<p><img style="float: right; height: 266px; width: 400px;" src="https://chikenrokuglobis.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/uploads/images/1665/4111.jpg?q=75&fm=webp" alt="4111" /></p>
<p><strong><strong>“The Service you do for others is the rent you pay for your room here on Earth.”</strong><br />
<strong>(他者への貢献とは、この地上での居場所のために払う賃料のようなものだ)</strong></strong><br />
モハメド・アリ</p>
<p>「自分の居場所がない」</p>
<p>転校生だった子どもの頃からそう感じていたという、ヨシエの話を聞いた。</p>
<p>最初に自分を迎え入れてくれたのは、やんちゃなグループだった。髪を染めた中学生達。仲間はヨシエに温かかった。</p>
<p>しかし時間が経つにつれ「何かが違う」と感じるようになった。</p>
<p>ある先輩が言ってくれた。</p>
<p>「あんたはここにいるべきじゃない」「今なら戻れるから」</p>
<p>ヨシエはグループを抜けた。必死になって勉強し始めた。</p>
<p>それでも、同級生と同じ年には高校に入学できなかった。</p>
<p>中学の担任の先生がアドバイスをくれた。心安らぐ場を提供してくれていた、中学校の保健室の先生も応援してくれた。</p>
<p>ヨシエは翌年、高校に進学することができた。</p>
<p>高校でも今一つ、<strong>「居場所」を見つけられなかった。</strong>学校に行かない日が増えた。</p>
<p>人生を変えたのは、高校3年の時の担任だった。</p>
<p>仮病を使って学校を休むと、その日のうちに先生が自宅まで迎えに来た。</p>
<p>「なんとしてでも、あんたを卒業させないといけない」</p>
<p>先生はそう言っていた。</p>
<p>先生はヨシエにアドバイスをした。あんたは人と交わるのが得意じゃない。1人で仕事を完結できるような、そんな職場に行ったほうがいい。</p>
<p>ヨシエはバス会社に就職し、バスガイドになった。</p>
<p>1年後に結婚、退職、出産した。1993年のことだった。</p>
<p>出産後も苦しい時期が続いた。</p>
<p>自分自身が育児ノイローゼに苦しんだ。孤独だった。今思えば、自分がやっていたことは「躾だったのか虐待だったのかわからない」とヨシエは言う。あの時期を振りかえると胸が締めつけられると言う。</p>
<p>2000年に、長男の通う小学校のPTAに入会した。広報部に入って、PTAの会報誌作りを担当した。写真を撮り、文章を書いて、レイアウトした。思いのほか、美しくできた。</p>
<p>周りの仲間が、喜んでくれた。</p>
<p>「やっぱ、カネコさん(ヨシエの名字)がいないと、だめだよね~」という皆の言葉を、今でもヨシエは覚えている。</p>
<p>それまでヨシエは、育児イベントに参加しても、「アウェイ感」を味わうことが多かった。自分の孤独感や孤立感を解消することは、できなかった。</p>
<p>しかしPTAでは、自分の存在を喜んでくれる人がいた。</p>
<p>この小さな達成感が、ヨシエをさらにPTA活動に没頭させた。その後11年間、長男と二男の成長に合わせ、幼、小、中、高と休みなくPTA活動を続けた。</p>
<p>最後3年間は高校のPTAの副会長を務めた。</p>
<p>「明るいPTAだった」とヨシエは、笑いながら振り返る。懇親会のたびに、保護者はモーニング娘。やAKB48を歌ったり、ダンスを踊ったり、先生方も一緒に笑い転げた。</p>
<p>明るさが必要だとヨシエは知っていた。なぜなら、PTA活動の中で出会う母親たちは、様々な悩みや苦しみを抱え、孤独感に苦しんでいた。</p>
<p>自分が過去に苦しんだだけに、ヨシエは彼女たちの思いを理解できた。</p>
<p><strong>ヨシエはいつしか、「居場所を求める人」ではなく、「居場所を作る人」になっていた。</strong></p>
<p>ママ友一人ひとりに向き合い、できることは何かを理解し、独りではないことを伝えつづけた。PTAのコミュニティに迎え入れ、「参加して良かった」と思ってもらえるように心を砕いた。</p>
<p>ヨシエはさらに、子どもたちが夏休みの間、自然の観察・研究をする活動(エコクラブ)をサポートする団体を立ち上げた。「環境と子どもを考える会」である。</p>
<p>それらの地域活動を通じて、行政とのつながりも深くなっていった。</p>
<p>2011年3月11日。ヨシエの町を…石巻を、津波が襲った。</p>
<p>自分は何をするべきか。</p>
<p>ヨシエはすぐに、田村太郎氏のことを思い出した。</p>
<p>田村氏は、阪神大震災を経験し、全国各地で講演、防災指導を行っていた。ヨシエは2010年に、田村氏を呼んで講演をしてもらっていた。</p>
<p>災害時に命を守ること。「公助」が届かない時の、「自助」と「共助」のあり方。そして災害後にどうやって他地域とネットワークを作り、情報を発信すべきか。それら全てを、2010年に田村氏が教えてくれていた。</p>
<p>ヨシエは田村氏と連携を取った。他地域から集まる支援者と、石巻の住民・行政をつなぐ役割を果たし始めた。</p>
<p>PTA活動を一緒にやってきた仲間が、一緒に立ち上がった。</p>
<p>「一緒にやろう!」という意味の方言が石巻にある。「やっぺす」である。これが団体の愛称になった。</p>
<p>10年以上続けてきた地域活動、そこで広げてきた仲間たちの輪、行政との信頼関係、それら全てが活きた。</p>
<p><img src="https://chikenrokuglobis.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/uploads/images/1666/a3e636bb10b3183fb09f0c625c9eac90.jpg?q=75&fm=webp" alt="A3e636bb10b3183fb09f0c625c9eac90" /></p>
<p>仮設住宅の住民の心に寄り添い、そこから見えてきたニーズに合わせ、内職仕事をつくった。</p>
<p>女性に特化したセミナー。中高生向けのコーチングや人材育成。在住外国人のための交流イベント。沿岸部での起業家輩出。住民一人ひとりが主役になれる“オンパク手法”を用いたイベント「石巻に恋しちゃった」の開催、などなど。挙げ始めればきりがない。</p>
<p>展開してきた活動は数多い。しかしヨシエは…兼子佳恵代表は、1つのことしか考えていない。</p>
<p><strong>「居場所を作ること」</strong></p>
<p>大きな社会変革など、求めていない。「やっぺす」が不要な世の中になれば、それが一番いいと思っている。</p>
<p>今はただ、「居場所」を求め、声を出せずに孤立しがちな人たちの声に、1つでも多く寄り添っていきたいと思っている。</p>
<p>(追記)第7回「石巻に恋しちゃった」は、8月17日(月)-9月13日(日)に開催予定。</u><br />
大人も子供も楽しめる、多彩なアクティビティが用意されている。</p>
<p><span style="font-size: 14px;"><strong>▶次の記事<br />
</strong><a href="https://globis.jp/article/1442" target="_blank" rel="noopener">ある母の背中</a><strong><br />
</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 14px;"><strong>◀前の記事<br />
</strong><a href="https://globis.jp/article/1375" target="_blank" rel="noopener">タカシの涙 ~逆境は人をどう変えるのか</a><strong><br />
</strong></span></p>