近年グローバル企業として急成長しているTDK。同社の売上高は15年前の約2倍、海外企業のM&Aを通じて成長しています。シリーズ「探求:TDKの技術経営」のVol.1「研究開発部門のグローバル戦略とは」では、同社の技術経営(MOT:Management of Technology)の海外戦略やマネジメントのあり方について、松岡大 執行役員(前:技術・知財本部長、現:Chief Officer of Quality, Safety and Environment)にお話しいただきました。今回は、グローバル化する研究開発体制における社是、社訓の重要性についてグロービス経営大学院教員の金子浩明が松岡執行役員にインタビューします。(全5回、第2回)_
「フェライト」から始まる創造の歴史
金子:TDKの社是と技術経営の関係性について教えてください。社是、社訓がなければ、簡単に転職してしまいますし、会社や仲間のために何とかしよう、という気持ちが強まらないですよね。
松岡:なぜあなたはTDKに入るのか。TDKで何をするのか。TDKは何のための会社なのだ、というところに戻ります。そうでなければ、別にどの会社で働いてもいいわけですから。もともと弊社は東京工業大学発のベンチャーで、「フェライト」(ラジオやテレビを雑音なく聴けるようになる電子素材)という材料から始まっています。
フェライトを開発したのは東工大の加藤与五郎先生であり武井武先生です。我々は、それを量産する役割を担いました。当時、加藤先生のところには、大企業からも「フェライトを量産させてほしい」とオファーがきていました。それを断ってまで、なぜ、小さなTDKに任せることにしたのか。その理由が、齋藤憲三という初代社長になった人間です。齋藤は秋田の農家の三男でした。1929年は世界恐慌があって、特に地方は疲弊していました。自分の娘を売るといったことが現実にあった時代です。産業が農業しかないと、どうしても生活は豊かにならない。そういう厳しさを見てきて、農業以外の働ける場をつくらなければいけないと考えていたようです。
齋藤は加藤先生に「工場をつくるには10万円は必要だ」と言われたそうです。当時の10万円は、今でいうと5億円ぐらい。大金にもかかわらず斎藤は、「分かりました、集めてきます」とだけ言って、カネボウの津田信吾社長から小切手、つまり資金を調達してきました。それを持ってすぐ加藤先生のところに戻って、「お金は準備できました」と言うものだから、加藤先生は「こいつはいける」と思ったのでしょう。このヒストリーは全ての社員に共有されています。このマインドがTDKなのです。
金子:2・26事件を起こした青年将校たちも、部下である下士官たちから農村の窮状を聞いていました。80年代にブームとなったNHK朝ドラ「おしん」の世界です。田舎で妹を売られてしまったことを嘆く部下を見て、これはおかしいと。それを憂いて昭和維新を起こしました。事件は1936年ですから、ちょうどこの年代です。若い人たちは、国を変えなければいけないと思い行動を起こした。そんな時代ですね。
松岡:そうです。TDKの創業は1935年ですが、その頃にスタートしている会社は日本にたくさんあります。
金子:1935年に設立して、そこから終戦まではどのような事業をされていたのでしょうか。
松岡:事業が拡大したのは戦後です。きっかけは、敗戦でGHQがラジオを「スーパーヘテロダイン」方式に変えるように決定したことです。それまでフェライトは航空機用の限られた用途しかなかったのですが、皮肉なことにこの決定で一気に民生品に広がったのです。
金子:GHQがラジオの方式をスーパーヘテロダイン方式に変えようとした理由は何でしょうか。
松岡:それは加藤先生の尽力があるようです。当初のTDKは、フェライトでは全く事業が成り立たっていませんでした。加藤先生は、フェライトが世の中に普及しないので、何とかして普及させたかった。そこで知り合いのGEのクーリッジ氏という方を通じてアメリカ軍に話を通したようです。真偽は定かではありませんが、私は、まさにこうした行動が大事だと思います。
金子:そうすると実質的に「戦後企業」という位置付けですね。日本の代表的な戦後企業は、ソニーとホンダです。戦後復興を支えた大企業の多くは戦前から事業を行っており、松下電器やトヨタ、コマツにしても、戦時中は軍需企業としての側面もありました。こうした背景もあり、戦後企業と戦前企業はカラーが違うという印象を抱いています。TDKはソニーやホンダに近い戦後企業の位置付けになりますね。
松岡:そう思います。ある種、ソニーとカラーが近いところがあります。実際、フェライトを量産し始めたのは、1937〜8年です。当初のフェライトはラジオの中間周波トランスが1番多かったと思います。そのあとは、テレビの偏向ヨークという、ブラウン管の後ろについている部品として使われるようになりました。
金子:ラジオとテレビの普及によって御社の売上が急激に伸びた。
松岡:しかし、本当に急激に伸びたのは、1970年代に普及したカセットテープです。それまでもカセットテープは音声を録音することはできたのですが、TDKはクラシック音楽を録音しても聞くに堪えるクオリティを実現しました。そのカギとなったのが、アビリン磁性材です。1973年、針状の磁性粉の表面にコバルトを被着させるという新技術を確立し、磁気テープの特性を飛躍的に高めることに成功しました。これによって爆発的にTDKが成長していきました。
「何かモノを売ればいい」ではない
金子:その後、音楽の記録メディアはMDを経てハードディスクに変わりました。カセットテープが衰退した後は、事業構造を変えながら現在に至っているということですね。
松岡:そうです。ですが、やはり基本的に社是である「創造によって文化、産業に貢献する」というのがベースにあり、そこだけはずっと失うことなく今日に至ります。常にチャレンジする、世の中のためになるならばやるというカルチャーです。これがずっと続いてきました。が、昨今は少しずつ薄れているように感じるのが心配です。
金子:BtoBの製造業において「産業に貢献」は一般的な話だと思うのですが、「文化」という言葉に御社らしさを感じます。
松岡:それは初代社長の齋藤憲三の影響があると思います。単に「何かモノを売ればいい」ということではない、そんな意識だと私は理解しています。
金子:そうした意識を次世代に継承するために、国内外の研究者に対して社是・社訓の話をされているわけですね。
松岡:はい、私がラッキーだったのは、フェライトを開発した武井先生には直接お会いしていることです。また、初代の社長を除き、歴代の主力事業を興したキーパーソンには一通り会ったことがあります。そう考えると、会社の生い立ちや理念を次の世代に伝えていくのは自分の仕事ではないか、と。常日頃から社員に対して社是やヒストリーを話しているのには、こういう背景があります。
金子:戦後企業のソニーやホンダにも、創業者のエピソードが多く残っています。創業者から直接薫陶を受けた世代が経営者だった時代までは、例えばホンダなら「オヤジ(本田宗一郎)はこう言った」とか、経営陣の間でそういうエピソードが交わされています。インタビューをしていても、ポンポン出てくる。
松岡:そういう意味でいうと、私は(元会長の)上釜健宏さんは中興の祖だと思っているのです。彼は過去のTDKの諸先輩方をしっかり見て、それを実践されました。上釜さんと話をしていると、「これが当時のTDKだったのか」と思うことがありました。うまく伝えるのが難しいですが。
金子:そうですね。社是、社訓、そういうのを体感的に分かっている方がだんだんいなくなってきたときに、誰がそれを引き継ぐのか、が課題になるわけですね。
●TDKは大学発ベンチャー企業であり、変化を続けてきた会社
●創業社長の齋藤憲三氏は、ベンチャースピリッツのかたまりのような人物。その背景には、東北の農家の窮状を何とかしたいという思いがあった
●創業者のエピソードを語り継ぐことでそのスピリッツを維持することが重要
取材協力:池田 恒一郎(TDK株式会社)、文・編集:金子 浩明(グロービス)
◆シリーズ「探求:TDKの技術経営」の記事はこちらです。