今回は、中世のヨーロッパで吹き荒れた「魔女狩り」について集団心理の面から考察します。魔女狩りはいまだに比喩的な意味合いで用いられることもあるなど、個人に対する不合理な集団的攻撃の代名詞ともなっています。第二次大戦後にアメリカで吹き荒れた「赤狩り(レッドパージ)」もしばしば魔女狩りに擬せられることがあります。なぜそのようなことが起こってしまうのでしょうか。
中世の魔女狩りに関してはいまだに謎が多く、その犠牲者数も数万人から数百万人説まで非常に幅があります。また、それが猛威をふるった時期に関しても、14世紀頃から数世紀にわたってという説もあれば、1600年の前後数十年くらいという説もあり、一定しません。正確な統計などがない時代の暗黒部分の話なのでやむを得ない部分もありますが、それだけ広範にわたって起こった出来事であり、かつ多くの人々にとって忌まわしく忘れたい出来事であった証左と言えるのかもしれません。
「魔女」という言葉からしばしば誤解されることがありますが、魔女狩りのターゲットは女性だけではありません。男性も、「あいつは怪しい」と告発されれば裁判を受け、時には拷問によって魔女(魔男)であることを白状させられました。実際の犠牲者は女性が圧倒的に多かったようですが、地域や時期によっては男性の犠牲者が多かったこともあるようです。いったん魔女と認定されれば、地域や時代にもよりますが、厳しい刑を受け、死に至らされました。
古来より、魔女狩りが起こった理由、そしてそれが長きにわたった理由としてさまざまなものが提唱されています。まずは、異端尋問がエスカレートし、魔女狩りにつながっていったという説。一時期までは支持されたようですが、最近では少数派です。
時の権力者や教会が、恐怖政治や平民のガス抜きのために行ったとする説もあります。またあるいは、教会にとっては、魔女の財産を没収できるため、積極的には魔女狩りを起こさないまでも、止めるインセンティブはなく、それが人々の暴走を加速したという説もあります。ただ、これらは、どれも一定の説得力がある一方で、反証も多く、決定的な根拠と言えるまでには至っていないようです。
近年では、人々の不安と集団ヒステリーとが相まったという意見が強いようです。筆者もその意見が最も適切と感じます。当時は世の中で天災(例:ペストの流行など)やキリスト教の宗教観の変化など、さまざまな事件や変化がありました。人々の不安が募るなかで、何かしらのはけ口が必要だったのではないでしょうか。実際、魔女狩りのターゲットとなったのは、あまり知人がおらず、孤立しがちな女性でした。彼女らは、ほとんど反撃の手段を持っていません。そうした人間をターゲットにすることで、人々は精神的な安定を求めたように思われます。
冒頭に戦後の「赤狩り」の例を出しましたが、当時は東西冷戦の真っただ中でした。そうした不安な時代に、どこかしらにスケープゴートの候補がいれば、それを攻めることで心の安寧を得たいというのは人間の自然な心理と思われます。
とはいえ、中世ならまだしも、なぜ理性が支配すると言われる現代に至るまで魔女狩りもどきが続くのでしょうか? そのヒントは同調圧力にあると思われます。かつて山本七平は「空気」という概念を提示し、日本人の同調圧力に対する弱さを指摘しましたが、同調圧力に弱いのは日本人だけではありません。さまざまな社会科学的実験により、どの民族であれ、同調圧力に弱いことは示されています。
いったん同調圧力が強まると、どれだけ理性的であっても、場の「空気」に逆らうことは難しいものがあります。むしろ、理性的であればあるほど、場の空気に逆らって自分が不利になることを避けようとするものです。それだけ、「空気」の圧力は強いことを知っているからです。おそらく、魔女狩りが盛んだったころ、理性的な人もいたとは思われますが、そうした人ほど口をつぐんでいたことでしょう。なまじ弁護に入ると、今度は自分が魔女扱いされてしまいかねないからです。こうしたことが積って惰性的に続いていったのが中世の魔女狩りでしょう。
しかし21世紀に生きる我々とて、それを笑うことはできません。第二次大戦の泥沼に陥った日本軍の例を見るまでもなく、「空気」に対抗して正論を述べるのは、かなり勇気のいることだからです。それはまた、命までは奪われないまでも、現代の企業社会でもある程度は言えることです。
人間、誰しも組織人である以上は人事考課や周りの評価を気にします。組織の大多数がある方向に流れそうな時に、「それはおかしい」と思っても、あえて人事考課上のリスクを冒すのは少数派です。また、仮に企業が間違った方向に行ったとしても、多数派についていれば個人的責任は分散されるという計算も働きます。つまり、利に敏い人間ほど、同調圧力には抗するのではなく、巻かれる方が得という計算が働くのです。
この同調圧力からの脱却を個人に任せるのは酷というものです。組織として全会一致は承認しないなどの工夫を凝らすか、「悪魔の代弁者」(多数派に対してあえて反論をする役割)などの手法を用いない限り、個人は集団にはなかなか勝てないのです。特に、経営環境が厳しく、ヒステリー的な集団浅慮が起きやすい環境ではその要素は強いと言えるでしょう。
中世の魔女狩り、あるいは現代の魔女狩り的な出来事から、我々は以下のことを学ぶ必要があると言えそうです。
●個人が「空気」に抵抗するのは難しい。トップに近い人間ほど、自分が「空気」に巻き込まれていないかメタな視点で見ることが必要
●そのためには、属人的な歯止めだけではなく、組織としての歯止めを用意することが重要
●人間は不安が高じると同調圧力に流れやすい。不安な時こそ反対意見を聞く勇気と英知を持つべき
幸いにして、昨今は人材の流動性も高まっています。明確な根拠があるのであれば、同調圧力に抗する勇気を持つことは、蛮勇ではなく、好意的に評価される時代になってきたとも言えます。勇気を奮えるだけのエンプロイヤビリティ(被雇用能力)を常日頃から高めておきたいものです。