前回に引き続き、株式公開により資金を調達、世界にその影響力を広げていくロバート・モンダヴィ社の姿を追っていきましょう(以下、ロバート・モンダヴィと称する場合は、すべて法人を意味します)。モンダヴィは、1990年代後半、フランスへの進出を計画します。場所は南フランスにあるラングドック地方。ローマ時代に、地中海沿岸の一大ワイン産地として、ナルボンヌ市を中心に名を馳せた土地です。
いよいよセパージュ主義の覇者ロバート・モンダヴィがテロワール主義の発祥の地といっても良いフランスに進出したのです。第15回でご紹介した「パリの試飲会」といったある一日の偶然の出来事といったものではなく、事業を通して両主義者が衝突します。この衝突は、最終的にセパージュ主義側の挫折に終わりますが、その経緯をご紹介しつつ、挫折の根本要因を洞察してみたいと思います。
衝突の舞台:ラングドック地方
まずはこのラングドック地方の歴史を振り返ってみます。
14世紀。イギリス王により「ワイン取締法」が制定され、「ボルドー地方」に、イギリスとのさまざまなワイン商取引に関する独占的な特権が与えられました。これにより、ボルドーはワイン生産地および商業地として多いに繁栄しますが、1776年、ルイ16世の財務総監でありかつ政治家、経済学者であったアン・ロバート・ジャック・チュルゴーによってこの特権が廃止されます。
「ボルドー特権」の廃止によって、ラングドック地方のワインが注目を集めることになります。ラングドック地方は、ボルドーを流れるジロンド河上流から渓谷を抜けた先に広がる地域で、当時の高級官僚や実業家によって、セートやベジエという街で作られたワインが高く評価されました。こうしたワインは米国にも輸出されたそうです。
米国の「独立宣言」を起草し、1801年に第三代アメリカ合衆国大統領に就任したトーマス・ジェファーソンは1784年から1789年まで駐仏米大使としてフランスに滞在していました。数多くのワインをトーマス・ジェファーソンが購入したという記録や領収書が残っており、大量のボルドーワインをパリの米国大使館経由で本国に送らせていたようです。また、大統領に当選した際には、ラングドック地方のフロンティニアンやサン・ジョルジュ・ドルクのワインを送り届けさせたという記録もあるようです。
ラングドック地方のワインはこれほど舌のこえた消費者から高く評価されていたわけですが、19世紀に鉄道が急速に発展すると、その位置づけが変わってきます。大企業と肉体労働者が集積するパリやフランスの北部地方に鉄道で大量にワインを輸送できるようになったのです。これがきっかけとなって、それまで栽培されていたブドウ品種とは異なる、大量栽培に向いたカリニャン種やアラモン種が栽培されるようになりました。以前にも書きましたが、同一面積の畑からより多く収穫しようとすると、ブドウの質が低下していく傾向があるのですが、ラングドック地方はより商業を重視した「ワインの巨大工場」となっていくのです。
ラングドック地方のワインには、安価で大衆向けの「渇きを潤す」テーブル・ワインというイメージがつき、20世紀になってもグローバル市場からはあまり注目されない地産地消型のワイン生産地となっていきました。そして、フランスで原産地統制呼称(AOC:Appellationd'OrigineContr_l_e)の法律が制定されたのが1935年、ちょうどこの地方がすっかり安価な大衆向けワイン産地として定着してしまっている時期でした。
AOCの法律で指定されているラングドック地方のブドウ品種は、その時期に中心的に使用されていたグルナッシュ、カリニャン、アラモンといった品種。国際的に栽培されているカベルネ・ソーヴィニョンやメルローのような品種ではありません。
しかし1980年代に入って、土地の潜在力を見事に開花させた人物がいます。エメ・ギベール氏です。第13回のコラムの冒頭の言葉を思い出して下さい。「ワインの質を決定するのは?」という問いに対して、「土、それに気候だ」と答えたテロワール主義者です。
衝突劇の主役:エメ・ギベール氏
ギベールは、ラングドック地方のアニアーヌ村にあるドマ・ガザックというワイナリーの造り手です。もともと皮革産業に従事していましたが、1985年にフランス政府が、航空機産業政策に関する契約交渉を有利に進めるために、皮革産業を韓国に対して開放したのです。その結果、1年間に10万人が失業、その一人がエメ・ギベール氏でした。
ギベールは、失業後もその地方を離れず、ワイン造りを始めました。彼が選んだブドウ品種は、カベルネ・ソーヴィニョン。先ほど述べたように、ラングドック地方でワイン生産を行なうにあたって、AOCを名乗ることができないブドウ品種です。AOCの枠組みにしたがってワイン生産をすることが高級ワインを生産している証になるのですが、ギベールは、あえてカベルネ・ソーヴィニョンを選んだのです。しかも、勘に頼るだけでなく、ボルドー大学のエミール・ペイノー教授を招いて科学的な知見を取り入れながら、まさにセパージュ主義的なワイン造りを目指したように見えます。では、本当にセパージュ主義を志向したのでしょうか。
手元の資料では参考になるものは余りありません。オリビス・トレス氏の著書『ワイン・ウォーズ:モンダヴィ事件』(関西大学出版部)によると、「AOCという制度の適用を外れる代わりに、自由にワイン生産を行なう道を選んだ」という趣旨のことを述べているようです。
私の勝手な想像ですが、皮革産業における失業の経験から、国家の制度に頼って事業を行なうことを避けたかったのではないかと思います。国家というものは、必ずしも全ての産業を保護するわけではないということを、実感していたことでしょう。そのために、自身で事業を切り拓いていけるやり方を選択したかったのではないでしょうか。
ギベールは、AOCの適用を外れたカベルネ・ソーヴィニョンという国際的な品種を使いましたが、彼が残した発言を総合的に解釈すると決してセパージュ主義ではありません。国の制度に頼らず自身でブランドを作っていくという立場に身を置いたとき、国際的に通用しているカベルネ・ソーヴィニョンを選択するという賢明な判断をしつつ、自身が住み慣れた地方で、その土地の潜在力を最大限に活かすことをより重視したテロワール主義的なワイン造りを目指したのではないかと思われます。本人に会うことがあったら、質問してみたいポイントです。
こうして、彼は1978年に初ビンテージを出します。ペイノー教授は成功だと評価したのですが、本人は出来栄えに納得がいかなかったようです。ところがある日、ドマ・ガザックを訪れたイギリスのレストランオーナーが、10分間ほどテイスティングをした後、「お好きな値段をつけてもらってよいので、あるだけのものをすべて売ってください」と3000本を注文したのです。このイギリス人の名は、ディヴィット・ギルモア。レストラン事業以外に、ワイン販売店、カフェやレストランにワインを卸す販売会社を所有する人物でした。
こうして、エメ・ギベールのワインは広く認知されるようになり、高品質ワイン造りの事業に成功すると、この地域でも、徐々に質の高いワイン造りへの気運が高まります。
モンダヴィの南仏アニアーヌ村進出その1:戦略的意味合い
ではなぜ、ロバート・モンダヴィはこの、ラングドック地方を選んだのでしょうか。
セパージュ主義によるワイン造りは、「優れた品種があれば優れたワインが作れる」という信仰のもと土地を前提条件とはせず、その品種に適切と思われる世界中の土地を対象とします。上場企業であるロバート・モンダヴィが資本市場から課される「成長」という前提と、セパージュ主義という概念が組み合わさると、その事業戦略オプションは、ジョイント・ベンチャーのパートナーを探すか、自身で土地を見つけてワイン造りをはじめるかに絞られてきます。
新たな土地を見つけてワイン造りをする戦略オプションをとる場合は、まだワイン生産地として未開拓な場所でワイン造りを始めるか、既にワイン生産地となっている場所に進出するかのどちらかになってきます。ラングドック地方への進出は、ある意味この折衷案で、ワイン生産地として長い歴史があり、高品質ワイン生産の高い潜在力を持つラングドックのなかで、まだ使用されていない土地を開拓しようとしたのです。
ラングドック地方はまさに絶好の土地でした。先にも述べたとおり、ラングドックのワインは安価な大衆ワインというイメージが定着してしまいましたが、数千年のこの地方でのワイン造りの歴史を振り返れば、その潜在力は明らかです。また、エメ・ギベール氏のように、その土地の潜在力を最大限発揮する人は徐々に増えつつありました。
AOCの縛りが脆弱な土地であったこともラングドックを選んだ理由の一つでしょう。AOCは4階建てになっており、一番上からAOC(Appellationd'OrigineContr_l_e:原産地統制名称ワイン)、AOVDQS(Appellationd’OrigineVinD_limit_deQualit_Sup_rieure:原産地名称上質指定ワイン)、VdP(VinsdePays:地酒)、VinsdeTable(テーブル・ワイン)で構成されます。
制度は階級が下がるほど、規制も緩くなる仕組みになっています。一番上のAOCカテゴリーの規制対象は、生産地域、品種、アルコール度数、最大収穫量、栽培法、選定方法、醸造方法、熟成条件、試飲検査などこと細かく定められています。これがVdPになると、品種、限定地区、アルコール度数、分析・試飲による検査といった程度です。
ラングドック地方では、一番上のAOCカテゴリーでは、ロバート・モンダヴィが得意とする、カベルネ・ソーヴィニョン、メルローといった黒ブドウ品種やシャルドネ、ソーヴィヨン・ブランといったブドウ品種の使用を禁止していますが、地酒やテーブル・ワインカテゴリーではこれらの品種を使用することが許されています。
ロバート・モンダヴィにとって、制度的にセパージュ主義的ワイン生産が可能で、さらに高品質ワイン生産の潜在力の高い場所が、ラングドック地方の地酒またはテーブル・ワインであったわけです。
また、一般的にAOCに分類されるワインには、有名ブランドで高級なワインが多くなる傾向があり、それだけ大きな既得権益が存在するため、AOCカテゴリーで競争することは熾烈を極めることが予想されますが、地酒やテーブル・ワインの生産者は、零細企業が多いため、グローバル資本の生産者から見ると、格好の市場に見えたに違いありません。
このように見ていくと、ロバート・モンダヴィのフランス進出計画は、とても戦略的に見えます。敵方の弱点に自社のリソースを集中投入することは、戦略上一つのセオリーですが、ロバート・モンダヴィは、制度が脆弱で、競争環境が厳しくなく、かつ高品質なワイン生産地として魅力的な場所としてラングドック地方を選択し、資本を集中投下しようとしたのではないかと考えられるのです。
モンダヴィの南仏アニアーヌ村進出その2:不吉な滑り出し
ロバート・モンダヴィは進出当初、苦戦を強いられます。既存の自社ブランドのカリフォルニア・ワインの中で、フランス語の響きのある「ヴィション」というブランドを転用し、「ヴィション・メディトラネ」として売り出しましたが、大失敗しました。既存の味に慣れた顧客は味の変化に驚き、ヴィションを買わなくなってしまったからです。
年間40万本の生産量に対して、注文は28万本にとどまり、在庫が大量にのこり、大幅な値下げを強いられたのです。もともと低価格帯の中でプレミアム・セグメントを狙ったブランドでしたが、値下げプレッシャーの中で、プレミアムのポジションを保てなくなり、ヴィション・メディトラネのブランドの地位が失墜していったのです。完全なブランド戦略のミスです。
しかし、モンダヴィは諦めません。再びラングドック地方を訪れ、1999年、ラングドック地方にあるモンペリエ近郊にワイナリーを開設すること、またブドウ畑を買収することを正式に発表しました。そして、ロバート・モンダヴィは土地探しを始めます。最終的に絞られた候補地がアニアーヌ村です。
そうです。エメ・ギベールのワイナリーがある村です。
2000年4月。ロバート・モンダヴィは事業計画書をアニアーヌ村議会に提出します。アニアーヌ村のアンドレ・ルイーズ村長はその計画書を好意的に受け取ります。「アニアーヌ村をラングドック地方のサンテミリオンにしたい」。サンテミリオンは、ボルドー地方にある、高級ワイン生産者が集まる地域です。村長は、モンダヴィのブランドイメージを活用して、ラングドックの大衆ワインのイメージを変えたかったと考えられます。
計画書の主要な内容は次の通りです。
投資額
−アブルッサス山地に50ヘクタールのブドウ畑の開発投資:2200万フラン
−年間30万本の収容力と最新の設備を備えた醸造室の建設投資:3300万フラン
進出の条件
−土地の使用料は、ワインの年間生産量を基準とし、売上の1%、または5000ユーロを下回らない額とすること
ロバート・モンダヴィは慎重でした。進出計画に対して地元の反対運動が起きる可能性を想定したのです。開発される土地における狩猟権や自然保護への配慮、地元の歴史や文化の尊重など、村から出された条件をすべてモンダヴィはのんだのです。しかし、具体的に地元住民と話し合いをする段になって、村側が、進め方をしくじりました。
アブルッサス山地の一部を開発することにより、地元ブドウ栽培者が畑を増やせるだけでなく、地域外の栽培者も畑を開発できるようにする必要性を村側は地元住民に説明しましたが、ロバート・モンダヴィと6カ月以上も前から話し合ってきたことを伏せたのです。この事実を新聞にすっぱ抜かれ、住民は不信感を募らせます。あたかも地元住民のために開発の必要性を説いていたと思ったら、実はモンダヴィを誘致するための話だったのかと。
一度、掛け違ったボタンを途中から直すのは極めて難しいものです。詳細は述べませんが、さまざまな経過を経て、最終的にロバート・モンダヴィに50ヘクタール、地元のブドウ栽培家兼ワイン醸造家に、25ヘクタールを貸与することを村議会は決定し、地元も利益を享受できる趣旨の方針を明確にしました。結果、当初モンダヴィの進出計画に反対していた人の中には、賛成に転じる人たちも出てきました。
しかし、最後まで反対しつづけたのが、エメ・ギベール。彼は、環境問題や、地元産業の保護など、さまざまな理由をつけて抵抗します。おそらく、最後まで抵抗し続けたのは、ロバート・モンダヴィが、地元に富をもたらすのではなく、激しい競争相手となることに、直感的に気づいていたからでしょう。
ギベール以外にモンダヴィの進出に反対していたのは「アブルッサス山地保護協会」や「アニアーヌ村に生きる」といった団体です。特に、「アニアーヌ村に生きる」の代表マニュエル・ディアズは、1983年から89年にかけて副村長を務めた人物です。しかし、1989年に村長選でアンドレ・ルイーズと選挙で一騎打ち、このときはアンドレ・ルイーズが当選し、1995年の二期目もルイーズが再選を果たします。この間、ディアズは村議会にすら、議席を獲得することはできないでいました。
モンダヴィの南仏アニアーヌ村進出その3:審判
そして2001年。再び村議会選挙の日がやってきます。この選挙は、モンダヴィの進出を支持する現職村長のアンドレ・ルイーズと反対派マニュエル・ディアズの一騎打ちです。
マニュエル・ディアズは村議会選挙の演説に向けて、ロバート・モンダヴィとアニアーヌ村との契約内容を精査しました。そして、重要なことに気づくのです。それは、契約締結の相手は直接ロバート・モンダヴィではなく、ロバート・モンダヴィがアニアーヌ村進出のために作ったヴィション社であるという点です。
子会社を介した取引には、巧妙に利益を生み出す仕組みがありました。先述したとおり、モンダヴィがアニアーヌ村に進出する際の条件は、売上の1%または5000ユーロを下回らない額を支払うというものです。したがって、ダミー会社であるヴィションは親会社であるロバート・モンダヴィに安い値段で売れば、売上を抑えることができるのです。必ず5000ユーロを支払わなくてはなりませんが、大した額ではありません。親会社の視点から見ると、ダミー会社から安く仕入れて、高く売れば、多額の利益を得ることができるわけです。このやり方は、会計の視点から見ると、移転価格を調整して本国に利益を移し変えるありふれた方法でした。
さらに、ロバート・モンダヴィが計画している規模のワイナリーが進出すると、周辺のブドウがすべて買い占められてしまい、地元のワイン生産者がワイン生産のためのブドウを確保できなくなり、衰退するのではないかという懸念もありました。
こうした論点は、選挙の趨勢に大きく影響を与えます。最終的な選挙結果は、進出反対のディアズが進出支持のルイーズに2倍もの大差をつけて圧勝しました。その二日後、ロバート・モンダヴィは、ラングドック地方への進出計画の全面停止を発表します。ロバート・モンダヴィは土地の使用許可を決定する政治的な動きのなかで、敗北してしまったわけです。
ロバート・モンダヴィは、2004年に、米大手飲料会社であるコンステレーション社に買収されます。当時のニューヨーク・タイムズの記事をみると、財政の悪化やロバート・モンダヴィ一族の内紛などが関係しているようです。売上成長が鈍化し、在庫もたまっていたといいます。買収の数カ月前に発表された、2004年の第3四半期の損益見込みでは、21億円の営業赤字が記載されています。
そして、2008年5月、ロバート・モンダヴィ氏は94年の生涯を終えました。
ロバート・モンダヴィを挫折に導いた根本要因は何だったのでしょうか。先述したように、制度の縛りが緩やかでかつ競争力を発揮できそうなところに資本を集中投下するロバート・モンダヴィのフランス進出計画はとても戦略的です。しかしながら、この戦略の盲点は、進出先のフランス人がどのような価値観でワイン造りを営んでいるかについての洞察やそのフランスの地域社会の調和を成立させているエコシステムへの理解が不足していたからではないでしょうか。
自らが儲かれば良いという考え方では、ロバート・モンダヴィの進出戦略は論理的で非の打ち所がありませんが、社会全体にとって良いことなのかという考え方においては、ロバート・モンダヴィのビジネスモデルは地域のエコシステムと矛盾をはらんだやり方だったと考えられます。社会に参加する人達の利害関係に矛盾が存在するときは、往々にして政治的解決が必要になりますから、今回の解決が選挙で民主主義的に解決されたのはさもありなんという感じです。そして、社会的責任を果たしていないと判断された場合には、「資本主義は社会に通用しない」という当たり前のことを再認識させられます。
ワイン業界で起きていることは、ワイン業界の外にいる人間にとっても、どこかで見たことがある出来事のような気がしてなりません。ピーター・ドラッカーは「企業は、社会と経済のなかに存在する被創造物である。社会や経済はいかなる企業をも一夜にして消滅させる力を持つ。」と述べましたが、利潤追求に走りすぎると、企業内部から物をみているため、企業は社会と経済の中の創造物であり、社会との関係の中で存在していることを忘れ、あたかも独立した存在であるかの錯覚に陥りやすいものです。近年の経済金融危機の根源もこのような錯覚にあるのではないかと想像します。そして、自らが社会の一員の当事者であると考えたとき、自分は何を大切にしてどのような行動をとるのか、覚悟をもって考えなくてはなりません。
いよいよ次回のコラムでは、第1回からのコラムを振り返りながら、総括したいと思います。
参考資料
ヨヒアム・クルツ、『ロスチャイルド家と最高のワイン—名門金融一族の権力、富、歴史』、日本経済新聞出版社
オリビエ・トレス、『ワイン・ウォーズ:モンダヴィ事件』、関西大学出版部
『ソムリエ・ワインアドバイザー・ワインエキスパート教本』、社団法人日本ソムリエ協会
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