環境と自己、どちらに力点を置くか
先日、いまだ就職先が決まっていない大学4年生たちに会う機会があった。ネットで求人情報を探し回る日々なのだが、新案件はほとんど出てこず、宙ぶらりんの状態が続いているという。
私は彼らに対し、おおいに励ましもし、具体的なアドバイスもするのだが、最終的には「自分自身が力を湧かせて勝ち取るしかないんだよ」と言うほかない。だが彼らの心には「不景気・就職氷河期という大きな社会情勢の中にあって、一個人は非力すぎる、どうしようもない」——そんな気持ちが充満しているだろう。だからといって、そのことで大人はいたずらに同情するだけではいけない。彼らが真に必要なのは、事を切り拓くように促す激励や助言であって、同情ではない。
もちろん、社会として就職支援の制度を補強することも、景気全体をよくすることも必要だ。しかし、マスメディアはそうした外部環境要因を部分的に取り上げ、センチメンタルなトーンで学生たちをある種の悲劇の主人公に仕立てる内容も少なくない。すると学生の中には、「そうだ就職できないのは景気のせいなんだ」「こんなタイミングに生まれ合わせた自分が不幸なのだ」「企業は非情だ。社会は何もしてくれない」などといった勘違いの言い訳や被害者意識が蔓延してくる。
この蔓延を放置してはいけない。私たちは厳父(肝っ玉母ちゃんでもいいのだが)の心で、外部環境がどうあれ、国に期待していいのは最低限の支援やセーフティネットであって、人生やキャリアそのものの本幹をつくっていくのは、あくまで自分自身の意志と力なのだと勇気づけていくことが求められる。職を得るというのは、「自立」の根幹に関わる問題である。この一線が死守されなければ、個人も国も立ち行かなくなる。
それにしても、自分を取り巻く環境の力がいやおうもなく大きなものと感じられ、自分の努力の範囲で変えられることなど些細なものだという気持ちに陥るときは就職学生に限らず、一般の私たち一人ひとりにも日頃よくあることだ。勤めている組織が大きければ大きいほど、社会が複雑になればなるほど、経済システムがグローバル規模に広がれば広がるほど、自分の人生が不遇であればあるほど、環境や運命に対する投げやり感・無力感は心の内に根を広げる。きょうの本題は、そんな自分と環境・運命の関係である。
自分と環境・運命は「因果の環」にある
私たちは経験で、「自分が変われば環境・運命が変わる」ことを知っているし、また、「環境・運命が変わることで自分が変わる」ことも知っている。つまり、自分の意志や行動は、環境や運命に影響を与える。そして同時に、環境や運命は自分にも影響を与えてくる。それを簡単に示したのが下図だ。
私たちは経験で、「自分が変われば環境・運命が変わる」ことを知っているし、また、「環境・運命が変わることで自分が変わる」ことも知っている。つまり、自分の意志や行動は、環境や運命に影響を与える。そして同時に、環境や運命は自分にも影響を与えてくる。それを簡単に示したのが下図だ。
「能動・主体の人」は、自分の過去がどうあれ、自分をどう活かすも、また未来をどうつくるも、すべてその出発点は「いま・ここの自分」にあると考える。その意識を見事に表したのが、米プロ野球メジャーリーガー松井秀喜選手を育てた星陵高校野球部の部室に貼ってあるという指導書きである(山下智茂監督の言葉)。
「心が変われば行動が変わる。行動が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」。
これをイメージ化したのが下図である。
この図は、自分を取り巻く環境や外界で起きるさまざまな出来事、そして降りかかる運命は、「いま・ここの自分」の一念と地続きであることを示している。確かに振り返ってみればわかるとおり、現時点での自分の環境や運命は、決して偶然そうなったわけではない。これまでの過去において、意図するしないにかかわらず、自分が何らかの選択や行動をしてきた蓄積結果として現れているものだ。私たちは、実は、瞬間瞬間に選択を重ねてきた。「いや、特段心を決めて選択したわけでもない」と言う人もいるかもしれないが、それは「心を決めずに事をやり過ごす」という選択をしたのだ。
1人1人の思考と行動がこの世界をつくっている
働いていくこと、生きていくことは、どのみちしんどいものだ。しかし、人はそのしんどさの質を選ぶことができる。「受動・反応的」に日々を送り過ごすことは、ある意味、ラクではあるが、環境に振り回されるしんどさを味わう上に、自分の行き先がどんどん流されていくという不安も背負い込む。他方、「能動・主体的」に働きかけていくことは、行動を仕掛けるしんどさはあるが、自分の方向がどんどん見えてくる面白さがある。
どのみちしんどいのであれば、あなたはどちらを選びますか?その問いはすなわち、「いま・ここの自分」をどう変えていきますか、ということにほかならない。すべての人にとって、「いま・ここの自分」は、その瞬間以降の人生の大きな分岐点であり、出発点となる。常に一瞬一瞬を「能動・主体的」に生きる人は、最終的に自分の想う方向にひらいていくことができ、生涯を通じて若い。
さて、話をもう少し広げていく。私たちは21世紀に入り、ますます、一個人として制御のきかない社会に生きている感覚を強くしている。
しかし、そんな中だからこそ、「自分が変われば、環境が変わる」———これは信ずるに値する原理だ。つまり、自分が変われば家族が変わる、自分が変われば会社・組織が変わる、自分が変われば地域・国・国際社会が変わる、自分が変われば自然・地球が変わる、という原理だ。
この世界は、私たち一人ひとりの絶え間ない思考・言動の連続・集積体である。英国の哲学者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1947年)の考え方を借りれば、この世界は「関係性の森」である(仏教思想はこれを「縁起」と説いてきた)。私たち1人1人のどんな瞬間的な、どんな些細な思考や言動もことごとくこの「関係性の森」に通じ、この森に影響を与え、この森をつくっている。
ホワイトヘッドは『観念の冒険』の中でこう言い表す——「われわれは、どんな分子で身体が終わり、外の世界がはじまるのか、いうことはできない。脳髄は身体と連続しており、身体は自然の世界のほかの部分と連続しているというのが真理なのだ」(参考文献:中村昇著『ホワイトヘッドの哲学』講談社)。
この複雑な「関係性の森」の内では、無数の「こと」が相互に反応し合い、新しい「こと」が生起し、その森自体の性質やら形やらを決めていく。このとき、森の住人である私たち1人1人にとって重要なのは、この森を楽観・意志に満ちたみずみずしい森にするのか、それとも、悲観・感情が覆いかぶさる茫漠とした荒れ地にするのか、だ。
個人が、家族が、会社が、地域が、国が、世界がよりよくなっていくための答えは自明である。マハトマ・ガンジーは次のように言った(そして事実そう行動した)。
“You must be the change you wish to see in the world.”
(この世の中に望む変化があるなら、あなた自身がその変化にならねばならない)
また寓話だが、ハチドリのクリキンディはこうした。
——森が燃えていました
森の生きものたちは われ先にと 逃げて いきました
でもクリキンディという名の ハチドリだけは いったりきたり
くちばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは 火の上に落としていきます
動物たちがそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」 といって笑います
クリキンディは こう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」 ———
(南米アンデスの先住民の話:出典『ハチドリのひとしずく』辻信一監修・光文社)
環境(家族、会社・組織、地域、国、国際社会)はどのみち変化していく。そのとき、一人ひとり人が「能動・主体の人」となり環境に働きかけをしていくなら、環境は楽観と意志の方向に動いていく。決して一筋縄ではないが。逆に、一人ひとりが「受動・反応の人」となり環境を傍観・放置すれば、環境は悲観と感情の方向に漂流を始める。その結果は歴史の教えるところである。
私たち一人ひとりは、一生活人、一働き人、一家族人、一国民、一地球人として生きる。「環境が〜だから、自分は〜できない」と思うのではなく、「自分が〜すれば、環境は〜に変わっていくだろう」と構えることで、生活や職場、家庭、国、この地球はずいぶんとよい場所になるに違いない。