真山:アメリカが最も得意としているのはルールをつくること。彼らはそれで「フェアだ」と言うが、それは自分たちがつくったルールに則ったうえでのフェアネス。そもそもルールをつくる段階でアンフェアなことが色々とあるのだが、ルールをつくってしまえばそれがフェアネスの基準になる。そう考えると、やはりルールをつくる人が重要だ。恐らくアメリカは戦後ずっと、自分たちでルールをつくってきた。中国もそれを分かっているからルールづくりをしようとしている。たとえば中国でも独自のGPSシステムをつくっていて、「うちのほうが安いよ」と言っている。アメリカのシステムだけが基準ではないと。中国は厄介な国だが、このようにアメリカを刺激する国が出てくるとルールメイキングでも少し新しい展開が見えてくると思う。
田久保:『グリード』ではアメリカ人がつくったルールに主人公が戦いを挑む訳だが、小説では、「違いを読み取ったうえで、それで日本人としてどうするの?」という問いがあったと感じる。グリードの良し悪しは別として、確信を持ってルールを持ち出してくるそうした人達とどう勝負するのか。真山先生はどう戦っていくべきとお考えだろう。
日本人であることを言い訳にして諦めるのをやめよう
真山:鷲津は日本人である前に、一人の人間またはプレイヤーとして勝つために何をするか考える。それで日本人であることを利用することもあれば、アメリカ人の国民感情を利用することもある。それともう一つ。鷲津は、「きっとこんな風に騒がれるだろう」と考えている。日本人は大きなうねりを拒絶してどんどん追い詰められるが、鷲津のように、ときにはうねりに乗り、ときにはうねりをつくって、自分が望んでいるものをきっちり手にいれることも出来るはずだ。日本人にはそういう面があまりない。鷲津にも、彼のなかに染み付いた日本人があるのだが、行動としては日本人だからこうするはずという先入観を逆に利用するといったことが出来る。日本人であることを言い訳にして、ビジネスや交渉を諦めるのではなく、もっとタフに戦えるはずだと考えている。
田久保:今日は「どのような小説も、最終的にはどう生きるのかという問いに繋がるというお話もあった。日本人はその辺について考えるのが苦手なのかなと思うが。
真山:照れくさいのだと思う。
田久保:いわゆる一神教的宗教をあまり持っていない、あるいは教育の問題が絡んでいるのかもしれないが、そういうことについて考える経験を積んでいないという面も感じる。その辺についてはどうお考えだろう。
日本では何もしない人が偉くなりやすい
真山:日本では何もしない人が偉くなる面があると思う。言いかえると、日本の大企業では×(バツ)の少ない人が社長になり、リスクを取る人が社長になれない傾向がある。ここ20年ほどでずいぶん崩れてきているとはいえ、依然として何もしない社長を支えている人達がいて、彼らがリスクを取っているという状況は続いている。特殊な国だと思う。他の国であればリスクを取って頑張った人は、社長を退かせ、自分が次の社長になる。しかしトップに就くよりも第一線で戦っていたいという心理もあり、そもそもそういう状況に異を唱える、あるいは「自分は何者なのか」といった自問をする人が少ないのだと思う。だからこそ、ある世代の人達が道を開けることで、よりグローバルスタンダードなリーダーが出るのではないかと期待している。
田久保:そのメッセージを送るために小説でも色々訴えかけていくという…。
真山:私の仕事は一種のアジテーションだと思っているので、小説を通じて一生懸命訴えていきたい。
会場(東京校):日本人はアメリカ人に比べてNo.2になるのが好きなのではないかと感じときもあるが、今後はどのようなリーダーシップをとっていけば良いのだろう。
会場(東京校):人の価値観はそれぞれ異なるが、もし「これは皆が幸せだと感じるのでは?」という人類共通の価値観があるとしたら、それは何になるとお考えだろうか。
会場(東京校):『グリード』に登場する投資銀行系のアメリカ人から受ける印象が、仕事で接するアメリカ人と違うように感じた。「アングロサクソンがNo.1」といったマインドは、取材時の実感に近いものなのだろうか。それとも多少強めたものなのだろうか。
会場(東京校):アメリカの凄腕ビジネスマンに対抗した、芝野やジャッキーの泥臭いリーダーシップに勇気づけられる。どのような思いで彼らを描いていらっしゃるのだろう。
真山:No.2でいることが得意な人は多いと思うし、そうした人がリスクを取った結果としての責任を、トップが取るという考え方にしたら良いと思う。「あなたの政策や事業はすごく良いから私が責任をとるので、ぜひやって欲しい。ただ、成功したら私の推しがあったと言ってくださいね」といった、そんなドライな感覚が欲しい。そうではなく、今は「全部出来ちゃう王様なNo.1」に好きなことをされて、その後始末を下の人間がするような風潮があると感じる。正しい役割分担が必要ではないか。最近は自分が何者かを知らない人が増えたのではないかなとも思う。そこが分かったうえであれば、No.2がさらに増えて良いと思うし、それをカバーする人が増えてきたらそれもまた良い方向に行くと思う。
人類共通の幸せの価値観というと…、風呂に浸かった瞬間か(会場笑)。私はあの瞬間が1番幸せだと感じる。実際、これは共通のイメージに出来る。たとえば「すごくのどが渇いた状態で飲むビールの一口目」。幸せはそういうところからはじまるのでは。『グリード』は、“もっともっと”という欲の追求だ。たとえば、ほどほどにして、「ああ、良かった。明日も頑張ろう」と風呂に浸かっていたら良いのに、「次はもっと満足したい」と、ビールを買う。「次は美味しい料理を」となって、次第に“もっともっと”の状態になる。結局、「ここで我慢すると次がまた嬉しい」という感覚が、満ち足り過ぎた社会のなかで失われてきたのかなと思う。「次も頑張って、あの幸せに辿り着くまで少し我慢しよう」といったサイクルをつくっていくと、実は幸せなんていくらでも見つけることが出来るのではないか。その意味では、私は小さな幸せから見つけるようにしている。それが重なって行くことで、知らないあいだに、たとえば3年前には絶対手に入らなかった幸福感のようなものが得られる気がする。
田久保:挑戦を止めた瞬間に死んでしまうようなタイプの人もいて、そういう人が走り続けていくことで、たまたま経済的に成功するという話なのかもしれない。そう考えると、もしかしたらチャレンジや自己成長が共通因子で、お金は単なる結果なのかもしれないし、それ故にアメリカ人も止まらないような面があるのかなと感じる。
真山:あと、相対的に物事を見るのも止めたほうが良い。誰かと競争するのでなく、自分のなかにある絶対的基準を見る。そうすると、どこかで「ま、いっか」と思える。しかし、「あいつの方が」となった瞬間にまた欲望が燃え上がるというのは人間の性だ。私も人のことを言えないし、きっと煩悩や葛藤のなかで死んでいくのかなという気もするが。
作中と現実におけるアメリカ人の違いについてだが、実際、私は投資銀行で働く外国人のことをそれほど知らない。従って物語を面白くする対立構図という意図でキャラクターを設定している面はある。ただ、逆に言うと実際に会った人だけですべてを分かることはできないという思いもある。『ハゲタカ』の取材で最初に驚いたのは、取材で訪れた投資銀行は日本人ばかりだったということだ。考えてみるとこれは当たり前だ。日本でビジネスをするのにアングロサクソンのトップが出てくると、皆が“引く”から。だから賢い人達は前に出てこないのだろう。
あと、私はノンフィクションを書いている訳ではないので、それほど数多くの取材をしている訳でもない。「よく取材している」といったことを褒め言葉として掛けられるときはあるが、実は想像で書いている部分がほとんどだ。「…そんなに取材はしていないんだけどな」と(会場笑)。
田久保:以前、「取材し過ぎると書けなくなるから、ある程度まで進んだらその時点で取材は止める」といったことをおっしゃっていたと記憶している。
真山:取材のご依頼をすると、「今日はたくさん喋るぞ」と意気込んでくださる方もいらっしゃる。ただ、たとえば「AとB、どちらの会社に売ろうとしているか」といった、明らかにその人しか知らない話が出てくると、話が盛り上がっているときでも止めることにしている。なぜならそれを聞くと書けなくなるから。つまり事実関係を取材し過ぎると想像の余地が減ってしまう。その意味では、小説を書くための取材では、どちらかというと人間を見ていることのほうが多い。「何故この人はこれほど酷い目に遭っているのに同じ会社で働いているのだろう」、「何故こんな調子の良い人が偉くなるのか」というのを、実は見ている(会場笑)。皆さんは事実を語りに来ているのだが、その辺はどうでも良いというか…。そうした取材もあまりに重ねると頭のなかで拒否反応が出てくる。何かを書いたら必ず会った誰かになってしまうからだ。従って、取材はほどほどに。コップに色々な要素を入れていって、それが溢れたら止めるというやり方をしている。
泥臭いリーダーシップと小説の登場人物
田久保:ディープなキャラがいると読み手の妄想が色々と広がるし、もしかすると少々大袈裟でもプラスアルファのほうが、本質がよりクリスタライズされる感じもする。
真山:ご質問の泥臭いリーダーシップについてだが、鷲津も『ハゲタカII』や『レッドゾーン』で泥臭くなったことはある。しかし、彼は悩まず好き勝手に行動する人間として、「くそ、あいつ…」と思わせたほうが良いことに気付いた。それによって見えてくるものがあるからだ。その分、他の人間が泥臭くならないと、宇宙で戦っているような話になってしまう。ファンドや投資銀行の方だけでなく、多くの人に「社会はこんな風に動いているし、実は物語のなかにも自分たちの生活にプラスとなるようなものが色々あるんだな」と感じてもらえる小説にするためには地に足の着いた人が必要だ。だから、ご指摘の通りだ。ジャッキーを「日本人が考える明るくタフなアメリカ人」にした。マクロで見るアメリカはリーマンショックを起こした嫌な国だと思っていても、ジャッキーには「アメリカ人って良いよね」という親近感を持ったりする。追い詰められても泥から這い上がったりするような人間をつくることで、鷲津を人間ではないように出来る訳だ。これは手法の問題だし、私自身が泥臭いからという面もある。ただ、そうすることで異なる視点で一つのことを見ることが出来る。その辺の効果を狙っている。泥臭過ぎると駄目になるので按配は難しいが。
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