「グリーンライト」の重盗サイン
第1回大会の2006年、第2回大会の2009年と連覇を果たし、今回も期待されたWBCの侍ジャパン。これまでの大会とは違って、イチローをはじめとする日本人メジャーリーガーの出場がなかったこともあり、当初はあまり期待も高くなかったようだが、日本で開催された第1ラウンド、第2ラウンドを突破し、ベスト4に進出してからは、俄然3連覇への期待が高まってきた。強豪のアメリカはこの段階で姿を消しており、あとはプエルトリコと、おそらく決勝に勝ち上がるドミニカ共和国を破れば3連覇に手が届く。
WBCという大会については、「アメリカの事情を優先させすぎ」「参加国が限定されたり、同一カードが多くてやや退屈」などといった批判も多いものの、何とか改善を重ねて第3回大会開催にこぎつけた。サッカーとは異なり、真剣勝負の国際試合が組みにくい野球において、批判はあろうが試行錯誤でこうしたイベントを3回続け、新コンテンツ創出に尽力してきた関係者の努力にまずは敬意を表したい。
さて、準決勝は緊迫したロースコアゲームとなった。プエルトリコがまず1回表に1点を先制、7回表に2点を追加し、リードを3‐0に広げた。日本チームももはやここまでかと思われたが、8回裏、反撃を開始し、3連打で1点を上げ、さらに1アウト1、2塁と攻め立てた。2塁ランナーはドラゴンズの井端、1塁ランナーはホークスの内川、そして打者は日本チーム最強打者の4番阿部(ジャイアンツ)である。日本人ファンも多い会場のサンフランシスコ・AT&Tパークはにわかに盛り上がりを見せ始める。
そしてここで「あの重盗(ダブルスチール)」失敗が起きる。日本ベンチのサインは「重盗をしろ、しかしタイミングは任せる」であった。このサインを専門用語で「グリーンライト(青信号)」と呼ぶ。
2球目、「行ける、このタイミング」と判断した1塁ランナーの内川が、2塁ランナー井端の動きも見ながら、猛然と2塁へ走った。しかし、3塁に向かって走ったと見えた2塁ランナーの井端は3塁には向かわず、2塁に帰塁する。行き場をなくした内川はもちろんすぐにタッチアウト、2アウト2塁となってしまった。結局、阿部は内野ゴロでこの回は1点どまり。最終回も四球でランナーこそ出したものの、ヒットは出ず、侍ジャパンは1-3での苦い敗北となった。重盗失敗によってモーメンタム(勢い)が削がれたのは傍目にも明らかで、まさに痛い重盗失敗となった。
当然のように、その日の野球ファンはこの話題でもちきりになった。
「あのシーンで重盗はない。4番の阿部を信頼すべき」
「重盗するにしても、グリーンライトのような曖昧な指示ではなく、明確に『走れ』のサインを出すべきだった」
「結果論で物事を言うのは簡単。当日、阿部がことごとくチャンスで凡打していたことを考えれば、1ヒットで同点を狙える重盗はおかしくはない」
ちなみに、Yahoo!のアンケートサイトでは、「WBC日本で走者に重盗のタイミングを任せるサイン、どう思う?」(実施期間:2013年3月19日~2013年3月29日)で、
合計:289,544票
このサインで妥当だった21,378 票(8%)
「次の1球で走れ」と指定すべきだった127,429 票(45%)
走者は動かさないべきだった129,178 票(45%)
わからない11,559 票(4%)
という結果が出ている。少なくともネットのファンは、グリーンライトの重盗サインには否定的なようだ。「結果として失敗したから」というバイアスはあるだろうが、それを割り引いても今回のサインに大きな疑問符が投げかけられているのは間違いない。
果たしてこのサインは妥当だったのだろうか?
「スポーツ選手が全力を尽くした上で出た結果を後知恵でどうこう言うのは野暮」という意見もあろう。個人的にも同感する部分はある。一方で、成功・失敗を問わず、結果を冷静に分析して次に活かすことも、球界にとっては重要なはずである。
本稿では、スポーツを楽しむファンの立場からは野暮な行為であることを承知しつつも、「戦略と実行力」という観点から、今回のサインの是非を検討してみたい。
なお、野球の試合における重盗のサインは、企業経営に例えれば「戦略」というよりはむしろ「戦術」に属するものだが、根源的な部分で近いものもあるので、まずはこの枠組みで話を進めていきたい。
戦略の有効性
筆者は大学院で「経営戦略」や「ストラテジック・インプリメンテーション(戦略実行)」というクラスを教えているが、そのイントロでよくこのような図表を見せる。
経営戦略のクラスでは、実行力については「実現可能性」「ケイパビリティ」などの言葉で多少の意識付けはしながらも、主に左の2つ「経営環境の理解」と「戦略のセオリー」に重点を置く。「5つの力」や「バリューチェーン」「プロダクトライフサイクル」「アドバンテージマトリックス」に代表される分析ツールや「KSF(成功のカギ)」といった概念の使い方について理解を促した上で、セオリーとしてポーターの3つの基本戦略や業界地位に応じた基本戦略などを同時に教え、「この状況ならこの戦略が有意性を築ける可能性が高いだろう」という感覚を身につけてもらう。
一方、「ストラテジック・インプリメンテーション」のクラスでは、「戦略が良くても、なかなかそれが実行されない」という問題意識の下、どうすれば戦略が効果的に実行されうるのかを考える。こちらについては戦略論ほどの定番のフレームワークはないので、ケースシャワー(ケースメソッドの議論を多数こなすこと)でさまざまな知恵を共有したり、勘所を習得してもらったりする。
いずれも非常にクラスは盛り上がるのだが、結局、先の図から言えるのは非常にシンプルな話で、
「どれだけ戦略が良くても実行されなければ意味がない」
「実行力があっても、間違った戦略を実行しては価値を生まない」
ということである。
これらは当たり前の結論だが、より突っ込んで言えば、
「良い戦略とは、競合や市場に対して正しい戦略であるとともに、社内に対しても正しい戦略である」
ということだ。
ここで「正しい」という言葉には、「理にかなった」ということだけではなく、「納得感のある」「(多少のストレッチはあるが)無理がない」といったことが含意されている。だからこそ実際に組織において無理なく実行されるのだ。
よくある失敗は、事業構造の大転換や、変革のシーンで起きがちである。たとえば、数年連続で赤字を出している事業を売却するというのは、競争上は正しい戦略かもしれないが、往々にして従業員や地元の強い反対に合い、頓挫してしまう。
逆に、その事業にさらに経営資源を投入するのは、従業員からの受けはいいかもしれないが、もし競争市場分析やKSF(あるいはその変化)の見極めが甘く、優位性構築につながらないなら、まさに無駄にリソースを浪費する自殺行為だ。
非常に難しいことではあるが、「外にも正しく、内にも正しい」戦略を立て、それを地道に実行していくしかないのである。エクセレントカンパニーとされるセブン-イレブンや、コマツの建機事業などは、まさにこれらを地道に行って現在のポジションを築いた例といえよう。
ぜひ皆さんの会社でも、最近打ち出されている戦略が、内にも外にも正しいか、そしてそれを実行する人材(トップからフロントに至るまで)がちゃんと揃っているか検討していただきたい。
改めて、あの重盗サインは「正解」だったのか
冒頭の重盗サインに戻ろう。はたしてあのサインは「外に対しても内に対しても正しい」選択だったのだろうか。
話を簡単にするために、まず、同じ重盗でも今回のようにグリーンライトとするか、「『次の1球で走れ』と指定すべき」だったかを考えてみよう。先に紹介したアンケートでは「『次の1球で走れ』と指定すべき」の人気が高かったが、これはほとんどのプロ選手が否定している。たとえばイチロー選手は、「ダブルスチールはグリーンライトが通常。ここで行け、というのはない」という旨のことを語っている。
実際、「ここで走れ」のサインを出した時に、ピッチャーが比較的クイックなモーションで、しかもキャッチャーが最も3塁に投げやすい(左打者の)外角高めのボール球を投げてきたら、ランナーが3塁で刺される可能性はかなり高い。重盗を狙うのであれば、ベンチの決め打ちではなく、選手に「権限移譲」してグリーンライトのサインで行くのは筆者も妥当と考える。
では次に、重盗のサイン自体は妥当だったのだろうか。これについては、橋上戦略コーチのこの発言がヒントになる。
「投手はロメロ。投げ始めから捕手に球が届くまで1・8~1・9秒というデータがあった。三盗の目安は1・6秒。100%走れる。まず1球見て、タイムもモーションも確認できた」(Sponichi Annex 2013/3/20)。投球モーションの大きな投手だから、うまくタイミングを盗めればかなりの確率で成功できるという考えだ。
ではもう1つの外部要因としてキャッチャーはどうか。今回のプエルトリコのキャッチャーは、メジャーリーグでも屈指の盗塁阻止率を誇る強肩モリーナである。彼の強肩ぶりは動画サイトでも見られるので、論より証拠、ご興味のある方はぜひご覧いただきたい。おそらく、日本で彼に勝る強肩キャッチャーはいないだろう。
こうして見てくると、ピッチャーのモーションは確かに大きいかもしれないが、一方でキャッチャーは超強肩。しかも打者の阿部は左打者であり、右打者が打席にいるのに比べ、キャッチャーは3塁に投げやすい。これだけでも非常に微妙な状況だったことがわかる。
もう1つ忘れてならないのは、1塁ランナーが内川選手ということだ。彼は決して鈍足ではないものの、昨シーズンまでランナーとしては、盗塁32、盗塁死33という凡庸な記録しか残していない。ただでさえ、2塁走者の動きを気にしなくてはならない上に、強肩でメジャーでの経験も豊富なモリーナ捕手ということを考えれば、スタートをミスしてしまえば、井端の3塁への盗塁は成功しても、2塁で内川が刺されるというリスクもある。強肩ベテラン捕手を相手に重盗というサインは、非常にリスクを孕んでいるのである。
では、そのリスクを回避するためには何が必要か。当たり前であるが、事前に関係者がしっかり「決めごと」を確認するとともに、それを実戦形式も交えた練習で体感するしかない。ピッチャーがこういうモーションで2塁ランナーがこういうスタートを切ったら、1塁ランナーも全力で2塁を狙うといったことである。
そこで今回難しいのが、代表チームが即席の混成チームであるということである。前出の橋上コーチによれば、重盗の練習も行ったし、相手の分析もしたというが、メジャーを代表する強肩捕手相手、さらには1点を争う緊張した場面で実行力が伴うかと言えばはなはだ心もとない。
これがレギュラーシーズンでいつもの仲間とやるプレーなら、自ずと呼吸も掴めようし、実戦で繰り返すこともあるだろうから、そこで学び、「実行力」を高めることもできよう。しかし今回はその条件は当てはまらない。
こう考えてくると、ただでさえ難しいプレーを、即席の混成チームでやろうとしたことは、「外(敵)に対しても微妙だし、内(選手)に対しても微妙」と言えそうだ。結果論にはなるが、おそらく成功確率3分の1から4分の1程度のプレーだったのではないかというのが筆者の感覚値である。
高度な連携が求められるプレーをWBC(あるいは将来復活するかもしれないオリンピック)の場に向け、どう熟成させていくかは、国際試合の経験が少ない日本代表野球チームの大きな課題だろう。
確率論から考える
では、ベンチの出したグリーンライトの重盗のサインは全くの無理筋だったのだろうか?
忘れてならないのは、その時点で依然日本は2点差で負けていたということだ。しかも日本では実績十分の4番とはいえ、打者は必ずしも本調子ではない阿部である。何も動かずに静観しているのも、実はリスクをとっていないようで、「何かした方がいいのに動かない」というリスクをとっているのである。
筆者は「ビジネス定量分析」のクラスでも登壇することがあるのだが、ディシジョンツリーを扱う回で図のようなスライドを見せ、投資案件Aに投資せざるを得ない状況を考えてもらう。
自腹の投資案件 これでも投資案件Aを選ぶのはどんな人?
ほとんどの人が「自分事」であれば案件Bを選ぶこのケースにおいて、案件Aを選ぶのはどんな人間だろうか?
例えば、会社の資金を不正に横領して8000万円の「穴」を空けてしまった経理部長は、計算上の期待値が低かろうがAを選ばざるを得ないだろう。確率論から言えば、何十回も繰り返すのであれば、Aを選べば確実に損をする。しかし、人生は1回きりだ。人生に何回もある意思決定ならAを選ぶべきだが、1回しか遭遇しないような追い詰められたシーンであればAを選ぶことにも一定の合理性はあるのである(実際には、まさに確率に従って、ますます「どツボ」にはまるケースが多いのだが)。
あるいは、そこまで特殊な事例ではなくとも、切羽詰まった状況下で、「長く続ければ絶対にマイナス」の方策を敢えてとることは少なくない。
スポーツのケースでは、試合終了間際に1点差で負けているアイスホッケーチームの例が典型的だ。通常、アイスホッケーでは、5人のフィールドプレーヤーと1人のゴールテンダー(キーパー)の編成で戦う。仮に1試合中キーパーを置かず、6人のフィールドプレーヤーで戦ったとしたら、ほぼ間違いなくそのチームは負けてしまうだろう。
しかし、試合終了間際に1点差で負けている状況では、多くのチームはキーパーを下げ、6人のフィールドプレーヤーを投入する。守備力は激減するが、攻撃力を数十%アップさせて同点の可能性に賭けることが、このシーンに限っては合理的なのである。成功確率は必ずしも高くはないが、むざむざ負けるよりは理にかなったプレー選択なのだ。
もう一度話を重盗の場面に戻そう。確かにプレーとしてはまだ練り込めていないし、舞台役者のことを考えても成功確率は決して高くはなかったかもしれない。しかし、仮に重盗が成功し、次、もしくは2アウトからでもタイムリーヒットが出れば、一気に同点である。図に示したAのケースほど極端ではないかもしれないが、チャレンジしてみる価値は十分にあったとも言えるのである。
こうした確率をベンチがどのように判断していたのかは、残念ながら部外者である筆者には不明である。そしてそれが「理にかなった」プロセスで決定されたのかも知る術はない。
ひょっとしたら典型的な確証バイアスが働き、「ピッチャーのモーションの大きさ」は過大に見積もる一方で、自分たちの練習不足や相手キャッチャーの力量を過小評価していたのだとすれば、それはそれで大きな問題である。誰も反対できないような同調圧力があった結果、集団浅慮となった可能性も否定できない。
あるいは、実現可能性は納得度の関数でもあるから、「このベンチが出す作戦なら行けるだろう」と思えるような信頼を選手がベンチに置いていたかという問題もある。これは噂の域を出ないが、山本浩二監督については、必ずしも求心力は高くなく、特に東尾コーチをはじめとするコーチングスタッフの掌握度合いに不満を抱く選手もいたとの報道も複数のソースから漏れ聞こえてくる。
内川や井端があのサインを受け取った時に何を感じたのか、現段階では確かなことはわからないが、時間がたって「実はあのときは…」という本音の話が聞けるのであれば、それを参考に次に活かしてほしいと思う。「よし!」という感覚だったのか、「えっ!?」という感覚だったのか。その違いは実はきわめて大きい。
WBCに限らず、国際試合の珍しい野球では、これをキラーコンテンツ化することの意義は大きいはずである。
今回は1試合の1プレーだけを取り上げたが、選手、監督の招集を含めた組織作り、チームとしての力の向上、正しい意思決定をするための仕組み、大舞台でも実力を発揮するための工夫など、過去の成功や失敗から学べることは多いはずだ。
ぜひ、関係者には「終わったことだから」と流すのではなく、後に残る「知」としてそれらを分析し、伝えていくことを期待したい。そうした営みの継続こそが、真に強い組織を作るベースだからである。
最後にもう1つ。先に、重盗のサインなどは本来は戦術に属することと書いた。
より視座を高め、戦略に近い話をすると、日本代表が志向している小回り重視の「スモールベースボール」は国際試合の戦略としては理にかなっていると筆者は考える。過去2回の優勝はその証左だ。その代わり、そこには緻密さや、一見逆のようには見えるが、計算された大胆さなどが必要なはずである。スモールベースボールを標榜する以上、実は今回のようなプレーはもっと練りこんでおく必要があったはずだ。だからこそ、今回のプレーは「済んだこと」で済ませるのではなく、さまざまな角度から検証すべきなのだ。
こうしたより大きな視座を踏まえた上で、個々のプレーを磨き、今後も好成績を残すことを日本代表チームには期待したい。