様々な格差が浮き彫りになった今、「社会を良くする」には何が必要か?~安部敏樹×石川善樹×三浦崇宏×若新雄純×鈴江奈々

本記事は、G1-U40 2020「コロナショックを機に変える「社会」 ~コロナと共生して未来を生きる社会の希望とは?~」の内容を書き起こしたものです。(全3回 中編)

鈴江奈々氏(以下、敬称略):では、続いて安部さん。キーワードは「地縁の代替と刷新」です。

この10年を振り返ると、社会全体ではブラックスワン的な何かが毎年起きている?

安部敏樹氏(以下、敬称略):たとえば皆さんが今日何か不健康なことをして、それが理由で明日いきなりがんになるというパターンはあまりないですよね。でも、人生は何百日、何千日、何万日と続いていく。そのなかで、「あるとき、どこかで、がんになるかもしれない」という話が一定の確率としてあるわけです。これ、社会全体のウェルビーイングでも同じような話になると思っています。社会を一つの生命に見たてたときに、あるとき、どこかで、ガンのように健康に大きく影響を与えるような病気にかかるかもしれない。これはひとつの時間軸の中での確率論です。

一方で、皆さんそれぞれが人生のなかでがんになるかどうかと言えば、統計的にはだいたい2人に1人。これは同時代に生きる人間の母集団の中での確率論。なぜそれが分かるのかといえば、サンプルが多いから。人類は70億人いるから、日本に1億2000万人いるからですね。個人がたくさんいるから統計的に分かってくるという話です。

でも、それが社会になるとどうか。「社会におけるがん」みたいなものが、「ある種の予測し得ない大事故」だとします。たとえばBLACK LIVES MATTER。で、「これは、ある種のハプニングであって、こういうことはなかなか起きないよね」といった話を、皆、4~5年に1度するんです。4年前、このU-40では、「トランプのような人が出てくるなんて、何十年に1度しかあり得ない、ブラックスワン的なものだよね」といった話がなされていました。でも、そのさらに前にはリーマンショックがあって、「こんなのはブラックスワンで、あり得ない」という話になっていたわけです。よく考えてみると、ここ10年を振り返ってみたとき、社会全体ではブラックスワン的な何かが毎年のように起きていませんか?よく考えると、国や地球単位では母集団が少なすぎて比較ができていないけれど思った以上に頻繁に起きている。

そんな風に振り返ったうえで社会のウェルビーイングを考えてみるとどうか。ある程度大きな1つや2つの塊として社会を見ると、統計的に比較できるものが他にないから、統計的に理解がしにくいけれどもブラックスワンが起きる確率は実はすごく高まっているように見える。しかも、そうしたブラックスワンには何十年も前から予防的なアクションを積み重ねておかないと防げないのに、「それはなかなか起きないでしょう」という認知バイアスがあったが故に、いろいろなツケをずっと残してきてしまった。それでまた次のブラックスワンが起きてしまう。それは、たとえば感染症かもしれないし、BLACK LIVES MATTER的な話かもしれない。あるいは思いもしなかった他の大惨事みたいなものが、実は毎年、あるいは半年に1度起きてしまう。

では、現代の日本社会においてのウェルビーングを阻害する原因は何があるかというと、3つあると考えています。一つ目がソーシャルセクターの脆弱さと硬直化。何かトラブルがあって弱者が生まれたとき、そこを機動的にサポートするセクターが日本はすごく弱い。これ、アメリカだと分厚いコミュニティへの投資が機能してたりする。日本ではそれがソーシャルセクターという形で出てきました。ところが今回のコロナで何が分かったかというと、ほとんどのセクターがオフラインの事業を中心にしていて、財源としては行政からの委託や法人の寄付を頼りにしたりしていた。

するとどうなるか。法人が経済的に大変な状態となって寄付をしなくなりました。かつ、行政の予算をもらっている場合は、特にオフラインの事業が多いので、最終的にやりきらないと予算をすべてもらえない。それで行政予算も打ち切られる恐れが出てきた。そうなると、日本はあまり個人寄付が豊かな国ではないので、NPOは財政的に厳しくなります。それで、本当は今こそソーシャルセクターが社会課題と向き合って機動的なサポートをしなければいけないのに、財政が弱過ぎて、サポートする側が先に倒れてしまいそうになる。困りごとが起きた時に社会の機動的なバッファ機能みたいなものがソーシャルセクターにはあったのですが、そこに対する重点的なサポートがなかったり、体制が弱いということが今後も続くリスクの一つだと考えています。

「意欲の格差」が生まれている

二つ目は「貢献実感を奪われたことによるアイデンティティの不安定化」。これは世界的な話だと思います。みなさんGAFAの製品使ってますか?Amazonってめちゃくちゃ便利じゃないですか。あれは独占に近いと思いますが、なぜそれに対して公正取引委員会が独占禁止法で動かないのか。それは独占すればするほど便利になるからなんですよね。本来、独占しきってしまったあとは値上げをしたりして消費者にとって便利でなくなります。だから独占はダメだと言われるわけですが、Amazonは独占すればするほど便利になるから公正取引委員会もなかなか動きづらい。消費者に支持されているからです。

そうすると何が起きるか。サービスとしては最高に便利という一方で、Amazonによって仕事をなくす人が数多く出てきます。消費者としては支持しているが、働くという社会参画の形は奪われる。そうなると、「俺って何のために生きているんだ?」なんていう話になる。ディーセント・ワークという言葉がありますけれども、僕はディーセント・コントリビューションが大事なのだと思っています。何かをして、誰かに「ありがとう」と言われる。そうした、生きて、社会とつながっている実感値みたいなものを持てない人が、GAFAのような存在の広がりに伴って増えてくる、と。それは、社会全体では大きな大きな外部不経済につながる。これがそのまま進むと、BLACK LIVES MATTERのような話も含めて、あるとき暴動のように、ばこーんと出てくるんですよね。

トランプ大統領が出てきたときも同じような話がありました。賢くてメディアも牛耳っていて、それっぽく言う人たちに対して、あまり言語化が得意でない人たちというのは、言葉で戦いを挑みたくないんですよ。だからあるとき別の行動に移る。

若新雄純氏(以下、敬称略):置いていかれるということ?

安部:置いていかれるし、「どうせ、あいつらは俺らのことを考えていない」と。ここで言う“俺ら”というのは、現代の資本主義的価値観・学力至上主義的価値観でいう弱き人たちです。彼らが「俺らは困っている」と言ったとき、強き人たちは何を言ってしまうか。論破しちゃうんです。すると、論破された側は、「なんか分かんないけど、学校でもこういうやついたな」みたいな(会場笑)。学校にも優秀な人たちがいたわけです。40人のクラスだとして、絶対に成績が上の人と下の人で分かれてくる。それで、概ね成績が上の人たちが社会をつくるわけですね。一方、成績が下の人たちは原体験的に「この人たちに議論をふっかけても自分が傷つくだけだから嫌だな」と思っている。だから自分から議論はしたくない。ただただ黙っていて、あるとき急に行動するんです。

そのときどうするかというと、言っている内容を聞いていればどう考えてもトランプではないのだけれども、「いや、でもトランプのほうが気持ちいいし」と。「トランプなら、俺らがこれまでガツンと言えなかったやつらの横っ面を殴ってくれる。それなら、自分たちの社会としてメリットはないかもしれないけど、やって欲しい」と言って、あるとき急に動く。そういうものが今はどんどん溜まってきてしまっている。これが2つ目の爆弾です。そこで、サービスを独占するプラットフォームに仕事が奪われた人たちが、どうやって自分が社会に接続され、社会から必要とされ、そして自分に生きている意味、あるいは社会参画していく意味があると思えるようになるのか。

鈴江:意欲の格差のようなものも生まれているのではないか、と。

安部:めちゃくちゃ生まれますよね。意欲というのは、基本的には自分が何かしたことに対して「ありがとう」「それいいね」といったフィードバックがもらえることで少しずつ出てくるものです。でも、人から無視されたりすると学習性無力感みたいな状態になって、「いや、もう何しても無駄だし」となる。それで、あるとき自暴自棄になって突撃する、と。

三浦崇宏氏(以下、敬称略):最近の『ジョーカー』や『パラサイト 半地下の家族』で描かれていたのもそれだよね。加速主義みたいなものに置いてきぼりにされた人々が、言論でも経済でもチャンスを奪われてしまったとき、果たしてどういう逆転の仕方があるのか、と。かつてないほどヒエラルキーが固定化された社会になっているということですよね。

安部:難しいのは、「弱者」の割合をどれぐらいと見るかによって、話がずいぶん変わってしまう点です。たとえば、今は障害者認定を受けて手帳を持っている人は社会の7~8%。ただ、障害というものを「社会における生産性」という視点で置き換えてみるとどうか。社会が求める生産性を満たしている人は健常者で、そうでない人は障害者という風に言葉を入れ替えてみると…。

若新:その線引きが上がり過ぎているような気がする。

安部:まさにそうですよね。

労働だけではない新しい社会参画の形をつくろう

若新:言い方は悪いけど、(会場を指して)こちら側にいる人たちは、僕も含めて、その線引きを上げてきている。弱者という設定をしなければ助ける対象ではないわけだけれど、たとえば会場の皆さんも経営する会社で選考基準をめちゃめちゃ高くして、「うちの会社はめっちゃ選考基準高いから」と、名刺交換のときに自慢するんです。で、それに溢れていった人たちについては「かわいそうだ。仕事を与えなきゃ」って。そこは矛盾している気がします。

安部:そうなんです。矛盾しているし、もっと言うと、社会参画の形、つまり社会とつながって「ありがとう」と言われたり、「自分が生きている意味があるな」「社会に自分がきちんと包摂されているな」という実感値を得るような形が、今は労働しかないんですよね。たとえば障害者自律支援法という法律があります。これは、人口全体で10%弱という人たちに対して、社会参画の仕方として「働け」と言う法律です。

石川善樹氏(以下、敬称略):日本は労働が憲法で義務として規定されている珍しい国だからね。

安部:そう。だけど、働けないじゃないですか。1時間働いて1円50銭とか。皆さんは「50銭」なんて、あまり聞いたことがないですよね。でも実際にはそういう世界がある。ですから、働くことを通じた社会参画だけで世の中をつくることが、ここから先の数十年単位で考えるとおそらく無理なんです。そこで、どうやって新しい社会参画の形をつくり、皆が納得して「社会の一員だ」と思える状態をつくるか。これが結構大きなアジェンダになる。これについては、ぜひ、皆さんも障害者就労の現場等を見に行かれたらいいと思います。障害者の自律支援ということで、いろいろな取り組みがなされていますから。それで、今は「働くという前提を社会は求めているけれども、それは無理ゲーだね」と、皆だいぶ分かってきている。

若新:僕も障害者の支援事業をやっていたことがあるので分かります。おそらく「1人前になる」とか「就労支援が成功した」といったハードルが高過ぎるんですよ。国が障害者の施設にお金を出す基準についても、「週に何十時間以上の労働」とか、皆がイメージする正社員というものに近づくことが就労の成功という風に設定してしまっている。本当は、たとえば週1日3時間からでもいいから「働いた」ということにすればいいのに、「それでは働けたことになっていません」となっていて、基準が高過ぎるんです。それだと、ずっと被支援者のままじゃないですか。それなのに、たとえば週2日とか月収8万円で自立したと設定してしまうと、「その人たちの人生はずっと救われない」と、上から勝手に偉い人が言っている感じがします。でも、「働けた」という基準は、それこそウェルビーイングの話だと思うけれども、変えることができますよね。

自分が「問題解決者」になった時、依存症から脱却できる

石川:これはアメリカの事例ですが、50年前、最も従業員を雇用していたのはゼネラル・モーターズで、当時の時給は現在価値で50ドルだったそうです。一方で、今アメリカの最大雇用者はウォルマート。時給は8ドルです。なぜこうなったか。経営陣がめちゃめちゃ取っているからです。給与格差がすごく開いている。ウェルビーイングという視点では、経済的・健康的安全が確保されていることは1番のベースです。では、経済的・健康的安全が確保されたその次は何か。日本のような高所得国になったとき、ウェルビーイングや幸福度に最も効くのは、人生の選択肢を自由に選べるということです。働くことについても、生きることについても、自分の人生において選択肢があって、そのなかから選べるという感覚が、めちゃくちゃウェルビーイングに効いてきます。

安部:めちゃくちゃ大事なことで、ぶっちゃけ、それは勘違いでもいいんですよね。自分が選んだなと思っていれば良くて。たとえば依存症の治療には認知行動療法的に数多くのステップがあります。痴漢、性犯罪、アルコール、セックス依存症等々、いろいろありますが、その治療には、ある程度共通したスキームがあるんですね。まずは当事者同士で、「いやぁ、私、やっちゃったんです」というところからスタートする。

石川:以前言っていたよね。電車の痴漢が止まらなかったおじさんが、自動車通勤にしたら痴漢しなくなったという(会場笑)。

安部:(笑)そういう環境要因は大きいんですが、自立して立ち直るという意味では一番のポイントは何かというと、依存症から脱却できるときというのは、自分が問題解決者に変わったときなんです。治療されている側にいると、常に依存症へ戻ってしまうリスクも高いのですが、回復の段階を高めていくなか、あるときから自分が他の依存症の人をカウンセリングする側に回る。

三浦:先輩患者として「新入り患者の話を聞いてあげましょう」みたいな。

安部:そう。そんな風にして解決できるように、ある意味ではスキームが設計されているんですね。

若新:間違いないです。僕はたくさんのニートと呼ばれる若者たちと会社をやっていますが、彼らが最も「救われた」と言うのはどういうときか。「それまでずっと家にいて喧嘩する相手もいなかった」と言うんです。でも、うちの会社は性格がやばいやつばかりだからすぐ喧嘩になるんですが、喧嘩が起きるといきいきする。たとえば派閥争いみたいなことが起きたりして。大事件とかになることはないんですよ。皆、5chでディスったりしているだけ。ただ、そこで傷ついて、カウンセリングの需要がめちゃくちゃ生まれる。「どうしたの?」と。

「若新さん、それは対立を放置しているだけだからじゃないの?」と言われますが、彼らに聞くと、「ずっと引きこもっていたときは、それすらなかった」と言うんです。だから誰かに「助けてよ」と言われることもなかった。バイトしていたときもそうです。なんとかぎりぎり収入は得ていたけれど、無機質な生活がずっと続いていた。するとどうなるか。ただ収入を得て飯が食えているだけの状態では、今安部君が言ってくれたような、「自分で選んで、何かの助けになっている」という感覚がなくなってくるんですよね。

そういうとき、人間の醜い喧嘩によって、「俺は必要とされているんだ」という感覚が出てきたりする。あるいは、派閥争いで「どっちにつくか」みたいな話でめちゃくちゃ盛りあがったり。「若新さんはどっち派ですか?」みたいな。何が言いたいかというと、レベルの高い低いではなくて、その実感みたいなものを上手にデザインしようということだと思うんです。

三浦:ただ、そうなると上部の世界観と下部の世界観を分断して、箱庭をつくるような考え方になってしまう気がしていて、それはそれで危険に見えたりもするんですよね。

安部:おそらく働くという一方通行だと絶対に分断が起きてしまう。社会とつながっていくうえでは、ある種のオーナーシップというか、自分が主体者である自覚を持つという状態を、いかにしてデザインするかが大事になると思います。先ほどのニートの方々の喧嘩の話というのは、労働ではないですよね。政治をやっているわけです、NEET株式会社のなかで。

若新:まさにそう。民主主義の戦いなんです。

安部:政治が面白いのは、「社会を良くする」というプロセスだけではなく、「自分が社会の主体者である」という自覚を持たせるためのプロセスでもある点です。これ、労働以外では、すごく新しい可能性なんですよね。あるいはアートや農業。アートや農業というのは、障害者就労支援のなかでも少し“ロック”な団体がやっています。彼らは「うちにいる障害者を働かせますから」と言って国のお金を取ってくるんですが、そのあとは、「いや、もう、働くとか、絶対無理だから」と。そうして、実際の現場ではアートをつくらせたり、社会参画の仕方を模索したりするといったお金の使い方をしているところが結構あります。そういうところでは、政治とかアートとか、労働以外の社会参画で自分の主体性を持てるようになる。すると、そもそも「どのテーマで自分が社会参画するか」が選べるから、上とか下とか、そういうものがつけづらくなってきます。

三浦:社会といっても、世の中全体という大きな意味だけではなくて、まさに若新さんがつくっているような小さい社会みたいなものもある。そういう組織のなかの社会や政治にコミットすることで、ある程度の「大きなものにつながっている」という感じはつくれるのかもしれないですね。

若新:しかも、それがきれいなものだと皆参加しづらくなるんです。小さいことも大事ですが、小さくても意識が高くてキレイだと結局は入れない。そこで僕が長年やってきて気づいたのは、違法なことはダメだけれど、彼らからすると「ある程度は汚れても大丈夫」というのが1番の安心感になるということなんですよね。ミスをしてもすぐに責められないとか、寝坊しても許されるとか。だって僕の会社は取締役が150人いて、昨年度の年商はたしか5万円くらいだったんです(会場笑)。つまり生産性を問われないとか、「お前の価値は何なんだ」と問われない。極端な例ですけれども。

安部:で、ちょっと話を引き取ると、とにかくそういうものが、私が最初に話していた地域の話とか地縁の代替という話になります。(後編に続く)

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