第2回から第4回まで、ギリシャ時代からローマ時代前半、紀元1世紀ごろのワインの意味合いやワインビジネスが成立するための技術を見てきました。このころのブドウ栽培はいまだその覇権国であるギリシャやイタリアを中心に行われ、今のフランスであるガリアは、基本的に消費地という位置づけで、ワインの多くを輸入していました。産地はギリシャとローマ、消費地はガリアという構図が出来上がっていたのです。そして、ローマは莫大な利益をこのワイン交易から得ていました。
当時のガリアにおけるブドウ栽培は、地中海沿岸のマルセイユやナルボンヌ、および地中海に注ぐローヌ河の河口からヴィエンヌに抜けるローヌ渓谷が中心で、ヴィエンヌという街がブドウ栽培の北限であったと言われています。このようにガリアにおいてもブドウ栽培はされていましたが、生産量としてはそれほど多くなく、ヴィエンヌ以北のガリア北部、ライン河沿岸、イギリス市場の需要に応えられるだけの量はなかったようです。
なお、ローヌ渓谷は、非常に優れたワイン産地として有名です。現在でもフランスワインのなかでも代表的なエルミタージュやコート・ロティといったワインが生産され、19世紀のエルミタージュ産ワインは、現在のフランスワインの代表格であるシャトー・ラフィットやロマネ・コンティと並ぶワインとして賞賛され、アルコール度を高めて力強くするために繊細なボルドーワインとブレンドして販売されることもありました。19世紀から1500年以上も前であるローマ時代においても、ローヌ渓谷がブドウ栽培にとって恵まれた自然条件を備えていたに違いないと想像されます。一方で、現在のフランスワインの二大銘醸地であるブルゴーニュやボルドーは、ローヌ渓谷に比べ寒冷地であったため、当時のブドウ栽培技術では、充分ブドウが成長・成熟せず、本格的なブドウ栽培は行われていませんでした。
ガリア人にとって、ブドウ栽培が地中海沿岸やローヌ渓谷のヴィエンヌ以南に限られ、ワインの生産量も充分とはいえない状況は決して満足いくものではありません。はるばるローマから運ばれてきた高価なワインを奴隷や貴金属と引き換えにしてしかワインを飲むことができないという状態から早く脱したいと願っていたことは想像に余りあります。この状態を打開するために、ガリア人が行ったのが品種改良とも言うべき新品種の探索でありました。そして、彼らは実際に新品種を発見し、ガリアにおいて本格的なブドウ栽培に成功したのでした。現在でも通用しそうな新品種探索という発想がローマ時代にあったのはとても驚くべきことです。
ヴィエンヌの北限を突破しブルゴーニュへ
ガリア人の中で新しい品種の研究に積極的に取り組んでいたのは、ドーフィネ地方(ローヌ渓谷左岸スイス寄りの地域)のアロブロゲス族と、ヴィヴァレ山地(ローヌ渓谷途中の右岸地域)のヘルウィ族です。特に、アロブロゲス族は、当時のブドウ栽培の北限であるヴィエンヌが彼らの領土の南端に位置していたため、自分たちの領土の、より中央部で本格的なブドウ栽培を行うことが重要な意味をなしていました。この地でのブドウ栽培に成功することは、ワインを自己調達できるだけでなく、ガリア北部への広大な市場を押さえられることを意味していたからです。
アロブロゲス族にとって幸運だったのは、ローヌ渓谷の自然環境でした。ローヌ渓谷は南北に細長く延びていますが、その途中で地中海の植物相からフランスの中央部から北部の植物相に変化するのです。こうした異なる植物相が交わる自然環境は、品種改良の実験場として格好の地でありました。品種交配の選択肢が広がるからです。
さらに、もうひとつ幸運だったのが、カエサルの『ガリア遠征』以降、ローマ帝国の平和な時代がつづいていたという時代背景でした。こうして、戦時にはなかなか利用できないローマ渓谷の平野部を使いながら、新品種の研究に没頭できることができたのです。彼らの研究のレベルの高さは、「接ぎ木の技術に関するアロブロゲス族の知識は、ワイン造りについて詳細に記した最初の著述家であるカトーの知識より優っていた」とするプリウスの文献からも知ることができます。
そして、プリウスの『博物誌』十四巻十八章によると、「ローヌ河沿いにあるアロブロゲス族の首都ヴィエンヌ一帯を有名にした新しいブドウ品種が生まれた」、「寒い土地で霜が降りて熟す、色の黒いアロブロギカ」と記されています。従来、ブドウの実をつけることが出来なかった寒冷地においても栽培できるブドウ品種が開発されたのです。この新種はアロブロゲス族に因んで「アロブロギカ」と名づけられました。しかし、残念ながら具体的にどのようにこの品種を開発したのかは分っていないようです。
ただし、現在の品種改良の知識から想像すると、選抜技術、交配技術、変異技術のどれか、またはその組み合わせで実現されたのではないかと考えられます。品種改良の方法は、大きく7つ存在します。選抜技術、交配技術、変異技術、細胞培養技術、細胞融合技術、倍数体形成技術、遺伝子操作技術です。この7つの内、後者の4つは、細胞の組織構造や遺伝子に関する理解がないと応用できない技術ですので、ローマ時代には存在しません。そこで残るは前者3つです。
選抜技術は、ブドウ畑の中で、たまたま寒冷地に適したブドウの樹があった場合に、その個体を選抜する方法で、ローヌ渓谷の土地の広さを活用して、この方法が採られたという可能性も捨てがたい気がします。
交配技術には、同一の遺伝子を持つ二個体間の交配もあれば、異なる遺伝子を持つ二個体間の“交雑”もありますが、ローマ時代に存在していた品種で交雑を試みた可能性は充分に考えられます。
そして、変異技術ですが、これは自然界の変異を活用した自然発生的なものと、放射線などを照射して変異を誘発させる物理的なものがあります。この当時、放射線技術などはありませんが、自然発生的な突然変異の幸運に恵まれた可能性は、ありえると思われます。ブドウというのは経験的にとても変異しやすい植物であることが知られており、当時の人たちもこうした知識があったかもしれません。ワイン評論家として名を馳せるヒュー・ジョンソンによると、「突然、ある芽からよく伸びる枝が発達したり、葉の大きさや形が変わったり、果実の色が変わったりする」と記されています。特に、植物は気候の異なった地域に移すと突然変異が起こりやすく、それまで地中海の温暖な気候で使われていた品種が寒冷地に移されることで突然、変異を起こしたのではないかとも考えられるわけです。
いずれにせよアロブロゲス族は、新品種の開発に成功し、「ピカトゥム」というワインを大量に生産しました。ピカトゥムとは「松脂を塗ったもの」という意味で、ワインを貯蔵する壺に松脂が塗られていたことから、ワインにその風味が染み込んでいたことに由来します。この成功の結果、ヴィエンヌは、ワイン取引に必要な陶器を製造する陶器工房が増加し、街が拡大していきました。そしてついに、ワイン消費地としてのガリアから産地としてのガリアに変貌を遂げ、ワイン流通の構図が大きく変化しました。アンフォラの破片による考古学的検証から、ヴィエンヌのワインが当時ローマやイギリスまで流通していたことが分かっています。
そして、アロブロゲス族によるブドウ栽培は、現在のフランスの銘醸地ブルゴーニュ地方のワインのきっかけになっていくのでした。
ボルドーへの進出
他方、ボルドー地方を領土としていたビトゥリゲス・ウィビスキ族(ブルジュを首都とするビトゥリゲス・クビ族とは異なる部族)も同地の厳しい気候に耐えられるブドウ品種を探していました。アロブロゲス族は、新品種を開発する前から、ブドウ栽培を行っており、既存のブドウ品種の入手も簡単でしたが、ビトゥリゲス・ウィビスキ族はそれまでブドウ栽培を行ったことはなく、品種の入手が彼らの最初の課題でした。そして、最終的に、ビトゥリゲス・ウィビスキ族は、コルメラの著述によると「最近になって非常に遠いところから持ち込まれた」品種を入手するのです。アロブロゲス族の新品種の開発とビトゥリゲス・ウィビスキ族の新品種の入手の違いは、ローマ人のこれら新品種の呼び方に表れています。前者はラテン語で「発見された」という意味の「インウェンタ」、後者はラテン語で「取り寄せた」という意味の「アルケシタ」と呼ばれたのです。
ビトゥリゲス・ウィビスキ族が入手した新品種は、この民族の名に因んで「ビトゥリカ」と名づけられました。それにしても、この「非常に遠いところ」というのが、具体的にどこから来たものかよく分からないのが問題です。
彼らがブドウ品種を入手できるブドウ産地は、ボルドーより北には選択肢がないと考えると、3つの仮説が考えられます。一つ目は、ボルドーからトゥールーズを抜け、既にブドウ産地であった地中海のナルボンヌ、二つ目は、ナルボンヌ経由で地中海のどこか、三つ目は海路スペインへ回り、スペインに自生または栽培されていたブドウです。これら3つの仮説の中で、有力なのは二つ目、または三つ目の仮説ではないかと考えられます。
まず、ナルボンヌのブドウ品種がボルドーのより寒冷な気候に耐えることが出来たのであれば、それより以前にすでにボルドーはワイン産地になっていたと考えられるため、一つ目の仮説の証明は厳しいものがあります。二つ目の仮説であれば、地中海のどこか遠くの土地ということになりますが、ビトゥリカは耐寒性・多産性のある当時ギリシャにおいてバリスカとして知られていた品種を起源とするという説があり、この説が正しいとなると、二つ目の仮説は否定できません。三つ目の仮説は、地中海性気候とは異なるジロンド河の多雨で風の強い気候に耐えられる品種が後者のスペインの北東部に位置するカンタブリアからナバラの地域が有力視されています。「取り寄せられた」という意味では、二つ目と三つ目の両方とも可能性がありますが、これ以上の証明は、専門の歴史家にお任せしたいと思います。
こうしてボルドーにも新品種がもたらされたわけですが、彼らが入手したビトゥリカという品種は、現在のボルドーの主要品種であるカベルネ・ソビニョンの起源と考えられています。なお、新品種の入手だけではブドウ栽培が成功するわけではなく、ビトゥリゲス・ウィビスキ族はブドウ畑を開拓し、栽培技術に改良を重ねて現在のボルドーワインのパイオニアとなりました。こうして、現在のフランスワインの大黒柱の一つとなるボルドーワインが誕生したのです。
ちなみに、彼らにとってのワイン市場はどこだったのでしょうか?ガリア北部は、アロブロゲス族に地の利がありましたから、ボルドーワインがガリア北部を市場とすることは考えにくく、おそらく、ボルドーにとって市場は海外のアイルランドであったと考えられています。こうしたことは、当時フランスの大西洋沿岸における交易が盛んであったことや、アイルランドの叙事詩において国王や側近がワインを飲んで宮廷の完成を祝う饗宴を催したといった事実から想像されています。
ブドウ産地の開拓成功の意味合い
ギリシャ・ローマ時代の地中海を中心としたブドウ栽培は、このようにして、ついにフランスに到来しました。今回の例のように、1500年以上もの前の人たちが、ブドウ品種に着目し、ブドウ栽培の可能性を広げていったことは驚嘆に値します。そして、ブドウ栽培が困難であると当時、思われていた土地を開拓し、ブドウ栽培に成功し、フランス産ワインを造り上げたその情熱を想像すると、感動せざるをえません。おそらく、ワインという飲み物そのものの魅力と、目の前に広がる魅力的なワイン市場に対峙したとき、彼らは現在の我々も驚かざるを得ない能力を発揮したのであると思います。
しかし、これらのガリア人による成功は、ローマ人にとっては面白くないものであったに違いありません。ここで起きたことは、ローマ人の上客であるガリアが、自社の事業領域に参入したも同然であるからです。そして、このころからローマのワイン市場に変化が表れます。次回のコラムでは、このワイン市場の変化と、その変化に対し、ローマ帝国がどのような措置をとったかを綴りたいと思います。
*参考文献:
ロジェ・ディオン、『フランスワイン文化史全書ブドウ畑とワインの歴史』、国書刊行会
HughJohnson,JancisRobinson,“TheWorldAtlasofWines”,MitchellBeazley
特許庁、『技術分野別特許マップ:品種改良技術』
▼「ワイン片手に経営論」とは
現在、ワイン業界で起きている歴史的な大変化の本質的議論を通して、マネジメントへの学びを得ることを目指す連載コラム。三つの“カクシン”が学びのテーマ。一つ目は、現象の「核心」を直感的に捉えること。二つ目は、その現象をさまざまな角度から検証して「確信」すること。そして、三つ目は、その現象がどう「革新」につながっていくのかを理解すること。
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