5合目で満足したAさん・頂上まで登ろうとしたBさん
山は、登る者にさまざまな楽しみを与えてくれる。たとえ山頂まで登りきらずとも、途中途中で十分に自然を満喫させてくれる。いまAさんは、5合目まで登ってきた。そこには視界の開けた場所があり、ふもとの村も見渡せる。心地よい風も通る。Aさんは木陰に腰を下ろし、「ここまでの景色でもう満足」と弁当を広げはじめた。満腹になったAさんはもう下山のことしか頭にない。
一方、Bさんは、高い位置に登れば登るほど視点が変わって、もっと景色を楽しめることを知っている。だから5合目で休憩をとった後、登山を続ける。しばらく上がっていく間に、急に天候が悪化してきた。霧が周囲を覆い、景色などさっぱり見えなくなった。Bさんにとってその山は初めてだったので、6合目まできたのか、7合目まできたのか感覚的にもさっぱりわからなかった。雨も降り出し、やむなく下山することに。
ふもとの村に下りると、Aさんが温泉に浸かり、すっかりくつろいでいた。「いやぁ、こんな天気になってしまい残念でしたねぇ」−−−まったく悪気なく声を掛けてくるAさんに、Bさんは、「いやー、お天道様ばっかりは恨むわけにもいきませんから…」と答えるのが精一杯だった。
…さて、ここでは「幸福感」ということを考えたいのだが、冒頭の話において、はたしてAさんのほうが幸福なのだろうか、それともBさんのほうが幸福なのだろうか?
Aさんは5合目までを望み、5合目の景色を楽しんだ。だから、Aさんの望みの満たされ度は10割だ。一方、Bさんは頂上(10合目)を望み、5合目以上の景色は楽しめなかった。その意味では、満たされ度5割である。そのうえ悪天候でズブ濡れになって体力は消耗するわ、危険にもさらされるわ、というネガティブなおまけ付き。
単純に、望みがどれだけ満たされたかという指数でみるかぎり、満たされ度10割のAさんはより幸福であり、満たされ度5割のBさんはより幸福でない、といえる。
もちろん、もし、この日ずっと天候がよかったなら、Bさんは頂上まで登り、満たされ度10割となって、Aさんより幸福になれたかもしれない。しかし、それはあくまで「タラ・レバ」の話。登山は常に、一歩一歩上ろうとするたびに、体力消費と諸々のリスクが増えることを覚悟しなければならない。
「いっそ頑張らない方がシアワセなのか?」
この問題は言ってみれば、「low aimer」(=低い目標設定者)の満足と、「high aimer」(=高い目標設定者)の不満足と、どちらが幸福なのか、そしてまた、あなたはどちらの生き方を選ぶか、という問いだ。
この問いは、J・S・ミルが投げかけたあの有名な言葉。 「満足した豚よりも不満足な人間、満足した愚か者よりも不満足なソクラテスであるべきだ」を思い出させる。
私たちは組織で働いていると、しばしば次のような法則を目にする。それは——「仕事ができる人ほど仕事は集中する」。仕事ができてしまう人は、仕事量の増加とともに、目標も常に上へ上へと移動している。だから、常に目標と現実の自分とのレベルギャップにプレッシャーやストレスが付いて回る。そしてカラダを壊すことも、ときに起こる。
自分が“仕事ができる組”に入ってしまうと、「仕事を叱られないレベルでやり過ごし、無難に雇われ続けている人間はいいなー」と思えてくる。いっそ自分に能力とか、向上意欲とか、責任感とか、野心とかがなく、“仕事をそこそこやり過ごし組”になれたらなー、むしろシアワセなのになーと思う。そのように不満足な「high aimer」は、満足した「low aimer」をみて、ときどきうらやましくなる。
その一方、満足した「low aimer」は、不満足な「high aimer」を見て、何をあんなにしゃかりきに頑張ってばかりいるんだろ、といった不思議な面持ちで彼らを眺める。
余談だが、あの働き者生物の代名詞である蟻(アリ)の世界にも、「怠け蟻」というのがいて、集団の何割かは働かない蟻が占めるそうだ。
さて、幸福感は実に多面的で語ることが難しいのだが、ここで私の考えたことを5つにまとめる。
1:リスクを負った努力は中長期できちんと報われる
人生は1回限りの勝負ではない。長い間の勝負の連続である。プロ野球なら1試合は9イニングあり、年間では144試合ある。相撲なら1場所15番あり、年間では6場所ある。人生やキャリアは、もっともっと長く多くの勝負の積み重なりで形成されてゆく。
Bさんはその日たまたま頂上に行けなかった(=負けた)。確かにその1回の勝負は負けだったかもしれない。しかし、たぶんBさんは翌日か、次の機会かもしれないが、その山の頂上に必ず立つだろう。Bさんはそうやって自分なりに勝ちを積み重ねる人だ。そういう“心の習慣”を持った人は、中長期的にきちんと幸福を得る。どういった幸福かといえば、自らの成長を楽しみ、多少の障害などにへこたれない強い心身を持つ、という幸福だ。
「high aimer」というのは、high aimであるがゆえに不満足に陥るのが宿命である。しかし、「高いところに矢印を向けている」その心の習慣こそが、最終的には人生の高台に自らを導くことになる(と私は信じたい)。
2:意味が満たされていれば幸福である
Aさんの満たされ度は10割。Bさんの満たされ度は5割———だからAさんのほうが相対的に幸福ではないか、さきほどはそう考えた。しかし、この「満たされ度」は、目標に対し何合目までが達成されたかという物理的な尺度である。
だがここで尺度を変えて、意味的な満たされ度を考えるとどうだろう。Bさんは登山に対し登頂を目指すことに一番の意味を感じている。だから、それを決行した。たまたま悪天候で途中下山したが悔いはない。自分の見出した意味に対して10割の行動をとったBさんは、決して不幸ではないし、不機嫌になる必要もないのだ。
……さはさりとて、現実問題、人間というものは目に見えるもので満たされないと、ついつい幸福感は縮んでしまう悲しい性(さが)を負っている。ふもとに下り、リスクを負わなかった人間(=Aさん)がゆったりと温泉に浸かっている姿を見たBさんが、不機嫌になったのも無理はない。
3:知足者富(足るを知る者は富んでいる)
さて今度は、栗拾いに行ったPさんとQさんの話をしよう。2人は1時間ほど山の中にいて栗拾いをし、Pさんは20個ほど採れたのでこれで十分だと思い、山から引き上げてきた。一方、Qさんは、タダなんだからもっともっとということで、さらに1時間拾い回り、結局50個集めてきた。「日が暮れなきゃ、もっと採れたのに」と悔しそうだ。
さて、この話において、Pさんは「low aimer」の満足で、Qさんは「high aimer」の不満足ということになるだろうか?
いや違う。これは言ってみれば、 「modest wanter」(控えめな欲求者)の満足と「more wanter」(もっともっとの欲求者)の不満足 ととらえたほうがよさそうだ(*なお、“aimer”や“wanter”はここだけの造語で正式な英単語ではない)。そう、2人の「欲求の容れ物」の違いの話だ。
「modest wanter」が持つのは、ceramic pot(陶器)である。手で持てる大きさでしっかりと出来ていて、ときに器に満たしたものを他人に注いで分けてやることもできる。
一方、「more wanter」が持つのは、balloon bag(ゴム風船の袋)である。詰めても詰めてもどんどん膨らんでいくので満ちることをしらない。また、ところどころにすぐ穴が開いて中身が漏れ出すので、いつもそのことを神経質にみていなくてはならない。
「high aimer」の不満足——これは一種、健全なものだ。では、「more wanter」の不満足——これは「欲張り」という一種の悪癖といっていいかもしれない。
そこで例題——「現年収400万円じゃやってられないよ。20代のうちに2000万円稼ぐ仕事に就いてみせる!」という人間がいたら、彼(彼女)は、「high aimer」の不満足なのだろうか?それとも「more wanter」の不満足なのだろうか?
4:「low aimer」とは誰のことだ!?
冒頭の山登りの例では、一応、Aさんを「low aimer」、Bさんを「high aimer」とした。だが、このとき私たちは、「5合目までで満足」としたAさんを意気地のない「low aimer」として揶揄できるだろうか?
high/lowは相対的なものである。Bさんが「high aimer」であるのは、あくまでAさんとの比較においてだ。では、エベレスト級の山にチャレンジする登山家から比べれば、Bさんはどうなのだろう。そうなればBさんだって「low aimer」なのだ。職場で向上意欲をもって頑張っている人でも、壮絶な生の戦いをした歴史上の偉人から比べれば、やはり「low aimer」なのだ。
だから、私たちはAさんを一概に揶揄できないし、見下してもいけない。それどころか、Aさんは5合目からの帰り道で、道端に咲く一輪の花をじっと深く観ていたかもしれないのだ。山の喜びは、何も登頂だけにあるとは限らない。むしろ登頂ばかりを目指して、足元にある自然からの感動をすっ飛ばしているなら、それこそBさんは不幸人である。
楽観主義でいこう!(能天気ではなく)
で、本記事の結論———Aさんがいいとか、Bさんがいいとか、そんな小難しいことを考えず能天気にいこう!能天気人はいつもの世も幸福だ。
…そう言いたいところだが、ひとつ訂正したほうがよいと思う。それは「能天気」を「楽観主義」に変えること。
能天気と楽観主義とでは含んでいることがまったく違う。フランスの哲学者アランが「楽観は意志に属する」と言ったとおり、楽観主義には物事をプラス思考で期待的に見ていきながら、どこかに「最終的にはこうするぞ」という意志がある。そのおおらかな意志があるからこそ、どんな状況にも強くいられる。
ところが、能天気というものは、意志のない気楽さである。根拠のない安逸といってもよい。だから最終的には自分に無責任な態度である。周囲の人に迷惑をかけることもしばしば起こる。
「どんなに豊饒で肥沃な土地でも、
遊ばせておくとそこにいろんな種類の無益な雑草が繁茂する。
精神は何か自分を束縛するものに没頭させられないと、あっちこっちと、
茫漠たる想像の野原にだらしなく迷ってしまう。
確固たる目的をもたない精神は自分を失う」。
———モンテーニュ『エセー』
能天気はその場は明るくやり過ごせるかもしれないが、モンテーニュの言うとおり、確固たる目的(=意志)を持たないがゆえに、最終的にはだらしなく野原をさまよい、そして自分を失うことにつながりかねない。だから能天気ではなく、楽観主義がいいのだ。
楽観主義には意志がある。その意志は、aim(目標)を生む。そのaimはhighでもlowでもなく、自分なりのaimだ。その意志は、そのaimに意味を与える。その意志は、際限なく膨らむゴム風船にモノを詰め込む欲求ではなく、自分の想いを形にした器をこしらえようとする作陶意欲である。こしらえた器に満ちるものを他に分けてあげることも、また意志のうちのひとつである。
「自分は職業人として、どんな器をつくり、あるいは自分自身がどんな器であり、どれだけのものを人に注いでいるか」———こんなことを考えてみると、ちょっとどきっとする。