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東レの炭素繊維事業を「デルタモデル」で解説する

投稿日:2008/04/25更新日:2019/04/09

グロービス経営大学院でベンチャー戦略の教鞭を取る岡村勝弘氏による新連載。事業創造、変革の特筆すべき事例を取り上げ、ビジネススクールなどで学ぶフレームワークを用いながら、独自の視点で、そこから得られる学びを詳説する。第1回は、新型旅客機「ボーイング787」への採用で気を吐く東レの炭素繊維事業について。

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2006年4月、東レの炭素繊維が新型旅客機「ボーイング787」の構造材に全面採用されることが発表となり、耳目を引いた。軽量で柔軟、しかし強靭で耐久性の高い炭素繊維複合材により、ボーイング787は従来機比20%の燃費削減を実現。航空会社各社からの注文が相次ぎ、業界を騒然とさせた。

ボーイング社はこの複合材を、東レに16年間、独占的に供給させる破格の契約を締結。この契約で東レが手にする額は1兆円にも達すると言われる。

ここで疑問が湧くのは、なぜボーイング社は、炭素繊維メーカー同士を競わせ、価格や性能面でのメリットを享受していくことを選ばなかったのか、という点だろう。炭素繊維は東レのみが有する素材ではなく、東邦テナックス*1、三菱レイヨンなども長く開発に取り組み、一定以上の評価を得てきている。それにも関わらず、ボーイング社が16年間もの長期にわたり“2社購買”を放棄した真意はどこにあったのか――。

この理由を今回は、アーノルド・C・ハックス、ディーン・L・ワイルド2世の提唱するフレームワーク「デルタモデル」から解き明かしてみたい。

国内3社がシェアの過半を握る炭素繊維

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まず、そもそも「炭素繊維」とは、どのような素材なのか。

東レら10社*2が構成する業界団体・炭素繊維協会のサイトには、「炭素繊維はほとんど炭素だけからできている繊維。衣料の原料のアクリル樹脂や石油、石炭からとれるピッチなどを繊維化して、特殊な熱処理工程を経て作られる『微細な黒鉛結晶構造をもつ繊維状の炭素物質』」とある。

何やら、かえって分からなくなるような説明だが、筆者の理解では、その強度は鉄の10倍、剛性は7倍、しかし、重さは4分の1。つまり、強くて、軽い。しかも錆びない、耐熱性がある、整形しやすい、など数々の魅力を併せ持つ、“未来の新素材”である。

その歴史は意外に古く、1970年代から強化プラスチックの補強材などとして世に出始めた。また、弾性の高さからゴルフシャフトや釣竿、テニスラケットといったスポーツ用品、或いは風車、パソコン、レントゲン機器、車椅子、人工衛星など、徐々に実用化を進め、現在は原油高増も追い風となり、躯体の軽量さが燃費向上に直結する自動車や航空機などへの展開が大きな注目を集めている。

「自動車や航空機に用いられるとなると、かなりの需要が見込める。さぞや世界中で、物凄い開発競争が繰り広げられているのだろう」。読者諸氏は、そう思われるかもしれない。

ところが、この炭素繊維、日本のわずか数社が圧倒的な地位、シェアを有しており、他社に参入の余地を与えてはいない。炭素繊維は、アクリル繊維から生産されるPAN(ポリアクリルニトリル)系と、石炭や石油の残渣から生産されるピッチ系に大別されるが、現在、主流のPAN系炭素繊維の7割のシェアを東レ(34%)、東邦テナックス(19%)、三菱レイヨン(16%)の3社のみが握っている*3。

40年の赤字に耐えて見えた需要爆発の兆し

その一つの理由は、現時点までの市場規模の小ささだ。東レの炭素繊維複合材料事業を有価証券報告書(2007年3月期)から見ると、売上686億円、営業利益181億円。東レの連結売上1.5兆円から見ても、収益の柱と呼べるほどの大きな事業とは言いがたい。2番手・東邦テナックスの340億円(営業利益59億円)、3番手・三菱レイヨンの炭素繊維・複合材料、機能膜事業1115億円(営業利益161億円)などから推計しても、全世界で1000数百億円の規模といったところだろう。

むろん、それは、市場がまだ充分に立ち上がっていないから、ではある。航空機、自動車などへの採用が進めば、その規模は一気に拡大する。ただ先にも述べたとおり、炭素繊維の歴史は古く、開発競争の始まりは実は1960年代にまで遡る。つまり、40年にわたり、“市場がまだ立ち上がっていない”状態が続いてきたのだ。

「炭素繊維は世界中のケミカル・ジャイアントもみんなチャレンジした。けれど、ことごとく撤退した。残ったのは東レ、三菱レイヨンさん、東邦(テナックス)さん。それは、やっぱり技術開発競争に日本勢が勝った、欧米勢が全部負けたということです」と、東レの榊原定征・社長は2007年9月、『週刊東洋経済』のインタビューに応え、話している。「当社は40年かけましたが、その間、ずっと赤字です。つまり、私の前の5人の社長がみんな赤字を許容してきた。私の代で初めて、今年200億円ぐらいの利益が出る」(同)。

つまり、投資を補うに足る十分な需要が確保できず、競合が次々と離脱するなか、東レ、三菱レイヨン、東邦テナックスの3社だけが40年にわたる赤字に耐えてきた。それが、ようやく大型ジェット機の素材としての採用を得て花開き、需要爆発が見えてきた。そういう話なのである。

「需要が拡大しないからコストが下がらない」悪循環

議論を元に戻そう。ボーイング社は、なぜ東レと16年もの独占契約を結んだのか――。

東レの炭素繊維には三菱レイヨン、東邦テナックスと比べ、何か圧倒的な技術優位があったのだろうか。或いはコスト優位を有しているのだろうか。ビジネススクールで学ぶ人であれば恐らく、その理由をまずはマイケル・ポーターの「三つの基本戦略」(コスト・リーダーシップ戦略、差別化戦略、集中戦略)に求めるだろう。実際、東レもコスト競争や差別化競争で他社に抜きん出ようとしてきたように見える。

しかし有望と思われた炭素繊維は意外にも、航空機や自動車といった大きな市場では、なかなか受け入れられない。「それはまったく新しい素材だから。最初はゴルフクラブ、テニスラケット、釣り竿に使った。スポーツ用途は折れても墜落しませんから。それで稼ぎながら、航空機用途の認定作業をずっと続けてきたのです」(榊原社長)というように、高度な安全性を要求されるがゆえに研究開発や設備投資に莫大なコストを要する。その一方で、いつまで経っても需要が拡大しない。需要が拡大しないから、規模化が進まず、価格も下げられないし、品質も一気呵成には向上しない。

これを顧客となる航空機・自動車側から見れば、「いずれ使う時代が来るだろう」とは思いつつも、鉄や合金、ガラス繊維といった代替品と比べて異常に高額な素材に食指は動かない。素材メーカーが技術を深化させ、生産技術を精査し、合理的な価格と充分な品質を実現してから採用を決めて大量購買に進みたいと考える。そうこうするうちに代替品も着実に進化してコストメリットも出てくる――。

要は、差別化戦略もコスト・リーダーシップ戦略にも進めない。この悪循環が炭素繊維の本格的な事業化を遅らせ、40年にわたる歳月を取らせた真因だろう。

ただ、東レには「必ず構造材料に使えるという技術的根拠、確信があった」(榊原社長) そして幸いにして研究開発を重んじ、長期的視点で経営ができる風土があり、こうした息の長い事業を株主も容認した。そうする中で、自然と見えてきた方向性。それが「デルタモデル」で言うところの「システム・ロックイン(囲い込み)」の状態を目指すことだったと筆者は考察している。

「三つの基本戦略」「VRIO」を補完する「デルタモデル」

さて、ここで簡単に「デルタモデル」*4について紹介しておこう。

デルタモデルは、先に挙げたポーターの「三つの基本戦略」と、ジェイ・B・バーニーの「VRIO」(Value、Rarity、Inimitability、Organizationにより企業の内部資源の強みを検討する)という、二つの代表的フレームワークを補完する戦略モデルとして完成された。

「トライアングル」、「適応プロセス」、「総合メトリクス」、「細分メトリクス」および「フィードバック」という5要素から構成され、戦略立案から企業内での適合の確認、そして実務への落とし込み、振り返りまでを行える優れたフレームワークだが、とりわけ重要なツールとなるのが、新たな収益性の源泉となる三つの戦略オプションを提示する「トライアングル」(下の図)だ。このトライアングルで提示する戦略オプションが、「ベスト・プロダクト」、「カスタマー・ソリューション」、そして今回、東レの炭素繊維事業を説明する「システム・ロックイン」だ。

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提唱者のハックスらによれば、ポーターの三つの基本戦略は、コスト・リーダーシップにせよ、差別化にせよ、いずれの場合も製品のエコノミクスに主眼を置いているという意味では、「ベスト・プロダクト」に包含される。しかし、企業が競争していく方法論は低コスト、差別化以外にも存在し、それがカスタマー・ソリューション、システム・ロックインだと説明している。

トライアングルでいうところのカスタマー・ソリューションは、「より幅広い製品やサービスを提供することにより、全てといわないまでも大半の顧客ニーズを満たそうとする戦略オプションである。この戦略では、プロダクトのエコノミクスよりも顧客のエコノミクスに主眼を置く」(『MITスローン・スクール 戦略論』(東洋経済新報社・刊))として、“通信”を機軸に短・長距離電話からデータ通信、無線通信などに事業領域を広げてきたMCIワールドコムが例示されている。

一方、システム・ロックインについては「製品や顧客という狭い範囲に限定せず、企業は経済的価値の創造に貢献するシステムにおける重要な参加者すべてを考慮する。(中略)ここで重要なのは、システムのアーキテクチュア全体を見渡すことだ。競合企業を閉め出し顧客を囲い込むために、いかに補完者のシェアを獲得すればいいのか。そのためには、デファクト・スタンダード(事実上の標準)の実現が鍵となる」(同)として、業界標準を握りマーケットリーダーとなったマイクロソフトやインテルのほか、電話機メーカーと携帯電話メーカー、テレビやビデオデッキのメーカーとビデオソフトメーカーの関係などが挙げられている。

苦難の歴史の果てに見えた「システム・ロックイン」

多くの優良企業は従来、「ベスト・プロダクト」によって競争優位を構築してきた。しかし近年は、顧客や業界内での絆(ボンディング)を重視した戦略がより強く、高収益の事業構造を達成しやすいのが現実だ。従い、顧客との絆を考慮して「カスタマー・ソリューション」に、さらに業界内の補完者や業界標準を重視して「システム・ロックイン」に向かうことで競争戦略を高度化できる、というのが、ハックスらの主張だ。

さて、この「トライアングル」に東レの炭素繊維事業を当てはめて考えてみよう。ボーイング社の契約締結により、この事業がシステム・ロックインの状態に入ったものと筆者が考察していることは先に述べたとおりだ。

前段に、「需要がないからコストダウンが図れない」「価格が下がらないから需要が拡大しない」という悪循環についても触れたが、これは裏を返せば、大口の顧客(例えばボーイング社のような)と契約し、研究開発体制と設備投資を確定できれば、品質・価格面でのデメリットは解消していかれるということでもあろう。

顧客側にしても、(機体の軽量化・組み立て作業工数の削減など)競合(例えばエアバス社のような)優位を得られる素材をリーズナブルな価格で安定的に確保できるのであれば、独占的に契約したいという意思は働くだろう。とりわけ、その供給元が、あたかも自社の一部であるかのように、(航空機の設計要件に適切な)素材の改良に取り組み、価格低減の努力を怠らなければ、なおさらのことである。彼らは購買した素材を自社の設計に最適化する手間をかけたり、生産が遅れる・素材が調達できなくて結局は高額な対価を支払ったり(大量に使用する素材であればなおさら)といった無駄は省きたいと考えるからである。

しかも、仮に供給元が多数あり、競争が激しい状態にあれば、2社購買も奏功するが、炭素繊維メーカーは前述のとおり、わずか3社が業界を寡占する素材である。3社を頻繁に競わせて、価格面での僅かな便益を狙うよりは、1社に独占させて、品質改良や規模化によるコスト低減を促進するほうが得策と考えるのは自然な流れだ。

そして、追随する他の顧客(例えば中小規模の航空機を生産するメーカーのような)も、価格や品質面でのメリットが出始め、また安全性の実証がされていけば、業界標準の素材として(東レの炭素繊維を)選ばざるを得なくなる。

つまり、ひとたび(航空機の生産の)主要な素材として採用されれば、業界内での「システム・ロックイン」状態を築くことは比較的、容易と言えよう。

システム・ロックインに導く共同開発型事業

独占契約のほうが得策とボーイング社をして思わせるため、東レは無論、不断の努力を見せてきた。

周知のとおり、航空機産業、特に大型ジェットの開発・生産はプレイヤーが非常に少なく、実質的にはエアバス社とボーイング社の一騎打ちの状態が長く続いている。もちろん、これら2社が開発・生産の全てを負うわけではなく、世界各国のサプライヤーが関わる。ボーイング社の例で言えば、「ボーイング787」にかけるボーイング社の“仕事量”は35%程度。今回、三菱重工、川崎重工、富士重工など日本メーカーが、同社と同等の35%と大きく食い込んだことが報道されている。

東レは、炭素繊維に樹脂を含ませてシート状にした「プリプレグ」を三菱重工ら3重工に納入、このプリプレグが型の上に張り付けられ、高温加圧炉で翼や胴体として一体成形される。

同社は、このプリプレグの強度や特質をボーイング社が開発する航空機に合わせて最適化し、しかもボーイング社の工場から5分の場所にプリプレグ生産のための工場まで建設(1992年)して、ボーイング社および主要な開発・生産メーカーと共闘する姿勢を取ってきた。

その苦難の歴史について、ここで詳説はしないが、「最初に使われたのは73年で、そのときは内部部品だけ。83年に初めて機体の一部に使われ、92年の777でやっと尾翼と主翼の一部に使っていただいた。そして2006年、ようやく787でまさに黒い飛行機が実現した」(『週刊東洋経済』2007年9月8日号)という榊原社長の言葉が全てを物語っているように思う。

この事例から言えるのは、以下の3つの要件が、システム・ロックインの状態を構築する援けとなったことだろう。

1)研究開発(長期間/巨額の投資/顧客との共同研究を必要とする)が大きい

2)顧客から見て、供給者が限られる(特許、生産設備などによる参入障壁が高い)必需品(代替品との差が大きい)である

3)顧客が数社で市場を構成している

「技術」「生産設備」「顧客」を独占することにより、長期にわたり業界を支配する構図だ。

ただ筆者は、このシステム・ロックインの状態が黙っていても保たれると考えているわけではないことは強調しておきたい。東レがこの状態で得た技術力や収益力を次世代の炭素繊維事業のロック(錠前)にして、自社のみが鍵を持っている状態にするには、今以上の切磋琢磨が必要だろう。

なぜなら、40年にわたる赤字に耐え、炭素繊維にかかる技術を磨いてきたのは東レだけではないからだ。例えば東邦テナックスは、東レと同様にエアバス社との関係を重視している。また、次に大きな市場を形成し得る自動車への採用は、未知数だ*5。東レは名古屋に「オートモーティブセンター」と呼ぶ組織を設置し、自動車用炭素繊維複合材の売り上げ拡大の体制を整えているが、この成果いかんでは業界シェアが書き換えられる可能性もなきにもあらずだろう。

ただ、いずれにしても、“未来の新素材”と注視される炭素繊維について日本企業がリーダーシップを発揮し、そのことが社会を豊かにする一助となる可能性が明確に見えたことは大変に嬉しいと思う。そして、それ以上に、素晴らしい素材・技術を40年以上の歳月をかけ、諦めずに育んだ東レ、日本の炭素繊維メーカーに惜しみない賞賛を与え、今後の活躍を期待したい。

*1 東邦テナックスは2007年9月に、帝人の子会社となった。

*2 東レ、東邦テナックス、三菱レイヨンの3社のほか、三菱クレハ、大阪ガスケミカル、三菱化学産資、日本グラファイトファイバー、日本カーボン、新日本石油、三井鉱山が会員企業として所属する。

*3 東レ推計。2005年3月期。

*4 詳しくは『デルタモデル―ネットワーク時代の戦略フレームワーク』(ファーストプレス・刊、アーノルド・C・ハックス、ディーン・L・ワイルド2世・著)を参照されたい。

*5 自動車も燃費向上が求められており、炭素繊維の活用が期待されているが、技術課題はまだ多く、これらを解消すべく現在、様々な取り組みが行われている。その一つとして例えば、NEDO(独立行政法人・新エネルギー・産業技術総合開発機構)は、2003年から東レ、日産自動車を中核に、「自動車軽量化炭素繊維強化複合材料の研究開発」と呼ぶ5年間の開発事業を実施。炭素繊維強化プラスチック(CFRP)の成型時間の大幅短縮(160分を10分に)を実現し、今までF1や超高級車に限られていた炭素繊維の活用を400万円台の中高級車に適応可能にする成果を上げている。

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