前回のコラムで、最近「ものの値段について考えることが多い」という話を書きましたが、近頃はグロービスの受講生の皆さんと議論していても、割と価格についての話題が多いような気がします。
経済やビジネスの状況が安定している時であれば、自分たちが売っている商品の価格の妥当性を疑ったりすることはあまりありません。ところが、昨今のように世界中の景気も原材料の価格も消費者のお金の使い方も、何もかもが激変している中では、コストの見直しや利益の捻出の必要に迫られる中で「そもそも自分たちはなぜこのような価格でこの商品を売っているのだろうか?」という疑問を否が応でも持たざるを得なくなります。
私は、それはとても良いことではないかと思います。マーケティング的に言えば、商品価格の根拠というのは、本来もっと深く考えられた上で決められるべきものです。しかし、多くの企業は自社の商品の価格の理由やその与える影響を(たぶん最初に決めた時には深く考えた結果だったのでしょうが)あまり深く考えずに、コストプラス利益の合計として考えてしまっているように思います。
「究極の価値表示」である価格の変更が、顧客に対してどんなイメージを与えるのか、そしてそれがマーケティング上どれほど重大な問題なのか。マーケティングに携わる人間であれば、そのことについてどれほど意識してもしすぎるということはないでしょう。
ブランド商品にとっては「原材料価格高騰につき…」は禁句?
「原材料価格が上昇して…」という理由で値上げされる商品を見るたびに、私には「この商品って原料価格に利益を上乗せしただけの価格で売られていたの?だったら、もうちょっと安くなってもいいんじゃないかな…」と思えてしまいます。それは、その商品に企業が込めていた品質や価値の思いを信じていた一消費者として、裏切られたような気になる、とても悲しい体験だと思います。
私がとりわけがっかりしたのは、2008年6月の「ハーゲンダッツ・アイスクリーム」の値上げです。同社のニュースリリースよれば、値上げの理由は「牛乳、卵黄、砂糖など原料価格の高騰でした。ハーゲンダッツのミニカップの価格、今いくらかご存じですか?カップラーメン1杯がいくらか答えられない人でも、ハーゲンダッツのミニカップの価格は250円と答えられるのではないかと思える(笑)ぐらい、ハーゲンダッツには「商品の価値=価格」の不動の信念があると思っていたからです。
でも、今のハーゲンダッツのメーカー希望小売価格は、270円になっています。原料価格高騰で値上げをするのであれば、その後、これだけ円高になったんですから、当然また値下げするんですよね?などと思ってしまうのですが、希望小売価格自体は変更されないまま。しかし、量販店では208円まで大幅値下げされ、それでも誰も買わない、というような光景が見られたりするわけです。
せっかくの「ハーゲンダッツ・モーメント(ハーゲンダッツを食べる瞬間)」を楽しみたいと思っているにもかかわらず、値札を思い出すたびに顧客の脳裏にこうした雑念が去来するようになるということ自体、「ハーゲンダッツ」というブランドにとって大きな損失なのではないでしょうか。少々大げさかもしれませんが。
顧客満足の「源泉」を知ったうえで価格を変える
逆に、最近の「値付け」で感動させられたのは、「ミスタードーナツ」が08年11月から実施した価格改定でした。すでにGLOBIS.JPの金森講師のコラムによっても指摘されている通り、ハニーディップ、スティックパイなどの定番商品を中心に平均単価と1個あたりの目方の両方を下げるというものです。
私は、ダスキンの打ち出したこの改定は「消費者のことをよく分かっているな」と感じました。結果が出ていない状況での当てずっぽうではありますが、おそらく11月からの既存店売上高は伸びたのではないかと思います。
成功するのではと思える理由は、顧客がミスド(ミスタードーナツ)に求める「価値」とは何なのかを考えれば良いでしょう。多くの顧客は、昼下がりのおやつの時間に、(おかわり自由の)1杯のコーヒーを、ちょっと甘いドーナツと一緒に楽しみたいと考えてミスドにやってきます。スターバックスではなくミスドを選ぶ瞬間に消費者が考えているのは、そこにコーヒーだけでなく「おいしいドーナツがあるから」という理由でしょう。
つまり、ミスドの提供価値は「スタバよりも手軽に楽しめる、甘くておいしいお菓子とコーヒーのひととき」であり、スタバより高級なイメージでもなければ、クリスピードーナツよりもパンチの利いたボリュームのドーナツでもなく、手ごろな価格で過ごせる幸せな時間なのです。その意味で、ドーナツの分量が減ったことに目くじらを立てる顧客はあまりいないのではないかと思います。
もちろん、同じミスドでもお昼時の顧客は別でしょう。彼らは「手ごろな価格で腹を満たせる」食事をしに来るのですから、ワンタン麺や肉まんといった飲茶メニューのほうは、量を減らせば顧客満足を大きく損なうに違いありません。もちろん、ダスキンは小麦粉の卸値が上昇していても、ワンタン麺の価格には手をつけませんでした。
企業からすれば、価格はコストと利益の合計かも知れませんが、顧客にとっては価格は「受け取れる価値の尺度」。価格を考えるということは、自分たちが顧客に対してどんな価値を提供しているのかを考えることにほかなりません。
サービスの価格と価値の対応関係を考える
価格とは顧客にとって「自分が受け取れる価値」を示す究極の指標である——。当たり前といえば当たり前のことなのですが、商品のサプライサイド(供給側)に立って考え始めると、この当たり前のことになかなか思いが至らなくなってしまいます。特に、売っているものがかたちのない「サービス」であればなおのことです。
一般消費者向けの商品であれば、(その商品が購買後どのように使われるかはともかくとして)少なくとも購買時点では、顧客は商品という物理的な「モノ」それ自体に対して価値を認めてお金を支払います。
もちろん、この「物理的なモノ」の何に顧客が「価値」を認めてカネを出すのかというのは、経済学的にとても難しい問題ですのでここでは深く議論しません。が、多くの人は自分が買う商品の対価を「これを作るのにはそれなりの原材料費やその加工賃がかかっているのだから」と考えて、自分を納得させていることでしょう。まあ、それはただの幻想に過ぎず、ほとんどの商品の価格の約半分以上はメーカーや中間流通業者の取り分であり、原材料費や加工コストの占める割合など、価格全体に対する比率で言えば実は微々たるものだったりするわけですが。
それはともかく、物理的なモノとして存在する商品の価値には、何となく実体の裏付けがあるような気がして価格も納得しやすい。しかし、サービスの場合は原材料や加工賃という実体的な裏付けがありませんから、顧客はサービスの価格が自分の受け取れる価値に見合っているのかどうか、さまざまな考えを巡らせながら購買することになります。この「さまざまな考え」というところが非常にくせもので、顧客があるサービスの「価値」をどのような基準で推し量るのかというのは、サービスを供給している側もよく分かっていないということがよくあります。
中禅寺湖クルーズ船にみる「サービス価格」の意味
先日、私の知り合いのある経営コンサルタントA氏が家族旅行に出かけ、ぶつぶつ文句を言いながら帰ってきました。「どうしたの?」と尋ねると、「日光に行ってきたのだが、宿や観光はまあまあ良かったが、中禅寺湖のクルーズ船にだけはどうも納得がいかない」とのこと。話を聞いてみると、以下のような事情でした。
中禅寺湖のクルーズとは、中禅寺湖畔の紅葉を船上から眺めながら湖を一周する遊覧船のことです。このクルーズ船には、ノンストップで中禅寺湖の湖上を一周するコースと、途中2カ所ほど湖畔の船着き場に停泊するコースがあるのですが、彼は途中停泊するコースに家族で乗り込みました。
ところが、ここでちょっとしたハプニングが起きます。A氏にはまだ小さな子供がいるのですが、その子が船の中でぐずってしまい、停泊地で船を下りたがってしまったのです。しばらく湖畔で遊ばせればまた機嫌も直るだろうと考え、A氏は下船して1時間ほど子供を遊ばせたあと、再びやってきた遊覧船に乗ろうとしました。ところが、「一度降りたらもう乗れません」と断られてしまったというのです。
さて皆さん、A氏がここで不愉快になったのはなぜだと思いますか?ちょっと考えてみてください。そもそもA氏は、いったいクルーズ船にどんな価値を期待していたのか?その期待が裏切られてしまったと感じたのは、何が原因だったのか?
A氏の不満の理由を上のような問いに答えるかたちで言語化してみると、サービスの価格がいかにさまざまな価値の考え方に基づき得るものか、分かってきます。
A氏にしてみれば、1人1200円というクルーズ船のチケットの価格は「湖上を1周しながら紅葉の眺めを楽しむ時間」に対する価値として支払われたもの、という感覚があったわけです。だから、クルーズ船が湖畔で停泊した時にいったん下船したとしても、まだ楽しんでいない残りの時間を楽しむ権利は残っていると考えたのですね。
しかし、中禅寺湖のクルーズ船を運行する側は、このチケットによって「出発地点でチケットを切って船に乗ってから下りるまでの区間移動する権利の、湖1周分の距離」分だけ販売したつもりだったのでしょう。だから、「途中下船」というA氏の行動は、その権利を途中で放棄したものと見なされたわけです。
このクルーズ船のウェブサイトを見ると、出発地点から湖畔の途中停泊地までのみや途中停泊地間のみ、または途中停泊地から元の出発地点までの区間だけの乗船料金というのもあるのです。つまり、「途中で下船するつもりがあるのなら、最初から全区間のきっぷを買わずに、片道区間ずつその都度きっぷを買えば良い」という発想なのですね。中禅寺湖クルーズ船の運営母体は東武鉄道だからでしょうか、この料金体系自体が鉄道のそれと同じ考え方で設定されているようです。
「楽しむ時間」と「移動する距離」、どちらが適切
A氏の不満は、まさに「湖畔の紅葉を眺める遊覧クルーズツアー」をどのような価値のサービスとして捉えて価格を設定するかということについての、顧客と提供者側の考えのギャップから生じてしまったものだったと言えます。そこで次に思い浮かぶのは、ここではいったいどちらの考え方のほうが適切なのか、という疑問です。
価格設定のテクニカルな面で言えば、もちろん「どちらもアリ」ということになります。クルーズ船のサービスの価値をA氏のように捉える顧客は実際はごくごくわずかであり、たいていの顧客は遊覧船を鉄道と同じように「ある区間の距離の1回の移動に対して1枚のチケットが対応する」というサービス価値の捉え方とその価格設定を、自然に受け入れているのかもしれません。もちろん、その逆もあり得るでしょう。しかし「顧客が認めるならどちらでも良い」というのでは、核心をはぐらかされた答えにしかなっていないような気がしますよね。
この疑問に答えるためには、「クルーズ船のサービス」という1つのサービスの価値/価格についてだけでなく、我々はそもそもサービスの価値をどのように捉えるべきなのかということについて、もう少し視野を広げて考える必要があるように思われます。次回、この疑問について、さらに考えてみたいと思います。ではまた。