身近な人間関係問題から世界の分断を想う ゴールデングローブ賞映画「イニシェリン島の精霊」

「イニシェリン島の精霊」は欧米では2022年、日本では2023年に公開された映画作品。1923年のアイルランドの孤島を舞台に、アラフィフの年齢と思しき素朴な島民のおじさん二人の諍(いさか)いを描いた作品だ。はじめは単なる口喧嘩と思われた争いは、やがて過激な方向へと発展していく。本作は2023年の第95回アカデミー賞に8部門でノミネートされるなど、特に批評家筋から高い評価を得た。

劇作家出身で、シニカルで知的な作品づくりで知られるマーティン・マクドナー監督がオリジナル脚本を書き監督も務めている。興行収入狙いのエンターテイメント作品ではなく、監督が作り込んだ「作家性」が表現される作品、と意識したうえで見るべきだろう。

分からない、しかし、考えが止まらない

ストーリーはシンプルだ。登場人物は少ない。会話量も多くない。にもかかわらず、最初に見終わった後には「とにかく、わけがわからない」「こんな話をなぜわざわざ映画にしたのだろう」との感想をもった。にもかかわらず、その後数日間、この映画が頭から離れない。人々の感想や分析、WebやPodcastを漁るなか、自分の身の回りにもこの映画の主題がある、と気がついたときには、この作品の深さに魅了されていた。

閉鎖空間での人間関係の対立がもたらすもの

この映画には、時代も、地域も、仕事もまるで違う日本で生きる私たちにも、問いかけるテーマがある。それは、人間と人間との「対立」、特に閉鎖的な状況での対立はどのように始まり、どのようにエスカレートしていくのか、ということだ。

本作の舞台は、とても小さな島だ。1923年の設定で、島には自動車すらない。道を歩いているだけで、顔見知りの島民同士が何度もすれ違うような濃い人間関係がある。島の対岸には本土が見えるが、行き来には定期船が必要になっている。物理的にも簡単に脱出できるような環境ではない。このような島で、主人公パードリックとコルムは仲たがいを始める。二人の関係について「これまでは親友だった」とパードリックは語る。コルムがどう思っていたのかは、ハッキリは説明されない。

これらが何を暗喩しているのか、読み取り方は観客次第だ。たとえば、家族のなかでの親子や夫婦の関係になぞらえられるだろう。メンバーシップ型で転職が不自由な日本企業内の人間関係とみてもよいかもしれない。二人の不毛すぎるやりとりは、インターネットのSNS上での「クソリプ」合戦もほうふつとさせる。私たちの身の回りにも、閉鎖的で簡単には離れがたい人間関係があり、また、そういう中で突然の争いが始まることも、決して珍しくはない。

コルムとパードリックには人物としての嗜好に微妙な違いがある。パードリックは本当に素朴で天然。コルムはやや文化人的な側面を持つと描かれている。しかし、すこし突き放して見るならば、しょせんは「島民」「同年代の男性」であり、似たもの同士にすぎない。しかし、一度始まった争いは、妙にエスカレートする。私たちは、なんとなく、争いというものは文化や思想が異なる者の間でこそエスカレートする、と思いがちである。しかし、「似たもの同士」の争いこそがこの映画のように本当にとんでもない状態になるのだ。今の世界の実際の争いもそうではないだろうか。

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