日本のコンサル界を牽引するリーダーの履歴書
加治:本セッションでは澤田宏之さん、田中慎一さんと共にお話を進めていきます。議論にあたっては、ファシリテーターの私自身も色々な考えを述べさせていただきたいと思っています。それでは澤田さんから、自己紹介をお願いいたします。
澤田:澤田宏之と申します。よろしくお願い致します。先ほど別のセッションで「自己を発信する」というお話がありましたが、このセッションのテーマもまさにそこに尽きると思います。ですから私も自己紹介するにあたり、「どこから来て何をやっているのか」ということに加え、「どんなことを考えているのか」という点も併せてご説明したいと思っています。
私は元々エンジニアでありサラリーマンでした。しかしエンジニアをしているなかで、エンジニアリングの外側にあるマクロな経済や政策がすごく気になってきました。「自分は何も分かっていないじゃないか」というもどかしさも感じるようになり、それを乗り越えたいという想いから、米国へ留学することにしたんです。博士号を取ろうと経済学を勉強していたのですが、私が師事していた教授がワシントンD.C.にある別の学校に移ってしまうことになり、大学に相談したところ、「シカゴ大学に行ってみたらどうか」と言われました。それでシカゴ大に編入することにしたんですが、シカゴ大というのはなかなか面倒な学校で、もう一度試験を受ける必要があったんです。
また試験勉強をするのは大変だし、どうしたらいいかと考えあぐねていたら、「じゃぁビジネススクールに行ってみたらどうか」と。「徐々に経済学に軸足を移していくことも出来るし、仮に博士号が取れなくてもビジネススクールを出たらそちらのほうが初任給は良い」と言われまして(会場笑)。びっくりしたのは、1学期目が終わった時点でマッキンゼー・アンド・カンパニー(以下マッキンゼー)とボストン・コンサルティング・グループ(以下BCG)からそれぞれオファーが来ました。レジュメに全米経済学会で賞を受賞したと記したのを担当者が見たんですね。
どんなことをやっている会社かもよく分からなかったのですが、両社を一度訪れてみました。そうしたら共に素晴らしいチャンスを与えてくれることが分かった。「夏の間日本に戻って仕事をさせてやる」と言われたんです。「給与も素晴らしく、こんなに面白い仕事はない」と思った私は、最終的にはBCGを選びました。
結果的にはそのままコンサルタントになったのですが、コンサルタントになって面白かったのは、「まず問題提起をすれば良い」という出発点があったことです。自分の目線をしっかりと持った上で考え、問題提起していく。それでビジネスとして成り立つというのが非常に新鮮でした。そうこうしているうちに、「自分がしっかりしなきゃいけない」と強く思うようになり、BCGを飛び出してコーポレイトディレクションというコンサルティング会社を仲間とともに設立したんです。新しい会社では様々な勉強をしながら、会社運営の難しさもわかっていったという感じですね。
そうしていると今度はBCG創業者の一人で、晩年はグロービス経営大学院の名誉学長をなさっていたジェームズ・アベグレンさんという、日本の経営学にはなくてはならない大変な先生に、「おまえが今やっていることはまだまだ小さい。もっとグローバルなことを手掛けろ」と言われました。それでジェミニ・コンサルティング(当時)という、急成長していたコンサルティング会社に移りました。
当時ジェミニはマッキンゼーに迫るトップコンサルティングファームに成長していたんですが、親会社がキャップジェミニという巨大なITシステム企業だったんですね。日本でもう一つ外資系のコンサルティング会社を作るのも、それはそれで面白いと移ったわけですが、IT企業に吸収されることになり、戦略とはいっても、やっていることが段々システム開発の前さばきみたいになってきた。それで「これはおかしい」と、結果的にはそこを1年半かけてバイアウトすることになりました。自分ですべて株を持ち、仲間と一緒に独立したんです。
するとその次はブーズ・アレン・ハミルトン(当時)という米系コンサルティング会社の会長が突然訪ねてきました。ブーズは100年近い歴史がある世界に冠たるコンサルティング企業でしたが、日本では20年やっても事業サイズを拡大できずにいたんですね。そのうえで、「お前のやっていることをずっと見てきた。お前の会社を買ってやる」と言われました。その会長はものすごいオーラをまとっていた方で、私は思わず、「Certainly(かしこまりました)」と言ってしまいまして(会場笑)、飛び込むことにしました。そんな風に言われたら燃えるほうですから、3年がかりで日本法人の規模を倍にして、収益性も世界のブーズのなかでトップクラスにしていきました。
そのような感じでコンサルタントをやってきたのですが、私としてはコンサルティング以上に、「自分のなかから何かを生んでいきたい」という思いが強い人間です。ですから、コンサルタント以外では、堀義人(グロービス経営大学院学長)さんとの出会いによってグロービスに初期から関わったりしたことは感動的でした。ほかにも某大手新聞社やネット系のベンチャーのアドバイザーをやったり、コンサルティングというより、時代の先端で色々な役割を担おうとしている方々と関わる仕事といったところでしょうか。そういう部分に強い生きがいを感じている人間です
東京オリンピック招致に奔走するリーダーの想い
加治:有難うございます。ちなみに本セッションのテーマは「リーダーに求められるコミュニケーション戦略」。しかし皆さんはもうお気づきかもしれませんが、戦略というよりも、「我々三人が感じていることをもっと真正面からぶつけて議論を白熱させていこう」と舞台裏で打ち合わせをしました。ですから若干の裏切りではありますが、次も、いきなりファシリテーターの私が自己紹介という意外な展開になります(会場笑)。
私は東京オリンピックおよびパラリンピックの招致委員会でエクゼクティブディレクター、いわゆる企画広報を担当しています。今朝シンガポールから帰ってきたばかりで、アジアオリンピック評議会(Olympic Council of Asia)の総会に参加してきました。総会では「OCAとして日本を応援する」という心強い採択をいただきました。
ざっと私の経歴を振り返ると、ノースウエスタン大ケロッグ経営大学院でMBAを取得した後、日本コカ・コーラ、タイム・ワーナー、ソニー・ピクチャーズエンタテイメントなどでマーケティングやビジネスに携わってきました。直近では日産自動車でシーマ、フーガなどの高級車ラインアップなどを担当していました。
オリンピックに関しては、日産自動車からの出向という形で、4月からディレクターを務めています。そもそもマーケティングやビジネスの仕事をしていた私が、なぜこういったオリンピック招致委員会に興味を持ったかといえば、「日本の将来は一体どうなっていくんだろう」という問題意識が根底にあったんですね。
問題意識の発端は2007年の東京モーターショーでした。私は当時、日産自動車の一員としてGT-Rというクルマを市場導入したのですが、そこで感じたことが3点ほどありました。一つ目はそのGT-Rというのがすごい車で、ヨーロッパでも本格的にデビューすることを目標に作られた車だけあって、実際にポルシェターボよりも性能が高い。ヨーロッパでも絶賛されましたが、この車、実は普通の工場で作っているんです。スカイラインとかフェアレディZと一緒に作っている。ですからポルシェターボだと2000万円ぐらいですがGT-Rは800万円。価格破壊ですよね。いわばスーパーカーの“ユニクロ化”です。時速300km以上で走るのは事実上無理ですから、GT-Rで一つの限界に達したなと実感し、化石燃料で自動車が走る時代には必ず終止符が打たれるだろうと感じました。
次に感じた点は、GT-Rを発表した東京モーターショーにはたくさんの方がいらしたのですが、米国ビッグ3からは、役員クラスが来なかった。GM、フォード、クライスラーにとって、日本という市場はもはや魅力はないのだなと感じました。そして次に感じたのは、アメリカ企業が前門の虎とすれば、後門の狼に関することです。インドや中国の方々がGT-Rを囲み、赤外線センサーなんかを使って色々と調べているんですね。専用の機器で計測して鉄板の厚さなどを調べていたんです。で、その翌年のモーターショーでは、前がスカイライン、後ろがGT-R、だけど結構きちんと仕上がっているなんていう車が中国から現れた。これ、業界では「ハイブリッド」と呼んでいますが(会場笑)。中国やインドといった国々の追い上げも私にとっては大きな課題になりました。これらをマクロで考えたとき、日本の将来は一体どうなっていくのだろうというのが、私の問題意識なんです。
戦略なき日本が生き残るために
私は日本の未来について、経済では市場と雇用という二つの視点、さらにその市場のなかでは内需と外需という二つの視点に着目しています。まず内需市場は、人口が減少していくことで国際的な魅力が急速に失われます。今すぐに皆さんが子づくりに励んだとしても、効果が出るのは20年先。次に外需を考えると、円高が進んでいけば国際競争力が急速に低下していくでしょう。世界を見渡せば、生産コストの低いLCC(Leading Competitive Country)が台頭してきています。現在ではBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)が、その次にはベトナム、メキシコなどが控えています。
LCCが台頭すればグローバルに展開する日本メーカーは海外で現地生産していかざるを得ない。片や日本の人口は2006年をピークに減り続け、20年には1億2300万人となり、40年には1億人を確実に下回ると言われています。しかも04年現在、15歳から64歳の就業可能人口と、年金で養っていかなければならない人々との比率は8対2前後ですが、40年ぐらいになるとこれが5.5対4.5になります。これはほぼ確実にやってくる未来であり、私たちの子供が直面する大きな問題なんです。
さらにスイスのIMDというビジネススクールが行った国際競争力調査によれば、1993年に世界1位だった日本の国際競争力は、2008年には22位まで下がりました。55カ国の国際競争力を項目別で見ると、日本は「研修・トレーニング」が5位、「顧客満足度」が1位など、特定分野では依然高い競争力を維持していますが、「企業家精神」は55カ国中53位、「国際的考えの開放度」は49位、「政府の効率性」は51位。深刻な項目のほうが多い。加えて、何より1人当たりGDPが2000年は世界3位でしたが、07年は22位まで低下しています。これは現在の結果に過ぎませんが、人口の急激な減少を考えると5年後にはさらに深刻な事態になることは間違いありません。
確かに我々は現在、深刻な不況に直面していますが、景気は循環するものですからいつか必ず回復します。本当に脅威なのは、長期的に見た生産のオフショア化なんです。例えば日産自動車は2010年から国内で担っていたマーチの生産をタイ工場に移管すると決定しました。単純な生産作業を国内で行うということに、経済効率性はもはやないんです。したがって、労働可能人口の減少に伴って今後は国内生産もどんどん減少していくでしょう。そして市場も縮小していくという、いわば負のスパイラルに陥っていく。これが残念ながら、日本の現実と言えます。
自動車産業は、6000万人と言われる就業可能人口の8%前後を占めています。ここで何か新しい事業を興せば、日本の国力を維持できるのではないかというのが私のシンプルな考え方でもあります。まずはLCCで実現不可能な高い付加価値を備え、かつ世界中で需要がある製品を競争力のある形で提供していくこと。自動車産業では、リチウムイオン電池と太陽光発電という2つの分野で日本に大きなアドバンテージがあります。しかし、ここでも残念ながら米国をはじめとするグリーンニューディール的な動きが世界中で起こっているのも事実です。彼らが日本をどんどん追いかけている時、戦略なき現在の日本は一体何ができるのでしょうか。
そんなことをぐるぐると考えていた時、ちょうど東京オリンピックの招致ファイルと出会いました。そこ書かれていたのは、太陽光発電と電気自動車を含む次世代型自動車を、2016年を目処に普及させるという計画でした。私はそれを見て、日本で競争力ある産業振興を加速化するために、最大の効果と効率を期待できるのが、東京オリンピックではないかと考えました。例えば太陽光発電パネルを設置した10万人収容のメインスタジアム。これはスタジアムで使用するエネルギーの多くを太陽光パネルでまかなうものです。ほかにも会場の緑化によって都内の気温を落としていくなど、「環境に優しいオリンピック」を標榜したこの招致計画は、日本の未来に向けた大きな戦略の一つになると私は考えています。そんなわけで皆さんにもぜひ、東京オリンピックと東京パラリンピックを応援していただければと思っています。
では続いて田中さん、お願いいたします。
社会をコミュニケーションで動かすリーダーの信念
田中:田中慎一でございます。よろしくお願いいたします。私は現在、フライシュマン・ヒラード・ジャパンという戦略コミュニケーションコンサルティング会社におります。実は私も加治さんと同じく自動車会社、ホンダの出身なんです。私はホンダで海外営業を担当していたのですが、英語ができるということで、1983年にワシントンD.C.に行けと言われました。パブリック・リレーションズという部門を立ち上げることが目的だったんです。
80年代当時は、日米通商問題が最大の日米問題だった時代。日本の自動車メーカーがどんどん米国に進出していたなかで、ホンダはかなり先行して現地での生産や技術開発を進めていました。ホンダにとってはある意味、米国が生命線だったんですね。その状況下で私が受けたミッションは、「ホンダは米国で生きるしかない。何が何でもホンダに対して米国世論の支持を取り付けろ」というものでした。
ワシントンD.C.にはじまって、その後デトロイト事務所も開設し、どうやって米国の世論をホンダの味方にしていくかということを、10年間ずっとやってきました。その後日本に戻ってきてグローバルな広報体制を構築していくという仕事をやっていたのですが、1994年に色々と理由がありましてホンダを去ることにしました。「起業したい」と思った私は、時限つきでセガエンタープライゼズ(現セガ)に移り、社長の中山隼雄(現・アミューズキャピタル会長)さんに3年間弟子入りをすることになりました。中山さんは大変厳しい方で、何度も叱責されました。
セガでの仕事は「ジョイポリス」というアミューズメント施設を中近東、アジア、さらにはオセアニアへ徹底的に売り込んでいくこと。中山さん直轄の仕事です。中山さんはジュークボックスを売るところからセガを立ち上げた方ですから、英語は結構出来る。ただ海外の人々と交渉する時、始めのうちは英語で話しているのですが、複雑になってくると、日本語になるんです。すると私が英訳するわけです。でも中山さんが5分間日本語で話した後、与えられる英訳の時間はたった30秒(会場笑)。
5分を30秒に要約するのですからこちらも必死です。しかも中山さんはかなり英語が分かるから、ポイントを外した英訳だと、叱責されてしまうというわけです。5分の話をどれだけ鋭く絞り、要点をまとめるかということに集中していました。ただ、これがとても勉強になった。その3年間は私が自立する上では非常に重要な経験になったと思っています。
そしていよいよ1997年、自分で事業をやっていきたいという段階になって、「自分に何ができるのだろう」と深く考える時期がやってきました。自動車でもゲームでも、自分より上の人間がいることは知っていましたから、それとは別に、「これだけは絶対に負けない」というものを考えていったわけです。すると、やはり自分の強みはコミュニケーションだと思ったんですね。私はコミュニケーションとは力だと思っています。この世の中、どれだけ優秀でも人を動かせなければ意味はないというのが、私の実体験でしたから。そこで、実はホンダ在籍時代から付き合いのあった会社でもある、フライシュマン・ヒラードというコンサルティング会社の日本法人を立ち上げることとなりました。
「戦略コミュニケーション」とは何か
私が自身の経験から培ってきた志とは、一言でいうと、「コミュニケーションのパワーで日本を変えたい」ということです。G20が中心となった現在の国際社会では、政治だけでなくビジネスの世界でも日本の多国籍企業が地盤沈下しています。韓国、中国、インド。彼らの世界市場での躍進はすごい。しかし、これに対して日本の多国籍企業はビジネスこそグローバル化しているものの、コミュニケーションをグローバル化していないと言えます。これは政府も同じです。韓国、中国、インドの企業はオペレーションとともに、コミュニケーションをグローバル化しているんです。日本を変えたいと願う私なりの方法論とは、政治家でもビジネスマンでも、「戦略コミュニケーション」という発想を持つことです。
戦略コミュニケーションとは何か。戦略を実現するために、コミュニケーションという力学をどうしたたかに使っていくかという発想です。日本ではコミュニケーションがあまり力として意識されませんが、グローバルな世界では力そのもの。有史以来、人は人を動かすために武力や財力といった様々な力を使ってきました。そのなかでも最も効果や効率が高いのは、コミュニケーション力なんです。なぜかといえば、反動が少ない。武力を使えば憎しみや恨みを買いますし、金を使えば「金の切れ目が縁の切れ目」ということになる。どちらも必ず反動があるんですね。ところがコミュニケーションの力とは、相手が納得して動いてくれる力ですから、反作用や反動が少ない。コストパフォーマンスが高いんです。
ただ、やっかいな力でもあります。武力や財力が意識して行使されるものであるのに対し、コミュニケーションの力は、意識しなくても作動してしまう側面があるためです。たとえばある人が黙っていたとしますね。そこで黙っている本人は一切メッセージを発信していないつもりでも、それ自体、メッセージになる場合があります。もともとコミュニケーションとはメッセージを受け取った相手が意識や行動を変える力学ですから、相手次第では黙っていてもメッセージになることがあるんです。
自分が発しているものは情報でしかなく、それを受けた相手にどういう風に伝わったかを問われるのがメッセージ。黙っていても、「こいつは人付き合い悪そうだな」「機嫌悪そうだな」と、周りは勝手に色をつけていく。だから何も発信していないつもりでも、周囲はメッセージを受け取り動いてしまう。良い方向に動けば良いのですが、ほとんどの場合、無意識の伝達は悪い方に働いてしまいます。ですからコミュニケーションを意識するという作業は非常に重要で難しいとも言えます。
ここで大切なのは、コミュニケーションでは言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションを一致させる必要があるということ。実は言語から伝わるメッセージはコミュニケーション全体の35%しかないと言われています。残りの65%は非言語で、何らかの表情や目つきや動作によって伝わります。これが一致していないと、相手に不信感を与えてしまいます。「あの人はこう言っているけれど本当は違うことを考えているんじゃないか」という経験はよくありますよね。人間というのは面白いもので、言語と非言語双方のメッセージが違うと非言語を信用してしまいます。ですから言語から発信されるメッセージと非言語で放たれるメッセージを一致させることがとりわけ重要になるんです。
コミュニケーションの秘訣は「身口意」にあり
ではどうやって一致させるか。ここからそのコミュニケーション力を上げるためのお話に移りますが、まずはある言葉について説明させてください。それはお釈迦様が唱えた「身口意(しんくい)」という言葉です。ここからは仏教のお話が関連してきますが、ちょっと我慢してお付き合い下さい。お釈迦様が生まれた当時のインドでは因果律という教えがありました。原因が決まれば結果が決まるという話ですから、これは当たり前の話です。しかし当時のインドでは人間社会でもその因果律が説かれていました。つまり、「生まれた瞬間にあなたの人生は決まっていますよ」という話です。宿命論ですね。
お釈迦様はその考え方がとても嫌いで、なんとかならないものかと考えました。生まれ持ったものは仕方がないけれど、自分の人生だからなんとか自分で切り拓いていきたいだろうと。そこで因果という言葉のあいだに「縁」という文字を入れて、因縁という言葉を考え出しました。生まれてから人が人と出会い、巡り合うご縁によって結果が変わり、人生も変わるという意味です。すると、そんな話を説くお釈迦様にある弟子が、「良い縁も悪い縁もありますが、自分は幸せになりたい。幸せになるために良い縁を呼び込むにはどうしたら良いのですか」と聞きました。それに対しお釈迦様が答えたのが「身口意」です。「身」は身体ですから「行い」。正しい行いをしましょうということですね。そして「口」は正しい言葉、「意」は正しい気持ちを持ちましょうという意味です。
これをコミュニケーションの力学に当てはめて考えてみてください。「身」は非言語コミュニケーション、「口」は言語コミュニケーションと言えるでしょう。では、さきほどお話しした言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションをいかに一致させるかという点を考えると、そのカギを握るのは最後の「意」になる。意識の持ちかたが大切ということです。
私がよく手掛けている「クライシス・コミュニケーション」を例にとりましょう。たとえばある会社で大事故が発生し、多くの方が亡くなってしまったとしましょう。通常、2時間以内に記者会見を開きます。ところが、現場に足を運んでいないトップが記者会見で広報が作った書類を読み上げるだけだと、だいたい墓穴を掘ります。なぜか。意識の部分が出ていないからです。言葉では謝罪していますが、それが「身」である非言語コミュニケーションと一致していない。そんなものは、人間はすぐに分かってしまうんですね。そんな時に私が何をするかというと、記者会見を1時間遅らせてでもトップを事故の現場に連れて行きます。現場に入ると意識が固まる。意識が固まると覚悟が決まる。すると同じ原稿を読み上げる作業一つとっても話し方が変わります。この「意」をどうマネージできるかという部分がとても重要です。意の部分こそ皆さんが発するメッセージ性のオーラを高め、人が動くようにする鍵なんです。意は「覚悟」でもあると思ってください。そこで、「覚悟って何だろう」ということも、お話できればと思っています。
本田宗一郎に感染した10日間
加治:ありがとうございます。大変深いお話になりました。このお話をどう捌いたら良いか、ファシリテーターとしてはまさに覚悟が必要なのかなと(会場笑)。こういう時は、やはり最初に覚悟というお話をされた田中さんに引き続きお伺いしてみたいと思います。まずは田中さんご自身が覚悟を決められた瞬間というものがあったと思うのですが、それはどんな体験だったのでしょうか。
田中:私が自分なりの志を培った、あるいは現在の職業をやっているきっかけとして、二つの原体験を紹介させてください。一つは6歳の時に体験したものです。当時父親の仕事の関係で、アフリカのローデシア(現ジンバブエ)という国にいました。当時のローデシアは、国のすべてが“ホワイト”と“カラード”に分かれていました。カラードはインド人、中国人、その他黒人で、ホワイトは白人ですね。住むところもトイレもレストランも、何から何まですべて区別されていました。そういう中で、日本人の私は本来カラードなのですが、父親の仕事が外交関係だったため、“名誉白人”なる称号で、白人の学校に入れられました。
周りは全員白人ですから、彼らも日本人が珍しいわけです。「何だこの黄色いのは」と。それがすごく辛かった。自分のアイデンティティーを確立できないんです。「どこから来たのか」と言われて、「JAPANだ」と答えても誰も知らない。そんな苦しい時期があったのですが、その後、珍しいことがありました。これはホンダに入った理由にも繋がります。当時、ホンダが二輪の世界グランプリを制覇し、レッドマンというワールドチャンピオンを生み出したのですが、その人がローデシア人だったんですね。彼はローデシアの国民的英雄でした。
そこで私は、「お前はどこから来たんだ」と聞かれたら、「JAPAN」ではなく、「あのホンダというオートバイを作っている国から来た」と答えるようにしました。すると皆の態度がガラっと変わったんです。その時、私は始めて自分の立ち位置をつくることができました。周りの人々との関係性も変わってくる。立ち位置というものが人を動かすんだということを理解した原体験でした。アイデンティティーと言っても良いと思います。いかに立ち位置を作っていくかということが、自分の、極端に言えば生存にすら関係してくる。その立ち位置を作る時、やはりコミュニケーションの力をフル活用していくのが重要だったということです。
次の原体験は30代で、ホンダ在籍中にやってきました。当時、本田宗一郎さんと10日間一緒に過ごしたことがあります。ちょうど米国の世論をホンダの味方するために四苦八苦していた時期です。本田さんが米国の自動車業界で、日本人として初めて殿堂入りしたということで、デトロイトにいらしたんですね。もうご高齢で80歳を超えていたので、私がつきっきりでお供しました。
あるとき私が本田さんに愚痴を言ったんですね。「なかなかアメリカの世論はホンダの支持に回ってくれない」と。すると本田さんが、「馬鹿言え。お前、人間の意識なんてのはそんなに変わらない」と言うんです。人間の思い込みや意識は“Inertia”、つまり物理でいうところの慣性が強いんだと言うんです。「人間の意識なんて、いったん思い込んだらなかなか方向転換しない。それを変えようなんてのは並大抵のものじゃない。50万トンのタンカーが曲がろうとして舵を切ったって5キロぐらいは曲がらずに進む。人間の意識も同じだ。だから繰り返しメッセージを伝えなきゃいけないんだ」と、本田さんには言われました。
その話は頭では理解できたのですが、しかし何といってもそのあとの経験が私の一生を決めたに等しい。受賞にあたって宗一郎さんが1000人ぐらいの観衆を前に、スピーチをしたんです。当時のデトロイトでは町中で日本車がガソリンをかけられて燃やされたり、挙句の果てには日本人に間違えられた中国系米国人が失業した労働者にバットで殴り殺される事件も発生してるような状況でした。それだけ怖い世界だったのですが、1000人ぐらいの前で、英語をしゃべれない本田さんによるスピーチの第一声が「サンキュー」なんです。感謝です。言葉じゃないんですね。そのとき私には、何か言葉以外のすごいオーラが1000人の聴衆に広がっていくように感じられました。
これこそ本心から出ているものであり、「今のホンダがあるのは米国のおかげなんだ」という感謝の気持ちです。それを本田さんは繰り返し話していました。「そうか。言葉以外なんだ」と実感した瞬間です。10日間の滞在が終わって、本田さんが出ていく時は、宿泊先だったリッツ・カールトンの全従業員が見送りに出てくるんです。滞在中、本田さんはホテルの従業員に片端から「ハロー。サンキュー。ハロー。サンキュー」と声をかけていたんですね。10日間ぶっつづけでそれをやるわけですから、結局、ホテルの従業員の気持ちもぐわっと掴んじゃった。あの強烈な日米通商問題の最中、さらにデトロイトという反日のメッカで、本田さんの人の気持ちを変えるメッセージ性とコミュニケーション力を見たこと。それが今の志を支えている強烈なもう一つの原体験になっています。
加治:ありがとうございます。本当に示唆に満ちたお話ですね。澤田さんのほうはいかがでしょうか。
夜中のキャンパスをパジャマ姿で走り回った
澤田:コミュニケーションの「ありかた論」のようなものとしては色々あると思います。ただ、今日集まっている皆さんに伝えないといけないのは、田中さんや加治さんが仰っているように、「自分にとってのコミュニケーションとは何か」ということですよね。「リーダーとは何か」という命題と一緒ですが、組織の長だからとか、企業のトップだからリーダーかというと、そんなことはない。私は仕事柄様々な企業のトップにお会いしていますが、なかなかリーダーには出会いません。組織の上に座り、上手にスピーチをしたり、社員と仲良く話をしている人はいますが、そういった人々からリーダーとしてのコミュニケーション力を感じることはほとんどない。
リーダーは何か確固たる自分というものがあり、哲学、信念、生き様、そういったものを持っている。自分が何のためにここにいるのか、何を語ろうとしているか、それがなければ絶対にリーダーとしてのコミュニケーションは出来ません。結局、コミュニケーションとは一つの手段にすぎず、「自分が何者か」という問いと向き合うことが重要なんです。
私自身は問題意識を持って米国で経済や政策を勉強しながら、「自分は何かを動かしたい」「何か役に立ちたい」という想いをずっと持ち続けていました。でも、やってもやっても、向き合っても向き合っても、いっこうに届かない。そういう時期がありました。目の前でこなさなきゃならない勉強とか、人のネットワークの構築ということはやっているけれど、社会に貢献したいと思っていることと、やっていることの間にあるギャップがあまりにも大きい。
その頃は色々な本も読みました。ポジティブシンキングの本、ナポレオンヒルから中村天風の本まで。そしてポジティブに積極的に考え続けようとしていたのですが、とにかくぜんぜん効果が出ない。もう「これはなんなんだ」と。自分がコミュニケーションしているようでも、結局自分一人が走り回っているだけで何にも響かないし、自分にも返ってこないという時期があって、それが本当に苦しかった。
何があってもポジティブに考えるうちに、段々と、「だけど」とか「そういう風に考えたって所詮」とか、ポジティブに考える以上に否定的なところに帰ってしまう自分がいるということが分かったんです。前向きな気持ちを作れば作るほど、より沈んでいくという恐ろしい状態ですね。もう、そのせいで微熱まで出るようにまでなって、人と会っても話をしなくなるようにまでなった。だから「これはちょっとおかしい。これはいっときの病気だから忘れよう」と考えることにしました。何か起きても忘れる。沈んでも忘れる。なぜなら明日はきっと良くなっているからと。
忘れるということをやっているうち、今度は何が起きたかというと、ある日、寝ているときに目を閉じたら、目の前が真っ白だった。普通、目を閉じると黒いでしょ。白いんです。自分も忘れようとしたんです。これは怖かった(会場笑)。今までの人生で一番怖かったですよ。その瞬間、パジャマのまま外に出て夜中のキャンパスを走り回りました。ただひたすら外を走り回る。走り回った挙句、最後はキャンパスのどこかで倒れました。「終わった」みたいな感じで。これは絶対に心臓が止まって死ぬなと思いました。ひっくり返っているあいだ、「自分は生まれる前は土だったし、死んだら土に返るだけだ」と、変な気持になってくる。考えてみたら28年間ぐらいの短い人生だったけど、いいこともあったなあと。ここで死ぬのも別に悪くないと思いました。最初はすべてに「NO! NO! NO!」と言っていたのが、次に忘れようということになって、さらに、「これでもいいか」と受け入れる気持ちになった。ガッツ石松の「OK牧場」みたいなもんです(会場笑)。
実はそう思った瞬間に、戻りました。「あれ?」って。そこで何が変わったのか。それまで生きてきた自分は、考え方から行動はすべて、「ああだから、こうなる」というリーズニングとエクセキューズに満ちていたんですね。一生懸命生きて問題意識を持って走り回るほど、それについて自分を正当化しないといけない。だからエクセキューズとリーズニングでポケットが膨らんで、すごく重たいコートを着て走り回っているような感じだったんです。それを脱いだ瞬間、細い体が出てきて、「なんかおれ元気」みたいなことになりました。
受け入れていくことで本当に力が出てくるんだと分かったんです。本当は、何が起ころうとどんな状況になろうと全部OKなんだと。なぜなら自分が今、志を持っていること自体は事実なわけだし、そこで自分が行動を起こしたということ自体も事実なわけだから。結果やリーズニングではなく、「そこにいること自体がすべてということだったんだ」と思えた。その途端、また力が湧いてきたんです。
私はそこで、もう一回生まれたんですね。最初は母親から生まれる。与えられた環境の中でここまでやれた。それも一生懸命頑張った自己なんだけれど、次は自分から生まれた。人は二度生まれるんだと思います。リーダーとしてだけではなく、人に話をしようと思ったり、ある場面に向き合って何かを伝えたいと思ったとき、自分というものが内側から生まれていたら、あるがままに受け入れることが大切だと思います。それを怖がらずに自分でも信じて伝えていこうという気持ちがあれば、それがリーダーとしての最初の立ち位置になると思います。それが私にとっての原体験ですね。
怒りを哀しみに変えると生まれるもの
加治:ありがとうございます。2人の原体験は本当に強烈ですね。私もささやかではありますが、自分の原体験をお話ししてみたいと思います。私の価値観は3人の人間との関わりと繋がっています。1人目は父親です。父親は工場を経営しており毎日一生懸命働いていましたが、いつもぱっとしない印象でした。そんな父親を見ていた私は、「こんなんでいいんだろうか。この人は人生が楽しいのだろうか」と、いつも思っていました。でも父は亡くなるとき、「幸せで良かった」と言ったんです。人生のなかで自分と関わってきた人々に尊敬と感謝の念を持ち続けたそんな父親の存在が、私のなかでひとつの価値観を生み出す原体験になったことは間違いありません。
その次の原体験は、私が社会人として富士銀行(当時)に入社したとき、ある先輩と出会ったことです。その方は高卒で北海道から出てきたとても優秀な方で、いつも一生懸命働く誠実な方でした。ただ、私が銀行に入った1986年はひどい時期で、住友銀行や富士銀行がしのぎを削り合い、「住宅活用ローン」なる商品を売っていた時期でもあったんです。これは地価が右肩上がりで高騰することを前提にした商品で、住宅を担保にして高齢者にお金を貸し、その方々が亡くなるのをもって相殺するようなすごいものでした。私の尊敬するその先輩も「これはひどい商品だ」と言いながら売り歩いていたんですが、ある日、「正義感の強いあなたがどうしてこのような酷い商品を売るのか」と聞いたんです。そうしたら彼が、「自分はここでしか生きていけない。ここで頑張らなければ行く場所がない」と言ったんです。それは私にとってものすごく大きな問題意識に繋がりました。2つ目の原体験であり、私自身の「怒り」の出発点にもなった出来事ですね。
3つ目の体験はそれから5〜6年後にやってきました。米国で外資系企業に転職したとき、一緒に働いていた米国人やフランス人が、仕事が終わるとさっさと家に帰ってしまうのを見たときです。自分の時間や人生を楽しむ彼らは、「私たちは会社に対してロイヤリティはない。私たちの人生にロイヤリティがある」と言っていました。それ以来、私は日本でも、誰もが自分の人生にロイヤリティを持てる国になって欲しいと思うようになりました。同時に、先人たちが遺していったものを、次の世代にも確実に残していけるような国にしていきたいと強く願うようにもなりました。ここにいる私たちは日本の繁栄を最も楽しんだ世代ですよね。私たちの親が苦労して作り上げた日本の繁栄を我々は食い潰し、環境を破壊し、さらには人口を減らして、それを子どもたちの世代に渡していくのか。そんなことだけはしたくない。そういった3つの原体験が、私にとってコミュニケーションとは何かを考えるうえでの原点となっています。
ではここで、「どうやったら覚悟が持てるのか」というヒントもお伺いしていきたいと思います。私にとってはまず、「怒り」というものを理解するという作業がありました。人がなぜ怒りを持つか言えば、それは何かを期待しているからですよね。1500万円の年収を期待しても1200万円しか貰えなければ会社への怒りが芽生えます。そこには期待と違う現実があるからです。でも私はその怒りの感情を、当事者の哀しみに置き換えて考えることが大切なのではないかと思うようになってきました。
父親はいつも一生懸命働いているのにぱっとしない生活を送っていた。私はそういう父親に一時期、怒りのような感情を持っていました。しかし、その奥にある父親の哀しみに気付いたとき、それこそが問題を解決できる手掛かりになるのではないかと思うようになったんです。銀行の先輩にもここにしか居場所がないという哀しみを感じました。我々が不幸せにぶつかって誰かに怒りを感じたとき、人々が期待に応えてくれないと思うのでなく、その人々のなかにある期待に応えられない哀しみに思いを馳せること。それは慈しみの心に切り替える作業でもあります。それが感謝や尊敬の気持ちにもなり、私たちのなかに新しい情熱が生まれてくるんじゃないかと思います。それがリーダーとしての動きにも繋がるでしょう。リーダーとは結果でしかなく、コミュニケーションとはそういう哀しみ、慈しみを感じることから始まるものではないかと思っています。田中さんはいかがでしょう。
立ち位置、覚悟、そして自己覚醒へ
田中:私は6歳のころからずっと、「自分の立ち位置を作れないと人間は不幸せになる。立ち位置を作ったうえで相手との関係を構築しよう」と考えてきました。私自身は基本的にコミュニケーションが苦手で、人と話すのも苦手です。ひとりっ子だったこともあるのですが、人と接するのが億劫と感じるんですね。ある意味、人と出会うのは自分を傷付けることでもあります。もともと異質な人間同士が出会えば、傷つけたり傷つけられたりするのは当然のことですよね。ただ、傷つくことに免疫を付けることが重要なんだと思います。人間関係ではいつでも仲良しというわけにはいかず、ぶつかり合いもあるでしょう。思う通りにならないとか、自分の考えと違うということで自尊心や感情が傷つくこともあります。でも、そこを受け入れる度量をどれだけ培っていけるかが大切です。その作業のなかで自分の立ち位置を絶えず作りあげ、自分はどういう存在なのかを意味づけていくこと。そんな、四六時中自分を意味づけていく訓練を、私は今までしてきました。
とにかく目の前で起きるさまざまな事象がその都度、自分にとってどんな意味があるのかを考えることはとても大切だと思います。特に、辛いときにそれができるか。先ほど澤田さんがお話ししていたすさまじい原体験とも重なると思いますが、それを繰り返していくうち、なんとなく“天の声”が聞こえてくるんです。目の前の事象から何らかのメッセージを受けとり、「これはもしかしたら自分の天命だ」と考えるようにしています。すると自ずと覚悟も決まってくるんですね。覚悟ができると明快な立ち位置も生まれます。今日お集まりいただいた皆さんもこれからどんどんリーダーになって貰わないといけませんから、やはりその覚悟をどこで培っていくのかを考えることが大切ではないでしょうか。覚悟のないリーダーシップは存在しません。さらに言えば、「自分は何者なんだ。周りにとって自分はどんな意味を持つんだ」と考えることは、加治さんがお話しされていた慈しみの心にも通じるでしょう。相手に何ができるか、どんな貢献ができるのかというところから自分を意味づけていくのが、コミュニケーションではとても重要になるのではないでしょうか。
加治:皆さんのお話を伺っていると、コミュニケーションにおいて方法論を振りかざすだけでは、なかなか説得力のあるものが生まれないと感じます。自分の覚悟、生き様、信念、意味づけ、そして立ち位置、本日はさまざまな言葉が出てきましたが、澤田さんにはぜひ、最後に本日の総括となるようなメッセージも併せていただけたらと思います。
澤田:自己の覚醒が人を動かすコミュニケーションの原点になるというのが一番重要なポイントだと思います。自己をもって発信すること。ただ、それが何かということですよね。私の場合、それが「何のために生きているか」ということにも繋がります。これは、言うのは簡単だけど実際にはどう考えれば良いのかなかなか分からない。そこで私はまず、「どこで考えるか」というアプローチをしています。人間には、本能、感情、知性、そして理性がありますよね。この四つを使って何のために生きているかをまず考えてみる。すると、本能とは「強いか弱いか」、感情とは「好きか嫌いか」、知性とは「損か得か」になる。で、理性は、私は自信ないですね。お酒を飲んだ瞬間にぜんぶ飛んでしまうし(会場笑)。そうすると「何のために生きているのか」という問いにどこで答えるのか。心なんです。心って何かというと単純で、胸に手を当てると人は自分に嘘をつけませんよね。人を騙しても、自分は人を騙していることを知っている。だから胸に手を当ながら、「自分は何のために生きているのか」と問い詰めてみる。すると結局は「自分を幸せにしたいんだ」ということになります。人は生まれ落ちた自分やその人生、そういったものに意味があると考えて、自分を喜ばせたいんですよ。
ただし、自分を喜ばせるというところから本能や感情や知性に入ってしまうと、やっぱり「お金が欲しい」とか「有名になって名誉が欲しい」とか、そっちの欲が顔を出してしまう。でも人間はうまくできていて、本能や感情や知性だけで手に入れたものについてはあまり長く喜べない。すぐに消えてしまって、あとはただ、もっとお金や名誉が欲しくなるだけ。それでまた頑張ってしまい、それを手に入れるとさらに大きなものが欲しくなるという繰り返しがある。これを「餓鬼」と呼びます。食べれば食べるほどお腹がすく。でも、これは自分が喜んでいるかというと、喜んでいない。だからそこで、「心が喜ぶということは何か」と、改めて突き詰めてみる。するとやっぱり消えない喜びが欲しくなるんですよね。
それは結局のところ、人から「ありがとう」って言ってもらえたときの喜びなんです。「助けてくれてありがとう」「嬉しかった」と言ってもらえたら、不思議なものでなかなか喜びが消えない。私もそれほど親孝行してはいなかったけれど、たまに親孝行したとき、今は亡くなった母も随分喜んでくれたことが未だに心に残っています。
自己を覚醒するときに重要なのは、「何のために生きているか」という問いです。この問いを「自分の心が喜ぶことは何か」という文脈で考えていくと、やはり世の中や人を喜ばせていくことが大きくて、そのことによって、リーズニングやエクセキューズのいらない、自分の生き様がにじみ出てくるし、力も湧いてくるんじゃないでしょうか。
加治:ありがとうございます。今日は3人で相談し、「今日集まる皆さんはケーススタディーのようなことはさんざんやっているだろう」ということになりまして、むしろ本質的な部分を「大人の道徳」のようなテイストで話してみました。では最後に質疑応答へ移りたいと思います。