東京最大手タクシー会社の3代目御曹司。だが、入社した時に会社は1900億円の負債を抱え瀕死の状態にあった。「暗黒の5年」「リハビリの5年」を経て、経営者として大きく成長。攻めに転じ、2年後、海外を狙う。「圧倒的なユニークネス」と「多くの者の共感を呼び揺り動かすビジョン」という一見、相矛盾する要素を兼ね備え、圧倒的な価値を生み出す“バリュークリエイター”の実像と戦略思考に迫る連載第5回解説編。
さて、唐突ではあるが、皆さんは「タクシー業界は魅力的な業界か?」と問われたら、何と答えるだろうか?
市場規模は、ピーク時の1991年からおよそ3分の2程度まで落ち込んでいる。その一方で、タクシー台数自体には大きな変化が無い。つまり、小さくなったパイを奪い合う構図であり、競争は激化する方向に向かうのは必然。規制の変化にも大きく影響を受ける・・・。
一見すれば、とても「魅力的な業界」とは言いがたいだろう。そこからは、成熟業界において特有の「競争に疲弊した企業」や「リストラに勢いを奪われた企業」の姿が浮かび上がってくる。
しかし、川鍋社長の言葉を聞くと、そのような認識は単なる先入観に過ぎないことに気付かされる。とにかくすべての動きが早い。そして陣痛タクシーに代表されるような新しいサービスや、「全国タクシー配車アプリ」などの多くの施策が、顧客にとって好意的に受け止められている。この数年の日本交通の戦略的な仕掛けは目を見張るものがある。あたかも新進気鋭のベンチャー企業のようだ。そして、何よりも、川鍋社長の話を聞いていると、タクシー業界自体の未来がとても楽しく思えてくる。
そう言う観点で見ると、川鍋社長は、日本交通という会社の変革を遂げ、そしてこれからはタクシー業界そのものにイノベーションを起こしていくのかも知れない、という期待を覚える。
では、そのような古い企業や業界を新しく変えていくための秘訣は果たしてどこにあるのだろうか?
その問いに向き合うために、今回は川鍋社長のインタビューを紐解きながら、「バリュー・クリエイター」としての行動原理を整理していくことにしたい。
行動原理その1:セオリーは活用するが、過度に依存しない
川鍋社長は「施策の意思決定をする時は、初めからその意味が分かっていることは少ない。実際に施策を進めていく課程でその意味が分かってくる。そういう意味では、戦略は後付けの場合が多い」という趣旨のことを何度か口にした。また、別のインタビューにおいては、「いまは5分考えているヒマがあったらすぐにやったほうが、答えにずっと近づく」ということも述べている。
→「日本交通・川鍋一朗社長に訊く、なぜ日本企業にはヴェンチャーの力が必要なのか?」
おそらく本人としては、それは偽らざる事実なのだろう。しかし、我々がこの言葉を額面通りに受け取るのはやや危険である。なぜならば、川鍋社長が選択している打ち手の多くは、経営のセオリーに即しているからである。決して思いつきレベルの奇手を闇雲に打ちまくっているわけではない。
たとえば、EDS(エキスパート・ドライバー・サービス)と呼ばれる観光、ケア(介護)、キッズタクシーのようなサービスや、陣痛タクシーなどは、成熟市場に特徴的に表れる「マーケットニーズの多様化・分散化」に合わせたサービスであると言えるだろう。また、多様化・分散化する市場ニーズを具体的に考える際、サービス提供側の立場から顧客属性を機械的に分類するのではなく、顧客の抱える「ジョブ」(=片付けるべき用事)に焦点を当てて考えるというセオリーがある。日本交通が提供している各種の新サービスはまさにそのセオリーに沿っていると言えるだろう。
デジタル無線や電子決済をいち早く取り入れたことも、セオリーから説明することができる。デジタル無線化や支払いの電子化が業界のスタンダードになれば、業界のプレイヤーには、追加の投資が求められる。また、電子化切り替えにおいては、いかに有利な条件を引き出すか、という「交渉力」が必要になるだろう。
ここから考えられることは何か?それは、この戦いには一定以上の台数規模が求められる、ということだ。規模が無ければ投資金額の回収が遅れることになる。また決済ベンダーに対する交渉は、「どれだけの台数に搭載するのか」ということが論点になるだろう。ということは、当時既に規模を持つ日本交通がいち早くこれらの施策を導入することは、競争戦略のセオリーから考えても、非常に理にかなった意思決定であると分かる。一旦顧客にとってこれらのサービスが「当たり前」になってしまえば、規模の劣る競合は厳しい戦いを強いられることになるからだ。
しかし、同時に忘れてはならないのは、セオリーを押さえていれば勝てる、ということではない、ということだ。環境は変われば、それに伴いセオリーは陳腐化していく。競合もセオリーに無理解のままでいることはない。当たり前だが、勝負はそんなに簡単なことではない。
私なりに川鍋社長の意思決定を解釈するとすれば、セオリーは「足切りライン」として活用するということだ。つまり、セオリーの足切りラインを越えられない施策はアイディアの段階で排除する。そして、足切りラインを越えた選択肢の中から、そのタイミングに応じた施策を選択しているのではないだろうか。
「セオリーは活用するが、過度に依存しない。」川鍋社長の意思決定からは、そのようなバランス感を見出すことができる。
行動原理その2:「現場の感情」を大切にする
では、足切りラインを越えた選択肢からどうやって選ぶべきなのか?
そこで出てくるもう一つのキーワードが「現場の感情」である。
たとえば、ケアタクシーやキッズタクシーへの参入を決めた大きな理由のひとつに、「ドライバーの感情」というものがあった。ビジネスシーンでタクシーを利用する際、ドライバーは感謝の言葉を受ける機会はほとんどない。多くの客は、急いで支払いを済ませてそそくさと立ち去ってしまうだろう。こういうビジネスライクな現状がある一方で、感謝される機会も存在する。その代表的な場面が、高齢者の病院の送迎だ。乗車の手伝いをするだけで深く感謝されるのだ。川鍋社長は、こういう場面におけるドライバーの喜びを見逃さなかった。ドライバーはそのような顧客接点の些細な瞬間に、タクシーという仕事の意義を感じ、心が充足されるのである。「こういったことをサービス化すれば、顧客ニーズに応えられるとともに、従業員満足度も高められるのではないか・・・」それがトリガーとなり、業界を変える新たなサービスモデルが生まれてくる。
キッズタクシーも、「現場の感情」に支えられたサービスだ。同じ子供を一定期間接することにより人間関係が築かれ、そこに感情が生まれる。全体的なサービス規模から考えれば微々たるものかも知れないが、そこから発生するモチベーションは計り知れないインパクトがある。川鍋社長は、「このようなサービスを体験したドライバーは、離職率が圧倒的に低い」と述べる。
経済合理性だけでは測ることができない「現場の感情」をトリガーにした意思決定の成功事例は、タクシー業界に限らず至る所に見受けられる。
たとえば、『キットカット』が受験生の応援商品として定着した背景にも、この「現場の感情」というものがあった。今となっては受験生のお守りのようなポジショニングを獲得しているキットカットであるが、単に「きっと勝つ」という語呂合わせだけで当たったわけではない。このヒットのきっかけになったのは、ネスレとホテルとのコラボレーションにある。ネスレは、いざこれから受験に向かおうとしている学生に対して、ホテルマンからキットカットを提供するとともに、そのタイミングで「試験頑張ってください」という一言を添えるように提案したのだ。そして、その一言が不安な受験生の心を和らげ、感謝の感情を生むことになった。その結果として、そこに介在したキットカットという商品が、受験に向かう勇気を与えてくれた象徴として位置づけられるようになったというのだ。まさにこの話も「現場での感情」に思いを馳せながら行った意思決定と言えるだろう。
川鍋社長はこの「感情」に着目する意思決定のことを、「物心両面からの判断」という言葉で表現した。「物」とは違って目に見えにくい「心」というものを理解した上で意思決定をすることは、そんなに簡単なことではない。しかし、成熟業界固有の「マンネリ化」、仕事本来の目的を逸した「ルーティン意識」を変えていくためにも、感情ということに着目した意思決定をすることは大切なのだろう。
行動原理その3:「現場との距離感」を日常的に縮めておく
川鍋社長がインタビューにおいて繰り返し言っていたことは、「大きな意思決定はしない」「小さい段階で、とりあえずやってみる」ということだ。変革を起こしていくために、まずはスピーディかつ小規模でスタートし、それを学習しながら進めてバージョンアップをしていく、ということは極めて合理的であり、納得生は高い。
しかし、ここで絶対に忘れてはならないのは、「とりあえずやってみる」戦略がその本来の力を発揮するためには一つの大きな条件がある、ということだ。
冷静に考えてみれば分かるが、「とりあえずやってみる」ということは、「やることの意思決定」そのものよりも、やった後の「後工程」の方が重要だ。つまり、やった結果を踏まえて迅速に改善を図り、そしてまたやってみる。このフィードバックループを繰り返す、ということである。「決めたことが現場に下りるまでに長い時間がかかり、伝わる過程で内容が変質してしまう。そして実行した結果がいいことも悪いことも含めて、正しく意思決定者まで返ってこない・・・」そんな状態の組織には、「とりあえずやってみる」という意思決定は新たな悲劇を生む可能性が高い。むしろ、トップから現場まで1ストロークだけの情報伝達で完結する完成度の高い戦略を志すべきである。
つまり、「とりあえずやってみる」という言葉を言うためには、意思決定者と実行者の間で質の高いコミュニケーションができる「近接性」が大きな前提条件になるのだ。
では、実際にこの近接性を担保しているのは何だろうか?その一端は川鍋社長が案内してくれたオフィス構造にも見受けられる。社長室はない。多くの情報が行き来する場の中心にある、カベもついたてもない机が社長の机だ。
現場との情報のやり取りは、最近はすべてFacebook経由。関係者を巻き込んで、大量のダイレクトコミュニケーションのサイクルを繰り返している。
また、ある社員は川鍋社長のことをこう語る。
「情報を取るために、社長が報告を待つことはない。自ら足を運んで自分のところまで来る」、「川鍋社長ほど自分の声を真摯に聞いてくれる人はいない。ランチの際の何気ない一言でもしっかりメモを取っている」。
この手の何気ない行動原理の積み重ねも「近接性」を担保するためには重要なことだろう。
よく「考える前にとりあえず実行だ」という類の話を聞くが、その言葉を鵜呑みにして、とりあえず実行し、やりっぱなしのまま放置されて水面下に消えていった案件に覚えは無いだろうか?「とりあえずやってみる」という言葉は、この日本交通のように、意思決定者と現場との意思疎通がスムーズにできるような状態になって初めて成功するのだ。
事前に入念に戦略を構築してから実行に移す戦略を「意図的戦略」、もしくは「戦略プランニング」と呼ぶのに対して、このようにフィードバックループを繰り返して戦略を構築していく戦略の在り方を一般的には「創発的戦略」、もしくは「戦略クラフティング」と呼ぶ。この「創発的戦略」や「戦略クラフティング」というのは、極めて高い組織能力があってこそ意味を為すものと考えた方が良い。「とりあえずやってみる」ということに共感を覚えた方は、まずは意思決定者と現場の距離感をしっかり確認しておくべきだろう。
行動原理その4:ビジョンをビジュアルイメージ化することで、各施策を束ねていく
さて、3つ目の行動原理では、スピーディな意思決定を積み重ねていきながら、フィードバックループを繰り返していくスタイルをお伝えしてきた。しかし、それだけでは、ややもするとそれぞれの社員が目的を意識しないままバラバラにダッシュしているような状態に陥ってしまう。当たり前だが、もう一方ではそれを束ねていくことが重要である。
そこで求められるのは、一般的には「ビジョン」のような言葉で定義されたものになる。もちろんそれはそれで大事である。しかし、今回のインタビューで改めて感じたことは、図示されたビジュアルイメージの力である。
インタビューの後半で川鍋社長が語り出したことは、細かい意思決定の先にある「見取り図」のようなものの話だった。インタビューの最中に立ち上がり、おもむろにホワイトボードに向かいながら、縦軸に地理的な展開、そして横軸には顧客への提供価値の展開のイメージ図を描く。
そして、この2軸で見える世界に対して、
・現状はどこを押さえようとしているのか?
・次はいつまでにどこを目指すのか?
・最終的にはいつまでにどこを目指すのか?
ということを説明された。図は決して精緻なものではない。単なるマトリクスと言えばそれまでだが、非常にシンプルであると同時に、戦略の手順、そしていくべき方向性が一目で分かる力強いものであった。
この図の意味合いは何だろうか?それは、おそらくこのような目指すべき方向をビジュアル化することにより、やっていることの整合性を取り、それぞれの施策の意味合いを社員のみならず社長本人も再確認しているのだろう。
このビジュアルイメージは、日本交通のように細かな意思決定を繰り返していく企業には間違いなく不可欠なものであると川鍋社長の話を聞きながら思った。なぜならば、個々に筋の良い施策があったとしても、全体から見ると統一感の取れていない場当たり的な施策群になってしまいかねないからであり、またスピードを意識するがゆえに過度な短期視点に陥りかねないからだ。
「ちょっと先の世界を意識しながら、今を全力で駆け抜ける」というのは、成長している企業に共通する空気だ。その空気を作るために、この何気ないビジュアルイメージは一つの役割を果たしていると私は思った。
そして、おそらくこのビジュアルイメージ自体も、かなりのスピード感で書き換えられるのだろう。現場とのやり取りを通じてフィードバックループを繰り返していくスタイルを伝えてきた。次に川鍋社長に会う時には、このイメージがどのように変化しているのか、とても楽しみである。
さて、川鍋社長のインタビューから読み取れる「バリュー・クリエイター」としての4つの行動原理を見てきたが、改めてこれに照らし合わせて自社を振り返ってみて欲しい。
セオリーを甘く見すぎて疎かにしていることはないだろうか?もしくは過度に依存していないだろうか。
目に見にくい「感情」ということに対するバランス感は欠いていないだろうか?
意思決定者は、常に現場と質の高いコミュニケーションが出来ているだろうか?
そして、施策の全体像を統合したビジュアルイメージはあるだろうか?それが共有されているだろうか?
一つ一つの原則はもしかしたら難しいことではないかも知れない。いずれもどこかで語られているであり、目新しいことでもない。しかし、この4つをすべて同時に実践し続ける、ということは意外に難しい。
そして、これを「オールドインダストリー」と言われているタクシー業界において、歴史の長い企業が実践していることに我々は着目すべきである。もし業界や企業体質が古いことを嘆くのであれば、その前に我々にできることはまだまだあるだろう。そんな勇気を与えてくれるインタビューであった。