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ミャンマー旅行記 その1-ヤンゴンへの道のり

投稿日:2005/05/19更新日:2019/08/21

「今まで訪問した世界の都市・地域の中でどこが一番印象に残っていますか?」と僕は、人生の大先輩であり、且つ世界を飛びまわっている、ユダヤ系米国人のアラン・パトリコフ氏に質問した(参照コラム:「伝説のベンチャーキャピタリスト アラン・パトリコフ」)。アランは、「今でも忘れられないのが、ミャンマー国のバガンで見たパゴダ (仏塔) が林立している光景だ」と答えてくれた。

その日から、ミャンマー(ビルマ)は、僕が「次に行きたい国の一つ」となった。先日、ネミックラムダ社の創業者の斑目さんと会食したときにも、バガンの話題が出た。斑目さんは、仏教の僧侶である。ミャンマーは、仏教国である。 斑目さんは、バガンがいかに素晴らしかったかを力説していた。その瞬間に、ミャンマーは、「次に行きたい国リスト」の一番上になった。

ところが、仕事も多忙だし、子供も4人いるので、家庭も放っておけない。しかも、ミャンマーは軍政の国だ。ミャンマーに行くとなると、家族に心配をかけてしまう(事実、僕が訪問した一週間もたたないうちに、首都ヤンゴン市内で3箇所の同時テロが発生、数名が死亡したらしい)。となると、行くとしたら内緒で行くしかない、と思っていた。

そこにチャンスが到来した。先のコラムに書いたダボス会議のアジア円卓会議が、4月の29日まで開催された。その後はゴールデンウィークだ。GWの谷間の5月2日と6日を休めば10連休だ。「何とかGWの前半にミャンマーに行けないか」、と可能性を模索することにした。

先ずは会社だ。グロービスでは、「よく働き、よく遊ぼう」と、自分に都合がいいことを言い、「トップが率先して実行する」と宣言しているので、2日と6日を休んでも、文句は出なさそうだ。ミャンマーの旅程によって発生する追加コストは、個人で払うので、公私混同もなく会社にも迷惑をかけなくて済む。

問題は、家族だ。妻とGWの相談をしているうちに、前半は妻の実家の両親が山小屋に来るらしい、ということがわかってきた。「それならば、僕がいなくても大丈夫だ。いや、むしろ僕がいない方が、妻の両親は遠慮しなくてもいいかもしれない」、と自分に都合が良いように考えた。そして、「GWの後半には、僕の両親を呼び親孝行をしながら、前半勝手させてもらった償いとして、思い切り子供と遊ぼう。一石二鳥だ。」と考えついた。

あとは旅程だ。ミャンマーでは、何とか4泊を確保できそうだ。ヤンゴンに1泊、バガンに3泊だ。妻に事前に言うと心配すると思ったので、シンガポールにずっと滞在していることにした。

妻から、「今回の出張長いね。ずっとシンガポール?今度は何をするの」って聞かれても、「う、うん。詳しいことはコラムで報告するよ」と返事をしておいた。

出張先での様子をコラムに書くと便利なのだ。 普通の家庭では、出張から帰ってきたら、「おかえりなさい。出張どうだった?」と会話が始まるのだが 、我が家の場合は逆なのだ。 「ただいま。ところで今回の出張のコラムどう思った」と聞けるのだ。コラムを書くことは、会社への報告にも使えるので、とても便利なのである。

シンガポールで、投資家訪問し、アジア円卓会議に参加して、いよいよミャンマーに向かうことにした。スーツとネクタイを脱ぎ捨てて、ポロシャツ・半ズボンに着替えて、帽子をかぶり、サングラスをかけて、一人でシンガポールのチャンギ空港に向かった。シンガポール航空の子会社のシルク・エアに乗ってヤンゴンに向かった。二時間ちょっとである。ヤンゴン空港に降り立つとき窓から見える光景には、驚いた。殆ど人工物が見えないのである。首都周辺の空港としては、珍しいほど開発されていない。

空港には、当然ブリッジなどは無い。古いバスが迎えに来ていた。クーラーも入っていないので暑い。 僕の横に肌が美しい30代前半と思える女性の方が腰を掛けた。白い上下の綿麻の出で立ちで、いかにも品が漂っていた。 最後のお客様がバスに向かってきた。70歳ぐらいの女性の方が付き添われて、ゆっくりとバスの階段を登ってきた。 その瞬間に乗客が席を譲るべく一斉に腰を上げた。老婦人は一度は断ったが、 結局、僕の横にいた美しい女性が促し、僕の隣には老婦人が腰掛けた。僕は、何もできなかったことに恥じらいを感じながら、ミャンマー人の人情味の厚さを 瞬時に感じ取り 、この国に対する信頼を持つに至った。

移民局を通り、現地通貨のチャットに両替をして、バッゲッジ・クレームで荷物を待っている時に、バスの中で隣に座っていた女性を見かけた。まだスーツケースが出てくる気配が無い。一瞬目があったように感じたので、思い切って声をかけてみることにした。‘旅の恥はかき捨て‘という気分だ。

「僕はシンガポール出張の後でこちらに寄ったのですが、あなたもシンガポールからの入国ですか?ミャンマーにお住まいなのですか?」と話し掛けてみた。彼女は快く応じてくれ、 彼女からも、「どこの国からですか?。ミャンマーには何しに来たんですか?」と質問を返してきた。 会話が弾んできた。 そこで、思い切って、続けて質問した。「どこに住んでいるんですか?どうやってヤンゴン市内のホテルに向かえばいいのでしょうか?タクシーは安全でしょうか?」と聞いてみた。すると、 「方向が一緒だから、タクシーをシェアしよう」と言ってくれたので、「その代わりタクシー代は、僕に出させてください」とお願いして、ディールは成り立った。(^^)

税関を抜けて外へ出るとホテルの看板を持った人がいた。一旦通り越したが、「もしかしたら旅行代理店経由で迎えをお願いしていたかもしれない」、と思い確認してみた。やはり、僕のことを迎えにきてくれたとの事である。乗客は、僕だけだったので、彼女も乗せてもらえるように交渉した。結局、タクシーの相乗りではなくて、 ホテルのリムジンでヤンゴン市内に向かうことになった。

車中、 ミャンマーの国情、文化、お薦めの観光スポットなど を教えてもらった。話をしていくうちに、彼女は200人程の従業員を抱える繊維会社の経営者であり、且つ創業者でもある事がわかった。現在、米国は経済封鎖をしているので、主に、日本、韓国、ドイツと取引をしているそうだ。 年齢は40代半ばで 、二度結婚したが離婚し、今は子供3人と一緒に住んでいるとのことだ。

彼女の家が近づいたので、名刺交換をした。親切に携帯電話の番号も教えてくれて、「 この国で何か困ったことがあったら電話してくれ」、と言ってくれた。本当は、困ったことがなくても電話したいところである(笑)。いつ再会できるかはわからないが、楽しいドライブであった。

それからは、一人なので、リムジンの運転手と会話をしていた。日本への親近感は高く、日本製品が大好きなようである。暫くするとストランド・ホテルの玄関前にリムジンが停まり、ボーイが出てきた。ストランド・ホテルは、シンガポールのラッフルズホテル、バンコクのオリエンタルホテルと並び称される由緒あるホテルである。1901年に建てられて、1993年に改築された。バトラーに案内されて、部屋へ。パソコンを持参したが、インターネットには繋がらなかった。

手持ちぶさたになって、ストランド・ホテルの本を読み始めた。すると、その本には、見たことがある友達の写真が大きく掲載されていた。ケネス・ガウ(Kneeth Gaw)というYEO(Young Entrepreneurs' Oraganization) 香港の友達だ。1996年にロサンゼルスでの社長大学(ユニバーシティ)で会ってから、かなり仲良くしていたのだ。そう言えば、彼は香港在住のミャンマー人で親がストランド・ホテルのオーナーだと言っていて、ストランドに来ないかと誘ってくれたことがあったことを思い出した。

ケネスの父親は、既に亡くなり彼がオーナーとなっていることを、その本を読んで知った。懐かしいし、嬉しかった。早速ロビーに降りて、ストランド・ホテルの支配人と面会して、「ケネスと友達だけど、何とか連絡がつかないか」とお願いした。オランダ人の支配人は、「ケネスオーナーにはメールを送るけど、連絡が来るのはいつになるかわからないですよ」、と優しく対応してくれた。

翌日、部屋には、良く冷えたシャンパンが届けられていた。ケネスの優しい気配りに感謝である。

2005年5月13日
ニューヨークのホテルで旅を思い出しながら
堀義人

 

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