技術は偉大だ。その技術を支える科学的考え方はもっと偉大だ——。
真実を追究する科学的努力は、紀元前のギリシャの哲学者を列挙するまでもなく、何千年と続けられてきました。こうした賢人の努力の何千年にわたる連携により、一枚一枚、ベールを剥ぐように着実に、さまざまな迷信や誤解を解くだけでなく、自然現象の法則を詳らかに明らかにしてきました。
こうした科学が、経営に適用され、経営科学(ManagementScience)という学問として本格的に始まったのは、ほんの50年ほど前のつい最近の話であると認識しています。経営科学の歴史は、自然科学の歴史に比べると、それほど長くはありません。本格的な取り組みの先駆けが、アメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)やカーネギーメロン大学であり、現在のMBA(MasterofBusinessAdministration、経営学修士)の始まりでもあります
経営に係るこれらの学問は、その卒業生や経営コンサルタントの手により、ビジネスの実践の場で応用されてきました。自然科学の長い歴史を考えると、経営科学がどれだけ実際の経営に貢献したかの判断は、時期尚早であると思いますが、過去50年の間だけみても、経営と言う社会現象の法則や判断ツールをさまざまな形で提供してきているものと思います。
科学はその本質に、ものを細かく分解して現象を捉える「分析」という概念を置いています。ものを分解すること、すなわち分析した結果は、充分に小さく単純化されているため、自然の規則性を捉えることが容易になるのです。科学のこのような考え方を学ぶにあたって、陥りがちなのは、分析をすれば、自然と規則性が見えてくるという錯覚です。おそらく、何千年もの間、構築されてきた科学の理論体系は、現在を生きる人たちにとっては、かなりの範囲の自然現象を説明しているため、多くの人たちが分析を通して真実が見えてくると信じるのは無理もないのかもしれません。しかし、これでは、真に科学をしたことにはなりません。分析を通して観察した結果に対して、物事の普遍性を見抜く意識を持たない限り、科学はただの分析に終わってしまいます。分析は、科学にとって必要条件ですが十分条件ではないのです。
アイザック・ニュートン(1643-1727)が、万有引力を発見したのは、りんごの落下を細かく分析したからではありません。ニュートンより先輩にあたるヨハネス・ケプラー(1571-1630)が発見した惑星の運動に関する「ケプラーの法則*1」と、「りんごの落下」の両者に存在する普遍性に思いを馳せたからです。
「なぜ、りんごは地球に落ちてくるのに、月は地球に落ちてこないのか?」
「両者が同じ力に由来するのであれば、どのような力か?」
こうした発想がない限り、科学はその与えられた使命を全うできません。普遍性に思いを馳せ、これを「仮説」とし、実際の観察や実験を通して、その普遍性を検証して科学はようやく、ひとつのサイクルを回るのです。
経営科学も同様です。多くのビジネス・スクールにおいて、さまざまな経営判断のための分析ツールを学びます。「3C」、「4P」、「5つの力」といったフレームワークは、その代表です。しかし、一度でもこうしたツールを用いて分析をした人であれば、これだけでは、経営判断はできない現実に直面したはずです。経営分析した結果に対して、その事象を支配する普遍性に思いを馳せない限り、本質的な経営議論はできません。
司馬遼太郎氏は、かつてこのように述べています。*2
「歴史っていうのは、あるもんだと錯覚があるんですけれども、本当は歴史ってものは、ないんであります」
「史実と言う言葉もありますけれども、史実と言うとなんとなく実在しているような気がいたしますが、実際は空気のようなもので、ないようなものであります」
「歴史ってのは、語られて初めてそこに存在するのでありまして、語られない限り、存在しない」
これらの言葉を聴いて、わたしは経営と底通するものがあると思いました。経営や事業には、聞き手が引き込まれるような物語がないといけないと思うからです。
前出の言葉を司馬氏は、履歴書の例をあげて説明しています。*2
「○○小学卒。○○中学卒。ずっと履歴書が出てますけれども、それだけが煮詰めたら歴史であります。それでは、何も面白くない。面白くないばかりか、その人が田中太郎という名前だとすると、田中太郎という人は出てこないのであります」
「そのヒトに語ってもらわなければならない」
「父親が早くに戦死して、母親に育てられた。というと大分、でてくるわけであります。そういう人かなと」
司馬氏が述べていることは、また、先述の科学の話とも相通じます。分析結果から見えてきた個別事象の羅列だけでは物事の真理は明らかにはならない。これら事象全体を支配する普遍性を意識することによって初めて、それは明らかになる。同様に、ある人の史実を羅列するだけでは、その人となりや歴史は浮き彫りにはならず、史実を貫くその人の人柄・人格を語ってこそ、普遍的な本質に迫ったと言えるのだ、と。
経営戦略や事業戦略の理解においても、おそらく同じことが言えるでしょう。「弊社は、○○を販売しています」というのは、あくまで事実の羅列であって、(会社に人格があるとすれば)その“法人格”なるものは見えてはきません。「弊社には、△△というコア技術があります」、「成果目標制度による先進的な人事制度を採用しています」なども、すべて同じです。ここで語られるべきは、その背景にある物語であるべきです。「なぜ、その商品を販売するのか」、「その技術は事業においてどのような意味を成すのか」。こうしたことが、平易な言葉で語られない限り、そして、語れない限り、経営や事業自体が、もはや惰性の産物となってしまっている、と言えるかもしれません。
私は現在、グロービス経営大学院においてテクノロジー・マネジメント(通称テクマネ)のクラスを担当しています。今回、GLOBIS.JPでのコラム執筆依頼が来た際に、私は担当クラスのテクマネに関するコラムを執筆しようと当初考えました。しかし、テクマネで教えているネタをコラムに書いてしまったら、受講生がわざわざ私のクラスを履修する価値がなくなってしまうのではないか?仮にクラスで教えるテクマネの分析手法や枠組みをコラムでご紹介したとしても、読み手にその枠組みを超えた普遍への意識を上手に伝える方法がない限り、コラムに執筆する意味がないのではないか?と思い、クラスでは普段お話しできないテーマを扱おうと思いました。
テクマネのクラスでは、受講生とインタラクティブに授業を進めることができるので、受講生の分析力、普遍性への意識の馳せ方などを直接に見ながら、議論を展開することができます(クラスは1回3時間の構成のため、一般的には、この短時間に普遍性まで思考を昇華するのは極めて難しいのですが、普遍性や物語に意識を向けるべく鼓舞しながら、という感じで進めています)。しかし、これは一方向のコラムでは、さらに難しいことだと考えています。そこで今回執筆するコラムは、単なる枠組みの当てはめや分析結果で終わることなく、私なりの物語を語ることで、何らかの普遍性への昇華を目指したいと考えました。
そのテーマとしては、「ワイン」を取り上げたいと思いました。
なぜ、ワインか?
それは、私が単純にワイン好きということもありますが、ワインが、何千年という長い間、飲み継がれてきた飲み物であり、そこに普遍的な要素や物語が多く存在すると考えるからです。また、このワイン業界が歴史的な転換点にあると私自身、認識していることも大きな理由の一つです。ある意味において「フランスを頂点として不変」と思われてきたワイン業界が、まさに変化しつつある今、そこには経営に示唆を与える何か大きな本質が隠れていると感じています。
このコラムが何回連続するか、今のところは分かりませんが、私なりにワインの歴史を語りながら、「ワイン」と「テクノロジー・マネジメント」の交差するところで、その経営的意味合いや示唆をご紹介していきたいと思います。皆様、乞うご期待。
*1ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーが1690年に見出した、惑星の運動に関する法則。観測結果を元に、帰納的に導き出した以下の三つの法則からなる。「第1法則すべての惑星は太陽を1つの焦点とする楕円軌道をえがく」「第2法則惑星と太陽を結ぶ線分が一定時間に掃く面積は、それぞれの惑星について一定である」「第3法則惑星の公転周期の2乗と軌道長半径の3乗の比は惑星によらず一定である」
*2『司馬遼太郎が語る第2集(2)(新潮CD)』(新潮社・刊)より参照
▼「ワイン片手に経営論」とは
現在、ワイン業界で起きている歴史的な大変化の本質的議論を通して、マネジメントへの学びを得ることを目指す連載コラム。三つの“カクシン”が学びのテーマ。一つ目は、現象の「核心」を直感的に捉えること。二つ目は、その現象をさまざまな角度から検証して「確信」すること。そして、三つ目は、その現象がどう「革新」につながっていくのかを理解すること。