科学全盛の時代であり、ビジネスの世界にもデータベースや統計を駆使した科学的な手法が盛んに取り入れられていますが、なんだかんだ言っても現場では今でも、オフィスの隅っこに神棚を飾ったり、お正月には商売繁盛の祈願をしたりと「縁起をかつぐ」ことがなされていますね。
しかし、この「縁起」という言葉、本来は「良いことや悪いことの起こるきざし」という意味ではなく、「すべてのものは相依って成り立っており、何一つとして独立して成り立つものなど存在しない」という仏教の基本的な考え方を示しています。
縁起観から生まれる日本人の心情を分かりやすくあらわしたのが、「おかげさま」という言葉でしょう。見た目につながりは見えなくても、目に見えないところで私を支えてくれているすべての存在に感謝する言葉です。
企業活動においても、ヒト・モノ・カネ・情報、すべては目に見えない網の目で間違いなくつながっているということは、このグローバル化社会の中で、ほとんどの経営者が頭では知っているはずです。しかし、その事実を事実としてほんとうに腹の底から理解しているかどうかが、企業の長期的な成功を左右することになるとまでは、その重要さは認識されていないかもしれません。
おかげさま、預かりもの、の経営
「ダンマパダ」(原始仏典の一つ、「法句経」の名でも知られる)にこのような言葉があります。「一つとして『わがもの』というものはない。すべてはみな、ただ因縁によって、自分にきたものであり、しばらく預かっているだけのことである。だから、一つのものでも、大切にして粗末にしてはならない。」
私たちの身の回りにあるものはすべて「預かりもの」です。人間は勝手にモノや土地に値段をつけて売り買いをし、所有を増やしているような気になっていますが、そのようなことは人間の世界だけで通用している”ローカルルール”であり、森羅万象からすればまったく意味をなさないことです。
仏教の縁起という考え方は、まさにこのような森羅万象の網の結び目のひとつにすぎない自己のありさまを、知らせてくれるものです。「網の結び目」というのは、ロープとロープが絡まって作られる「現象」であり、結び目そのものが単体で成り立つのではありません。無数に絡まり合った網の目の中に「私」という網の目がたまたま、しかし確かに成り立っているのです。
そのことに気がつくと、自分というものがいかに他からの恩恵に預かっているか、「おかげさま」の気持ちを思い知らされます。同時に、自分の行為がどれだけ他へ大きな影響を及ぼすのかにも思い至ります。
このことが当てはまるのは、日常生活だけではありません。企業活動も、計り知れない無数の他からの恵みによって成り立っています。そして同時に、いかに小さくともあらゆる企業活動は世界と何かしらの関係性を持っています。いかなる業種であれ、「預かりもの」の役割に応じた責任があるのです。
成長する企業を見れば、その性質はさまざまです。「おかげさま」の精神で経営されている組織もあれば、「とにかく儲けろ」「手柄は全部自分のおかげだ」という利己主義の精神で経営されている組織もあるでしょう。しかし、長期的に成長する企業となると、後者の組織はとたんに少なくなります。縁起の道理をわきまえないと、組織の空気は淀み、エネルギーが流れなくなり、網の目が腐ってしまうのです。このような事例、誰でも何かしら思い当たるところがあるのではないでしょうか。
企業は誰のものか?
また、縁起の見方からすると、「企業は誰のものか」などという議論もあまり意味をなしません。誰のものも何も、誰のものでもないのです。株主のものでもないし、社長のものでもない。社員のものでも、顧客のものでもない。では誰のものか?
誰のものでもいいのです。問題はそこではない。大切なことは、企業活動が関わりある人や生き物、すべての世界に対してよい影響を与えているかどうか、それだけです。
経営者にとっては、企業は縁あって経営の舵取りをすることとなった「預かりもの」の船。船長は乗組員も乗客も元気に楽しく過ごせるように気を配り、海を汚さないように配慮もしながら、航海を続けます。ときには嵐もやってくるでしょう。荒波に堪えながら、乗組員とともに船長も成長していきます。誰が上で、誰が下ということもありません。網の目に上下がないのと一緒です。
「華厳経」というお経には、インドラ(帝釈天)の宮殿にかかる網が登場します。網の結び目には宝石がついていて、その一つひとつが他の一切の宝石をキラキラと映し出すのです。
本当に縁起がいい経営というのは、会社の調子が悪いときに神頼みする経営ではなくて、「おかげさま」「預かりもの」の精神を経営の根幹に据えた、人を大切にする経営です。キラキラと輝く企業を育てたいものですね。