「良いことにはとらわれていい」あきらめない、離さない気持ちが大事~塩沼亮潤×御立尚資

本記事は、2018年2月に開催された「G1サミット2018」のセッション「宗教と道徳を語る」の内容を書き起こしたものです。(全2前編)

御立尚資氏(以下、敬称略):おはようございます。G1の多くの方々がよくご存じの千日回峰行、そして飲まず、食わず、眠らず、横にならずの「四無行」を9日間。普通、人間はできないはずのことをやって、行を通して悟った方、何か違うものを持った方と一緒にいるなと感じさせてくださる、塩沼大阿闍梨をお迎えして今日は話を進めていきます。阿闍梨とご一緒に歩行禅で歩かせていただいたり、いままでもバスの隣とか飲みの場でご一緒するたびに、「いちばん大事なのは経験することで、体験することです」とおっしゃいます。体験したことはそのときに腹に落ちるとは限らない。3年後、5年後、10年後に、ふと「ああ、あのとき、あんな話があったな」と思い出すときが意外なぐらいあるということがずっと残っていまして、今日はそういう体験の場にするお手伝いをしたいと思います。

私自身は、悪い友だちによると「転びキリシタン」と呼ばれているんですけれども、カトリックで宗教を持っています。生活態度を知っている人は「ほんとか!?」と、いま顔に書いてありますが(会場笑い)。大阿闍梨のお話は、お言葉がすごくシンプルなんですね。体験とかけ算になったときにふと腹に落ちるのは、難しい哲学より単純な言葉だということをずっとおっしゃっているので、そういう話をしていきたいと思っています。

あとからみなさんにもお手伝いいただきますが、このために、実は阿闍梨がいくつも色紙を書いてきてくださって、私が選んだのは「より道 まわり道 ふりかえれば一本の道」。言葉自体はとっても単純なんですけれど、自分が人以上に寄り道したものですから、すごく刺さる。今日、他に何枚も選んできましたので、お書きになっていただいたものを見ながら、皆さんと対話していきたいなと。皆さん自身が「あ、これが自分に刺さるな」という1枚があれば、とってもいいなと思っています。

厳しい行が終わって6年経ったときに解脱を感じた

御立:さはさりながら、今回初めての方もいらっしゃいますので、阿闍梨のお話を伺いたいんですけれど、さっき、千日回峰行とか四無行とかっていうのを言っていたんですけれど、ご自分で「悟ったな」と思われますか。あるいは、思われた瞬間があるとしたら、どういう時なんですか。

塩沼亮潤氏(以下、敬称略):おそらく、小さな小さな気づきの積み重ねなんだと思うんですけれども、ある日あるときに、自分がとても色んな「とらわれ」とか「苦しみ」から解放されたなという時は感じたことがありました。それはいつかというと、修行をしている最中ではなくて、千日回峰行と四無行を終えて6年ぐらい経った時なんです。どうしても私たちには、(右手で右側を示して)こっち側には思いどおりにならないこととか、いろんなしがらみとか、嫌なこととかがたくさんあると思います。で、(左手で左側を指さして)こっち側に進んでいかないといけないんだと、自分のなかで、頭のなかではわかっているし、本には書いているんですけれども、頭のなかで理解できても、どうも(胸のあたりをさすりながら)このへんで悶々としている自分がいたんですけれども、ある日あるとき、本当に自然体の形で、スッとそれがなくなった瞬間ですね。

御立:楽になるんですか。

塩沼:楽になったというか、その瞬間から自分が解放されたというか、それがおそらく解脱という言葉に仏教では表現されているんでしょうけれども、すべてから解き放たれた。例えば私たちにはいろんな嫌なことがあります。欲しいものが手に入らなかったとか、いろんな苦しみがありますけれども、私にとっては、自分が本当にいろんな人に対してできる愛ある言葉とか、笑顔とか、それができなかった人がたった一人だけ残りました。その人と行が終わって6年ぐらいたったときに、自然体でこの人を喜ばせたいと思ったんですね。

御立:じゃあ、しょっちゅうお会いになるような方で、ものすごく普通の人ができない行をなさった方でも、嫌いな、嫌なやつが残っていた?(会場笑い)。

塩沼:わかりやすく言うと、そういうことになります(笑い)。で、修行の最中は毎日のようにお会いしていたんですけれども、私は修行を終えて仙台の地元に帰って、お寺を建立していました。地元に帰ると、私は檀家もないし、お寺もないし、そのなかで生きていかなければならないということは、また苦行だったんですね。

御立:なるほど。一から慈眼寺を立ち上げられて?

塩沼:はい。

御立:ちなみに、修験道の方でいらっしゃるので、大峯とか、あのへんをずっと歩かれていますから、東北っていうのはぜんぜん違う場所ですよね。そこに檀家制度があって、大本山があって、「この寺に行って、あとは経営して」って、そういう仕組みじゃ全然ないという理解ですね。

塩沼:なかったです。本山に残れば安定はしていたんでしょうけれども、32歳で隠居のような生活をするのもなんだと思ったので、すべてお師匠さんが用意したものをお断りして、仙台に帰ることになります。仙台に帰るということは、お師匠さんの援助も本山の援助もないということです。

そのなかで、たぶん本山にいれば、一生懸命修行している人も、しない人も、三度三度のご飯が出てきます。けれども、いったん外に出ると、ご飯を食べていくっていうことは本当に大変だなと思います。遠い昔も、お坊さんのなかでも修行して「あ、こいつは悟ったな」と思った瞬間に、お師匠さんはお寺を出してしまうんですね。その人はどうするかというと、橋の下で生活をするしかない。で、物を乞う、乞食(こつじき)で生活をしながら、だんだんと人の痛みとか、そういうふうなものがわかる。

修行をしても、頭で悟っても、実際に自分の腑に落ちていないということがたくさんあったらしくて、たぶん私もそのひとりだったんだと思います。いろんな人のご恩になって、涙を流し、ときには「どうやって生活していったらいいんだ」「どうやってお寺を建立していったらいいんだろう」という、いろんなそういうものが自分を育ててくれたと思うんですね。で、久しぶりに先輩とお会いしたときに、「この人を喜ばせたいな」「この人が喜ぶことを言いたいな」って、自然にスーッといったんですね。

御立:それは、すごく厳しい行をなさったときは、解脱、悟りという感情を感じなかった。でも、そのあと時が流れてご苦労されたうえで、突然「この人を幸せにしたい」と。

塩沼:はい。それで、いちばん心のなかに思ったことは、自分のなかで嫌だなと思うことが100のうち1でもあったら、ありはありなので、その雰囲気が自分の言葉とか表情に出ていたんじゃないかって。相手にとても嫌な思いをさせていたんではなかろうかと、心のなかで懺悔(さんげ)をしたんですね。

心と言葉と行動が伴っていなければ、相手に「ありがとう」ひとつ伝わらない

御立:懺悔(ざんげ)と書く「さんげ」ですね。

塩沼:はい、さんげですね。「本当に申し訳なかった。あ、そうだ。自分が嫌いだと思ったら、その表情も全部相手に示していたかもしれない。ごめんね」って、心のなかで話をしながら謝っていたんですね。それで「さよなら」って、180度背を向けて帰ったときには、きらきら、さらさらという涙が実は流れていたんですね。その時に自分が思ったことは、お師匠さんが言っていたことなんですけれども、「人間というのは、そういう正しい教えとか真理に出会うまでは、いろんな悪いこともして、道から反したこともやってきたんではないか」と。

御立:はい、たくさんしました(会場笑い)

塩沼:で、「それを、ひとつだけ、すべてを洗い清めてくれる方法があるんだ。それは懺悔なんだ」と言って、頭を剃って袈裟をいただいた時、いわゆる出家、得度式の時に、「さあ、君たちはいままでいろんなことをしてきただろう。たとえば自分が正しいと思って前に向かって進んで、陰で泣いた人がいるんではなかろうか。すべてに懺悔しなさい」と言って、手を合わせて、それで姿勢を正して、お師匠さんがお唱えをする経文のとおりにお唱えをしました。

御立:そうすると、1回すでに、本気の懺悔っていうのは、出家したときにしているはずだったんですね。

塩沼:実はひとつ欠けていました。「心の懺悔」が足りなかったんですよね。

御立:いまから考えると、本気で懺悔していなかったっていうことですか。

塩沼:はい。当然、若い人たちの集まりですので、懺悔しても、1週間たち、1か月たつと、みんなケンカしていますので(笑い)。ひとつひとつの気づきのなかで「ああ、そうか」と。嫌な人と別れて、きらきら、さらさらという涙を流して、そのときに思ったことは、人に真実を伝えるためには、言葉も大事、態度も大事、でも「心」が伴っていないといけないんだということがわかりまして、実はすでに19歳のときにお師匠さんから教わっていたんですね。「人に真実を伝えるためには、心と言葉と行動が伴っていなければ、相手に『ありがとう』ひとつ伝わらないんだ」っていう。師匠の言うことが、本当に十数年修行をして初めてその原点に気づいたというか。

その瞬間から自分の人生が変わりました。どういうふうに変わったかというと、千日回峰行、四無行って変わった修行ですので、終わった瞬間に結構新聞とかメディアで取り上げられる場合があります。私の場合は、終わった瞬間には一切報道はありませんでした。で、6年経って、私は仙台の山奥に住んでいるんですけれども、その嫌な先輩を「あ、そうだ。心から愛さなければいけない」って気づいて、涙ながらに懺悔をして、おそらく、お坊さんの仲間入りをしたというか。「自分の嫌いな人がいるうちに相手を愛しなさい」とか、「どんな人にも慈悲の心を持ちなさい」って、自分ができないのに言ってはいけないと思うんですけれども、たぶん天から仏様が見ていたんだと思うんですけれど、その日の午後に曹洞宗の管長様である板橋興宗さんという方から、たまたまお会いしたときに、「現代のお坊さんではこういう修行をしている人は少ない。あなたの体験談をより多くの人に語りなさい」と言われまして、「本を書きなさい。いろんなことをやりなさい。講演もしなさい」ということで、そのきっかけが6年経ってからなんですね。

御立:それ結構大事なところで、外の素人から見ると、悟りとか解脱っていうのはそう簡単にいかないにしても、やっぱり行で1,000日歩き続ける、48キロでしたっけね。それから四無行をして「行が悟りにつながる」と、割と因果関係がストレートにつながると思っているんですけれども、今のお話だと、そこからさらに6年ぐらいかかった。もっと不思議なのは、たまたまご縁というか、タイミングというか。今の「天の声」かもしれませんけれども、他の宗派の偉い方が「あなた、本を書きなさい。話しなさい」っていうのを自分が悟ったと思った日の午後に言われたと。

心のなかにある針を常にあかるいほうに

御立:すべてのことはあとからしか解釈できないですけれども、阿闍梨様から見てそれは偶然なんですか。いま「天」とおっしゃったけれど、何か大きな力があって、やっとそういうことを本当にやっていいということになったのか、どういうことだと解釈されていますか。

塩沼:たぶん、私たちのこの心も体も大自然の一部なので、何かとつながっていると思うんですね。なので、心がいい方向に行けばいい方向に運ばれると思いますし、心がマイナスの方向に振れていれば、マイナス方向に自分の人生が運ばれていくと思うんです。そういう意味で、ひとつ、自分が大自然のことわりに同化したのかわかりませんけれども、そういう運が、縁がまわってきたのかなと思います。

御立:どうしても頭でっかちなので、仏教の本を読むと阿頼耶識(あらやしき)というところだし、ユング心理学だと集合無意識だし、私自身はもっと単純化してすぐ頭で考えちゃうんで、頭があって、体と心があって、下に魂があって、「魂って他の人とつながっているよね」と。そういうモデルを考えちゃうんですけれども、どういうモデルをとるにせよ、何か超自然的な偶然みたいなものって、そのレベルで心が正しければスッと必要なものがやってくるという、そういうお話に聞こえたんですけれど、そうとっても間違いじゃないですか。

塩沼:はい。そう思います。「念ぜば花開く」という書をうちの師匠がよく書いておられたんですけれども、「念」というのは「今の心」と書きますね。

で、「今の心」の私たちの心の前には、どっちの方向に向くかわからない「針」があると思うんです。常に嫌なことがあるとイラッとしたり、ムッとしたり、振れてしまうと思うんです。これが、すぐに自分で「あ、これはいけないな」と思って懺悔をして戻せばいいんですけれども、どうしても嫌な方向にとらわれてしまいます。とらわれてしまうと、マイナスの方向にどんどん行ってしまって、闇から闇へ生きてしまう。けれども、プラスの方向に向いていれば、いい方向に自分の人生が運ばれていくんですね。運ばれるということを「運」という、自分のいま心の向いている方向に人生が運ばれていくと思うんです。

御立:なるほど。ここにそれに近いことを書いておられて、「心のなかにある針を常にあかるいほうに」と。その「あかるいほうに」というのは、もうちょっと言うと、どういうことなんですかね。

塩沼:さまざまなものに、色んなしがらみにとらわれないということですね。

御立:とらわれないのが「あかるい」ということですか。

塩沼:はい。どうしてもとらわれてしまいます。そうは頭ではわかっても、どうしても引っかかるよねっていう。たとえば私が一艘の小舟ならば、100本のいろんな煩悩とか、我とか言われるものにとらわれているとします。それをひとつひとつ、自分でチョキンチョキンと切っていかないといけないと思うんですけれど、1本でも残っていれば、小さな小舟は大海原に船出することができません。これをどうやって切っていくかということなんですけれども。なかなかできないんだけれども、すべてを忘れきる、捨てきる、許しきるということなんですね。

御立:要するに煩悩を切るっていうのは、無念無想になるとか、聖人君子という言い方は変ですけれども、そういう煩悩を持たないというより、自分で自分がとらわれているものを切っていかないとできないっていう、そういうことですか。

塩沼:はい、できないですね。本当にそこに至るまでは、壮絶な自分との戦いがあります。涙も流さないといけないし、「どうしてなんだろうな」ということを経験していかないと、人間というのは大きな人にはならないんだなと思います。

御立:ここにいらっしゃる方はリーダーの方が大部分なんで、悩みがあってですね、おそらく次の10年ぐらいって、地震、噴火、そういう天変地異とか、あるいは北朝鮮かもしれませんし、あるいは日本の財政が破綻しちゃうのかもしれません。暗い予言をしているわけではなくて、そういうことがある確率というのはかなり高い。そのときに、できたらブレない軸を持っていたいなとは思うんですが、今からそれをしても間に合うのか、何をやりゃできるのかなと。「自分はそんなブレない人間に生きている間になれるのかな」と、そういうふうに考えちゃうんですけれども、いまのお話の、とらわれをなくすために今日からできること、あるいは、本当は「こうやれば明日できる」って言ってほしいんですけれど、それはだめだとさっき言われちゃったので(会場笑い)、何をやっていくのが一番いいですかね。

塩沼:頭のなかで、とっても本当にシンプルな話なんですけれども、いったん、そういう目標を持ったら、いったんしがみついたら、絶対離さないっていう、そういう気持ちが大事だと思います。常に「がんばるぞ!」と思って、たとえば「嫌いな人をなくそう」って今日から思っても、今日できることはないと思います。

ただ、100の力でできなくても、99だめでも、「ああ、もう心が折れそう」と思っても、1、「絶対にあきらめない」っていう気持ちですね。それが上手でも下手でも、繰り返し繰り返し毎日生活していると、だんだんとできるようになってくるんですね。なので、いったんしがみついたら絶対にブレない、離さない、あきらめない。あきらめそうになっても、99は譲歩しても、1個は絶対つかんどくっていうような。その1が2になり4になり、だんだんと加速していくと思いますね。

御立:そうですか。ちょっとうがった見方になるんですけれど、それ自体が先ほどの「とらわれ」になったりしないんですか。

塩沼:いいことにはとらわれていいと思います。

御立:なるほど。あかるい方向、いい方向に向かっているものには、とらわれ続けたほうがいいと。じゃあ、その針を自分が持てるかどうかっていうことなんですかね。

「自利の行」と「利他の行」

御立:そうだとすると、「いま自分は、本当はくだらないことにとらわれているな」あるいは「これはしがみついてでもやっていこう」と、そういうふうに自分が思えるようになるために、一般の、普通の人にはどんなことをヒントとしていただけるんでしょうか。

塩沼:自分を中心に誰でも考えると思います。「自分がよくなりたい」とか「自分が幸せになりたい」と。誰でも我々は、不幸になりたいと思って生きている人はいないと思います。

これはお師匠さんが、19のときに教えてくれたことなんですけれども、「自分を大切にしてほしかったならば、まず相手を尊重しなさい。相手を尊重することによって、回り回ってみんなから大切にしてもらえるんだ」と。仏教というのは因果応報、因果律をとても大事にします。なので、まず相手を尊重することなんだと。「利他」ということに思います。自分を利する、自分のための修行ということを「自利の行」という。それで、相手のために生きていくことを「利他の行」という。ただ、自分を利するも、他を利するも、同時にやっていかないといけないんだと。

御立:リーダーシップ論でいうとサーバントリーダーシップというのがあって、クリエイティブで、ピラミッド型の組織じゃないときには、自分のまわりにいる人を生かすサーバントになれという考え方があるんですが、そのときに自分も生かさなきゃいけないと。そこで生かすのは我とか妄執じゃなく、何なんですかね。

塩沼:相手のために、大事に気遣いをしながら生きていく。利他のために生きていくことで、あとで回り回って「自分も利されているな。本当に自分のためになっているな」ということが、後々わかってくるんですね。自分のために修行するとか「自分のために」ってやっていたら、だんだんと心が疲弊してくると思います。

御立:最後は自分に返ってくる、それは外を回って自分に返ってくるというイメージで行動するとか、リーダーであればリーダーとしてのチョイスをしていくっていうことが大事だと。

塩沼:はい。リーダーはある意味、いい意味で辛抱しなければならないことがたくさんあると思いますね。

御立:たとえば、ちょうど次の紙がいまの話だったんで恐ろしいんですが、「利他のなかに気づきあり その気づきが自己を利する」というのは、まさにいま、その話だったんですか。

塩沼:はい。そうです。

御立:ちょっと背筋がゾクッとしましたけれど。なるほど、そういう話だということなんですね。(後編に続く)

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