば半世紀前に出版され、今も子どもたちに根強い人気のある『だるまちゃんとてんぐちゃん』(かこさとし著、福音館書店)は「おおきなだるまどん」が「ちいさなだるまちゃん」に「どれでも好きなものを持って行きなさい」と言って、靴や帽子をたくさん並べて見せる特徴的な場面がある。これを2歳児に読み聞かせていると「これ、パパの」「これ、あたちの」「これ、にいにの」「これ、てんて(先生)の」…といった具合に、描かれた靴を家族や保育園の先生に配ってくれる。それぞれの人のイメージに合う靴を選んで配るという、全く同じ反応を、5歳児が2歳くらいの頃も示したことを思い出し、微笑ましくも興味深くも感じた。きょうだいそれぞれ、同じ本に対して異なる反応を示すこともあれば、お気に入りの本が違うこともある。
このように絵本を購入する親にとって一番大事なのは、その絵本に「子どもがどう反応したか」。購入の意思決定に影響を与える、いわゆるKBF(KeyBuyingFactor:顧客が商品の購買を決定する際に重視する要素)が絵本と他の書籍では全く違う。だから、大人向けの小説なら購買意欲をそそる「人気作家待望の新作」というフレーズも、絵本には効かない。人気作家の新作でも、つまらなければ子どもは見向きもしない。一方、数十年前の作品でも、面白ければ何度でも繰り返し読みたがる。
絵本ナビが提供するサービスの中で人気が高い全ページ試し読みは、そんな、絵本を繰り返し読んで楽しみたい人たちに、喜ばれている。実際に子どもと一緒に見ることで、親は子どもの反応を確認できるから「人気作家の作品だからいいと思ったのに、子どもがちっとも興味を示さない」といった失敗を避けられる。また「知らない作品だったけれど、同じくらいの年の子どもを持つ他のお母さんの体験談を読んで興味を持ち、中を見たら楽しい話と絵で、予想外に気に入った」ということもある。
小さな子どもがいると、書店や図書館に試し読みに行く時間を作るのが難しい。仮に書店に連れて行くことができても、絵本をなめたり千切ったりするのを制しながらでは、落ち着いて選ぶことができない。ウェブサイト上の試し読みは、そんな課題を抱える親にとって、ありがたいサービスだ。当初は出版社や作者の抵抗が大きかった試し読みサービスだが、テスト販売では実施前に比べ売上が平均4倍に増え、中には売り上げが13倍にも増えた作品があった。こうしたデータや、サービスを支持するユーザーの声を手掛かりに出版社を説得し、現在は1,000冊以上が「全ページ試し読み」の対象になっている。
実現を支えたのは、数字だけではない。おはなし会を継続的に行う金柿の姿や、ウェブサイト上にもオフィスにも1冊1冊、大切に愛しむように作品を並べる絵本ナビの佇まいが、「ネットに大切な作品を載せるなんて」という作者や編集者の気持ちをほぐしていった。そうして実際に掲載してみて、読者から寄せられる反応の数々が彼・彼女らのやる気をさらに後押ししていった。大手ネット書店が絵本ナビのサービスを一朝一夕に真似られない理由は、こうしたあたりにも潜んでいる。
このように、後から考えてみると、絵本ナビは、小さな子どもを持つ親が求めていたが、他で得られなかった独自の価値を提供していることが分かる。だが、そのような隠れたニーズを見つけるのは、簡単なことではない。金柿はどのようにして、それを発掘したのか。
話は12年前に遡る。
モーレツ企業戦士が一転、起業家に。「家族を犠牲にしない覚悟」にむしろ背中を押された
今から10余年前の2001年、金柿は娘の誕生を期に会社を辞め、独立起業を目指していた。しかし、その時はまだ「何をするか、はっきりとは決めていなかった」。生後2カ月の娘と共に失業と起業準備と育休が混ざったような状態で、日々を過ごしていた。育休とは言っても、少し前までシンクタンクで猛烈に働いていたため、家事能力はなく料理はできなかった。必死で娘をあやすうち、ふと思いついて、自分が気に入っていた絵本『はらぺこあおむし』(エリック・カール著、偕成社)を読んであげると「ちょっと笑ったような気がしたんです。自分が選んだ絵本を娘が喜んでくれる、それはすごく幸せな気分でした」。
絵本の読み聞かせなら、自分にもできるかもしれない。だが、勇んで近くの書店や図書館に行ってみたものの、どの本がいいのか全く分からなかった。そこで、子どものいる友人知人10人に「お勧めの絵本」を5冊聞いてみることにした。すると「『ぐりとぐら』以外は、みんなが勧めてくれた本が違った」。各自がつけてくれた、お勧め理由コメントは、親子の幸せなエピソードに満ちており、それらを他の人にシェアしたら、思いがけない好反応が返ってきた。「ここに、何かがあるかもしれない」と気づいた瞬間だった。
当時、企業社会で電子メールは使われていたが、ブログもツイッターもフェイスブックも今のようには普及していなかった。個人の情報発信といえばいわゆるホームページ。絵本を紹介する人はいたものの、デザインはいかにも素人くさく、情報として整理されたものはなかった。「自分は絵本の情報が欲しいのに、それがない。ニーズがあるのにサービスがない。こういう“止まっている市場”の中で、全力で事業をやったら、ナンバーワンになれるかもしれない、と思いました」。
ところで、先に、金柿が娘の誕生を機に独立起業し、絵本ナビを作ったことを記した。社業のかたわら続けている絵本のおはなし会や、NPO法人ファザーリング・ジャパン初代理事を務めた…というプロフィールなどから、「ああ、“イクメン”か。俺には縁遠いかな」と思うビジネスマンがいるかもしれない。実は金柿は、生まれつきのイクメンではなかった。むしろ、平均的なビジネスマン以上に企業戦士だった。そんな男性がなぜ、“女子どもの世界”である絵本で起業することになったのか。
「起業への関心自体は大学生の頃からあった」。と金柿は振り返る。父親の影響が大きかったという。父はジャスコ(当時)の常務。総合スーパーマーケットが拡大を続ける時期、次々に新店舗、新業態を立ち上げる父の姿を、金柿青年はよく見ていた。シーフードレストランのレッドロブスターの初代日本人社長を務めたのは金柿の父で、テレビCM案を自宅に持ち帰り「A案とB案、どっちがいいと思う?」と尋ねられたことも、よく覚えている。「ゼロから1を生み出すビジネスは、カッコいい」と思っていた。そんな父の姿は「いつか起業したい、自分の手で作ったサービスを世に問うてみたい」という気持ちを、金柿青年に自然と植え付けていた。
父の影響で、仕事や働くことに対して良いイメージを持った状態で就職したのは銀行系のシンクタンク。ここでシステムエンジニアとして、朝から晩までどころではなく、朝から明朝まで働いた。「夜中まで仕事してタクシーで帰宅、ちょっと寝てまた出社して仕事というのが当たり前だった」。まさにワーカホリック(仕事中毒)といった生活だったが、「自分の能力の限界を試したいという気持ちと、男は過労死するくらい働いて当たり前だと思っていた」。その生活は結婚後も変わらず、むしろ家庭を持ったことでより仕事にのめりこんでいった。
入社9年目にはシステムエンジニアを卒業し、約100人の同期入社のトップとしてシンクタンクの本部へ異動、経営企画に携わるようになった。会社員としての人生は順調に思えたが、ずっと抱いていた起業への想いは徐々に大きくなり、子どもを授かったことをきっかけに自らの人生を見直したのだという
あらためて自分の仕事を見つめ直した金柿は考える。「会社員として懸命に働くのと、起業してリスクを取るのとどちらが自分に向いているか。起業は大変だが、努力によって全てを自分でマネージできる」。一般的に言って、雇用や収入がある程度保障されている会社員の方が、安定しておりストレスも少ないように思える。だが、金柿は自分が置かれた状況を冷静に分析した。
「このまま従順に生きていくか、ハードルは上がるが起業してチャレンジするか」。起業に際しては、絶対に家族を犠牲にしない覚悟が必要となる。そのことはむしろ自分を支え、前に進ませる力になる。スケジュールの工面も自分の努力次第でできるから、将来的には子どもや妻との時間も捻出しやすくなるだろう。考えた結果、金柿は会社を辞めて起業するほうを選んだ。ただ実は辞める時には、事業プランは明確には決まっていなかった。
妻には、当時まだ赤ん坊だった娘が幼稚園に入るまでには結果を出すと約束し、会社を設立した。ものごころがついたとき、「お父さんの仕事はね」と、娘が説明できるようにしなければと自分自身にも誓った。事実、金柿は娘が幼稚園に入る頃には起業家として注目されるようになり、日経新聞に写真入りで記事が出るまでになる。ただ、もちろん、そこに至るまでに、いくつもの試練が待っていたことは言うまでもない。
会社を辞めた時、金柿の目の前にあったのは、「根拠のない自信」「極度の楽観主義」「こみ上げる情熱」、そして15の事業プランだった。後編では、木造アパートの一室から生み出された絵本ナビの事業が軌道に乗るまでの様々な苦労、その困難をどう乗り越えていったかを見ていく。
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