本記事は、2020年6月27日に開催されたG1-U40 2020「先輩セッション/U-40世代へのメッセージ」の内容を書き起こしたものです(全2回 前編)
小泉文明氏(以下、敬称略):今日は示唆に富んだお話がたくさん聞けると思いますので非常に楽しみです。まずは2つほど、大きなテーマを設けたいと思います。1つは、大先輩方が20~30代の頃、どのような経験から、どういった学びを得てきたのか。
そして2つ目は、やはり今はコロナに関連していろいろなことが変わっている状況ですので、そうした変化におけるリーダーシップや社会の捉え方についても伺いたいと思っています。では平先生から。初当選はおいくつのときだったのですか?
平将明氏(以下、敬称略):38歳ですね。
小泉:まさに会場の皆さんと同じぐらいの年代だと思います。平先生は20~30代、あるいは40代も含めて、どういったエポックメイキング的なできごとを経験してきたのでしょうか。良いときもあれば悪いときもあったと思いますが、後者であれば、そのときのメンタルの状態や解決への道のりも含めて伺いたいと思います。
「環境」を自らつくったうえで、その「担い手」へ
平:私は今53歳です。皆さん、U40と言っていても、すぐ50歳や60歳になりますから(会場笑)。私も、「あれ、俺、今53だったっけ?43だったっけ?」って、たまに思い出せないときがあるぐらい(笑)、この10年間はキュッと締まっているように感じます。私は今国会議員5期目になりますが、世襲でも元官僚でもなく、バックに組合があるわけでもなく、どちらかというと何もないところから出てきました。ですから私が何か皆さんのお役に立てることがあるとしたら、なんというか、世襲でも官僚出身でもなく、バックに何もない私が国会議員になれたという意味で、その環境を自分でつくってきた経験かなと思います。環境をつくったうえで、自分が担い手になってきたということがありました。
当時の私は何をしていたかというと、東京青年会議所の大田区委員長だった2000年、リンカーン・フォーラムというNPOがつくった公開討論会のメソッドを使って、衆議院選挙の公開討論会を東京4区で初めて開催しました。当時は同フォーラムだけだと公開討論会のメソッドもうまく広がらないということで、青年会議所が一緒にやっていたんですね。そして3年後、23区をカバーする東京JC理事長を務めていたときに再びリーダーシップを発揮して、23区すべてで公開討論会を開催しました。で、その次の選挙では、同公開討論会に候補予定者のパネリストとして登壇しています。
当時は私も政治に不満があって、「どうすれば政治を変えられるか」と考えていました。とにかく政策論争をやるべきだ、と。ただ、それが公職選挙法か何かの規制もあってできなかったということで、リンカーン・フォーラムのメソッドとともに討論会を広めていたという流れになります。
そのリアクションとして何が起きたか。政党側に公募制度というものが入ってきました。たとえば民主党は公募でぴかぴかの候補を選び、自民党の世代交代が停滞したところを突いてくるわけです。そうすると自民党も対応して公募が入ってくる。私はその公募で、43倍の東京4区から公認候補になって、自ら公開討論会に登壇したうえで、選挙に勝って今日に至っています。
会場の皆さんはかなり成功されている人たちだと思いますから、すでに自分たちでやっていることもあると思います。そのうえで、「レギュレーションがうまく噛み合わないから、レギュレーション側をなんとかして欲しい」といった話をG1のコミュニティでもよくなさっているじゃないですか。でも、私はどちらかというと、普通の人でも選挙にチャレンジできる環境をまずはつくろうと思って、それができたから自分で出て国会議員になったということがあります。一方、失敗はたくさんあるので、とりあえずうまくいった事例ということで、まずはこれだけ。
小泉:他のセッションでも議論になっていましたが、そうした活動をなさっていると外部からいろいろ茶々が入るようなこともあったと思います。その辺の戦い方というのは…。
平:僕が東京青年会議所の理事長として公開討論会をやっていたときのお話をしますね。23区内には15の小選挙区がありますけれども、当時、15の選挙区のなかで2つの選挙区で、自民党の現職に「討論会には行かない」と言われていました。けれども、自民党が来ないと当時は民主党か共産党だけになって公開討論会が成り立たない。そこで当時の私は、「自民党が来ようが来まいが、現職が来ようが来まいが、すべてやる」という作戦をとりました。そうしてマイクも水も用意して、最後の最後まできちんと礼儀礼節を尽くして「来てください」と。そのうえで、「それでも来ないのは向こうの戦略だから、もう気にすることはないからすべてやる」と言って、開催しました。
そうしないと、いつまでたっても政党と候補者の理屈に振り回されることになるからです。ですから、「候補者が何を言おうが、自民党が何を言おうが、東京青年会議所は絶対に公開討論会をやるんだ」と。まさにプラットフォームとして、その環境をつくりきることが大事だったと考えています。実際、それ以降は、おかげさまで東京の衆議院については公開討論会に皆さん来るようになりました。そもそも公開討論会に出せないような政治家が当時はたくさんいたんです。私が交渉に行ったときなんて、「私、政策は話せませんから」なんて言う人がいましたよ。「いやいや、それならそもそも政治家になっちゃだめじゃん」って(笑)。いずれにしても、そういう風にやりきることが大事なのだと思います。
小泉:ありがとうございます。続いて青井さん。3代目としてどのように経営を任されていったのかというお話を含め、悩みながらの20~30代について伺いたいと思います。
「経営危機」のおかげで会社を作り直すことができた
青井浩氏(以下、敬称略):丸井は私の祖父が1931年に創業して今年で89年目になりますが、私の場合は転機が訪れたのがかなり遅く、44歳ぐらいの頃でした。というのも、経営者としてのスタートが創業系やオーナー系としては比較的遅かったのですね。取締役になったのは29歳のときです。一方で、たとえば中学からの同級生である星野リゾートの星野(佳路氏:同社代表取締役社長)君は、僕が取締役になった29歳のとき、すでに社長でした。また、高校のときに同級生だった堀内(光一郎氏)君も、富士急ハイランド等を運営する富士急行の社長に29歳で就任しています。
僕が社長になったのはその15年後。44歳のときです。それで社長に就任した際は星野君に講演をしてもらったんですが、彼の話を聞いていると、もう立派な大経営者でした。一方で僕のほうは、「今からスタートするんだな」と、気が遠くなるような感じがあって。また、堀内君にも社外取締役で入ってもらっていて、すごく立派な社外取締役だったおかげで僕の評価もすごく上がりました(笑)。とにかく、彼らに15年ほど遅れて経営者としてのスタート地点に立ったわけですね。
で、それで社長になってから2年目に経営危機がやってきました。「三代目が身上を潰す」とはよく言われますが(会場笑)、本当に潰れそうになりまして。創業以来初の赤字決算を2回ほど出しましたし、もう、いつ潰れてもおかしくないような状態でした。あまり人には話せませんが、たとえば買収の提案も、来て欲しくはないのですけれども結構来ていて、「どことやるんだ?」なんていうプレッシャーをかけられたり。そんな状況が7年ほど続きました。それが自分にとっては1番辛かった出来事ではありますけれども、逆に言えば当時はチャンスでもあったと思っています。
それまで15年ほど取締役を務めているなかで、「この会社、やばいな」と思ったところはたくさんありました。良いところもたくさんありましたが、嫌なところも多かった。ですから7年間に渡る経営危機のなかで、どさくさに紛れて良いところはすべて残し、失われていた良いものは復活させていった一方、悪いことや道を踏み外してしまったものはすべて止める。そんな風にして、すべてつくりかえることができました。ですから、ある意味では会社を継ぐというより、「こういう会社にしたい」と自分が思う会社につくり直すことができてしまったということですね。これは経営危機のおかげだと思っていて、すごく感謝をしています。
小泉:とはいえ、7年というとめちゃくちゃ長く感じたと思うんですよね。「変えていこう」という気持ちが当然あった一方、そのなかで葛藤も多かったと思います。そういう状況で、どのように経営者としてメンタルやマインドをキープしていらしたのでしょうか。
青井:経営危機が終わってから、というか業績が回復してから気がついたことがあります。僕は経営危機のあいだ、トライアスロンを結構やっていました。一方で、業績は2014年に回復しまして、今は営業利益が11期連続の増益で、1株利益は過去最高益を更新中です。ただ、回復した頃に、ちょっと自転車で事故があってトライアスロンを止めたんですね。で、それ以来、競技には復帰していないのですが、考えてみるとトライアスロンをやっていたのはちょうど経営が1番苦しかった時期だったな、と。当時はそれを意識もしていませんでしたが。
一方で、危機というのは、どうしようもならない外的変化ですとか、10年や20年の長きにわたって蓄積されてきた不作為や「変われない」ということが、ある日突然、ガタガタガタっとカタストロフィのようにやって来るものだと思うのですね。ですから、それほどすぐには変わらないし、立て直しもできない。その意味では、あまり焦っても仕方がなかったし、そこで一生懸命24時間働いても仕方がなかった。むしろ、本当に未来志向で集中すべきところにだけ集中して、あとはまったく考えないという風にしないと、おそらく乗り切れなかったと思います。で、僕の場合はそこで無意識に、考えないようにするために、めちゃくちゃ体を動かすということをしていたのかなと感じます。そして、その必要がなくなったときに事故が起きて、神様が「もうやらなくていいよ」「もう仕事していいよ」みたいに言ってくれたのかな、と。今はそんな風に思います。
小泉:ありがとうございます。では続いて髙橋先生。研究のお話を含めて、20~30代の振り返りや学びについて伺ってみたいと思います。
「理想の自分像」を実現させるためには今どこにいるべきか
髙橋政代氏(以下、敬称略):はい。今回は初めてビジネス側の社長として参加させていただいています。まだビジネスの世界では新米というか、1年足らずですが、資金調達も最初の目処がつきました。「私、やっぱり論文を書くより事業計画をつくるほうが好きやわ」という感じで、良かったなと思っています。
私は今自分のことを「髙橋5.0」と呼んでいますが、ここに至るまで、私はちょっと普通でない経緯を辿っています。私の転機は35歳のときでした。もともと眼科医だったのですが、それまでは、ぼーっと生きていました。「親が言っているし、嫌だけど医学部に行くかな」といった感じで医学部に進んで、その後は、「まあ、子どもを産むには眼科が暇でいいよなぁ」ということで眼科医になって。留学するのも、「旦那が行くから、ちょっと付いていこうか」ということで、2年間楽しもうと思って行ってきました。
ただ、その先のソーク研究所で、神経幹細胞という新しい概念に出会ってしまった。すごくラッキーでした。(眼科だから行ったわけでなく)旦那について行った先だったので、違う分野だったんですね。で、その概念に触れた眼科医は世界で初めてという状況でした。それで、「これはもう私が治療をつくらなかったら5年は遅れるな」と。やらなければいけないという使命を感じてしまった。そこからです。35までは何も考えていませんでした。
ですから、大学の授業でよく悩んでいる学生さんがいますけれども、「大丈夫よ」と。「別に“何になりたい”とか、そういうものが何もなくたっていい。いつか見つかったらいいからね」と話しています。私自身、大学の頃は『笑っていいとも!』が放送される正午まで寝ていて(会場笑)、番組を観たあとはテニスコートに1日いるという(笑)。当時は「医学部テニス学科」みたいな生活でした。
でも、「治療をつくるのは私だ」と思ったそのときからは、それで成功した像が頭のなかにずっとある状態でした。そこから25年です。そうして、「それをするためにはどこにいるべきか」と。京大から理研に移ったときも、皆びっくりしていました。「これほどのポジションにいながら京大からラボに移る人は初めてです」なんて言われながら、でも、それをつくるには理研に行く必要があった。そして、その理研も素晴らしく最高の環境でしたが、やはり産業、治療、そして事業にするには、自分で会社をやらなければいけないという状況になって、現在に至ります。
今まで、苦しいこともいろいろありました。大学院のときなんて、ものすごく苦しかった。でも、その成功する像があったから気にならなかったというか。成功してすごい治療をつくっている自分の像があるから、「そこへ至るにはどうしたらいいか」と、常に考えていました。そんな経緯があって、今は「髙橋5.0」として参加させていただいています。
小泉:「自分の像」というのは、ある日いきなり閃いたのですか?それとも何かしらの経緯があったのでしょうか。
髙橋:私はラッキーだったんです。私は若い人によく「自分の土俵を1つ持ちましょう」と言っています。私の場合は医学という土俵がありましたし、それで臨床も一生懸命やりました。そういう土俵がある状態で別の分野に行くと、おいしいことがある。私はソークに行って「それ」にぶつかったんですね。ですからダブルメジャー等がいいと思っていますが、そのうえで、私は当時の最先端情報を徹底的に集めました。そうしたら、「ひょっとしたら、これってすごいんじゃないか?すごいことができるんじゃないか?」と、疑いながらも少しずつ確信に近づくことができた。それが確信に変わったとき、「これはもう自分がやるに決まっている」という結論に至った感じですね。
小泉:ここまで、御三方からは、どちらかというと成功の背景を伺いましたが、逆に失敗から学んだこともあったと思います。青井さんはいかがですか?
経営者は「本当に自分がやりたいと思うこと」しかできない
青井:失敗と言えばほとんど失敗の連続ですけれども、後味の良い失敗と悪い失敗があって、忘れられないのはどちらかというと後者ですね。なぜ後味が悪くなるか。自分が納得してないことに対して「Yes」と言ってしまっているんです。で、結局それがうまくいかなかったとき、もちろん責任は取らなければいけないから取るわけですが、自分のなかでは、本当は納得がいっていない。それなら、最初から我を通すというか、止めておけば良かったな、と。
そうした経験から学んだのは、「やっぱり自分のやりたいことじゃないとできないな」と。当たり前の話ですが(笑)。いくら周囲の人々に「これをやるべきだ」と言われても、いくら同僚の役員や取締役に「これをやるべきだ。これをやってくれ」と言われても、自分がやりたくないことは絶対にできない。当たり前のことですよね。これは企業の大小もあまり関係ないと思います。経営者は、本当に自分がやりたいと思うことしかできないのではないかという気がしています。
小泉:丸井グループは社員の方々のモチベーションが高く社風もオープンで、長い伝統があるのに、最近は業態変化を含めてすごくモダンな経営をなさっている印象があります。そのあたりも踏まえて、青井さんはご自身の「やりたい」という思いと周囲との調和という点では、どのようにコミュニケーションを取っていらっしゃいますか?
青井:当社は2007年から純粋持株会社にしていて、僕は持株会社の社長です。で、丸井という小売店舗の事業会社があったり、エポスカードというクレジットカード・フィンテックの事業会社があったりするわけですが、そこにそれぞれ社長がいて、僕は、いわゆる事業には一切タッチしていません。そのうえで、グループ全体の戦略や新規事業、あるいは中長期戦略といった部分に取り組んでいます。ですから、どちらかというと中長期視点で事業を開発するのが僕の仕事というか、専権事項のようになっているので、そこは思い切り突っ走らせてもらっています。
けれども、僕の基本的な考え方としては、社員や仲間の皆がやりたくないことを、いくら僕がやろうと思っても、先ほどのお話と逆の意味で同じというか。「皆がやりたくても僕がやりたくないことはできない」というのと同じで、皆がやりたいことでなければ、僕がやりたくてもできないと考えています。ですから、その辺は基本的に対話ですね。常に対話はしています。
ただ、「ここから先へ踏み込む勇気がない」とか、「ここから先がなかなか見えないからどう進んでいいか分からない」とか、そういったところでぐっと踏み込むのは当然ながらリーダーの役割です。ですから、その辺は、僕にしかできない仕事という意味で好きにやらせてもらっています。そんな風にして、調和と「先に進む」ということの両立をさせようと思っています。
小泉:髙橋先生はいかがですか?非常に長いあいだ理想に向けて戦っているなかで、失敗というか、悩みもあったと思いますが。
座右の銘は「行きあたりバッチリ」
髙橋:悩みはたくさんありますけれども、今の「自分が納得できることをしましょう」というお話はすごく腑に落ちました。「自分が治療をつくるんだ」というのは、言ってしまえば勘違いなわけですよね。つくることができるかどうかは分からないわけですから。ただ、その勘違いをいかに守るか。それに、若いときに「失敗かな」と感じたり、辛かったりしたことが、あとあと実は大事な意味を持っていたという経験を重ねると、もうぜんぜん怖くなくなっていくと感じています。
私は20~30代の頃、皆さんのように意識も高くなかったし、辛い思いもしていました。でも、それも今となっては「失敗だったと認めない」と(会場笑)。失敗でなくするという、その主義はだいぶ培われてきたのかなと思います。あちこちで言っていますが、私の座右の銘は「行きあたりバッチリ」(会場笑)。「最後はバッチリにするぞ」ということで、その言葉をうちのラボにも飾っています。そうしたら、うちには優秀な秘書の方が6人ほどいますが、その方々に「行き当たりトバッチリ」と書かれまして(会場笑)、「うまいこと言い過ぎ」と(笑)。とにかく、最終的にきちんと着地できる技を持っているという自信がだんだん付いてくると、怖くなくなってくるかなという感じはします。
ただ、いろいろ抵抗はありましたし、日本で世界初のことをしようとすると、どんなことが起きるのかという経験をしましたね。必死で止めて来る人、邪魔してくる人がいて。「どうしてそんなに人のことを邪魔するだろう」と思うのですが、そこで学んだことがあります。私は「患者さんのため」ということで、それが正義だと思ってやっていたのですが、正義の反対は「別の正義」なんだなと、強く感じました。それからは気持ち的にもだいぶラクになったような気がします。(
後編に続く)
執筆:山本 兼司