水野 達男/ミズノ タツオ
住友化学株式会社 ベクターコントロール事業部長
1955年2月 兵庫県西宮市生まれ。1979年 北海道大学農学部卒業後、レインボー薬品株式会社 常務取締役 開発部長を経て、2007年に住友化学株式会社生活環境事業部 ベクターコントロール部長に就任。2008年10月より現職。マラリア他感染症対策用の製品の研究・開発、製造、ならびに販売を統括するベクターコントロール(媒介害虫制御)事業全体を運営する。
アフリカ・タンザニアで防虫蚊帳を作り、売る日々。思うように成果が上がらず足掻き、孤軍奮闘を続けた結果、医者からくだされた診断は鬱病だった——。孤高さすら感じさせるユニークネスと、多くの者の共感を呼び揺り動かすビジョン。一見、相矛盾する要素を兼ね備え、圧倒的な価値を生み出す“バリュークリエイター”の実像と戦略思考に迫る新連載、第1回。(企画構成:荒木博行、文:治部れんげ)
新連載開始に寄せて
世の中には素晴らしい戦略が存在する。
一見当たり前のように思えるが、実はそれが外部環境や組織内部に対する深い洞察に基づき立案され、競合がいくら真似をしたくても出来ない、という類いのものだ。
そのような戦略はどのようにして生まれたのだろうか?
もちろん、組織全体で組み立てた戦略もあるだろう。
しかし、究極的には、その戦略を解きほぐしていくと、そこには必ず1人のリーダーの存在がある。
とあるリーダーの思いや思考が起点になり、そして、組織がそのアイディアに対して化学反応を起こし、結果的には1つの戦略となっていく。
そのリーダーは必ずしもCEOなどのトップである必要はない。
ミドルという立場の人間が作った戦略をトップが承認する、後ろ支えする、ということもある。
大事なことは、その立場が何か、というよりも、その基点となったリーダーがどういう人物であるか、ということだ。
では、そのリーダーに求められる要素とは何だろうか?
我々には1つの仮説がある。
その要素のひとつとして、まずは個人の「ユニークさ」が際立っている、ということだ。
組織や世間の流れに同調するのではなく、また、周囲の論調から無理矢理違いを出そうとするものでもない。素直に自分の視界で世の中を捉え、自分の頭でユニークに発想できる力である。
しかし、同時に一方で、組織を動かす力を兼ね備えていなくてはならない。
これが2つ目の要素だ。
個人のユニークな発想を絵に描いた餅にしないために、上司や外部の関係者、そして組織の構成メンバーという多くの立場の人間に共感、共鳴を呼び、巻き込んでいく力が求められる。
この「個性的であり、ユニークである」ことと、「多くの関係者に共感、共鳴を生む」という、一見すると相矛盾する要素を兼ね備えたリーダーこそが、新たなバリューを生み出し、競争環境を勝ち抜く戦略を立案できるのではないかと考える。
我々は、このような特徴を兼ね備えたリーダーを「バリュークリエイター」と呼び、彼、彼女たちが立案してきた素晴らしい戦略の内側のストーリーを紐解いていく。
当然、その戦略は一朝一夕に出来たものではない。その当事者の長いキャリアヒストリーにその原点、すなわち、戦略のタネが存在する。したがって、我々は、その戦略のみならず、その人物の原点までさかのぼってストーリーを追いかけていく。
そして、そのストーリーから、我々が戦略立案という観点から学び取れるものは何か?今後、現場で使えるような示唆は何だろうか?ということを深めていきたい。
第1回として登場いただくのは、住友化学の事業部長として、アフリカ・タンザニアで防虫蚊帳を製造・販売、マラリア予防や現地経済の活性化に貢献した水野達男氏だ。困難なアフリカでのビジネスを成功に導いた底流には、いかなる想い、そして戦略があったのか。まずは水野氏のストーリーを前編、後編の2回に分け掲載し、続けてそのストーリーから読み取れる戦略について解説編としてお届けする。(荒木博行・グロービス経営大学院教員)
「3000万張の目標に対し、1400万〜1500万張しか売れない。疲れもストレスも頂点に達していた」
「住友化学の蚊帳がアフリカの子どもの命を助けている」と聞いて、ピンとくる人はどのくらいいるだろう。それ、何のこと?と思った人も、次のようなシーンをどこかで見聞きしたことがあるのではないか。
壇上にタンザニアの大統領やビル・ゲイツが並びアフリカ援助について語ると、客席のブロンド女性が立ち上がり、マイクを持って言う。「このベッドネットのために1万ドル寄付をします。ご一緒してくださる方は手を挙げてください」。
2005年の世界経済フォーラム年次総会で、ハリウッド女優のシャロン・ストーンがアフリカ支援のため、わずか数分で1億円の寄付を集めた。日本でもたびたび報道されたシーンなので、記憶にある人も多いかもしれない。この時、ストーンが言及した「ベッドネット(bednet)」こそが、住友化学が開発した蚊帳、オリセット(R)ネットだ。繊維に防虫剤を練り込んだ特殊な蚊帳で、マラリアを媒介する蚊から人々を守る。
現代の日本では患者の存在を耳にすることもほとんどないが、熱帯の途上国ではマラリアは、今も命を奪う恐ろしい病気だ。蚊によって運ばれる感染症で、高熱、頭痛、吐き気をもたらし、適切な治療を施さないと死に至る。WHO(世界保健機構)によると、2010年には1億5400万人〜2億8900万人が感染し、49万人〜83万6000人が死亡した*1。死者の大多数はアフリカの子どもたちだ。
*1WHO「メディア・センター」のウェブサイトより
WHOは2001年に住友化学が開発したオリセット(R)ネットを長期残効型蚊帳として推奨した。普通の蚊帳がポリエステル製の細い糸で作られており、柔軟で軽いが耐久性が低いのに対し、オリセット(R)ネットはポリエチレン製の太糸で作られているため耐久性に優れている。加えて網目を大きくすることで通気性を良くし、アフリカの熱帯気候でも使いやすくなっている。最大の発明は蚊帳の糸1本1本に殺虫剤を練り込んでいること。この仕組みによって、徐々に染み出してくる殺虫剤の効果が5年持つとされている*2。
*2WHOのウェブサイト「Vectorcontrolandinsecticideresistance」より
水野達男は、このオリセット(R)ネットの開発・製造・販売を担う、住友化学のベクターコントロール事業部長を務めていた(2012年まで)。住友化学は2003年9月に、オリセット(R)ネットの生産技術をタンザニアの企業、AtoZTexitileMillsLtd(以下AtoZ社)に無償供与、2007年2月にAtoZ社と折半で合弁会社VectorHealthInternationalLtdを設立し、2つの工場で年間3000万張の生産能力を持つようになった。この工場は7000人もの雇用を生み、地元経済を潤している。
右の写真は水野氏とともに事業に取り組んだ住友化学とAtoZ社の皆さん
水野がベクターコントロール事業部長に就任したのは、2008年10月。この年から住友化学では、これまで社会貢献という位置づけで、つまりは儲けようとは思わずに手がけてきたオリセット(R)ネットの生産・販売を事業部として独立させることにした。それはすなわち、再投資できるくらいの利益を目指すことを意味する。技術を生かし人助けをすることに加え、単体で持続可能な程度に利益を上げる。それは、当然のことながら、簡単ではなかった。
就任当初、水野に与えられた任務は、オリセット(R)ネットを全世界で3000万張、販売すること。つまりタンザニアの工場で作った製品を世界で売る、ということだ。上司はお菓子を買ってきて水野のデスクに置き、こう言った。「水野くんの仕事はこれだから」。ラベルには「VC3000」と書いてある。ビタミンCが3000mg入っていることを示す表示と、ベクターコントロール(VectorControl≒VC)事業で扱う蚊帳3000万張をかけてあった。
当初、水野はこの仕事をさほど難しいものとは思っていなかった。住友化学にはヘッドハントされての中途入社。それまで20年余り、外資系企業で化学関連のビジネスを手掛けており、役員としての経営経験もあった。住友化学に入社した後は5年間、別な部署で実績を積んできた。経験と実力が充分に備わった50代ビジネスマンとして、自信を持って事業部長に就任した。
「(オリセット(R)ネットは)社会貢献の重要なものだと思っていたし、トップも注目しているプロジェクトだから、僕は簡単にうまくいくんじゃないか、と思っていたんです」。事業部を立ち上げた際のメンバー21名のうち6名は、JICAの青年海外協力隊OBで、協力隊時代にタンザニアでテント生活を経験した者や、自身がマラリアに罹患した経験を持つ者もいた。技術と経験、アフリカ支援への情熱を抱く人が集まったチームでアフリカビジネスに挑んだわけだ。
ところが、事態は思ったようには進まなかった。例えばタンザニアの現地工場では、当初数百人の従業員が自分の担当する仕事を離れてお喋りに興じることも珍しくなかった。持ち場に戻るよう注意しようにも、誰がどの担当か、すぐには分からない。そのため、各自の担当する工程や部署ごとに色分けした制服を着てもらい、誰がどこにいるのかひと目で分かるようにした。
また、従業員の多くは「ものを折りたたむ」作業をしたことがなかった。良い品質のものを作る重要性を全く理解していない従業員も多かったため、説明しても通じないことが続いた。そのため、折り紙の概念を使って仲間と分業しながら、品質の良い、基準に合った蚊帳を作るワークショップを行うといったところから、教育する必要があった。「こんな簡単なことは、学校で習ってきてほしい」と思ったのは、一度、二度ではなかった。
「一番きつかった」と水野が振り返るのは、タンザニアの工場を立ち上げた頃だ。水野は毎月のように、現地に赴き、現地の幹部と議論し、生産性と品質の向上に努めた。やがて生産が軌道に乗ると、現地の工場長や幹部社員にオペレーションを委任し、日本で過ごすようになっていた。そして、アフリカ、イギリス、ニューヨーク、ワシントンと世界各地に散らばる部下たちに指示を与えながら仕事をしていた。日本との時差はアフリカが6時間、イギリスが8時間、そしてアメリカ東海岸とは12〜13時間。文字通り「24時間働きます、という感じ」だった。
自宅にいても携帯電話にしばしば連絡が入り、家族でテレビを見ている時もパソコンに向かう日々が1年以上続いた。ストレスが最高潮に達したある日、突然、水野の身体が動かなくなった。千葉県鴨川で働く息子の元に遊びに行き、車に乗って帰ろうとした瞬間、腰が抜けてしまったのだ。しばらく休んだ後、ゆっくりと一般道を運転し、休み休みようやく自宅にたどり着いた時には夜が更けていた。普段は高速道路を使って2時間で帰れる道のりに、6時間もかかった。
体調が非常に悪いことを会社に伝えた後で病院に行った。アフリカ事業のこと、ほとんど眠れずに働いていることを話すと、水野と旧知の医師は言った。「私はこれから診断書を書きますけれど、水野さんのお勤め先のような大きな会社は、この診断書を見たらすぐ、会社に来なくていい、って言われます。いいですか」。医師の診断は、鬱病だった。
「誰ともつながらない40日間。そのとき神の啓示のように一つの映像が脳裏に浮かんだ」
「それは困ります」と水野は即答した。翌週は上司を伴いニューヨークとワシントンに出張に行くことになっていたからだ。
主治医は折れず「そういう無茶な働き方をしているから、水野さんはこういう病気になったんです。私は医師としてそれを止めるのが仕事だから、やっぱり診断書を書きますよ」。翌日、水野が診断書を持って出社すると、上司はすぐに帰宅を命じ、まずは1週間、自宅で休養することになった。
もちろん、水野は、本当に休むつもりはなかった。自宅にパソコンを持って帰り「結局、1週間、会社を休んで家で仕事をしていたんです」。
1週間後に同じ医師は水野に尋ねた。「どうでしたか」。「いや、あの、身体は大分、楽になりました」。「いえ、家で何をしていましたか、とお尋ねしています」。「ずっと仕事をしていました」。その場で、もう1カ月休むように指示をされた。診断書には「パソコンも携帯電話も、会社に置いていってください、と書きます」。
これまで30年間、ビジネスマンとして突っ走ってきた水野は、この時、初めて何もない空白の時間を過ごすことになる。
水野は、この時「もう終わった」と思った。「俺のビジネスマン人生は、終わった」。アフリカでは、これまで勉強して活かしてきた経営学の理論やマーケティングが「全く役に立たない」ように思えた。「経験も十分にあるし、役員までやってきた。自分としてはキャリアを積んできたつもりだったのに、アフリカのビジネスでは何も役に立たない。俺って何のために今まで何十年もビジネスをやってきたのかな」と虚しくなった。
妻からは「会社辞めた方がいいわよ」と諭された。この事業に携わるようになってから1年半というもの、夫が夜も全く寝ずに仕事をしている様子を見てきたからだ。「もう全然違う仕事をした方がいいかな、とか、退職金をもらったら半年くらいは暮らせるかな」と考える日々が続いた。
思い返せば学生時代から、挑戦や努力は報われてきた。北海道大学の学生時代は、テニスで道内チャンピオンにもなった。勉強が忙しい中、頭を使い、テニスで勝つための戦略を練った。外資系のメーカーで仕事を始めてからは、技術への理解と顧客への関心、そして行動力を武器に人がやらない仕事に挑戦を重ねてきた。30代で役員を経験したし、数々の実績が評価され、住友化学に来てほしいと、請われたのだった。
だから、アフリカビジネスが暗礁に乗り上げたことは、水野にとって初めての大きな挫折だった。体力には自信があったのに、とうとう体まで壊してしまった。この時に経験した誰ともつながらない40日間。この時間は、水野にある不思議な体験をもたらした。
ある日、水野の脳裏に、ザンビア、セネガルなどの病院で見た風景が蘇ったのだ。現場主義の水野は、アフリカに出張するたび、工場やオフィスだけでなく、病院や診療所(クリニック)、個人宅を訪問するようにしていた。自分たちが作ったものが、どんな風に使われ、役立っているのか、見ずにはおれなかったからだ。記憶のビデオテープに焼き付けられた膨大な長さのアフリカの映像やシーンの中から、なぜか、ひとつの場面が鮮やかに浮き上がってきた。
時は夕刻。病院のベッドに座る19歳の母親。顔を手で覆って悲しみにくれる彼女は、ついさっき、幼い1歳半の子どもを亡くしたばかりだ。午前、その病院を訪れた時はまだ生きていた、マラリアに罹った子どもは、数時間後に死んでしまった。悲しみに、肩を落とす若い母親のもとに、夕陽が差し込んでいる————。
まるで映画のようなシーンを、水野はいまもしばしば思い出し、さっき見てきたばかりのように人に説明してみせる。そして、その時思った。「神様が降りてきた」と。「『あなたの仕事でいちばん大事なことは、これをなくすことですよ』って言われたような気がした」。
作り話のように思われるかもしれないが、これは本当のことだ。それまでは「住友化学の部長として、事業をどうしていくべきか。コストを下げるにはどうしたらいいか」という、ビジネスマンらしい発想をしていた。ところがこの時、水野のもとに降りてきた「神様」は言った。「そういうことも大事だけれど、本当に大事なのは、あなたがこの蚊帳をちゃんと届けることでしょう」。様々なしがらみや、思いに捉われていた水野の中で「何かが変わった、吹っ切れたと思うのは、この出来事がきっかけですね」。
それまで、水野が事業部長を務めるベクターコントロール事業部では、タンザニアの現地工場で年間3000万張のオリセット(R)ネット生産能力を持ちながら、その半分しか、売ることができずにいた。残りの半分を、売らなくてはいけない。しかもビジネスとして採算に乗せなくてはいけない。競合の中国製品は安いが同じ値段で売れば赤字は必至。社会貢献としての影響力の大きさは、住友化学の経営陣も認識しており注目度が高い。そして、アフリカでのビジネスは一筋縄でいかない。
クリアすべき要素が多岐にわたり、がんじがらめになっていた水野は「作っているだけじゃしょうがない。届けなきゃ意味がない、買ってもらわないと意味がない。」と思い切ったことで、解放された。「採算性は後回しでいいじゃないか」。
鬱病で休職中に、アフリカの母親の映像から教えられたという水野の経験は、ビジネスとはかけ離れた、スピリチュアルなものにも思える。ただし「蚊帳を届けることに最大の意味がある」という気づきは、ビジネスに置き換えると「これは、規模の経済や経験曲線が根底にある」という気づきにもつながった。
それは、こういうことだ。ベクターコントロール事業部は、既に工場と従業員という固定費を抱えている。蚊帳を1枚だけ作っても3000万枚作っても、原料を除き基本的にかかるコストは変わらないため、多く作った方が1枚あたりの単価は安くできる。さらに、前述したように「たたむこと」すら知らなかった従業員も、教育によって徐々にスキルを身に着けてきた。たくさん作ることで手際が良くなり効率が上がり、コストは一気に下がっていく。だからまずは、採算割れしようが大量に作り、さばくことを目指すのが大事なのだ。そうすれば、いずれは黒字化する。
そして復職後に気づいたのは「これまでは対処療法のように仕事をしてきたこと、そして事業にストーリーがなかったこと」だった。
折しも住友化学では、会長の米倉弘昌がCSR経営を提唱。オリセット(R)ネットの事業は、その最重要課題と位置づけられていた。企業の社会貢献と経営とを結びつけ、大きく利益は狙わない代わりに持続可能な事業になるよう運営をしたい、というわけだ。
この事業は水野の手腕もあり、その後、1年半で当初目標だった年間3000万張生産を実現、黒字となった。
社会貢献からビジネスへの転換——。すでに実現した今から振り返れば、それは、当然の流れにすら見えるかもしれない。ベクターコントロール事業部の経験は、今ではアフリカにおける社会問題解決型ビジネスの代名詞のようになっている。オリセット(R)ネットを開発した技術者の伊藤高明と事業を軌道に乗せた水野は、アフリカビジネスやBOP(Bottomofthepyramid、開発途上地域に多く存在する低所得層の総称)市場を開拓したい、内閣府や外務省、経済産業省から引っ張りだこだ。
最近は社会起業家志向の若手ビジネスパーソン向けに話をすることも多い水野。「どうしたら、自分の勤務先でもこのような社会的意義のある事業ができますか」。こういう質問を受けることも多い。あふれる善意を抱える大企業勤めの若者たちに、水野は3点、アドバイスをする。
第一に、事業を始める際のモチベーションについて。「私がオリセットに関わった当初は『やらされている感』満載でした。すでに50歳をすぎていましたが、ずっとサラリーマンをやってきたので、会社がやれと言うなら仕方ないな、という感じ」。それが1年半の年月を経て、変貌を遂げたのは前述の通りだ。「たとえ最初はやらされ感のある仕事でも、全力で取り組むことで、その仕事の意味合いは見つかってくる。モチベーションが初めにあるかどうか、ではなく、真剣に向き合うことで生まれるのがモチベーション」と、説いているという。
次に水野が伝えるのは「大企業に残る意味」だ。技術力、生産力、ブランド、そして人材と、大企業には様々なリソースが揃っている。自分自身の能力が活かせない、成長が見込めないと大企業を離れ、ベンチャー企業などに飛び込むことにも相応の意義はある。ただ一方で大企業にいてこそできることも少なくない。会社は、「器」、大企業には、「大器」になれる可能性がある。そこを冷静に評価・判断すべきというのが水野のメッセージだ。飛び出してひとりで出来ることと比べてみると、今いる会社に残る意義を感じることも多々あるだろう。
最後に水野が言うのは「信頼ポイント」を積め、ということ。中途入社で住友化学に入社してから、ベクターコントロール事業部長になるまで5年間、水野は別の事業部で成果を上げてきた。そこで培った信頼の積み重ねがあったからこそ、オリセット(R)ネットの事業で周囲からのサポートを得ることができた。「大事を任され、成すには、その手前で任される小さなことに誠実に向き合い、結果を残していくのが大切」ということだ。
そして何より、水野が強調するのは、オリセット(R)ネットの事業は「援助ビジネスであって、BOPビジネスではない」ということ。一般に言われるBOPビジネスは低所得者層(の生活向上を目指しつつも)の財布をあてにするが、オリセット(R)ネットの資金の出し手は主に政府機関。2007年にタンザニアに工場を設立した際は国際協力銀行の資金を活用している。「現地の貧しい人たちに自費で買ってもらえるような製品・サービスを提供するBOPとは根本的に違う」。
アフリカの人々が抱える課題に、より深く関わりたい————。そう願う水野は、NPOに転身しマラリア撲滅のために働き始めた。後編では、水野の今後の展望や人となりを見ていく。
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