「伏すこと久しきは、飛ぶこと必ず高し」(伏久者、飛必高) / 菜根譚
(長く地に伏せていたものは、一たび飛び立てば、必ず高く飛翔するという意味)
グロービスの学内であれほどの涙を見たことは、過去にはなかった。 だからその背景を知りたいと思ってインタビューをさせてもらった。
タカシは幼少期を千葉県の南船橋で育った。妹を2人引き連れ、学童保育を舞台に遊び回った。絵を描くのが得意だった。割り箸を組み合わせて50cmほどのライフル銃を作ったり、創造性の豊かな子供だった。
観察力も豊かだった。トンボが飛んでいるのを見ると、時間をかけてそのトンボの飛び回るコースを見極め、先回りして網で捕獲した。
小学校6年の時、父親の実家である山梨に転居した。
自分の生きる意味はどこにあるのか。自分の生きた価値を世の中にどう残したら良いのか。中学生の頃から、タカシは自問していた。
県立の農林高校に進学した。しかし農業にも林業にも興味がなかった。勉強をする意味を見いだせなかった。そもそも、「人と同じことをする」「安定した生活」には関心を持っていなかった。
高校1年の時に両親が離婚。タカシは父方に引き取られた。
家族からの一切の干渉は無くなり、高校には行かなくなった。
夜に起きてはゲームセンターに入り浸った。タバコの煙と友人たちの口から香る甘いシンナーの匂いの中、深夜の街で日々を過ごした。
父親との相性は悪く、しばしば暴力を受けた。タカシも2度ほど、逆に父親に暴力を加えたことがある。
生活は困窮していた。食べるものがなく、砂糖水を飲み続ける日々もあった。ご飯に鰹節をかけて食べるだけの日も多かった。
高校2年の時、高校を退学した。
音楽の道に進もうと思った。エアロスミスやヴァン・ヘイレンが好きだった。自分は何を生み出せるだろう。ロック・ミュージシャンになり、ファンを熱狂させたいと思った。
父親の元を離れ、東京に住む母方の祖父のところに身を寄せた。18歳の時だった。
夜はコンビニでバイトをして生活費を稼いだ。昼はスタジオで仲間と曲を創作した。
しかしバンドの仲間とは、音楽の方向性がなかなか合わなかった。バンドは離合と集散を繰り返し、結局音楽のレベルが上がらない。
20歳の時、5度目に結成したバンドも解散した。
その夜タカシは、夜中に目を覚ました。
「自分の人生のシャッターが閉まる」という恐怖心を、突然感じた。
自分が生きている意味を未だ見出せなかった。
死ぬことすら頭をよぎった。
自分はそもそも、どんな人生を生きたかったのだろう。
中学校の時は、水族館で働くことに憧れていた。ラッセルの絵画の世界だ。
水産学校に進学しようと思った。勉強をしたい。初めて心からそう思った。
しかし学力もなく、予備校に通う資金もなかった。
そこでタカシは、ある行動を取った。
山梨にいる母親に会いに行った。再婚相手の男性に頭を下げた。予備校の資金を出してもらった。
一から勉強をし直した。「Be動詞ですら、理解していなかった」と後日タカシは語ってくれたから、かなり困難な作業だったのだろう。
24歳の時、大検に合格した。水産学校には受からなかったが、職業能力開発総合大学校東京校 環境化学科に合格した。2年制の短期大学校だった。
寮生活が始まった。
勉強は、厳しかった。タカシは化学を専攻した。実験をして、レポートを書いて、また実験をして…週に3回これが続いた。
大学校の2年目、タカシは高分子化学の研究室に入った。
指導教員は、偉ぶらず、辛口ながらユーモアにあふれた人だった。
この先生が生徒に語った言葉を、タカシは一度も忘れることがなかった。
「自分は恩師から、化学の楽しさを教わった。私も君たちに、化学の楽しさを教えたい」
この先生は、まず読むべき論文を指示した。実験をやらせた。実験結果について「なぜそのような結果になるのか」を考えさせた。タカシはバイトもやめ、化学辞典を隅から隅まで読み、そして実験を繰り返した。
実験のたびに、先生は結果を聞いて面白がった。タカシと一緒に喜んでくれた。
タカシは夢中になった。
社会の中に「居場所」を見いだせなかったタカシ。最初の居場所が「化学」の世界だった。タカシは後日、「会社に対する忠誠心はなくても、『化学』に対する忠誠心が強かった」と語った。
タカシは大学校を卒業した。微生物の研究を行うベンチャーに就職した。卒業生が研究員としての職を得たのは、学科でも過去10年間1人もいなかったという。
しかしその後も、苦難の職業人生が続いた。
就職して1年後から、給与の遅配が始まった。薬事法の違反が原因で、業績が低迷した。タカシは2年目にして、職を失った。
清掃業のアルバイトをして、生活費を稼いだ。山梨に戻り、母方の実家に身を寄せた。警備員のアルバイトをした。
1年後、やっとの思いで食品や化粧品の原材料を製造しているメーカーに研究員として再就職した。成果に甘んじることができず、ミスの許されない精神的に厳しい職場だった。
有名化粧品メーカーに移った。「将来的に独立して、起業したい」と社長に言った。翌日に上司から「独立を止めるのか、または今会社を辞めるか、どちらかを選べ」と迫られた。その日のうちに荷物をまとめ、会社を出た。予期せぬ独立だった。
苦難の多い人生。しかしその中でタカシは、商品開発者として実績を積み重ねていた。
例えば最初の就職先では、高度な課題を与えられた。携帯電話の電磁波の身体への悪影響を防ぐような防御アイテムを開発せよと言われた。専門の化学とは異なる分野だった。タカシは嫌々ながらも「電磁気学」という分厚い本を買ってきて技術の原理原則を短期間で一気に学び、商品を開発して特許を取った。研究を始めてから6カ月目に、社内で表彰された。
次の指示が来た。混合すると白濁してしまう不溶性の原料がある。これを透明化し、ドリンクを開発せよと言われた。タカシは様々な方法で溶液を作り、どのような場合に色彩が透明に近づくかを調べた。毎日何十回も実験を繰り返した。疲れたタカシが、ピペットを使って原料液を荒っぽく水中に噴射したところ、色が透明になった。原料溶液が水との摩擦で分散化したのだ。これが新たな生産技術につながった。膨大な試行回数が結果につながることを、タカシは知っていた。
食品・化粧品の原材料メーカーで働いていた時には、タカシは「営業しないでも売れる絶対的な製品を作ろう」と意気込んだ。当時シャンプーのTSUBAKIがヒットしていた。椿から連想し、タカシは桜の花びらの成分を使った食品・化粧品原料を開発しようと考えた。
この時には、化学面での開発に加えて、サプライチェーンの構築に力を注いだ。国内生産地の老人生産者たちが手摘みで集めた食用の桜の花びらを使う。しかし乾燥させると、桜の色が抜けてしまう。試行錯誤しながら品質を保つ物流経路を確立した。
こうして開発した桜エキスの商品(食品・化粧品の原料)だった。国内最大規模の健康食品の見本市に出品した。「製品力賞」を受賞した。タカシは原材料の開発ばかりでなく、市場ニーズを理解して新しい商品を企画開発し、バリューチェーンを組むことに喜びを感じた。
自分のことをタカシは「狩猟民族」だと表現した。一度ゴールを決めたら、凄まじい執着心でそこに到達した。商品開発のプロフェッショナルとして自信を深めた。だから社長に、「いつか独立したい」と言ってしまったのだ。
しかし独立して、生計を立てられるのだろうか。
退職後1週間で東日本大震災が起きた。
顧客企業の開発活動は停滞した。タカシは絶望した。
当時タカシは、奨学金を得てグロービス経営大学院に通っていた。
「ベンチャー戦略」というクラスを取った。仲間の協力を得ながらビジネスプランを描いた。
2013年、タカシはこのプランを提出し、グロービス・ベンチャー・チャレンジ(GVC)に挑戦した。大賞を得られれば、500万円の出資金が手に入る。新商品の開発に先行投資できる。起死回生だった。
受賞できなかったら、この社会に「人として存在する価値がない」と思った。あとは生きているか死んでいるか曖昧な生命体のような人生を生きるしかない。そこまで思いつめた。
10月14日の授賞式。司会者が大賞のチームを発表した。
「Team CORES(コアーズ)」
タカシのチームだった。喜ぶ仲間たち。ステージ上に笑顔の輪が広がった。
その真ん中でタカシは、手で顔を覆い、マイクを向けられても声も出せずに、いつまでも涙を流し続けた。自己の存在が許されたと思った。
商品開発そのものを革新する株式会社CORESが設立される2カ月前、そして最初のヒット商品が生まれる1年前のことだった。
(参考)
渡邉貴(タカシ)氏が設立した株式会社CORESのWebサイト
グロービス・ベンチャー・チャレンジ(GVC) 第1回(2013年) 第2回(2014年)
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