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仏教的マーケティング論

投稿日:2012/09/26更新日:2019/04/09

経営用語を仏教用語に置き換えながら、日本あるいはアジアならではの経営を思考する本連載も、あっという間に第4回を迎えました。今回は、「マーケティング」を題材に、真正面から考えてみたいと思います。

マーケティングとは顧客のニーズを満たすこと

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「マーケティング」とは一言でいえば、「顧客のニーズを満たす」ことと私は理解しています。現代マーケティングの一人者とされるフィリップ・コトラーによれば「ニーズ」とは、「人間が生きる上で必要となる基本的な条件」を指します。衣・食・住をはじめ、教育、娯楽、コミュニケーション、などさまざまなものがあります。

ニーズについて説明する際によく引き合いに出されるのが、マズローの欲求5段階説です。マズローは、人間のニーズには階層があり、基礎となる下の階層から上へ順に、生理的欲求→安全欲求→社会的欲求→自我欲求→自己実現欲求という5段階の欲求があるとしました。まずノドの渇きが癒されなければ身の安全まで意識は回らない、安全が確保されなければ友情や愛情など求める気にはならない、そういったことです。そして、人はこれらの欲求を下から順に満たそうとし、満たされた段階で上位の欲求へと移行する、と説きました。

とてももっともらしい説であり、私も義務教育の教科書で学んだ記憶があります。しかし、矛盾も多く、たとえば大きな夢を抱きながら極貧生活を送るミュージシャンや作家の卵が、生理的欲求のみで生きているとは到底思えません。人間はいつどのような希望を抱くことも自由なはずであり、ニーズに順番をつけることはナンセンスです。コトラーが『マーケティング3.0』で明らかにしたように、マズローは後年、自説の誤りに気付いて修正を加えたそうですが、どういうわけかその点は触れられることが少ないようです。

ニーズを作りだしているのは必ずしも消費者本人ではない

民主主義社会において、どのようなニーズを持つことも消費者本人の自由であり、ニーズの種類に優劣はないことが前提されています。

人はそれぞれ生まれ持った個性も置かれた環境も異なるのだから、生理的欲求が強い人もいれば、自己実現欲求が強い人もいる。企業もその役割によって、それぞれターゲットとするニーズが異なってしかるべきだし、その価値は消費者が決めるべきだ、ということになっています。ですから、マーケティング論では「満たすべきニーズ」と「満たすべきでないニーズ」が論じられることはありません。なぜなら、あくまでニーズを決める主人は消費者であり、企業はそのニーズに従属するもの、という構図になっているからです。

しかし、これは少しおかしくはないでしょうか。

この構図に従うと、人間が望むあらゆることが「満たすべきニーズ」として扱われるようになってしまいます。極端な話、麻薬や殺人なども、ニーズです。もちろん、そのようなことがビジネスにならないよう法律が存在するわけですが、法律は線を引く役目を果たすだけで、万能ではありません。たとえば、大量に砂糖の入った炭酸水を売る会社の業績を大きく伸ばすことが、本当に賞賛されるべきことなのかどうか、私には疑問です。

確かに、何か商品が売れるということは、そこにニーズが存在するからであり、そのようなニーズを人が持つことを非難することはできません。でも、「マーケティング」という言葉が「マーケット+ing」でできているように、現在の企業がマーケティングとして実際に行っていることは、「顧客のニーズを満たすこと」だけでなく、「顧客のニーズを刺激すること」です。つまり、消費者に対して「あなたがどのようなニーズを持つとしても、それはあなたの自由です」と言いながら、実際にはテレビや新聞などのマスメディアを巧みに利用して、無意識のうちに消費者を誘導しているのが、企業活動の現実です。

企業は自分が売りたいと思っているものが売れるよう消費者をコントロールし、消費者があたかも「自分が買いたいと思った」かのような状況を作り出しているに過ぎません。顧客は押し付けられたニーズを自分のものと信じ、誘導に従って“自己責任”で、本当は必要のないもの、必要ないどころか悪影響を受けるようなものまで買わされることになります。

菩提心に火をつけ、消費者をさわやかに誘導する「仏教的マーケティング」とは

仏教の視点から3つ、上記を乗り越える「仏教的マーケティング」について提案したいと思います。

1.「刺激すべきニーズ」と「刺激すべきでないニーズ」を峻別する
企業の側は「我々は主人である消費者のニーズに従っているに過ぎない」と言うでしょう。責任は消費者の側にあるというわけです。しかし、実際にはさまざまなマーケティング・ツールを使い、企業の側が「満たしたいニーズ」を刺激し、消費者を誘導している。

しかし、いくら法律の範囲内とはいっても、刺激することによって消費者の人生が良くない方向へ導かれるようなニーズを刺激するべきではありません。たとえば、親切心を刺激することと、射幸心を刺激することは、その人の人生に与える影響が大きく違います。

「刺激すべきニーズ」と「刺激すべきでないニーズ」を峻別するとき、人間の心に起こるさまざまな煩悩に関する知見を蓄積してきた仏教は、大きく役立つことでしょう。欲望・怒り・迷いではなく、心の成長を求める菩提心に火をつけたいものです。

2.「あなたをこちらへ導きたい」という方向性をはっきりと示す
ビジネススクールの講義に心理学が入り込んできていることから明らかなように、現代のマーケティングはもはや「顧客のニーズを満たすこと」などというシンプルなものではありません。企業は明確に意図を持ちながら、それを知られることなく消費者を企業の望む方向へ導こうとしのぎを削っています。しかし、そのようにコソコソと人間の意識・無意識に影響を与えようとすることは、カルト宗教のマインドコントロールと何の違いがあるのでしょうか。

ここはさわやかに、「私たちは皆さんをこちらへ導きたいと思っています」という方向性をはっきり示すのが良いでしょう。導く方向が間違っていないのなら、堂々とやればいいのです。方向性が明らかになることで消費者がソッポを向くようなビジネスなのであれば、それはやはり人類にとって筋の悪いビジネスであるということです。潔く業態転換しましょう。仏教の場合は「私たちは皆さんを悟りへと導きたい」と明確に方向性を示しています(現代の日本仏教界がその実力を備えているかどうかは別問題ですが)。

3.ビジョン・ブランドを企業と顧客が共に創る
ニーズとはつまるところ、「その人がどう生きたいか」に尽きるのではないでしょうか。そして、これからのマーケティングを考える際に大切なのは、それを「今この瞬間あれが欲しい、これがしたい」という表層的なレベルで処理するのではなく、「その人が心の底からどう生きたいと願っているか」という根本的なレベルでニーズを見ていくことです。

これまでは企業は「消費」という視点から、どちらかといえば刹那的・表面的なニーズを刺激して満たすことに注力してきました。カフェインと砂糖の刺激、ギャンブルの興奮、ゴシップが呼ぶ好奇心。これらのすべてを否定するつもりはありませんが、その種のビジネスに携わる企業の側が消費者の本当のニーズ、「その人が心の底からどう生きたいかと願っているか」について考えているかといえば、疑問です。この場合の「消費」というのは、見た目には顧客が商品を消費しているように見えますが、その実は、企業が人間を消費しているというほうが実態に即しています。

長い集団催眠期間を経て、やっと最近は日本でも少しずつ、押し付けられた「消費者」の地位を捨てて、自律的な意思決定・生き方を選択する人が増えているように感じます。そのような人たちの新たなニーズに対しては、「捉える」「満たす」「刺激する」というような陳腐な動詞ではなく、企業の側もどっしりと腰を据えて「私たちは心の底からどう生きたいと願っているか」という根本的な問いに向き合い、自分なりの方向性を示していくことが必要になるでしょう。そして、その方向性に賛同する人・惹かれる人が「モノ言う顧客」として、長期的な信頼関係のもと、積極的にマーケティング活動に参画していく。これは、ビジョンとブランドを企業と顧客が共に創る作業とも言えます。

このレベルのマーケティングは、「人間は経済活動において自己利益のみに従って行動する完全に合理的な存在である」という種類の薄っぺらな人間観では到底なしえません。これからの企業のマーケティング戦略作り、そろそろ仏教の出番でしょうか?

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