今回は江戸時代後期の測量家、伊能忠敬を取り上げます。
忠敬と言えば、日本中を測量して回り、当時世界レベルでもトップクラスの正確な地図を作製したことをご存じの方は多いと思います。しかし、それをスタートさせたのが、50歳を過ぎ隠居してから(測量そのものについては56歳から)ということはあまり知られていないのではないでしょうか。
そこから20年弱の歳月をかけてあの精緻な地図を作り上げたのです。忠敬の地図は特に明治維新後によく用いられるようになり、軍事、行政、教育などありとあらゆる分野に大きな影響を与えました。よく「遅咲きの花」と呼ばれる人がいますが、忠敬は歴史上の人物の中でもその筆頭格と言えるでしょう。
忠敬はもともと九十九里浜近辺の村の名主の家に生まれました。名主といっても決して名門というわけでもなく、家庭の複雑な事情で各地を転々とする生活だったようです。幼少時から星や算術が好きで、医師を目指していたという話も伝わっています。
苦労を重ねた忠敬の人生が変わったのは、千葉県佐原の造り酒屋、伊能家の婿養子になった17歳の時です。伊能家は現在の価値で5億円ほどの資産を持つ名士でした。忠敬はそこで必死に働きます。50歳で隠居する時には資産は現在の価値で100億円近くにまでなったということですから、商才に長けていたことは間違いありません。
忠敬は、抜け目のない商人でありましたが、同時に非常な篤志家でもありました。地元の村にも多大な寄付をしたようです。そうしたこともあって、地元では非常に尊敬される人物となりました。
その忠敬が隠居したのが1794年、50歳の時でした。当時は40歳程度で隠居する人間もいたほどですから、当時としては遅い隠居時期でした。普通のご隠居さんであればここから悠々自適の生活を送るのでしょうが、忠敬は違いました。子どものころから興味を持っていた星学(天文学)や暦学を極めたいと考えたのです。そして翌1795年、江戸に移り住みます。
古今東西、為政者にとって暦を決めるということは権力の象徴でもありました。正しい暦は為政者の力と知恵の象徴でもあるのです。言い方を変えると、不正確な暦を作ることは、為政者の権威を揺らがせるものでもありました。だからこそ、歴代の為政者は星学者をお抱えにしていたのです。
忠敬が江戸に来た18世紀後半は、当時の宝暦暦(ほうりゃくれき)がしばしば日食や月食を外すことから、庶民には評判の悪いものとなっている時期でした。そこで困った幕府が新しい暦を作ろうと市中から召し抱えた星学者の1人が高橋至時です。忠敬は、この高橋至時を師として選び、一から改めて星学を学ぶことにしました。19歳年下の師でした。最初は歳をとっていたこともあってなかなかついていくのが大変だったようですが、次第にその実力は至時も認めるほどになり、2人の間には師弟関係を超えた友情が芽生えます(ちなみに、現在でも2人の墓は並んで建立されています)。
忠敬の運命が大きく変わったのは1800年頃です。当時、新しい暦ができていましたが、まだ不完全なものでした。その原因に、地球の大きさが分からないというものがありました。忠敬は、同じ経度にある2地点間の北極星の角度の差から地球の大きさがわかることに気がつきます(古代の西洋の天文学者と同じ発想です)。ただし、師の至時は、誤差のことを考えると、江戸と蝦夷値くらいの距離を正確に測らないと正しい地球の大きさは出ないとアドバイスました。
忠敬の凄いところは、では実際に蝦夷地まで歩いて距離を測ろうと考えたことです。ただ、当時は国ごとにいくつもの関所がある移動制限の厳しい時代ですから、幕府のお墨付きがないとそのような仕事はできません。そこで至時は幕府に働きかけますが、最初は色よい返事はかえってきませんでした。
そこで忠敬は、かつて恩を施した佐原の村人から請願を出してもらうように働きかけます。そうした活動が奏功し、忠敬はこの測量責任者となったのです。ちょうど蝦夷地近海にロシアの船がやってくるという世情も忠敬の測量には幸運に運びました。
忠敬の測量は、基本的に自分の足をメジャーとして使うというものです。「2歩で1間(約1.8メートル)」のペースで歩き続けました。湖など本当に迂回しなくてはならない場所以外は、犬の糞が落ちていようが、多少高い丘があろうが、このペースで歩いていきました。そして、夜空の星と自分が歩いたルートを突き合わせながら、測量を進めていったのです。
自分の足だけで測定しては誤差が大きいのでは、という疑問が出そうですが、忠敬も当然それは意識していました。そこで、毎朝何度か歩いてみてまずはチューニングをしたり、場合によっては複数の人間の歩測の平均をとったりしました。また、勾配のある道に関しては適宜補正も行いました(いわゆるコサインです)。考えられるあらゆる問題を想定しながら歩測の精度を上げていったのです。
結局、忠敬は蝦夷地まで出かけて、緯度1度の距離を28里2分としました。これは現在の実測値と0.1%程度しかずれていません。西洋の三角測量に比べると原理的に精度は落ちるはずですが、忠敬の場合は決してそうはならなかったのです。ある意味、日本人のモノ作りに関する匠の技を思い出させるようなエピソードです。
この成功で忠敬の名声と信用は高まり、以降は幕府の測量計画を任されることになります。そして亡くなる1818年までひたすら日本を歩き続けたのです。その総距離は3万5000キロメートル、世界1周の9割弱の距離でした。
面白いのは、忠敬の死は死後3年間、隠されたことです。忠敬の後進らの手によって「大日本沿海輿地全図」が完成を見たのは1821年のことで、その時になって忠敬の死が公開されました。「この地図は忠敬の地図でなくてはならない」という関係者の思いが伝わってくるようです。
ちなみに、正確な額は分かりませんが、忠敬は測量にかなりの私財も投じました。ファーストキャリアで稼いだお金や信用、人望をセカンドキャアの原資として用い、後世に残る仕事をした忠敬の生き方は、現代人の目から見ても「カッコイイ」と言えるのではないでしょうか。このようなシニアがビジネス会からどんどん出てくる世の中になってほしいものです。
今回の学びは以下のようになるでしょう。
・歳をとってからでも志と健康な体があれば歴史に残る仕事はできる。セカンドライフこそ志をかなえる場たりうることもある
・情けは人のためならず。長い人生、どこかでリターンは帰ってくる
・何歳年下であろうが、若者から学ぶ素直さ、愚直さが自分をフロンティアに立たせる
・お金は天下の回りもの。賢く使う人間に運命の女神はほほ笑む