人の思考は、自らが読んできたものに相応して、大きくもあり小さくもあり、深くもあり浅くもあります。そのため、深い次元の本を求め、深く汲み取ろうと努力を続けていくと、自分が読み、書くものも徐々に深さを得ていく。また、大きな内容を読み、書こうという意欲を持てば持つほど、大きな本と出会えるようになります(どんな本が真に大きな本なのかが見えてくるようになる)。
本(=著書)とは不思議なものです。本は、その書き手の知識体系や観念世界、情念エネルギーをまとめたものです。読み手にとっては、自分の外側にある1つのパッケージ物なのですが、それがひとたび読書という行為を通じて、自分の内面に咀嚼されるや、自分の新たな一部となって、自分の知識体系・観念世界・情念エネルギーをつくりかえていきます。これが本の作用というものです。
その意味では、読書は飲食と同じです。良い食事は、良い身体をつくり、動くエネルギーとなる。良い読書は、良い精神をつくり、意志エネルギーとなる。
本は、自分の外側にある1つの縁であり、それを摂取することによって自分の内側を薫らせるものになります(逆に悪いものを摂取すると自分の内側をおかしくしてしまいます)。
「啓発」の読書~自分の内側をひらくほど大きく読める
読書にはいろいろな効用・目的がありますが、私は主に次の3つでとらえています。
1番目にある「啓発」とは、「ひらく・おこす」という意味です。「啓発」の読書のひらき・おこすメカニズムは図に示すとこんな感じでしょうか。
私たちは、まず本を開いて文章を読んでいきます。最初はそうして〈1〉著者の知的世界の中を泳ぐわけです。そうするうち、著者の伝えてくる内容が自分にまったく新しかったり、既存の考え方と異なったりして、〈2〉自分の内の知の体系に揺らぎが起こる。
揺らぎを覚えた自分は、それを排除するか、それを取り込んで、〈3〉新しい知の体系を再構築しようとする。そして〈4〉その再構築した体系であらためて著者の書いていることを咀嚼しようと試みる。
図に表れているとおり、啓発の読書によって2つの円が大きくなります。1つは、〈2〉→〈3〉で、自分の内の知の体系が再構築され大きくなる。これは言わば、自分の内側につくられる「知を受け取る器」が大きくなったことです。
それに伴って、〈1〉→〈4〉で、その本を咀嚼できる力が増す。最初、読んだときは〈1〉の力でしか読めなかったものが、自分の内の知を受け取る器が大きくなることで、〈4〉の力で読めるようになったわけです。
このように、啓発の読書の場合、本が自分を大きくしてくれ、大きくなった自分が、その本をより大きく読めるようになるという相互の「拡大ループ」ができあがる。
したがって、いくら良書・偉大な本を読んだとしても、「なんだ、この程度か」と決めてかかる人は自分の内の円が大きくならないので、結果的にその本を大きく読むことができません。逆に素直にその本と向き合い、「すごいな、この本は!学ぶべきところがたくさんある」と自分の内側の円を広げた人は、その本を大きく読むことができます。
そのように、本というのは(その本が本来的に懐の大きな本であれば)、自分が内面に持っている器次第で、大きくもなり小さくもなる。分厚くもなり薄っぺらにもなる。財(たから)にもなれば、紙ゴミにもなる。
「獲得」の読書・「娯楽」の読書
次に、2番目の「獲得」の読書について。獲得の読書とは、情報獲得、知識獲得、技術獲得のための読書をいいます。
例えば、市場調査のためにさまざまな白書や購買データを読む。新しい業務の知識を得るために、その分野の専門書を読む。資格試験のために、技術の解説書や習得マニュアルを読む。
これらの読書は、図に示したように、情報・知識・技術といった固まり・部品を1つ1つ集めて積んでいくものです。その集積は、ヨコに広がったり、タテに重なったり、奥に伸びていきます。この集積ボリュームが複雑で大きい人を、博識とか達者と呼びます(オタクな人もそう)。
最後に3番目の「娯楽」の読書について。この種の読書は、自分を啓発しようとか、何か知識・技術を得ようとか、そういう目的はなく、ただ、楽しみのために読む行為をいいます。読了後に何かが残らなくてもいい、その経過時間が心地よければいいというものです。娯楽とは、英語では「pastime」と書きます。まさに「時間を経過させる=ヒマつぶし」。
この場合の読書の様子は、図のとおり、刺激の上下を楽しむだけです。例えば、サスペンス小説を読むとき、ハラハラがあり、ドキドキがあり、最後にクライマックスを迎えて終わる。それで十分に楽しいのです。
読書は自分の内なる空間をつくる機会
本稿では読書をこのように3種類に分けてみましたが、すべての読書がきっちりこのいずれかに収まるものではありません。たいていは3つの混合です。娯楽として小説を読んだとしても、その小説から啓発を受けて自分の知の体系が広がることもあるでしょうし、何かの知識が増えることもあるでしょう。
私はいま、この歳になって、あらためて石川啄木の『一握の砂』を読んでいます。あれだけの才能に恵まれながら、けっして報われることのなかった26年の生涯。啄木の自身に懊悩し、時代を先駆け、運命に抗おうとし抗いきれない吐露を、彼の文字の中から汲み取れば汲み取るほど、私は力を得ます。
『一握の砂』は物としては、500円前後で買える薄い文庫本です。しかし、ここからは、ほぼ無尽蔵のものが耕せます。読書とはなんと手軽で安上がりな、しかし自分の内なる空間をつくりあげてくれる機会なのでしょう。
風薫るよい季節になりました。本を持って外に出てみてはいかがでしょう。そして───
読書という名の深呼吸をしよう。
おおきくすえば、おおきくはける。
ふかくはけば、ふかくすえる。