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井伊直弼の不運――合理が通らぬこともある

投稿日:2016/03/15更新日:2019/04/09

今回は江戸時代末期のキーパーソンである井伊直弼を取り上げます。

井伊直弼は、「開国の英傑」という評価もある一方で、一般の人々が連想するのは、江戸時代でも屈指の弾圧であった「安政の大獄」と、彼自身がテロに倒れた「桜田門外の変」というのが多数でしょう。そうしたこともあって、井伊直弼のファンという方は、地元の彦根近辺の方を除けばそれほど多くはないようです。しかし、直弼が冷血な人間だったかと言えばそんなことは全くなく、むしろ運命に翻弄された人間という側面が大です。今回はそうした直弼の数奇な人生を見ていきます。

井伊直弼は1815年、彦根藩当主の一四男として生まれました。井伊家は名門で、江戸幕府の大老を多く輩出する家系です。しかし直弼は庶子の一四男ということもあり、32歳になるまでは政治の表舞台に出てくることはありませんでした。茶や和歌、禅などを嗜む部屋住みの文人というのがそれまでの直弼の生き方でした(特に茶道に関しては書籍まで著しており、現代でも岩波文庫で読むことができます)。

状況が変わったのは、兄であり世継ぎでもあった当主が亡くなってからです。直弼以外の兄は他家に養子に出されていたため、突然直弼が彦根藩の当主候補になったのです。1846年のことでした。そして1850年に正式に彦根藩主となります。ペリー率いる黒船がやって来る3年前のことでした。

彦根藩主となった直弼は、領民に優しい政治を行いました。皮肉なことに、後に安政の大獄で処刑されることになる吉田松陰からも、「名君」との評価を得ます。江戸幕府の重鎮としても活躍した直弼は、1853年の黒船来航に当たって、開国を主張しました。

当時の直弼の置かれた立場は微妙なものでした。我々は、黒船がいきなり来航してから幕府があたふたと開国するべきか否かを議論したと錯覚しがちですが、幕府もそこまで馬鹿ではありません。たしかにアメリカが前触れなく威圧的に開国を迫ってきたのは意外だったかもしれませんが、それに先立つ1840年に、清国がアヘン戦争でイギリスに手痛い目に遭ったという情報などは当然届いていました。当時、最も海外に関する情報を収集し、開国に向けての議論をしていたのは、やはり幕府だったのです。幕府の中では、欧米列強に武力で対抗しても勝てる見込みはないから、開国もやむなしという意見が、ペリー来航前からそれなりに強かったのです。直弼自身も、現実路線としてまずは開国し、交易によって国力を高めるべきという意見でした。

一方で、当時は尊王攘夷の思想が広がっていました。その先頭に立っていたのは、徳川御三家の名門、水戸藩の徳川斉昭です。その影響力は多大なものがありました。また、当時は尊王の動きもあって、皇室の存在感も高まっていました。当時の孝明天皇は外国嫌いで、強硬な開国反対論者でした。

そうした微妙な状況が続く1858年、アメリカのハリスが日米修好通商条約の締結を迫ってきました。幕府内はもちろん、斉昭をはじめとする攘夷論者も入り交じって議論は混迷を極めます。そこで直弼らは、条約締結に当たって孝明天皇の勅許を仰ぐことにしました。それまでは、天皇の勅許は名ばかりのもので、実質は事後承諾でしたから、大きな方針転換と言えます。

直弼の誤算は、孝明天皇の心象風景を見誤ったことです。もともと外国嫌いであることに加え、もし自分が勅許を下せば、それは孝明天皇に責任が生じることになります。孝明天王はそれを恐れたのか、条約締結を認めませんでした。悪く言えば、直弼の根回し不足が招いた結果です。そうした中、直弼は大老に任じられます。実質的な幕府の責任者となったのです。

議論は紛糾していましたが、ハリスを待たせすぎるわけにもいかないため、直弼は勅許なしで日米修好通商条約に調印します。厳密に言えば、直弼は、斉昭を説得したりするために、できるだけ引き延ばすようにと部下に指示を出していたのですが、開国に逸る岩瀬忠震らの部下が、直弼の支持を無視して条約に調印してしまったのです。これも、悪く言えば部下に対する指示の不徹底、管理不足です。朝廷は水戸藩と諮って幕府の方針に公然と異議を申し立てました。当時、徳川御三家とはいえ一大名が朝廷と組んで幕府に反旗を翻すというのはご法度でした。

そうして起こったのが同年の安政の大獄です。直弼は、国論が割れる状態を何とか解決したいという目的もあり、朝廷と水戸藩結託のキーパーソン探しに走りました。その過程で、先述した吉田松陰を筆頭に、尊王攘夷派の浪士たちを多数処罰しました。こうした行動は、つい数年前までは文人であり、また領民に優しい名君でもあった直弼像からはかなり乖離しています。しかし、内向的で真面目な人物が、プレッシャーの中で極端な行動をとることはままあることです。真面目であるがゆえに、自分の役割を果たさなくてはならないという強迫観念に捉われ、極端な行動をとることで事態を収拾しようとするのです。

しかし、安政の大獄は事態の収拾にはつながりませんでした。水戸藩では過激な攘夷派の武士たちが脱藩し、直弼の命を狙うようになります。その情報は直弼の元にも届けられていました。

それにもかかわらず、直弼は井伊家の屋敷から江戸城に向かう護衛を増やすことはしませんでした。大老自らが幕府のルールを破ることはできないというのがその理由でしたが、すでに直弼の頭の中には、避けられない運命が見えていたのかもしれません。そうして、1860年3月3日の朝、大雪の桜田門外で直弼は攘夷派の浪士に斬首され、44歳の短い生涯を閉じることになってしまったのです。

その後もしばらく攘夷の思想は残りましたが、江戸幕府を倒した薩長が180度方針を転換して積極的に欧米の文明を取り入れたのは、歴史の皮肉と言えるでしょう。アメリアが南北戦争で日本にかかわる余裕がなくなった、あるいは英仏が清などの資源国を優先して植民地化したため日本をそれほど重視しなかったなどの幸運もありましたが、日本は明治政府の下、他のアジア諸国とは異なり、植民地化されることなく発展することになっていったのです。泉下の客となった直弼が、そうした歴史の変転をどのように見ていたのかは興味深いところです。

今回の学びは以下のようになるでしょう。

・合理的であっても、根回しが不十分なままでことを進めると、事態は混乱しやすい
・内向的で真面目な人間はしばしば極端な行動をとることがある。人材マネジメントにあたって意識すべき
・一方で、保身的な人間ではないからこそできる大胆な革新もある。それを組織としてどう活用するかは非常に重要。覚悟を決めた人間は強い

  • 嶋田 毅

    グロービス経営大学院 教員/グロービス 出版局長

    東京大学理学部卒、同大学院理学系研究科修士課程修了。戦略系コンサルティングファーム、外資系メーカーを経てグロービスに入社。累計150万部を超えるベストセラー「グロービスMBAシリーズ」の著者、プロデューサーも務める。著書に『グロービスMBAビジネス・ライティング』『グロービスMBAキーワード 図解 基本ビジネス思考法45』『グロービスMBAキーワード 図解 基本フレームワーク50』『ビジネス仮説力の磨き方』(以上ダイヤモンド社)、『MBA 100の基本』(東洋経済新報社)、『[実況]ロジカルシンキング教室』『[実況』アカウンティング教室』『競争優位としての経営理念』(以上PHP研究所)、『ロジカルシンキングの落とし穴』『バイアス』『KSFとは』(以上グロービス電子出版)、共著書に『グロービスMBAマネジメント・ブック』『グロービスMBAマネジメント・ブックⅡ』『MBA定量分析と意思決定』『グロービスMBAビジネスプラン』『ストーリーで学ぶマーケティング戦略の基本』(以上ダイヤモンド社)など。その他にも多数の単著、共著書、共訳書がある。
    グロービス経営大学院や企業研修において経営戦略、マーケティング、事業革新、管理会計、自社課題(アクションラーニング)などの講師を務める。グロービスのナレッジライブラリ「GLOBIS知見録」に定期的にコラムを連載するとともに、さまざまなテーマで講演なども行っている。

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