社会人になって、はや20余年が過ぎた。その間、商社時代に私を新入社員として迎えてくださった上司の一人は上場している食品スーパーの社長となり、もう一人は業界団体の会長となられた。創立から6年を経たグロービス経営大学院の卒業生からもベンチャー企業の創業者や、昇格や事業承継などによって経営トップに立つ方が見られるようになってきた。また法人研修部門のグローバル研修などで対峙した企業幹部の中からも上場会社のトップが輩出されている。
部下として、或いは講師として、様々な方と接してきた中で、経営者になる人と、そうはならない人の差異を見据えると、前者には「好奇心旺盛で何事にも挑戦する」「良き学習者である」「自分に打ち克つ」という特質が大きく認められる。これら3つの特質は連環し、あたかも陰と陽がくるくると転回する様に似て、それを持つ人を螺旋状に高みへと運んでいくように私には見える。
「好奇心や挑戦」の大切さは、前述の商社時代の上司の姿勢に学ぶところが多かった。いずれも、とにかく力一杯働く方々だった。
私は商社の為替証券部に所属し、彼らの下で為替や株式のディーリングに携わっていたが、彼らからは日々、ありとあらゆる分野での情報収集と分析を求められた。金利差に伴う日米機関投資家の資金の動きから米ロの核軍縮の行方まで、その範疇はミクロ・マクロ、政治・経済、国境などあらゆる枠組みを越え、多岐に亘った。時に、「そこまでは必要ないのではないか」と思われるものもあったが、地理的な、或いは時間的な軸を広範に取って情報を求め、自らの決断の支柱となる世界観や歴史観を更新し続けることが、圧倒的な成果に結びつくという様を見るにつけ、私は旺盛な好奇心の持つ重要性をひしひしと感じさせられた。
株式投資などされている方は実感値としてお持ちかもしれないが、相場というのは極論、張ってみないと分からない。そして張ったからといって勝てるかどうか分からない。肝の据わらない人には耐えられない仕事と思うが、お2人とも日々、とにかく楽しそうに挑戦を続け、成果を出して会社に貢献し、そして結果として出世された。そのエネルギーレベル、バイタリティの高さは確かに他を凌駕していたし、失敗を恐れて挑戦をしないこと、何もしないということもまたリスクであることを感じとらせてくれた。
振り返れば、お二人より若くして定年を迎え、商社を去られた諸先輩も数多くいらした。そのような諸先輩も一所懸命に仕事をされていたし、概して“良い人”であった。しかし圧倒的な差として、作為なき、溢れんばかりの好奇心とチャレンジ精神というものが存在したことは、私に関わらず、当時、彼らの姿を見ていた多くの人々が感じていたと思う。
外形としての静と内面としての動が合わさり、氣は練られる
次の「学ぶ姿勢」については、ビジネススクールで教鞭を執る者として感じ入る場面が多い。学生は履修する科目において及第点を取り、単位を積み上げて行くと、卒業できる仕組みとなっているが、グロービス経営大学院では、実践性を重視した社会人の大学院ということもあり、クラスでの発言点のウェイトを高く設定している。クラス議論の場面では、自らの考えを簡潔に前後の話に紐付けて話せないと高得点は得にくいが、ここで目先のポイント獲得に捉われていると、時として熟慮のない言葉を発したり、自らの発言機会に拘泥するあまり、全体の流れから逸脱した内容を発することとなる。
一方で、私自身が担当したクラスからも数名の経営者が出ているが、彼/彼女らの発言は概して本質的であり、また講師や周囲の学生の発言を傾聴する姿勢も顕著であった。加えて、人間力の養成ということにも非常に熱心であったようにも記憶している。ここで注視すべきは、恐らく彼/彼女らの発言や学びは単位や学位を取るためではなく、自らを成長させるためにあったという点であろう。彼/彼女らは一つひとつの科目が企業経営の何処に位置づけられるかを意識しながら、自らをケースの主人公と同化させ、毎回、真剣勝負での意思決定をしていた。そうやって限られた時間、限られた情報量の中でエネルギーレベルを上げ、将来、現実の場面で意思決定を迫られる時に備えていたのだ。だから多様な意見にも耳を傾けたし、分からないことは素直に問うたのだろう。そしてまた、不足する情報や経験を補うため、或いは、自らの学びを人や社会に対して正しい方向に差し向けるため、立脚すべき人間力の養成や志の醸成にまで早期から一所懸命に取り組んでおられたに違いない。
最後の「自らに打ち克つ」については、グロービスの法人研修部門を通じ、教鞭を執ることの多いグローバル幹部研修の場面を例に引きたい。これら研修は各国の拠点から参集した外国人幹部と日本人幹部の混成で行われる。そこでの一般的な進め方として、前段で学んだ経営知識や各々の経験を活用しながら、提示された何らかの経営課題に自分らなりの解を求め、最終的に経営者(多くの場合は社長)を前にしてのグループ発表で締めくくるというものがある。過去を振り返ると、経営者になる人とならない人の差は、この最終発表での講評に対する受け止め方に歴然と表出した。
この最終課題では、講評にすら至らず、発表の最中に詰めが悪いから、プレゼンテーションが分かりづらいから、と遮られるケースすらある。社長候補と目される幹部クラスが、現行の経営陣から酷評されるのである。当然、言い訳をする人もあれば、反論をする人もあったし、逆に「所詮、研修」と、“どこ吹く風”を装う人もあった。しかしそんな中、私の見立てでは研修を受講してから数年後に社長になっていった人達というのは、何といおうか、経営陣からの厳しいフィードバックに対する受け止め方が印象的だった。こうした場面において、「認められたい」「自分は非難されるような人間ではない」というような欲望、邪念が強いと自ずと自己防衛的な表現が出てくるものだが、自分に打ち克つ人というのは、これら欲望や邪念などの感情を横に置き、外形としては泰然として自身の至らなさと向き合っておられたよう記憶している。ただし、その実、内面は次回のチャンスではもっと上手くやるぞと炎のように燃えていたと想像する。このような外形としての静と内面としての動が合わさって、次の動き出しに向けたエネルギーは形成される(氣は練られる、後述)。
さて、最後に「氣」の観点から、これら3つの特質について別な表現で解釈してみたい。好奇心やチャレンジ精神は外界に向けて「氣を発している」とも言える。一方、学習の姿勢は内省に向けた「氣の取り込み(受け)ができている」と言える。さらに自らに打ち克つことは、「氣を練っている」プロセスと言える。人間の面白さとは、我々は精神(氣)と肉体(身体)という二つの連環から成り立っており、これらが時には同時に、時には別々に動き出すということだ。陰陽図(右上の図を参照)では、大きな陰の中に小さな陽が生じている部分がある。これは外形的には陰だが、内面では陽の準備が整ったことを示している。この状態で外形も陽に転じると、外形も陽の内面も陽となり物凄いパワーが生まれる。
これを、過去、現在、未来と様々な時制において行っていくと、自らの中に大きなエネルギーの渦が生じ始めることをイメージできることと思う。様々な時制において、転回できる陰陽を持つということは、それだけエネルギーが宿り、浮揚力を得る。この結果、これらの方々は、あたかも龍が虚空を舞い、螺旋を描きながら飛翔するようにして、経営者となっていかれるように思う。大学院やグローバル幹部研修を通じて、これからも多くの経営者育成の一端を担って参りたい。