復興 ピンチをチャンスに変える思想と行動~持続可能な地方創生モデルを東北から~[1]
高島宏平氏
高島宏平氏(以下、敬称略):まず、会場の皆さまにお伺いしたい。震災から4年が経ち、これから5年目を迎えるわけだけれども、今まで「復興活動をしてきたことがある」という方はどれほどいらっしゃるだろうか。個人の活動でも、「食べて応援」ということでもいい(会場多数挙手)。…では、今でもやっているという方はどれほどいらっしゃるだろうか(会場多数挙手)。では、この4年間同じペースで、あるいは以前よりも積極的に復興活動をしているという方はどうだろうか(会場多数挙手)。ありがとうございます。これ、特に今日の議論と関係なく、手の上げ下げをしたら皆さんの目が覚めるかなと思ったので聞いてみた(会場笑)。とにかく、本セッションには復興について大変高い関心を持っていらっしゃる方々がお集まりだと思う。
檀上には、そうした復興に関して現地のコアメンバーとして活躍しておられる方、地方政治もよくご存知の方、そして民間で支援していらっしゃる方等々、いろいろな方にお集まりいただいた。まずは震災5年目を迎え、皆さまの活動がどれほど進み、あるいは進んでいないのかを伺いたい。では一力さんから。
一力雅彦氏
一力雅彦氏(以下、敬称略):震災から4年が経過した現在、一言で表現すると復興はまだまだ道半ばになると思う。被災地全体で、まだ23万人の方が仮設住宅などで不自由な生活を余儀なくされている。また、2500名を超える行方不明者の捜索も、月命日となる毎月11日を中心に続いている。自治体をはじめ、消防や海上保安庁が総出で行っている状態だ。震災から丸4年も経ってもこれほど大規模な捜索が続く自然災害は初めてだと思う。皆、「少しでも多くの手掛かりを見つけて、ご家族の元へ戻したい」とおっしゃっている。捜索はまだまだ続くし、5年や6年で止めるというものでもない。それほど甚大な被害だったのだと思う。
一方、今は災害公営住宅の工事もなかなか進んでいない。土地不足や建築資材の高騰、あるいは人手不足といった理由で工事が遅れている状態だ。ようやく今年になってその完成率が上がってきてはいる。現在は被災三県で目標の17%しか完成していないけれども、今年から来年にかけてはかなり形になってくる。
ただ、仙台やその周辺では今年中に完成しても、石巻や気仙沼といったリアス式海岸のほうはどうしても土地が少なく、残念ながらまだまだ時間がかかる。2~3年後も仮設住宅から出ることができない状況が続くだろう。本来、仮設住宅は2年間の居住限定につくられたものだ。それが結果的には6~7年の生活になってしまう。その間、一部では自力で再建する人も増えてくるので仮設住宅の集約も問題になってくる。また、そこで移ったあとのコミュニティや地域づくりも大きな課題となる。
そうした数々の問題がある一方で、震災から4年が経った現在、復興の力点はインフラなどのハードから生活支援や販路の開拓といったソフトに移ってきた。また、今まで復旧・復興の担い手は官が中心で、税金で行われていたが、今後は民が担い手になる。今は、復興が新たな段階へ移行している時期なのだと思う。
高島:思った通り進んでいないところもあるとのことで、沿岸の方々の感じ方と仙台の方々の感じ方はだいぶ違うのだろうか。
一力:だいぶ格差が出てきた。今申し上げたように、沿岸のほうはまだまだだけれども、仙台のほうは順調に進んでいるので。仙台平野は広く、沿岸部では津波の大きな被害を受けていても、平野全体では復興を進めるための広い土地がある。
そうした地域格差に加えて、受け止める人々の意識にも格差が出てきた。数字上の変化を見て、「現在、復興は道半ばだけれども順調に進んではいますよ」と言ってみても、やはり被災地の方々の見方とはギャップがある。被災地の方々に「復興は進んでいますか?」と伺っても、「進んでいる」と答える方々の割合はかなり低い。復興に携わっている人はもちろん一生懸命やっているけれども、「復興が進んでいる」と言われれば言われるほど、なにかこう…、取り残されてしまっているような意識がある。そのギャップが今後、さらに大きくなる。それを誰が埋めるのか。やっぱり我々を含めた民間が、新しいニーズを掴みながら支援する必要があるのだと思う。主役は官から民へ移って、必要とされる対応もきめ細かなものに変化してきたと思う。
高島:被災地では、前向きな人とそうでない人のあいだにも大きなギャップがあると感じる。
一力:そう思う。だから、我々マスコミとしても、もはや「被災地はこうです」や「被災者はこうです」といった一括りの表現では表せないほど多様な実態がある。「この地区のこういう世代の方はこうだ」「この地区にはこういう問題がある」といった伝え方になる。逆に、そうした課題を克服した地域もあるわけだから、被災地のなかで早く成功のモデルをつくっていくことが求められていくと思う。
昨日は女川町が「まち開き」を行った。これは単に駅舎が出来たということだけではなく、商店街集約の第一号だ。これがうまくいけば、他の被災地にとってモデルケースになると思う。もちろんお店が入るだけではダメ。きちんとお客さんがきて、運営されなければいけない。時間をかけて評価する必要があるけれども、いずれにせよ商店街集約化の第一号として期待している。いろいろなモデルをつくる必要がある。
高島:地域や個人の格差もあって、すごく多様化している、と。
一力:そう。今までは、「頑張れ」ということでいろいろな方々が応援してくださっていたけれども、今後は、たとえば「地元のものを買って食べてください」といった応援商品はもう広がらないと思う。被災地応援のための消費というのはもう期待できない。続いて欲しいとは思うけれども、そういう段階は過ぎたのかなと思う。
高島:以前我々が行ったアンケートでも、「応援消費」というのはかつての1/3ぐらいに減っている。50数%だったものが今は10%台に減ってきた。さて、では次に、震災直後は復興チームの一員として活躍されていた階さんにお伺いしたい。震災から4年が経った今、復興はどの程度の段階にまで来ているとお感じだろう。
階猛氏
階猛氏(以下、敬称略):一力さんがおっしゃったように、人によって感じ方はさまざまだ。ただ、今年は統一地方選挙が予定されていて、私の地元である岩手県でも知事選挙や県議会議員の選挙が行われる。それで、いくつかの自治体で今まで行われた選挙結果を見てみると…、福島あたりの選挙では首長さんにとってかなり厳しい結果になったけれど、岩手では比較的現職が勝っている。これは、岩手のなかでは行政に対する信頼が、相対的には厚いということなのかなと感じている。
ただ、個別で見ると問題がないわけでもない。たとえば去年は与野党共同で、ある法律をつくった。何代にもわたって土地の相続登記がされておらず、土地の権利関係が不明という場所で高台の造成工事をしようとしても、これまでは権利者が分からないので進まなかった。それを早く進めることができるようにしようということで、土地収用法という、特例を定めるような法律をつくった。それで、今は土地の造成や新たな住宅地をつくるための仕組みができたところだ。
しかし、せっかく土地ができたにも関わらず家が建たない。今は住宅建築費が高騰しているからだ。人手不足とか資材の値上がりによって、坪単価で20万円ほど建築費が高騰している。この場合、30坪の家を建てると600万ほどの値上がりになる。一方、住宅再建の支援制度として国や自治体からもらえる補助金は、トータルで600万前後。つまり600万もらっても値上がりで消えてしまうから、結局は自前で家を建てるのと変わらなくなってしまう。「これだとなかなか家は建てられないね」と、皆さん躊躇している。で、躊躇しているうちに若い人が他の地域へ流出して、残っているのはお年寄りばかり、というような地域も出てきた。だから今年は住宅建築費の高騰に対応した、新たな補助の枠組みをつくる必要があるということで今は取り組んでいる。
高島:産業のほうはどうだろう。特に岩手の水産業はどこまで復興しているとお感じだろうか。
階:基幹産業となる水産業に関して言うと、せっかく水揚げしても加工して流通するところがなかなか元に戻っていない。商店街についても同様だ。宮古市のように進んでいるところもあるけれども、まだまだ街づくりが遅れている。従って、新しい産業の芽もいくつかできつつあるとは思うけれども、今はまだ、正直に言うと「今まであったものを早く元に戻さなくちゃ」というところだと思う。
高島:漁師さんの場合、とにかく「また漁に出たい」という思いが強かったのだと思う。それで、しばらくぶりに漁を再開したら魚が一杯いて、もう嬉しくて仕方がなくて、たくさん獲っちゃった、と。ただ、それで獲ったあと、どうしていいか分からなくなっているというようなケースを僕らも三陸で結構見ている。販売網も壊れてしまっているので。今はそうした部分の復興フェーズに入ってきたのかなと思う。さて、続いて山田さん。僕らは「復興アニキ」とお呼びしているが、ロート製薬さんが当初から現地にどんと構えてやっていただいているおかげで、僕らのようなNPOもいろいろやりやすくなっていると感じる。山田さんとしては現地の様子をどうお感じだろう。
山田邦雄氏
山田邦雄氏(以下、敬称略):我々が今やっていることは、大きくは二つ。一つは震災遺児・孤児の皆さんの進学支援だ。こちらは先日4期目の学生さんたちを送り出したというか、この春から進学する学生さんの集まりがあった。毎年100人前後が高校を卒業して次の学校に進んでいて、我々はその支援をさせてもらっている。
で、こちらの基金への賛同や寄付金額はむしろ年々大きくなってきている。これは想定していなかったけれども、素晴らしいことだと思う。我々の取り組みでは、実際のドネーションがどのように役立っているのか、すごく見えやすい。また、明朗会計で、途中でお金が一銭も外に出ることはない。今は卒業生もぼちぼち出ていて、その子たちが発信してくれていることも確実に輪が広がっている理由だと感じる。
従って、震災復興という大きな枠組みで、「子どもたちが夢を追って次の学びへ進めているか」という範囲で見れば、着実に進んでいると思う。最近では、たとえば兄弟でその支援制度を利用するケースも出てきた。また、そうした学生さんたちの心のケアは大変だけれども、そういうことも卒業生たちが自分たちでやったりしている。ああいった悲惨な体験をした人々ならではのネットワークのようなものも、だいぶ広がってきた。事業の性格的にはあと20年ほど続くけれども、支援していただける企業も個人もしっかりとした基盤ができつつあるし、これは続けていけると思う。
それと、もう一つは地元に入っての活動だ。人材を送り出す我々としては、自分たちが主役になるのでなく、なんとか地元で頑張っている漁師さんや水産会社に方々にプラスとなるようなことができないかなと思う。ただ、それもすごく進んできた面はあるけれど、僕としては、なんというか…、もっと一気に進むかなと思っていた。まあ、自分たちが主役ではないわけだし、皆さんの理解を得るという部分で思っていた以上に時間がかかるということもあるのだと思う。だから、ある意味で悪戦苦闘しているわけだけれど、そのプロセスも必要なのかなと今は思う。
たとえばうちの若い女性スタッフは、先日仙台で開催された国連防災世界会議で、「ハラル認証を取得したうえで東北の食を提供したい」ということで、いろいろ勉強したりしていた。それで、「よくそれだけ回り道をしたな」というほど、もうあちこちに頭をぶつけながらも、結局はそれがメニューに採用されたりしている。そんな風にして…、マクロで被災地全体がどうかというのはよく分からないけれども、少なくとも自分たちが関与している部分では一歩ずつ、それなりに進んでいるという印象がある。
高島:山田さんのところからは元気な方々ばかりがいらしていて、現地では僕らもすごく助けていただいている。ただ、本業のほうでは日々懸命に利益を出している人たちもいると思う。そういう方々の意識というのはどうなのだろう。4年経って、だいぶ理解は進んだのか。あるいは、「もう、そろそろいいんじゃないの?」という感じになってきているのか。
山田:もちろん温度差はあるけれども、心配していたほど冷たくもない感じだ。やっぱり仲間が頑張っているところを皆もよく見ているので。実際、現地では本当に苦労している。会社の仕事と違って何も持っていないから(笑)。一応会社の看板はあるけれども、ノウハウはないし、本当に役に立つかどうかも分からない。そんな状況で何ができるかという点で苦労していて、そういう話が仲間内でも結構流通している。それで、「あ、やっぱり仕事というのは、本来はそういう風に探していくものなんだな」といった気づきがあったりする。その意味では、もちろん温度差はあるけれども、直接関わってくれる人以外の輪も意外に広い。
高島:では、次に岩佐さん。今、被災地では元に戻すという活動だけでなく、かなりイノベーティブな活動も生まれている。岩佐さんはその代表例だと思うが、「こんなやんちゃなことまでやっているよ」というのを教えていただけたらと思う。
岩佐大輝氏
岩佐大輝氏(以下、敬称略):私は宮城県の山元町というところで活動している。宮城の一番南で、ちょうど福島との県境だ。3.11で人口を一度に4%ほど失うという、大変な被害に遭った。また、山元町の基幹産業はいちごの栽培で、当時はおよそ15億円の出荷額を記録していたが、その95%が津波で飲み込まれてしまった。15億円というとたいした額ではないように聞こえるかもしれないけれど、山元町の当時の一般会計は40億前後。そのなかの15億が一気に飛んでしまったわけだ。また、それから3年経った時点で、山元町では人口の20%以上が流出してしまっている。
震災当時、私自身は東京で会社を経営していた。そこで起業家として何ができるかと考えたとき、とにかく自分にできるのは雇用をつくることだけだろうと思った。それで、「これからの10年は徹底して東北に自分のすべてを捧げよう」と。そう思って、「10年100社、1万人の雇用をつくろう」というビジョンを掲げた。
そこで具体的にどうしたか。山元町の方々に聞いてみても、やっぱり、いちごというのは一番の誇りだ。また、そのマーケットも結構大きい。ただ、いちご農家はまったく儲かっていなくて、時給700円というような世界だった。そこでいちご生産を開始したのがちょうど3年前の1月。地元の農家さんとともに、新しい先端施設園芸のようなものをスタートさせた。CO2、温度、湿度、風向、風速、etc…、あらゆるデータをセンシングしたうえで、常にいちごにとって最適な環境をつくって栽培していった。
その結果、非常に高品質ないちごが採れるようになってきたので、それをなんとか価格に転嫁しようということで、「ミガキイチゴ」という一粒1000円のブランドをつくった。そして、その年の11月にはいきなりインドに進出して、今はインドでもいちご栽培をしている。当初は私が直接インドに行って、インド人とハウスをつくって、それが大成功していちごができるようになってきた。
最近は日本の農産物が海外でも高く評価されているし、いちごもすごく評価されている。ただ、年間輸出額は一桁億円しかない。この現状をなんとか、しかも東北から打破したい。それで、今はジャパンブランドとして「イチゴベリー」というブランドを立ち上げ、インドで展開している。また、白いちごから化粧品もつくったり、最近では「ミガキイチゴ・ムスー」という、いちご100%のスパークリングワインもつくった。こちらは年間5万本ほど売れるような商品に成長している。
また、こんな風にして3年間やってきたことの集大成として、「超先端農場」というものも最近つくった。ここに我々が培ってきた経験をすべて凝縮させて、形式知化をしようという試みをしている。また、先日は、産業革新機構、NEC、JA三井リースといった企業におよそ5億円を出資いただいて、GRAアグリプラットフォームという会社も設立した。ここから私たちの農業ノウハウを横展開していくつもりだ。地元の若い方や農業に新規参入したいと考える方々に、私たちの技術をフランチャイズのような形で展開してく事業をスタートした。これが私たちの直近3年間における活動となる。
※開催日:2015年3月20日~22日