制服を着た女子高生のキャラクターが名作文学などを朗読してくれるiPhoneアプリ「朗読少女」。これまでに100万ダウンロード突破を記録した人気アプリである。運営しているのは株式会社オトバンク。25名の社員が在席するベンチャー企業だ。
しかし、オトバンクはアプリ制作の会社ではない。その掲げる企業理念は「『聞き入る文化』の創造」「究極のバリアフリーの達成」「出版業界の新興」。本や講演会を音声化した「オーディオブック」の配信サービス「FeBe(フィービー)」を事業の中心に据え、8000を越えるコンテンツを保有。8万5000名超の顧客基盤を持ち(2013年3月)、今も精力的に市場開拓を進めている。その戦略を代表取締役社長・久保田裕也氏に聞いた。
「やめておいた方がいい」と言われて…
オトバンクは、視覚障害者を対象とした本の対面朗読をするNPOとして着想された。
オーディオブックは世界では1100億円以上の市場が存在すると言われ、米・英・仏・独などの先進国においては紙の本ほどではないにせよ、一定以上の認知を得て慣れ親しまれている。しかしオトバンクの始動時、日本においては「ありそうでない市場だった」と久保田社長は言う。語学系の音声サービスは当時から数多くあったが、オーディオブックは根付いていなかった。
そこに株式会社化のきっかけがあった。「目の不自由な方々だけを対象とすると、どうしても売れる数、即ち作れる数も限られる。たくさんの本を音声化するには、それ以外の人々のニーズも呼び込まなければ真の意味での“アクセシビリティの最大化”は見込めない」(久保田社長)。オーディオブックが当たり前に制作され流通する市場を作らなくては、特定のチャネル、たとえば図書館で貸し出し用に提供されるような少人数向けのものにしかならず、社会に大きな貢献ができない。創業メンバーは、そう考えたのだ。
しかしゼロからのスタート。無論、順調には行かなかった。出版社に事業化の相談に行くたび、にべもなく「やめた方がいい」と言われる。作家に直接、音声化を持ちかけようにも知己がない。「日本では成功した事例はないし、米国でうまくいっているのは国土が広く、車社会だから、移動時間に聴くというニーズがあるためだ。それをそのまま日本にあてはめても、うまくいくわけがない」というのが大方の意見だった。
しかし創業者の上田氏が粘り強く、しつこくヒアリングを重ねるうちに、「出版社の本音が見えてきた」と、久保田社長は説明する。根底にあるものは、ユーザーの取り合い、或いは、粗悪な音声コンテンツにより本のほうの価値も減損する、といった、権利の二次利用に係る警戒感だとやがて気付いたのである。
そこで「まずは出版社や作家からの信頼を得ることに徹した」(久保田社長)。この一環で行われたのが2006年1月の「新刊JP」という本のPRサイト立ち上げだ。新刊JPは出版社が刊行した本を無料で紹介するサイトで、月間1700万PV(2012年5月)を誇るまでに成長している。
「無料ですので、御社の本を紹介させてください」と、出版社に足繁く通って掲載許可を求める日々。そして1年ほどして、次第に新刊JPで紹介した本の中から特に売れるものが出てきた。出版社が特にプロモーションをしたわけでもないのに売れる。なぜか?と営業担当や編集担当が調べ、それが、新刊JPの貢献であると理解されるようになるに従って、出版各社とオトバンクとの関係が徐々に良好になってきた。
「新刊JPの運営により、出版社の方々に自分たちが本を作る作家や編集者の気持ちを大切にする存在であること、決して競合する存在ではないことを分かってもらえた」(久保田社長)。結果、ボトルネックとなっていた権利処理が一つ、また一つと進むようになった。そして2007年1月、心ある出版社や作家の協力を得て、ドラッカーの経営論など数冊からオーディオブック配信サービスのFeBeが立ち上がったのである。
しかし、FeBeが立ち上がって間もない2007年前半に、早くも競合が登場した。世間ではネットワーク環境の向上、モバイル化が進行しており、これに足並みを揃えるようにしてオーディオブックの会社が10社ほど設立されたのだ。その出資母体には大手印刷会社や音楽配信会社などもあった。しかし、「焦りはなかった」と久保田社長はいう。なぜならば「権利関係をクリアできなければ大規模な展開はできないはず」と考えたからだ。
久保田社長によれば、オーディオブックの市場におけるKSF(KeySuccessFactor)は「作家や出版社が大切にしているコンテンツを、自分たちも大切にしているのが伝わること」だという。「一見すると複雑にも思える市場かもしれないが、バリューチェーンで考えれば、著作権・版権処理→制作(音声化)→取次・販売、という、たった3段階で実にシンプルな構造になっている」(久保田社長)。音声化について、オトバンクでは創業当初、“日銭”の獲得も兼ね、他社のE-learningコンテンツの音声データ作成などを受注し、コストカットや品質向上のノウハウを徹底的に蓄積してきた。だから、技術面でも充分な自信はある。しかし、業界への参入障壁を築いているのは圧倒的にその手前の段階、権利許諾の部分という。
そのとおり、その後10社の競合はことごとく撤退をしていった。
「この事業においては悩むべきところは、いかに売上を上げるかではなく、別のところにある」と、久保田社長。その言葉どおり、オトバンクは彼らが業界内のDMU(DecisionMakingUnit)を明確に理解していたから生き残った。彼らは、自分たちの顧客がエンドユーザーだけではなく、コンテンツの作り手=出版社の編集者や作家でもあることを強力に意識しており、これが差異となったのである。
商売の王道はCRMにあり
「取次・販売」においても、特筆すべき点は多い。
同社の成長する力は、目先の利益を追うのではなく、顧客との関係性を徹底して構築した“我慢の時代”に培われたといえる。ともすれば、多数のユーザーにリーチしやすいというウェブの特性から多数の新規顧客を追うことに目が行きがちなところを、既存顧客の利便性を高めて囲い込むことに注力したのである。
当初、制作対象とするコンテンツは「大ヒットは見込めないが、しっかりとお金を落としてくださるお客がいる」ビジネス書や専門書に集中させた。小説などだと、登場人物によって朗読者を変えなければいけないというコスト面での事情もあったが、難しい本をずっと睨み続けることが苦手と考えたり、時間を節約したいと考えたりする人にとって、これらを「聴くだけで“読める”」利益実感は大きかった。
そして、顧客1人ひとりの行動を愚直に分析し、「これはAさんが欲しそうな本だ」「Bさんならこんなジャンルも好むかもしれない」とリアルに想像しながら1冊また1冊と販売コンテンツ数を増やしていった。想像の世界で御用聞きをするようなやり方で、着実に1人あたりのリピート回数を高めていったのである。
聞けば、久保田社長の得意分野はサイトのユーザー履歴の分析であるという。学生時代、アイトラッキングなどウェブ上のユーザー導線を心理学的アプローチなども用いながら設計する会社でインターンをした経験が、ここで非常に生きたようだ。顧客のログデータを個人単位、ページ単位で調べ上げ、定性的な仮説を定量的な分析で裏付け、サイト導線改修や、新コンテンツの企画に反映させていく。そうした蓄積から「当初持っていた、都会のビジネスパーソンが隙間時間に使う、というだけではなく、例えば地方都市の医師など富裕層が確実な固定客になるというような成功方程式も見えてきた」(久保田社長)のだという。
そうした着実なやり方で100人、また100人、とゆっくり顧客基盤を拡げていったのには、「紙の本の店舗並みの品ぞろえをいきなり作り出すのはリソース的に難しい」という事情ももちろんあった。「何かのきっかけでサービスがヒットしても、当時の自分たちの“書棚”は閉店間近のスーパーマーケットのようにガラガラな状態。新規顧客を一気に増やしても、かえって信頼を失い機会損失を出してしまう」(久保田社長)と考えたのだ。
そのため焦らずじっくりと事業を進め、2007年末、1500〜2000名の顧客を確保したところでようやく、知名度の高い作品も扱うようになった。しかし、目標は常に「量より質」に置いていたという。驚くべきことに、顧客が目標の1万人に近づくまで、久保田社長は顧客の行動を1人1人分析し続けていたのだという。「絶対に買ってくれる1万人を作ろうと思った」と、久保田社長は深夜までデータを睨んだ当時を述懐する。
「5:1の法則」と「5:25の法則」と呼ばれるものがある。前者は「新規顧客獲得コストは既存顧客の維持コストの5倍かかる」ことを、後者は「顧客離れを5%改善すれば、最低でも利益が25%改善する」ということを意味している。いずれもリピート顧客確保の重要性を意味するCRM(CustomerRelationshipManagement)の基本である。同社はその基本にどこまでも忠実に行動し、成長の軌道に乗ったと言っていい。
創業の理念を実現する手段としての「朗読少女」
さらに2009年〜2010年にかけて、オトバンクは順調に顧客を伸ばしつつ、出版社とのリレーションもさらに拡げていった。その頃には作家個人から直接に、「オトバンクになら任せられるから」と、本のオーディオブック化のリクエストも入るようになってきた。そして、顧客が3万〜4万人に達した時点で徐々に拡大するという堅実路線から一気に拡大路線へと舵を切った。
「他国の先行市場では文芸書が多い。しかし文芸書をやるなら顧客像の裾野を広げなければダメだと考えた」のだという。顧客基盤を拡げ、扱うコンテンツの種類を多種多様なものにする——。いよいよNPOのアイデアから株式会社に転換させた原点の想いを遂げるフェーズに入ったのだ。
その起爆剤としてリリースしたのが2010年7月にサービスインした「朗読少女」だった。
構想自体は2008年頃からあったという。iPhoneの登場によって動画を活用したオーディオブックをアプリの形で提供できないかと考えていたのだ。
商品コンセプトは半年間を費やして固めた。使用シーンは一人暮らしの男性が、「知っているけれど読んだことがない作品を隙間時間で聞ける」というものだ。“制服の美少女キャラクター”はあくまで衆目を集めるためのきっかけのため、純粋に本を楽しみたい人や女性が気後れしないよう“オタク”的な要素はギリギリまで省くよう、キャラクターのスカートの丈にまで注文を出し、調整していった。
商品の要であるキャラクターボイスについても、100人の声優をオーディション、面接し、決定した。ポイントは「本が読めて、本が好きな人」であること。「単に字面を上手に読めればいいというものではない。朗読を聞けば、本好きか否かはやはりにじみ出てくる」と久保田社長は笑う。いわゆる“萌え声”ではなくきちんと「読み聞かせる」ことができる点が評価されて、声優のささきのぞみ氏が選ばれた。また、コンテンツとしては、一般に知られている名作を取り上げるという方針で『羅生門』『よだかの星』『ごんぎつね』などを最初にリリースした。創業の目的でもある裾野拡大のためには、マニアなオタク受けをするのではないことが重要だったのである。
その後の成功は冒頭にも述べたとおりである。リリース直後から、一気に、30万、40万というダウンロード数を獲得。本を読むことの敷居を下げた、と出版社からの評価も高く、その後、男性キャラクターを読み手にした「朗読執事」シリーズをリリースするに至った。
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業界のDMUとの信頼関係を構築し、顧客囲い込みに注力して、一歩一歩階段を上るように、着実に歩んできたオトバンクも次なる成長ステージの軌道に乗った。今後の方針は、「オーディオブックをますます広く扱っていくこと」(久保田社長)。
実は久保田社長は、学生時代にバックパッカーとして世界を放浪した経験を持っている。その時、「日本のコンテンツで人生が変わったという外国人に多く出会った」ことが原体験となっているという。日本のコンテンツパワーを強く信じ、いずれは「世界にも発信していきたい」(久保田社長)。その目は、さらに遥か先を見据えているようだ。