「ありがとう」の効用
世の中に多種多様にある仕事を次のように分けてみよう。例えば、
「“ありがとう”を言われる仕事」
「“ありがとう”が全く耳に入ってこない仕事」
さて、みなさんの仕事はどちらに分類されるだろうか。私が独立自営を始めて最もよかったことは何かと言えば、それは(かっこつけでも何でもなく)仕事で“ありがとう”を言われるようになったことだ。ありがとうを言われると、働く上でどんな心理変化が起きてくるか。
(1)
そんなに喜んでもらえるなら、もっとこうしてあげよう、あれをやってあげようとなる。だから、(無料という意味での)サービス仕事・ボランティア仕事がついつい増える。しかし、心は晴れ晴れしてやっている。(サラリーマンの間で問題となっているサービス残業とは全く異なる類のものだ)
(2)
へこたれなくなる。いまだ収益基盤のか細いビジネスで、不安定にふらつきながらやっているが、お客様の「ありがとう。また来年もよろしくお願いします」の声が聞こえてくるので、少なくとも、もう1年踏ん張ろう、さらにもう1年踏ん張ろうと、進んでいける。(悲壮感に陥らないところがいい)
(3)
仕事で目指そうとする「想い」がより大きくなる。ありがとうを言っていただいたお客様やありがたいと感じてくださった共感者の方々が、「もっとこうしたらいいんじゃない」とか「こういう形もあるんじゃないかしら」とアイデアをくれたり、手伝ってくれたりする。
酒を酌み交わしながら「想い」を共有してくれもする。すると、自分一人で抱いていた想いが、いつしか複数の想いとなり、その内容もどんどん膨らんでいく。
このように、仕事で「ありがとう」を言われることの影響はとても大きい。心が晴れ晴れする、強くなる、想いが膨らんでくる———いいことづくめだ。ここで私なりのひとつの結論を言えば、ありがとうを言われ続ける環境にあると、人は、働く動機を「利他動機」にシフトさせる。そして志(想い)が膨らむ回路に入る。さらに、その志がいろいろな人たちによって共有されるとき、もっと大きな力になる。
ちなみにその逆もまた真なり。
ありがとうを言われない環境にあると、人は働く動機を「利己主義」にシフトさせる。
そして我欲(閉じた執着心)にとらわれる回路に入る。さらに、そんな我欲にとらわれた人たちが世に多くなりすぎると、大きな災いが起こる。
若いうちに感謝される経験を積む
特に若い世代に、「ありがとう」を言われる仕事体験を一度でも、そしてできればどんどんさせるということだ。伊藤忠商事の丹羽宇一郎会長は、日本に「徴農制」を施してはどうかと提起されている。社会に出る前の若者を国費で一定期間、兵役ではなく、農業につかせるというものだ(大いに賛同!)。
私がそれにあやかって発想するなら、「徴ボランティア制」がいいと思っている(国からの命令による義務役なので、もはや“ボランティア”とは言えないが)。名称はともかく、ある期間、国民のお務めとして、社会慈善事業(国内外への派遣)に参加するのである。国家の徴集制ではなくて、学校・大学の必須授業として組み込んでしまう手もある。
私は、以前いた会社で、就職活動前の大学生をネットワークし、「二十歳の社会勉強」プロジェクトと称して、彼らにいろいろな社会的活動を通して「働くこととは何か?」「職業選択とは何か?」を考えさせた。
沖縄の離島に大学生を数十人連れて行って、小学校で出前授業をやったり、町の商店街に出かけていって活性化策を取材したり、豪雪地方の村に行って雪下ろしを手伝ったりした。
そこで言われた“ありがとう”は、彼らにとって何よりの報酬であっただろうし、またそれが啓発材料となっていろいろなことを考えただろうと思う。そして(あのプロジェクトから10年ほど経つが)今でもあのときの経験は、参加者の一人一人に、
・今の自分の仕事の在り方は現状のままでいいのだろうか
・今の自分のキャリアの流れには、志のようなもの(想いやビジョン)があるのだろうか
・今の自分の存在は、どれだけ社会の役に立っているのだろうか、今の自分の会社のビジネスは、どれだけ社会にプラスの貢献をしているのだろうか
などといった自問をチラチラと投げかけて続けているにちがいない。
人生の早い段階で社会貢献的な仕事をして、そこでありがとうを言われる原体験は、個々の人の中に「志」の形成意欲の種を確実に植える。その種が植え付けられるかどうかは、彼(女)の人生・キャリアにとって決定的な出来事になるだろう。
本記事のメインテーマである「志力格差」に話を戻すと、「志力」(=想う力・志す力)の格差をなくすためにひとつ重要なことは、「社会的起業マインド」の醸成である。
利潤追求だけでは社会は立ちいかない
ここでいう「社会的起業マインド」は三つの観点を含んでいる。
(1)社会的:
一人間、一世界市民の立場から「共通善(common good)」を志向し
(2)起業:
どんな小さな仕事・事業でも、何か自分で考えてつくり出そうとする
(3)マインド:
意識・心持ち
一個の自律したプロであるためには、働く先が、企業(株式会社)であろうと、NPOであろうと、役所であろうと、この「社会的起業マインド」は、欠くべからず素養であると思う。私たちは、特に、いったん企業に就職してしまうと、事業の第一目的は「利益の追求」であるように頭が染まってしまう。
「利益が出なければ会社は存続できないし、自分の給料だって出ない」「会社の事業が社会・顧客に受け入れられているかは、獲得する利益によって代弁される」「利益の最大化を狙って各社競い合うからイノベーションが起こり、文明は発達する」「利潤追求を排除した共産・社会主義国家の末路は誰もが知っている通りだ」
こうした利益追求を肯定する思考に、誰も否定はできない。利益は大事。だが、しかし、事業の目的ではない。ちなみに、ピーター・ドラッカーは、「利益は目的ではなく、企業が存続するための条件である」「組織は存続が目的ではなく、社会に対して貢献することが目的である」という内容のことを言っている。
確かにたくさんの雇用を保持している企業は簡単につぶれてはいけない。しかし、企業が自らの存続のために、利益を目的にすればするほど、社員はその利益の数値目標に呪縛されて働くことになる。すると社員の関心事は、ますます年収の「多い/少ない」に移っていく。(これだけきついプレッシャーに耐えて目標をクリアしたんだから、その利益の分け前を給料としてきちんともらわないとやってられない、といった心理になる)
社会をあげてこの回路を際限なく増幅させてはいけない。そのためにも個々の働き手の中に「社会的起業マインド」を醸成する必要がある。私が行う「社会的起業マインド」を涵養するプログラムでは、例えば『未来を変える80人−僕らが出会った社会起業家−』(日経BP社)のような本をテキストにしている。そこには社会的起業の具体事例と、起業者の生き生きとした動機が紹介されている。
受講者たちは、それら事例や動機を知るだけで、相当にインスパイアというかショックを受ける。
志は誰もが育める
「あ、そうか、こういうビジネス発想もありなんだ」
「自己実現欲求が社会貢献と結び付くとはこういうことか」
「公共善サービスが、公営や非営利でなくてもビジネスとして回ることが可能なんだな」
「自分の欲する生き方と仕事が重ねられるなんてウラヤマシイ!」
書籍でいえば、『ムハマド・ユヌス自伝−貧困なき世界をめざす銀行家−』(早川書房)も恰好の教材になる。ムハマド・ユヌス氏は2006年の「ノーベル平和賞」受賞者である。マイクロクレジットという手法でグラミン銀行を創業し、バングラデシュの貧困層の人びとの生活を劇的に向上させた。
彼は、何も金儲けがやりたくて銀行家になったわけではない。貧困にあえぐ人びとを救える方法を考えて考えた結果、たまたまマイクロクレジットという手段に出会ったのだ、ということを自伝に書いている。
この自伝を読むと、「想い」、もっと正確に言えば「社会的使命を自覚した想い」がいかに自分の仕事をつくり出し、事業を興し、スケールの大きなキャリア・人生を形づくっていく源泉になるかがわかる。
「志力」(想う力・志す力)が弱りつつあるニッポンの若者・働き手たちには、こうしたロールモデルを多く見せることが必要なのだ。彼らはいまだ感受性が衰えたわけではない。
だから、よい見本刺激を与えれば、内面からきちんと火が点くようになっている(人間とはそういうものだ、そう信じたい)。
「社会的起業マインド」は社会のために意味のある仕事をしたい・事業をつくり出したい、そしてそれは事業として回していけるものだ、の言い換えだが、このマインドを醸成することは、教育が担うべき大きな役割といえる。教育(啓育)は、何も学校・教育者だけがやるものではない。親という立場から、家族という立場から、先輩という立場から、
上司・経営者という立場から、万人がやるものである。
そうした意味で、大人世代の人びとが(そして法人としての企業の一社一社が)、「一人間・一世界市民の立場から共通善を志向しどんな小さな仕事・事業でも、何か自分で考えてつくり出そうとする意識」を持って一人一人の働き様・生き様として体現していくことが何よりの後進世代への教育(啓育)となる。
志力の強い者と弱い者の格差が広がる社会で、憂慮すべきは、強と弱の格差というより、
志力を弱めている人間のほうがもはや多数派となり、最弱のレベルがさらに落ち込んでいくことだ(志力が強い人間は放っておいて大丈夫。強い分にはどんどん強くなればいい)。
ありがとうを言われる原体験を持たない少年少女たちが大人になってもありがとうを言われない仕事に就いていては、志など湧くはずがない。そして、「社会的起業マインド」の涵養刺激をどこからも受けなければ、彼(彼女)の中で、職業・仕事はますます、せせこましい“労役”に成り下がってしまうだろう。
最後に一つ、ノーマン・カズンズ(米・ジャーナリスト、作家)の言葉を紹介する。
「すべての人が金持ちになる幸運に恵まれるとは限らない。しかし言葉については、誰しも貧乏人になる要はないし、誰しも力のこもった、美しい言葉を使うという名声を奪われる要はない」。———『人間の選択−自伝的覚え書き』(角川書店)
この表現を拝借させていただくとすれば、私はこう言いたい。
「すべての人が金持ちになる幸運に恵まれるとは限らない。しかし志・夢については、誰しも貧乏人になる要はないし、誰しも気高き志・夢を描き、それを実現させるという名声を奪われる要はない」と。