グロービス経営大学院の研究科長(Dean)を務めるベック氏が、自身の半生を振り返り、人生やキャリアに必要なエッセンスをひも解く新企画。ハーバードやIMD、サンダーバードなど世界のビジネススクールで教鞭をとり、名だたる大企業へのコンサルティングにも従事。カンボジア首相のアドバイザー役を務めるなど、幅広い経験を持つベック氏が、自身の失敗や成功からの学びを語る。第1回は「リーダーシップがドアをノックするとき・・・」(このコラムでは、読者の皆様の様々な意見や経験談をお待ちしております)
「小さなギャング団」のボスだった幼少期
リーダーシップを発揮する最初の機会に恵まれたのは、本当にまだ幼い頃でした。あるきっかけで、いつも問題ばかり引き起こす「小さなギャング団」のボスになったのです。
私がまだ生後4カ月のとき、義理の兄が飛行機事故で亡くなりました。数カ月の間、家族は彼が見つかることを期待して待ち続けましたが、結局、彼の遺体が見つかることもありませんでした。そして、夫を失った私の姉は、両親と私が住む家へと引っ越してきました。
私はそれまで家族の中で一番幼い子どもで、引っ越してきた姉とは25才も離れていました。姉は8カ月になる息子のジェフを連れて私たちの元へやってきました。さらに、引っ越して間もなく、事故で亡くなった義兄の子どもを妊娠していることが分かりました。なんと双子の男の子に恵まれたのです(のちにこの双子はポールとダレルと名付けられたのでした)。
私が最初の誕生日を迎えたとき、我が家には1才以下の男の子が4人いました。甥のジェフは、私よりも年上。彼が4人のボスになるべきだったかもしれません。しかしジェフは私よりも体は小さかったですし、私は彼らの「叔父」ということもあり、私がこの小さなギャング団のリーダー的存在になりました。
双子のポールとダレルを味方にしなければ、といつも考えていました。なぜなら、この2人はいつも意見が一緒で、2人で一つ。双子を味方にすれば、ギャング団で揉め事が起きた時、「双子と私対ジェフ」という構図になるからです(しかし面白いことに、私が最も親近感を感じていたのは、実はジェフでした)。そして、私の計画に同意するか妥協策を見つけるまで、甥っ子たちと座わって話し続けたものです。
子どもの頃の私たちは、近所の人たちには恐れられる存在だったようです。庭の木に登ってりんごをもぎ落とし、猛スピードで三輪車を走らせ、テーブルを引っくり返してその脚をマイクに見立ててビートルズの歌を熱唱していました。私の名前はジョン、甥の名前はポール・・・ビートルズの4人のメンバーのうち2人が同じ名前。ビートルズをまねたのも無理はありません。
あるとき、ジェフと双子の2人は、家から5ブロックほど離れた雑貨店へ三輪車で乗り付けました。3人は店の中に入ると棚からキャンディーをつかみ取り、一目散に店の外に飛び出して、三輪車を必死にこいで、近くの果樹園まで逃げ去りました。一時間後。果樹園の木の下で、おなかの痛みに苦しんで転がる3人が発見されました。周囲にはキャンディーの包み紙が散乱していました。(今日に至るまで、姉は私が甥っ子たちをそそのかした諸悪の根源だったと信じています。本当に私は知らなかったのですが・・・)。
私が5歳になったとき、姉は再婚して我が家から引っ越していきました。幼い私にはとても悲しいできごとです。姉と一緒に小さなギャング団の仲間も、去っていってしまいました。しかし、幼い頃、この小さなやんちゃ集団を率いたことが、その後の人生に大きな影響を与えてくれました。リーダー的な役割を果たす機会に、何度も恵まれることになったのです。
リーダーの機会に恵まれた学生時代
実際の年齢よりも年上に見られることもあり(中学生のときには、周囲からは大学生だと思われていました)、小学校でクラスの学級委員を選ぶときには、よく私が選ばれていました。また、中学校へ入学すると、先生たちは私を学年の代表委員長を選ぶ選挙へと推薦しました。代表委員長選挙の期間中と、その投票日には、家族と旅行へ出かける計画をしていたので、いったん断りましたが、友人たちがそのことを知るやいなや、彼らが代わりに選挙運動をしてくれると言うのです。彼らはポスターを作り、代わりに選挙演説をしてくれました。「代表委員長に選出された」と聞いたとき、旅行先のフロリダのホテルにいました。
その後、高校生になったときにも生徒会長に選出されましたが、そのときも同じように、選挙期間中は出かけていたために私は不在でした(不在であることが選挙に功を奏すこともあります。少なくとも選挙期間中に口を滑らせた発言で敵をつくるようなことはありませんでした!)。
米国人は一般的に、「リーダーシップは、リーダーを務める経験を通じてしか、身に付かない」と考えます。私に特別リーダーとしての資質が備わっていたとは思いません。ギャング団のリーダーに始まり、様々な立場に周囲が推薦してくれた事は、本当に運が良かったとしかいいようがない。ただ、そうした経験を通じて、リーダーシップを体得していくことができました。
勇気をもって前へ踏み出せなかったことへの大きな後悔
こうした経験に恵まれていた私は、リーダーシップを担う機会の重要性に、本当の意味では気づいていなかったのかもしれません。一度だけ、自分に与えられた機会にもかかわらず、かたくなに引き受けなかったことがあります。読者の皆さんの中には、「この程度で失敗とはいわないのでは」と思う方もいるかもしれませんが、「リーダーシップは経験を通じてしか身に付かない」と考える私にとっては、大きな過ちでした。
30才のときのことです。最も若いスタッフであった私は、務めていた企業の最高幹部が集まる会議に出席していました。アジア地域における将来の経営戦略を決定する、重要な会議でした。その会議上、アジア地域の責任者が他のポストへ配置換えになるとの発表がなされました。彼にとっては降格を意味します。私にとっては、多くを教えてくれた“師”と仰ぐような先輩だったので、社内の政治的な決定によって彼が配置換えされることに、気持ちが沈みました。ただ、会議室にいた他のリーダーのことも尊敬していたし、降格の理由も、理解できるものではありました。
会議では、誰がアジア地域のリーダーになるべきか、ディスカッションが続けられました。社内の幹部の誰もが多忙を極めており、何人もの候補者の名前が次々と出てきましたが、そのたび、彼らが職責にそぐわないとの意見があがってしまう状態。そして、1人の幹部が私を指差してこのように言ったのです。
「ベック、君がやったらどうだ?」
その瞬間、今まで暗礁に乗り上げていたような会議室の空気が一変しました。全員が口をそろえるように「君なら文句ない」と言います。私はその会議に出席した幹部と比べると、10才から20才近く若く、どう考えても社内の重責を担う新しいリーダーとしての資質を供えているとは思えませんでした。それに加えて、アジア地域の前任者であった私の敬愛する先輩のことを考えると、「私が後任者になることで彼の気分を害するのではないか」との思いもありました。
「できません」。そう答えました。何度も強く勧められましたが、自分自身は経験不足であると、繰り返し反対し続けたのです。議論を見守っていたCEOが私の方に向き直りました。「このような機会というものは人生の中でそう簡単にやってくるものではない。君は非常に稀な機会を失おうとしているんだよ」。その言葉を聞いても、私は、「できません」と、つぶやきました。
この出来事は、私のキャリアの中で、一番大きな後悔となって、胸の奥にしまいこまれています。勇気をもって一歩を踏み出したら、どのような道が開けていたのだろうかと、ふと考えてしまう自分がいるのです。人生の中で多くの機会に恵まれてきましたが、あのときは、チャンスを逃してしまったのです。
教訓:リーダーとしての役割を担う環境に、恵まれる人たちがいる。そのような人々は、機会が訪れたときに、それを逃してはならない。一方で、人生の“自然な”流れの中に、リーダーシップを経験する機会がなかった人は、その機会を自ら作り出す態度を持つべきだ。座って待っているだけでは何も始まらない。工夫の余地は、いくらでもあるはずだ。また、あなたを助けようとしてくれる人が現われたならば、それを受け入れることだ。良いリーダーというものは、自分の力だけではすべてを達成できないこと熟知している。それを理解しているからこそ、彼らはリーダーと呼ばれる存在なのである。
(英文対訳:関口治)