スーパーマン、ラリー・バード
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リーグきってのスーパースターである“キング”ことレブロン・ジェームズがマイアミ・ヒートで自身初のチャンピオンリングを獲得し幕を閉じたNBA(National Basketball Association)の今シーズン。最大のビッグニュースは間違いなくそのことと、シーズン当初のロックアウトということになるだろう。しかし、それとは別に筆者の関心をひいたニュースがあった。それは、ラリー・バードがインディアナ・ペイサーズの球団社長(President of Basketball Operations)としてNBAのエグゼクティブ・オブ・ザ・イヤーを獲得したというものだ。球団社長はGMやヘッドコーチの採用も含め、球団のバスケットボールに関するすべての意思決定に責任を持つ仕事である。バードはこの賞の受賞により、最優秀選手(MVP)、最優秀ヘッドコーチ(コーチ・オブ・ザ・イヤー)、そしてエグゼクティブ・オブ・ザ・イヤーの3つをすべて受賞した初の人間となった。
ラリー・バードは、同じ1979年にNBA入りしたライバルのマジック・ジョンソン(ロサンゼルス・レイカーズ所属)とともに、80年代以降のNBAの人気拡大の立役者となったスーパースターである(その流れをさらに加速したのが84年にNBA入りしたマイケル・ジョーダンだ)。79年に当時低迷していた名門ボストン・セルティックスに入団するやいなや、チームを優勝候補へと押し上げ、80年代にセルティックスを3度NBAチャンピオンへと導いた。バード率いるセルティックスとマジック率いるレイカーズの対戦は80年代NBAの超黄金カードとして大きな関心を集める。バードはチームの精神的支柱、主将として存在感を示すだけではなく、記録面でも素晴らしい成績を残し、3年連続のMVPも獲得している。
バードを語るときに忘れてはならないのは、彼が白人選手であったということだ(本稿では、「アングロサクソン系」や「アフリカン・アメリカン」という用語ではなく、スポーツの世界では一般的に用いられている「白人」「黒人」という用語を用いる)。バスケットボールの世界、特にNBAは、伝統的に黒人選手が圧倒的な存在感を示す場であり、ヘッドコーチも黒人の登用が進んでいたことから、選手もファンも「バスケットボールは黒人のスポーツ」という印象を強く持っていた。そうしたところに白人選手のバードが颯爽と登場し大活躍をしたことで、白人のNBAファンの獲得につながったのは紛れもない事実である。
バードは現役引退後、数年してインディアナ・ペイサーズのヘッドコーチとなる。チャンピオンシップ獲得こそ逃したものの、ペイサーズを球団史上唯一のNBAファイナル出場へと導き、コーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞する。白人選手として、「黒人のスポーツ」と思われていたバスケットボールに新風を巻き込み、さらにはヘッドコーチとして、そして球団社長として最高の栄誉を手にしたバードはまさにNBAのスーパーマンと言えるだろう。
名監督は名選手だったか?
バードのような例はやはりレアケースなのだろうか?日本のスポーツ界では古くから「名選手、必ずしも名監督たりえず」という言いならわしがあった。主にプロ野球を意識した言葉だと思われるが、事実、古くは大下弘や別所毅彦などは名選手が監督として大成しなかった典型例とされている。その一方で、V9(読売ジャイアンツの9年連続での日本シリーズ制覇を率いた)監督の川上哲治や、主力選手としてだけではなく、監督や球団会長としてもそれぞれチームを日本一に導いた王貞治などは間違いなく名選手である。
欧州サッカーに目を転じれば、ヨハン・クライフやフランツ・ベッケンバウアーなどは、名選手が名監督たりえた例と言えよう。ベッケンバウアーは、ドイツサッカー連盟の副会長として2006年W杯の誘致に成功、組織委員長としても采配をふるい、大会を成功に導くなど、エグゼクティブとしての力量も見せている。一方で、ジーコやマラドーナといったスター選手が監督として成功したかと言われれば今のところ答えはノーだろう。ここでも、明確に断定するのは難しそうだ。
個別の印象論で語っても客観性に欠けるので、データがとりやすい日本プロ野球、MLB(Major League Baseball)、NBA、NFL(National Football League)において、レギュラーシーズンの通算勝利上位20人の監督もしくはヘッドコーチが実際に選手として一流だったかを実際に確認してみよう。サッカーを除いたのは、カップ戦や国際試合など複雑な要因が多く、比較評価がやや難しいためである。
厳密に言えば、今回の「名選手は名監督たりうるか」という話と、「名監督は名選手だったか」という話は必ずしも一致しないが、ここではある程度相関がありヒントが得られることを前提に論を進める。また、長い歴史の中で競技の性質も変わる中、レギュラーシーズンの通算勝利数という1つの尺度だけで評価するのはやや乱暴ではあるが、簡便法としてご容赦いただきたい。
表中、「◎」は一流選手、「○」は好選手、「△」は平凡な選手、「-」は一軍出場なしか極めて限定的出場にとどまる、ということを意味する(評価は筆者の独断である)。
実は日本プロ野球では名監督は名選手?
さて、このからどのようなことが読み取れるだろうか。まず、同じスポーツである日本プロ野球とMLBの比較からは、明らかに「日本プロ野球で実績を残す監督は、良い選手が多い」ということが言えよう。表中は「平凡な選手」と評価した三原脩、水原茂なども、選手としての記録が平凡なのはプロ野球草創期という事情ゆえの話であり、大学野球がプロ野球人気を凌ぐ時代に両氏が早慶両校を代表するスター選手だったことを考えれば、現代の感覚で平凡な選手とするのは両氏に対して失礼と言えるかもしれない。
とすると、勝利数上位の監督の多くは、好選手もしくは一流選手と言えよう。「一流選手であることが一流監督の十分条件」「一流選手であることが一流監督の必要条件」とは言えないまでも、「長年にわたって好成績を残す監督は、選手時代も好選手、一流選手であることが多い」とは言えそうである。
なぜ同じスポーツでありながら、日米でこのような差が生まれるのか?一つには、監督に求められる役割や、そもそもそのプロスポーツが提供する提供価値(第1回のコラム「日本プロ野球のビジネスモデル」参照)が異なることが考えられる。
つまり、日本プロ野球においては、監督はフィールドで活躍する選手と同様、時にはそれ以上に話題を提供するスターでなくてはならないのだ。しかも、ファンにとっては、その監督は、選手時代からよく知った人間であることが望ましい。表には示さなかったが、大半の監督は、選手として活躍した球団において、自身初めての監督職に就いている。ファンは、選手時代の活躍と監督としての露出を重ね合わせながらゲームや報道を楽しんでいると言えそうだ。気に入ったスター選手が監督としても脚光を浴びる姿をファンは期待しており、それゆえそれを提供価値の一つとし、マーケティングに活用しようとする球団の姿勢がうかがえる。
実際、表中、一流選手とした中で、現役時代にプレーしたチームの監督が自身初の監督職でないのは、森祇晶のみである。逆に、(カープファンには申し訳ないが)山本浩二などは筆者には決して優れた監督とは思えないのだが、「広島カープの顔」として長年監督を務めた結果、通算勝利数ランキング18位に顔を出している。読売ジャイアンツなど、「監督はジャイアンツ出身のスター選手に限る」を不文律としているチームすらある。
内部出身のスター監督が好まれる背景には、日本人の「組織」というものに対する独特の帰属意識に加え、(筆者の仮説であるが)スポーツを「匠」の世界と捉えるメンタリティがあるように思われる。「匠」の世界のメンタリティとは、師は技の面で秀でていなければいけないという発想である。悪く言えば、「選手として大した成績も残していない人間の言うことは聞けない」というメンタリティだ。
監督という仕事の重要な役割が、
・試合に勝つための戦術をコーチら共に練り上げ実行可能となるように練習する
・試合中にタイムリーな采配や適材適所の起用をする
・チームの雰囲気をポジティブに保つ
・(往々にして我儘な)選手とコミュニケーションしながら各選手をモチベートする
・コーチに適切なアサインメントを与える
・スポークスマンとして、メディアに対応する
などと考えれば、打撃や投球で秀でていた「だけ」では本来監督は務まらないはずだが、マーケティングの顔としての側面が重視され、それが本来の監督の適性よりも優先されてしまうところに日本プロ野球の改善点があると言えそうだ。
その点MLBでは、選手に期待される役割と、監督に期待される役割は最初から峻別され意識されている。監督は主にマイナーリーグの監督業を通じ、「マネジャー」としての経験を積んでいく。そして、その中で目立ったパフォーマンスを残した者が、メジャーの監督として抜擢されるのである。「監督自体がスターであることよりも、スター選手のポテンシャルを十分に引き出し、勝利に結びつけることが重要」との考え方が浸透した結果と言えよう。
ちなみに、これは日米共通することだが、成功した監督で投手出身の監督は、野手出身に比べると圧倒的に少ない。野球選手のほぼ半数が投手であることを考えると、注目すべき結果である。野手も、内野手や捕手が多い(特にMLBでは近年捕手出身の監督が増えている)。これらのポジションの方が、戦術やチームプレイに関してセンスが鍛えられること、投手の性格が往々にして「自分が大将」となりがちなことなどが関連しているように思われる。スター選手重視のプロ野球においても、「投手は監督には向かない」という経験則は働いていると言えそうだ。
選手時代の成績との関連はMLB≧NBA≫NFL
次に、アメリカの3つのスポーツを比較してみよう。最初の表のデータに加え、筆者のファンとしての実感値も盛り込むと、選手時代の成績と、監督もしくはヘッドコーチとしての適性の関連はMLB≧NBA≫NFLである。特にNFLでは名ヘッドコーチの条件として、選手時代の成績はほぼ関係ないと思われる。この順は何を反映しているのか?筆者の仮説は、組織の大きさとゲームの複雑さ、采配への関与度である。
まず組織の大きさであるが、たとえばNFLであれば、登録選手は50人弱、コーチも十数人いるのが普通である。それに対して、MLBは登録選手25人にコーチ数名(マイナーリーグは別組織)、NBAは登録選手12名にコーチは2、3人である。アメフットは、ポジション数も、他のスポーツに比べれば圧倒的に多数かつ多様だ。必然的に、マネジメントも複雑になる。
プレーの数にしても、NFLではオフェンスの場合、数百のプレーが用意され(当然、そのための練習プランも考えなくてはならない)、しかもシーズンを追ってそれらはどんどん入れ替わっていく。シーズン当初に用意していたプレーの半分以上がシーズン中に置き換わるチームも珍しくはない。同カンファレンスの同地区を除くと対戦相手とは年に1回だけの勝負であり、しかも戦術は各チーム大きく異なるから、事前の入念な分析とゲームプラン作成は欠かせない。試合は基本的に週1試合のペースで行われるが、シーズン中はオフィスや練習場に詰めっぱなしで、シーズンを追うにしたがってやつれていくヘッドコーチやコーチも多い。
ゲーム当日の采配も非常に重要な位置を占める。ヘッドコーチが直接プレーをコールするかオフェンシブコーディネーター(オフェンスの統括コーチ)にプレーコールを任せるかはチームによって異なるが、数百のプレーの中から、最も効果的なプレーを選択しなくてはならない。守備に回ったときは、相手の攻撃を分析した上でそれに備えた指示をプレーごとに出さなくてはならない。試合が始まってしまえば選手の判断にほとんどの部分を任せてしまうラグビーなどとは対照的である。アメフットは、あらゆるチームスポーツの中で、コーチに最も知的作業を強いるスポーツと言えよう。
こうしたことに加えて、激しくぶつかり合う「コンタクトスポーツ」でモチベーション(俗に言えば「気合い」)が極めて重要な意味を持つという競技の特性上、野球やバスケットボール以上に、ヘッドコーチにはモチベーターとしての能力も要求される。これらは、選手時代に良い成績を残したということだけでは担保されないのだ。
実際、典型的なNFLのヘッドコーチは、選手時代のパフォーマンスはあまり問われず、十年程度コーチを務めたのち、オフェンスもしくはディフェンスのコーディネーター(統括コーチ)に昇格し、そこで目立ったパフォーマンスを残してから昇格することが多い。あるいは、カレッジでコーチとしての修業を積み、そこからNFLのコーディネーターやヘッドコーチに招聘されるケースも多い(二軍のないNFLの場合、カレッジフットボールが選手やコーチの供給元として重要な位置を占めている)。メジャーリーグやNBA以上に、「コーチはコーチ」としてキャリアを積み、実績を残しながらステップアップすることが常識化しているのである。
ビジネスにおけるリーダー育成 ―リーダーシップ・パイプライン
ここでいったんビジネスにおけるリーダー、マネジャー育成の話をしよう。皆さんは身の回りで以下のような話を聞いたり体験したりしたことはないだろうか。
「うちの事業部長は営業畑出身だけあって、営業のことは確かに詳しいが、R&Dや生産のことになるとまるでわかっていない」
「上司は言い訳ばかりして、責任をとろうとしない」
「一担当者としては優秀だったけど、マネジャー向きではない」
「うちの上司は細かいことは分かっても、人を鼓舞するのが苦手だ」
多くの企業では、往々にしてこうした問題を個人の能力の問題に帰する傾向がある。しかし実際には、組織内に優秀なリーダー候補がいるにもかかわらず、その能力を十分に発揮できるような環境やリーダーとして成長する機会が与えられていないということが多い。つまり、問題はリーダーの選抜や育て方にあるのである。
その一つの解となる考え方が、「リーダーシップ・パイプライン・モデル」だ。これは、リーダーの育成や問題発見に役立つフレームワークであり、人材育成の面で高い評価を受けているアメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)で開発され、発展した考え方である。この考え方によると、管理職は各転換点(担当者から課長になる、課長から部長になる、部長から事業部長になるなど)において、新しい職位に見合ったマネジメント方法を身につけ、以下の3つの要件を新たに習得し、それまでの古いやり方を捨てなければならないという。
マインド:重要であり、注力すべきだと信じること
スキル:新しい責務をまっとうするために必要な新しい能力
時間配分:どのように働くかを規定する新しい時間枠
たとえばそれまで一担当者だった人間が初めて管理職になったとしたら、相変わらず担当者のマインド(例:目の前のタスクを的確にこなせばいい)で仕事をするのではなく、マインドを「チーム全体のパフォーマンスを向上させる」と変えたうえで、新しいスキル(部下を育成したり、鼓舞したり、業務を適切にアサインするなど)を身につけなくてはならないのだ。当然、時間配分も変わってくる。あるいは、部長が事業部長になったら、それまでの職能以外にも目を向け、バリューチェーン全体を俯瞰し、最適化して運営し利益を出していくスキルが求められる。これらが適切になされてこそ、組織は「目詰まり」を起こさず、順調にマネジャー、リーダー候補を輩出できるのである。そうした人材育成ができない場合には、社外から適切な人材を引っ張ってくるということも、アメリカでは一般的だ。
言われてみれば当然の話ではあるが、この基本がスムーズに機能している日本企業は決して多くはない。本ページの冒頭の例に挙げたように、営業成績が最高の人間がより上の管理職になって行き詰まる、あるいは素晴らしい開発者が管理職になってからつまらなそうにしている、というのは決して珍しい光景ではない。社長ですらある職能のチャンピオンにすぎないというケースすらある。職位に合わせたリーダーシップや管理能力よりも、「匠」としての力がまだまだ評価されやすいのが日本企業と言えるのではないだろうか。
なお、「リーダーシップ・パイプライン・モデル」については、筆者らが翻訳した『リーダーを育てる会社・つぶす会社―人材育成の方程式』(ラム・チャラン他著、英治出版)をご参考いただきたい。
指導者をどう育てるべきか
企業において社員が、担当職→係長→課長→部長→事業部長→役員へとキャリアを伸ばしていくプロセスと、スポーツ選手が、選手→コーチ→監督→球団エグゼグティブへとキャリアを積んでいく話はむろん同等には語れるものではない。プロスポーツ選手は「個人事業主」であるし、そもそもコーチや監督になるというキャリアを最初から追わず、引退後は事業(日本ではなぜか飲食業が多い)を始めたりするという道もあるからだ。人生で一番稼げるのが20、30代の現役時代のことが多い、というのも一般のビジネスパーソンとは大きく異なる点だろう。したがって、企業で用いられている「リーダーシップ・パイプライン・モデル」がそのままスポーツ選手に当てはまるというわけではない。
とはいえ、コーチや監督、球団エグゼグティブとポジションが変わるにつれ、それにあったマインドやスキル、時間配分をする必要があるという考え方は非常に有効であると思われる。見方を変えれば、職務にあったマインドやスキル、時間配分ができる人間こそ、選手時代の成績に過度に引っ張られることなく、そのポジションに就けるべき、と言える。
それを考えると、日本のプロ野球が、相変わらずスター選手を監督に起用したがるのはいかがなものだろうか。さすがに最近は選手引退即監督就任(もしくは選手兼監督就任)というケースはほぼ消え(その典型的な失敗例は長嶋茂雄や村山実だろう)、数年のコーチ経験や二軍監督経験を積んでから監督に就任するケースが多いが、それでも、コーチの経験なく、選手→解説者→監督というパターンも散見される。解説者というキャリアを通じて第三者の目を持つこと自体は悪くないと思うが、解説者も「個人営業主」であり、マネジメント能力を磨ける仕事ではなさそうだ。コーチ経験なく監督になるというのは、必要な準備期間を飛ばしているように思えてならない。
おそらく、こうした慣習が残っているのは、プロ野球というスポーツがサッカーなどに比べると国際舞台に立つ機会が少なく、海外のチームや監督との比較を逃れられてきたからという理由もあるのではないだろうか。あくまでも国内の興業が中心で、マーケティング的に監督の知名度がカギになるという状況が続く限り、こうした慣習は一朝一夕には変わらないのかもしれない。
一方、Jリーグなどは、最初から国際競争を前提にスタートしたということもあって、世界標準の監督育成を念頭に置いている。そもそも国内チームの監督は外国人が多いし、Jリーグの監督になろうとすれば、一流選手だったかどうかにかかわらず、協会公認のS級ライセンスを取らなくてはならない(ライセンスは、C級→B級→A級→S級と分かれており、それぞれの級によって、どのレベルの指導までできるかが異なる)。
とはいえ、ライセンスは講習と試験で取得できるものであり、あくまでスタートラインだ。「真に優秀な監督となる」という話はまた別の問題である。一時期日本人の受賞が続いたJリーグ最優秀監督賞も、最近は外国人監督の牙城となっている。ちなみに、鹿島アントラーズで3年連続、最優秀監督賞を獲得したブラジル人、オズワルド・オリヴェイラは、大学卒業後、プロ選手経験なくフィジカルコーチとなり、長い修業を経たのち49歳でブラジルチームの監督に就任し、2007年にアントラーズに来る前は、毎年のようにチームを代えて監督をしていたという経歴の持ち主である。前回紹介したアリゴ・サッキも、ユースチームや下部チームの指導者を経て、実績を残しながらACミランの監督へと昇り詰めていった。
海外の下部チームなども含め、日本人が監督として修業を積める場がもっと広がり、優秀な日本人指導者が輩出されるようになることを期待したい。なお、Jリーグの場合、監督の知名度は必ずしもマーケティング上の重要項目ではないため、最初から外国人監督で間に合わせてしまうという選択肢もあるが、筆者としては、安易にそうした方向に流れてほしくはないと思う。
最後に、2つほど問題提起をしておこう。冒頭にラリー・バードがエグゼグティブ・オブ・ザ・イヤーを受賞したという話を書いたが、やはり彼のような存在はアメリカでも稀である。そもそも日本の場合、プロ野球もJリーグも、球団社長や編成担当責任者が、元選手、監督どころか、本社からの天下りで、競技経験がないということすら少なからずある。元プロ選手・監督である必要はないかもしれないが、競技経験や、少なくとも競技に対する強い愛情を持ち、その上で、必要とされるマネジメント能力を発揮できる人間が増えることを願いたい。日本では福岡ソフトバンクホークスの王会長が(やはり広告塔の側面は強いが)貴重な例外と言えよう。
もう1つは、国技である相撲の問題だ。相撲は個人競技なので、「匠の世界」の要素が強く、親方として相撲の技を力士に伝授するまではまだ経験で補えるのかもしれないが(ただしスポーツ科学などに無知すぎる印象はある)、協会には大きな問題がある。ほとんどマネジメントの経験やスキルがない人間が理事や理事長になるのも不思議だし、力士の大麻問題や八百長問題で理事長のみならず理事からも降格した北の湖親方が理事長として再選されファンを驚かせたのは記憶に新しい。相撲人気が曲がり角にある昨今、力士出身の身内で幹部を固めるのではなく、マネジメント力、マーケティング力を持った、新しい風を吹き込めるリーダーを外部から招聘すべきではないだろうか。「組織はトップ次第」ともいう。相撲協会の英断を期待したい。
読者の皆さんも、ぜひ自分の会社のトップや上司、そして皆さん自身が「名選手、名監督たりえず」になっていないか確認していただきたい。