今回は平安時代の有力者、藤原道長を取り上げます。
道長と言えば、以下の和歌を思い出される方も多いでしょう。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」
この歌が詠まれたのはほぼ1000年前の1018年、道長が52歳の時でした。当時道長は四女の威子を後一条天皇の中宮としたばかりでした。娘を天皇の中宮とするのは約20年間の間に3回目で、「一家立三后、未曾有なり」と言われた頃でもありました。
我々は道長が苦労なくこれを成し遂げたように錯覚しますが、実はそこに至るまでには曲折がありました。それが今回のテーマとも関連してきます。
道長は966年に後に関白となる藤原兼家の五男として生まれました。名家の生まれには違いないのですが、長兄に道隆という有望株がいたため、必ずしも最初から将来を嘱望されていたわけではありません。しかし、そこは名家の出、徐々に貴族社会の中で存在感を示すようになります。995年には、疫病がはやり、公卿の中でも上位層が次々に亡くなったことから、29歳にして政権争いの超有望株になったのです。
道長のライバルは、兄道隆の嫡男で8歳年下の甥、伊周(974-1010年)でした。伊周は当時の一条天皇(980-1011年)の中宮、定子(977-1001年)の兄でもあります。一条天皇は3歳年上の中宮定子に寵愛を注ぎ(今風の言葉で言えば「ぞっこん」で)、その兄である伊周のことも重用しました。
一方で、道長にも味方がいました。一条天皇の母、宣子です。宣子は道長の姉であり、日ごろから、定子への寵愛をいいことに天皇と仲の良かった伊周のことを必ずしも良くは思っていなかったとされます。そうしたこともあって、甥である伊周よりは道長のことを重く用いるよう、渋る一条天皇に推挙しました。こうして道長と伊周は一触即発の状態となったのです。事実、つかみ合いの喧嘩が起こったり、従者同士が刃傷沙汰を起こすこともあったようです。
ここでライバルの伊周がポカをします。世にいう「長徳の変」(996年)です。痴話喧嘩の類ではありましたが、退位した天皇(事件当時は法王)に伊周の従者が矢を放ち、それが袖に刺さってしまったのです。これはさすがに大問題となり、伊周は左遷させられます。妹の定子も失意に沈み、出家するきっかけとなります(のちに還俗)。こうして道長はナンバー1としての地位を得たのですが、まだ不安は残っていました。当時の貴族社会は権謀術数が渦巻いており、道長もいつ足元を掬われるか分からなかったからです。
ところで、ここまでの話からも想像がつくかと思いますが、当時の公卿の社会におけるKSF(成功のカギ)は、天皇と強い縁を持つこと、そしてその最も手っ取り早い方法は血縁関係を持つことでした。特に自分の娘を天皇の中宮とし、さらに世継ぎを産んでもらうことが最大の成功パターンでした。
道長というと、上昇志向に燃えた野心家のイメージを我々は抱きがちですが、研究者によると、それは誤った認識であり、むしろ謀略の跋扈を憂い、平安な世の中の実現を願っていたとされます。どうすれば平安の世を実現できるのか――そこで道長がとった戦略こそが、まさに自分の娘を次々に天皇の妃とし、自分は外戚としてそれに影響力を与え、世を安定させるというものでした。
その第一弾が娘の彰子を一条天皇の中宮とすることでした。すでに一条天皇には定子がいたわけですが、定子を皇后として祭り上げ、彰子を半ば強引に中宮としたのです(999年)。天皇に側室がいることは珍しくありませんでしたが(一条天皇にも当時3人の側室がいました)、妃が2人というのは前例破りのやり方でした。
しかし、一条天皇は彰子の下には通ってきませんでした。彰子が中宮となったのは12歳の時ですが、その時一条天皇は20歳。23歳の愛妻定子がいるのですから、無理からぬところです。定子は、美貌に加え、教養や機智に富む魅力的な女性だったようです。その定子に仕え、「枕草子」を著したのが清少納言です。「枕草子」の中でも、定子の魅力と一条天皇との仲睦まじさはよく描かれています。
その定子は1001年に亡くなってしまいましたが、その後も数年間、彰子には子供が産まれませんでした。一条天皇もあまり通っていなかったようです。そこで道長がとった施策が、彰子に教育を施し、一条天皇好みの教養ある女性にするというものでした。そこで白羽の矢が立ったのが「源氏物語」の作者、紫式部です。式部を彰子の教育係とすることで、彰子の魅力を高めようとしたのです。現代のマーケティング戦略に例えれば、顧客ニーズに合わせてプロダクトを磨き上げるといったところでしょう。この作戦は当たり、彰子のもとに一条天皇がしばしば通うことになった結果、彰子は間もなく世継ぎを産むことになるのです(1008年)。
ちなみに、清少納言と紫式部は宮中にいた時期が違うため、実際に会ったかどうかは不明です。しかし、清少納言が「枕草子」の中で紫式部の夫を名指しでこき下ろしたこともあって、紫式部には、清少納言に対する強いライバル意識があったとされます。それゆえ、式部は彰子の教育にことさら力を入れた可能性もあるのです。そうしたモチベーションも理解していたとしたら、道長の人を動かす力はなかなかのものがあると言えるでしょう。
その後、一条天皇は1011年に崩御し、道長からは遠い関係の三条天皇が即位します。三条天皇にも中宮として道長の娘、妍子を入内させましたが、三条天皇は昔からの妃、娍子を寵愛します。ただし、道長は孫を皇太子として認めさせることには成功します。そして道長はさらに大胆にも、三条天皇に退位を迫ります。三条天皇は抵抗しますが、結局は道長に抗することはできず、道長はついに自分の孫を天皇の位につけたのです。それが後一条天皇です。そして皇太子もその弟とすることで、二代続けての天皇の祖父の地位を固めました。
道長の攻勢はこれで終わりません。孫である後一条天皇の中宮にこれまた娘の威子(後一条天皇から見れば叔母)を入内させることにも成功し、そこで冒頭の「この世をば」の歌が詠まれたのです。
結局、道長の娘たちからは、彰子、妍子、威子、嬉子と4人の中宮が生まれ、3人の天皇が道長の外孫として誕生しました。傍目には強引に見える道長のやり方ではありましたが、実際に公卿たちの足の引っ張り合いは少なくなりました。そして11世紀の平安文化全盛期を迎えることになったのです。
今回の学びは以下のようになるでしょう。
・目標を決めたら徹底的にやり切る。時には常識外れのことをする度胸も必要
・物事はタイミングが大事。幸運の女神に後ろ髪はない
・キーパーソンの行動原理を正しく理解し、適切な手を打つことが人を動かす基本