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浜口雄幸の男子の本懐―信念は結果を正当化するか?

投稿日:2016/05/24更新日:2019/04/09

今回は、大正から昭和初期の政治家、浜口雄幸を取り上げます。

浜口は1870年、現在の高知県に生まれます。帝国大学から大蔵省に進み、次官を経て政治家に転身します。

こう書くと極めて順調な人生を歩んだようにも見えますが、実際には性格の剛直さに加え、世渡り下手だったことから、上司に疎まれて地方に左遷されたりと苦難の道を歩みます。しかし、実直で能力はあったため、結局は仲間に助けられて出世します。

政界でも徐々に頭角を表し、立憲民政党の中心的存在となりました。1924年に初めて大臣となり(大蔵大臣)、1929年には与党立憲政友会の田中義一内閣の総辞職に伴い総理大臣となります。1920年代から30年代初期は不況の時代でしたが、浜口の立場は一貫して協調外交と軍縮による軍事予算削減、緊縮財政による景気安定化でした。世間も、剛直で正直、清貧の浜口首相を支持しました。

浜口の仕事で大きなものの1つは、1930年のロンドン海軍軍縮会議です。さまざまな曲折を経て条約が結ばれ、国内でも批准されたのですが、妥結結果は海軍の不興を招きました。中でも問題となったのが、統帥権干犯です。大日本憲法には、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という条文がありました。軍や野党は、政府が兵力の削減を、軍の統帥者たる天皇の承諾無しに決めたのは憲法違反だとしたのです。

実はこの統帥権は、当時すでに空文化しており、野党となった政友会が仕掛けた「政局」のための材料という側面が大でした。その中心は犬養毅と鳩山一郎です。この2人は浜口の政敵であり、結果としてこの対立が浜口の人生を大きく変えることになります。

浜口のもう1つの大事業は、時系列的にはロンドン会議に数カ月先立つ金解禁(金本位制復活)です。これは1人では成し遂げられない大事業であったため、元日銀総裁で財界の大物、井上準之助を大蔵大臣として招聘しました。

「静の浜口、動の井上」などと称されることもある2人ですが、対照的な性格の2人はお互いを補完し合い、金解禁を進めます。海外では、同様の政策はデフレを招くなどの弊害が出ており、国内にも反対派は多かったのですが、浜口は、経済の安定には絶対に必要との信念を持っていたため、粘り強く周りを説得し、1930年1月に実施にこぎつけます。

しかし、前年の1929年にアメリカで大恐慌が始まっていたというタイミングの悪さもあり、景気は予想以上に減速します。農村では娘を売らなくてはならないなどの不幸な出来事が茶飯事となりました。社会的な不安も増していきます。こうした中で起こったのが、同年11月14日の浜口の銃撃事件です。東京駅のホームで、統帥権干犯に憤った青年に撃たれたのです。

すでに数カ月前から浜口の身の回りでは不穏な動きが見られていたことから、警備をもっと強化すべきではとの進言もあったのですが、「財政を引き締めている時に自分の身を守るためにそのようなことはできない」と浜口は固辞しました。それが犯人の接近を許してしまいました。こうした拘りは、以前このコラムでご紹介した井伊直助に非常に近いものがあります。愚直さ、頑固さが裏目に出た格好です。幸い浜口は一命を取り留めましたが、医師の反対を押し切って国会に出るなどして無理を重ねた結果、1931年8月に61年の生涯を閉じたのです。

浜口が亡くなった直後の9月には満州事変が勃発します。政府はもはや軍をコントロールできませんでした。景気はしばらく低迷しましたが、浜口内閣を引き継いだ犬養内閣の蔵相、高橋是清による金解禁の取り止めと日銀の国債引き受けによる積極財政により、いったん小康を取り戻します。しかし、国債の発行は、それによる軍備増強を容易にしたことから、暗い軍国時代に突入していく下地をも作ってしまいます。浜口の死は、昭和初期の日本の大きなターニングポイントでした。

浜口雄幸の業績をどう見るか?

浜口の業績を我々はどう評価すべきなのでしょうか?金解禁については、現代の経済学の視点から見れば、「あの世界不況の時期に取るべき政策ではなかった」「銀本位制の方がまだ適切だった」「為替レートを円高に設定しすぎた(これは当時石橋湛山がすでに指摘していました)」との批判があります。「有効需要も創出せずに緊縮財政を敷いても効果が出るわけがない」との指摘もあります。

こうしてみると、浜口の信念は、現代の経済学の観点からすると妥当性を欠いていました。大蔵省出身で財政に自信があり、また井上も同調したために信念が強まったという側面もあったでしょう。本人はあくまで善意から行ったわけですが、それが好ましくない結果をもたらしたのです。

協調外交、軍縮については後世の歴史を見れば正しかったようにも思われます。ただし、この方向性と景気回復はトレードオフの側面もあり、この時代に同時に狙うことがよかったのかは微妙なところです。

浜口が首相を務めた時代の国内外の時局の難しさを考えれば、すべてを良い方向に持っていくことは事実上不可能でした。しかし、後講釈ではありますが、よりベターな施策ミックスはあったように感じられます。その可能性を追求できなかった点が浜口の限界だったとも言えます。

今でもその実直な人柄やビジョン(特に協調外交と軍縮)から浜口を高く評価する人々は少なくありません(これについては、城山三郎のベストセラー小説『男子の本懐』の影響もあるでしょう)。しかし、具体的な施策とそれが招いた結果については辛い点をつけざるを得ないというのが、2016年現在の評価ではないでしょうか。

今回の学びは以下のようになるでしょう。

・強烈な信念は、正しい方向に向いていれば皆を幸福に導くエンジンとなるが、ズレていた時には凶器ともなる。信念が強すぎるリーダーは時として危険な存在となる
・人柄・人間的魅力や理想と結果は分けて評価すべき。渦中での評価は難しいとしても、一定の期間をおいた後は、学びのためにも正しく評価する努力が必要
・責任ある立場の人間が、自分の信念だけで適切な進言を退けることは、時としてかえって大きな代償を支払うことがある

 

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