本荘修二氏(以下、敬称略):本セッションのテーマは「起業への挑戦」。まずはご登壇いただいた経営者の御三方に、ご自身のストーリーをそれぞれ伺っていきたい。そこから次のお話につながるヒントを探っていこう。まずは後藤さんから。(00:25)
後藤 玄利氏
後藤玄利氏(以下、敬称略):「起業への挑戦」といったテーマで登壇するのは、実は少し恥ずかしい。起業して20年。当時のことを今話すのも昔話ばかりしているようで嫌だなあという気はするけれど、とにかく、今日はいろいろ思い出しながらお話ししたい。僕は、実際の起業は1度しかしていないけれど、ビジネスとしては2度起業したような感覚を持っている。1度目は1994に今の会社をはじめたときだ。当時はダイレクトメールで健康食品を通信販売する形だった。で、そのおよそ5年後、2000年にケンコーコムのウェブサイトを立ち上げた。その両方が起業だったように思う。(01:03)
なぜ起業したのかを一言で表現すると、「勢い」と言うしかない。社会人になった当時、僕のなかではネガティブな思いとポジティブな思いが混然としていた。社会人になったのは1989年の平成元年で、バブルの絶頂期だ。そこからアクセンチュアで5年ほどコンサルタントを務めたのだけれど、その当時はバブルが弾けてリストラ案件の担当がすごく増えていた。それまで‘Japan as Number One’とされていのに、日本の勢いがみるみる落ちていくのを目の当たりにしていたという時期だ。(02:24)
それで僕は当時、エクセレントカンパニーと言われる企業のコンサルタントをいろいろしていたのだけれど、クライアントはすごく困っていた。「今までうまくいっていたことが、ぜんぜんうまくいかなくなった」と。ものづくりで圧倒的No.1として世界に君臨していたのに、それだけでは空回りして伸びなくなり、むしろ沈んでいく。だから方向性を変えたいとのことでリストラの仕事が増えていて、当時は本当に土日もなく、ほとんど正月もなくコンサルティングをしていた。それで20代後半になった頃、「今年はほとんど休んでいないなあ」と。「これから5〜10年、ずっとこんなことをやっていくのも嫌だな」というネガティブな思いが生まれていった。(03:31)
一方、それはそれでチャンスだという思いもあった。多くのエクセレントカンパニーがうまくいっていないなか、「こんな風にすればうまくいくと思う」と言う企業も数社あったからだ。「ものづくりに集中するだけじゃなく、ソフトや情報をベースにした会社に生まれ変わらなければ」と。そんな話を聞いているうち、「大会社をトランスフォーメーションさせるのでなく、まだ生まれていない世界で、かつ自分ではじめるほうが面白いんじゃないか?」と考えるようになった。それで当時の上司に、勢いで「辞めます」と。辞めて何をするかは決めていないけれど、とにかく新しいことがしたいから辞めさせて欲しいと言って飛び出した。それが自分の会社をはじめたきっかけになる。(04:52)
そこで何をするか。健康関連というのはあとから決めた話で、そのときは「閉塞感のある世の中を何か変えられるんじゃないか」という思いがまずあった。まあ、閉塞感は今でも続いていると思うけれど、とにかくバブルが弾けてどんどん沈み、何かおかしくなっていた世の中の方向性を、「もし変えるのなら自分に何ができるのか」と。そこで、自分自身で何かはじめるのがいいと思った。それが1994年の話だ。(06:01)
で、実際に起業してそこそこ伸びていたのだけれど、5年ほど経ってインターネットが出てきたとき、「あ…」と思った。それまで続けていた健康食品の通信販売で、世の中に新しい価値を提供できている実感があまり持てなかったからだ。結構儲かって利益も出ていたけれど、世の中に対し「自分はこれをやった」と、明確に思える感じではなかった。インターネットが出てきたのはその頃だ。だから、この新しいパラダイムに乗れば今まで見えていなかった世界を主体的につくることができると思い、ケンコーコムをスタートさせた。この2つが自分にとっては起業への挑戦になると思う。(06:49)
それともう1つ。元々、私の実家は九州で家庭医薬品メーカーをやっている。もう創業90数年の会社だ。だから大学卒業後は実家を継ぐという選択肢もあった。「そうなると40〜50年働いて、それでゴルフなんかも上達するんだろう」と。でも、そんな風にして、果たして生きることのバリューは一体どうなるのかなと思った。だから家業を継ぐ選択肢は消したのだけれど、大学時代はモラトリアムをしていて何をやりたいか決まっていなかったこともあり、それでコンサルティング業に入ったという経緯がある。(08:42)
実際、それで自分が食っていくだけならどうにかなる。でも、やっぱり「世の中と関わって何かを変えていきたい」「世の中をより良くしていきたい」という気持ちは当時からずっと持っていた。だからその機会を探していたし、特に就職してからの5年でバブルが弾けてパラダイムが変わったとき、「これに乗って新しいパラダイムを自らでつくっていけたら楽しいだろうな」と。そしてそのさらに5年後、インターネットがより広がっていったとき、「インターネット社会のこの部分は僕がつくったんだ」と言えるようなことができたら面白いだろうと考えてケンコーコムをはじめた。(09:35)
出雲 充氏
出雲充氏(以下、敬称略):京都は涼しくていい。今日は12時10分まで石垣島にいた。今の季節、石垣島は日なたで40度前後にまで上昇する。なぜ石垣島に行っていたかというと、そこでミドリムシを育てている。日当たりの良い場所がミドリムシ生産に向いているので、石垣島にミドリムシの生産施設をつくった。ということで、今日は起業のきっかけとして、どんな生活をすればこれほどミドリムシのことが好きになるのかというエピソードをお話ししたい(会場笑)。(10:57)
私は、すごく普通だ(会場笑)。どれほど普通かというと、実家は多摩ニュータウンにある。そして父親はサラリーマンエンジニアで、おふくろは専業主婦。私と弟を合わせた4人家族で多摩ニュータウンに暮らしていると。これは日本で最も平凡な、中流の標準的家庭と言って差し支えないと思う。多摩ニュータウンには普通の人しか住んでいない。会社社長やスポーツ選手や芸能人といったお洒落な人はいない。住んでいるのは公務員かサラリーマン。だから、そもそも私はベンチャーあるいは起業といった言葉を1度も聞かずに育ったし、ミドリムシで会社を立ちあげようと思って着々と準備をしていたわけでもない。(12:18)
そこで高校まで普通に暮らして大学に入ったのだけれど、大学生活最初の夏休みに生まれて初めて外国へ行った。それがインドの東側にあるバングラディッシュだ。多摩ニュータウンに飽きていたから、「海外の、しかも普通じゃないところへ行こう」と、変化球狙いでバングラディッシュに行った。行ったことのある人はあまりいないと思うけれど、バングラディッシュというとほとんどの方が同じようなイメージを抱く。北海道より少し広いぐらいの国土に1億6000万人の人が生活しているという、世界で最も人口密度が高い国だ。そしてそのうち1億人以上の人は、1日1ドル以下、年収3万円以下の所得で暮らしている。世界でも最も貧しい国の1つと言える。(13:37)
そこで大きな衝撃を受けた。すごく貧乏な国だから食べ物も不足しているんだろうと思って行ったのだけれど、実際に行ってみると食べ物には困っていない。1日3食、必ずカレーが出てくるし、ベンガル語でダールというあちらの豆カレーはすごく美味しい。子どもたちも皆それを食べているから、飢餓に苦しんでいる人はいない。それがすごく衝撃的だった。ただ、カレー以外の食べ物がない。人参も玉ねぎもジャガイモもお肉もお魚も牛乳も卵もない。だから、お腹一杯でも栄養失調の人が大勢いる。(14:37)
今、世界人口70億人のうち10億人が栄養失調に陥っている。もう10億人はご飯を食べ過ぎて肥満や高脂血症あるいは高血糖で困っているのだけれど、とにかく私は10億人も栄養失調の人がいることに着目した。だから、「その人たちに栄養を供給できたら絶対に喜んでもらえるな」と。そこで何か良い栄養はないかと思っていろいろ探した結果、大学3年生のとき、ミドリムシが体に大変良いことを知った。本当に、ミドリムシは体にいい。…ここは半分笑っていただいてもいいところだけれど(会場笑)、笑いがないのは恐らくミドリムシを正しくご理解いただいているからだと思う。(15:40)
なぜ素晴らしいか。存知の通り、ミドリムシは虫じゃない。たとえば私どもが作っているミドリムシのジュースは、キャベツにくっついている虫を絞っているわけじゃない(会場笑)。あれはアオムシというモンシロチョウの幼虫で、ミドリムシとはなんの関係もない。ミドリムシは、ワカメや昆布といった海草の親戚にあたる植物の一種だ。ただし、泳ぐ。植物だけれど動ける。動物だけれどクロロフィルという葉緑素がある。緑色の部分で光合成を行っているわけだ。分かるだろうか。RubisCOという、(早口で)「リブロース1,5-ビスリン酸カルボキシラーゼ/オキシゲナーゼ」という名のたんぱく質で(会場笑)、…ここは笑うところではないけれど(会場笑)。とにかく動物と植物双方の栄養素がすべて詰まった栄養満点の食べ物だ。だから、それを増やしたら栄養失調の問題を解決できるという考えを出発点に、ミドリムシ屋さんの起業に至った。(16:30)
本荘:バングラディッシュに行ったのは、言ってみれば偶然という…。(18:05)
出雲:偶然です。(18:26)
本荘:偶然から、そんな風に人生を決めるイベントがあったと。その問題意識からどうやってミドリムシに辿り着いたのかと思う。大学の学部はどちらだったか。(18:27)
出雲:文科三類に入学したあと、ミドリムシに出会うために農学部へ転部した。「とにかく、栄養、栄養、栄養」と。栄養が最も抱負な食べ物は何かといったことを学ぶためには、文学部でなく農学部のほうがいいと思った。そこで答えを見つけた。(18:55)
本荘:卒業後、一旦銀行に就職したのにはどんな経緯があったのだろう。(19:22)
出雲:大学在学中はミドリムシを増やせなかったということがある。栄養があり過ぎて、少し増やすとすぐにいろいろな…、この会場にも目には見えないバクテリアやプランクトンが飛んでいるけれど、そういった微生物にすべて食べられてしまう。だから、栄養が抱負なミドリムシで栄養失調を解決するというアイディア自体は1980年代からあったし、実際に多くの大学が害虫に食べられないよう育てる技術開発に取り組んでいたけれど、まったく成果があがっていなかった。それで私も研究資金がまったくなかったため、社会人として動作・所作の勉強も兼ねて当時の都市銀行に就職した。ただ、そのあと「やっぱりミドリムシでいこう」と思ってすぐに辞めてしまったけれど。(19:32)
本荘:銀行を辞める段階では技術的に光明が見えてきていたのだろうか。あるいはまだ見えていないけれども「俺がなんとかしよう」という感じだった?(20:47)
出雲:私はよく、「技術的に頂上へ近づいてミドリムシ生産の準備が整ったから起業したんですよね」と言われる。でも、起業する人としない人の1番大きな違いはここにある。準備ができたから起業する人なんていない。そういう人は一生起業しない。少なくとも私の理解では、起業とはそういうものじゃない。(21:06)
私はミドリムシ研究をしている方にこう言われたことがある。銀行で働きながら、毎週土日にミドリムシ研究者の先生を訪れていた時期のことだ。「いや、君の本業は銀行員なんだから」と。「ミドリムシが好きなアマチュアとしては間違いなく日本一だし、もしかしたら世界一かもしれない。でも、それはアマチュアのなかでの話だ。あなたは、もしかしたらすごく優秀なのかもしれない。でも、私のようにプロとして365日24時間ミドリムシのことだけ考えているような人間は何百人もいる。そうした人々が20年研究してうまくいっていないのに、銀行員をやりながら土日にいっちょかみするだけのあなたがミドリムシで成功できると思うんですか? もしそう思っているのならすごい自信ですね」と、その先生に言われた。「本当にそうだな」と思った。(21:38)
私はミドリムシ生産ができそうだと思ったから起業したわけじゃない。大事なのは、「何か難しいことや大きなことに挑むのなら銀行かミドリムシかを選べ」ということだ。だから、ミドリムシを選んだ。銀行員を選ぶと思っていた大学の先生は私が銀行を辞めたことに衝撃を受け、「大変なことになった。俺のせいで辞めたのか」となっていたけれども(会場笑)。とにかく、そうやってミドリムシを育てるために必要な秘密のタレのようなものが出てきた。実際、ミドリムシを育てるためにすごく大掛かりな技術的イノベーションがいくつもあったけれど、それは頭が良いからできたんじゃない。背水の陣でやる人間の元に大勢の人が集まり、助けてくれた。私はそういうものだと思う。(22:52)
紺野 俊介氏
紺野俊介氏(以下、敬称略):当社は「デジタルマーケティングエージェンシー」というコンセプトを掲げている。最近、ヤフーやグーグルの検索結果、あるいは各種ウェブサイトでは、ご覧になる方によって広告内容も異なっているので、広告が最適化されてきていることをお感じの人もいると思う。そうした、検索履歴や位置情報を元にレコメンドするような広告を、今、恐らくアジアで最も数多く運用させていただているのが当社になる。開示情報を見ると、ヤフーやグーグルと組み合わせた広告売上でアジアNo.1、世界でも恐らくベスト10に入ってきたと思う。私はそんな会社で代表を務めている。ただ、私自身は起業していない。だから今日は営業マンから代表になった人間の視点で、お二方とは少し違うお話ができるかなとも思っている。(24:18)
出雲さんのお話になぞらえて進めると、私は東京で生まれの千葉市育ちで、すごく狭い団地に住んでいた。身の上話をするのもアレだけれど、家は貧乏だった。不思議な借金をする父親がいたため、「電話に出てはいけない」と言われたり(会場笑)、父親がちょっと失踪してしまったり等々。今は笑い話だけれど、そんな家庭で育った。ただ、母は自分が大学を出ていなかったということもあり、僕と弟は絶対に大学へ行かせるという覚悟で僕らを支援してくれた。弟はちょうど先週に結婚したけど、いずれにせよ、そんな家庭に育ったことで2人とも相当ハングリーに勉強した。(25:27)
それと経歴についてお話すると、1社目はEDSJapanという、現在は日本ヒューレット・パッカード買収された、当時世界第2位のITアウトソーシング会社に入った。なぜその会社を選んだかというと、今お話ししたような環境で育ってきたこともあり、「できるだけ大きな仕事をして世の中の役に立ちたい」という思いを強く持つようになっていたからだ。また、それまで多くの方にいただいた恩を次につなげたいという思いもあった。それを政治か経済の道で実現したいと学生時代から思っていた。それで政治の道も模索したけれど、まずは経済のほうでやっていこうと考えた。(26:17)
私が社会人になった2002年はITが大変伸びていた時代だ。「やっぱり大きな会社のほうが学ぶことは多いし、自分が目指す大きい仕事もできるんじゃないか」と考え、そこで偶然出会ったEDSJapanを選んだ。でも、実際にはそこも1年半で辞めている。当時上司だった方の一言で辞める覚悟をしたのだけれど、「紺野の仕事ぶりはクライアントさんに評価される。でも会社からは評価されない」と言われた。典型的な外資系の発想をする会社だったわけだ。でも、私がやりたかった「正しい」のなかでは、お客さんから感謝されることは大変重要な要素だ。でも、当時上司だった人は同社でベスト3に入るぐらいの方で、先ほどの言葉は会社の意思だと感じた。だから、そうした会社で働き続けても自分がしたいことは実現できないと考えて転職を決めた。(26:57)
では、次にどんな会社を選ぶか。IT企業にいてインターネットに触れる機会が大変多かった私にとって、グーグルが言うところの「ユーザーの体験価値を高める」という考えは魅力的だった。「世の中の役にも立つし、マーケットとしても間違いなく大きくなるだろうな」と。それで1度はグーグルに入りたいと思ったのだけれど、当時のグーグルはエンジニアしか募集していなかったので諦めた。元々エンジニアリングはしていたけれど、グーグルほどの企業でエンジニアリングができる特別なスキルは持っていなかったからだ。でも、「それならグーグルのビジネスモデルは何か」と考えると、広告だ。そこで、「グーグル広告を取り扱う会社なら、間接的に世の中の役に立てるんじゃないか?」と思った。それで、1社目は大きな会社だったので2社目は逆に小さい会社を選ぼうという思いもあって、そこでたまたま見つけたのがアイレップになる。(27:56)
2003年当時の同社売上はおよそ5億で社員数は15名程度だったと思うが、私はそこにテレアポ営業をして入社した。結果、どうだったか。当時はインターネットが広まっていたばかりだったので社内に詳しい人がいなかった。インターネットを活用する企業さんなら、「いくら使ってどういう効果が出たか」というのは当然測ることができる。しかし2003年当時はまだそうした技術も少なく、会社の先輩たちはJavaScriptが何かも知らない人たちだった。「それでは効果検証できないでしょ」と。驚いたのは、効果検証会社と契約すれば効果検証ができると思っている人たちが多かったことだ。(28:51)
それで、「これはまずいな」と思い、まずマニュアルをつくろうと考えた。それで会社をきちんと大きくしていこうと。冒頭で申しあげた通り、やはり会社は大きいほうがいいし、正しいことをしたいという思いがあった。だから、前職でITコンサルだったということもあり、営業も行いつつも、自分だけの力でどうこうするのでなく会社のなかに仕組みをつくっていこうと考えた。そんな風にしてマネージャーなどを経ていった。その結果、入社当時は5億だった売上も今期予測でおよそ530億にまで成長した。社員数は500人を超えている。私は従業員であった5年間で売上を20倍にして、それをさらに、代表になってからの5年間で5倍に増やした。それを可能にしたのは先ほどお話しした仕組みだ。自分に依存するのでなく仕組みをつくった。(29:36)
代表的な仕組みを1つご紹介したい。顧客第一主義ということを口にする会社さんは多い。でも、その多くは蓋を開けてみると売上の数字に追われている。これは顧客第一ではない。では、従業員が真に顧客第一を考えて仕事ができる環境は何か。結局、評価を紐づけるしかない。だから私は創業者と話をして、売上および利益の目標を完全に撤廃し、お客さんに正しいサービスを提供する人間が評価される仕組みに変えた。当時はそれを「WIN-WIN」と呼んでいたけれど、とにかく、そうすると売上も利益も追う必要性がなく、私を含めて従業員はお客さんにとって必要な商品を開発・提供するようになる。目標をそのように切り替えて、定量指標も契約の継続率や「顧客の成果が実現している率」といったものに切り替えた。全体の設計をそんな風に変えていったことで、結果として現在の高成長率を今も維持できている。(30:33)
ただ、私は元々社長になりたいと思っていたわけではない。その気持ちは今でも同じだ。上場企業だから無責任なことは言わないが、要するに大きくて正しい仕事ができればポジションにはこだわらない。その単なる結果として、現在は「私が代表を務めればそれができる」という私自身の意思決定と、創業者および株主さんの判断があった。そのきっかけは入社4年目前後に訪れた。当時は業界でも比較的名の通るコンサルタントになっていて、競合会社やヘッドハンティング会社からずいぶん電話をいただくようになった。そこで、私としては不義理なことをするつもりもなかったけれど、「話は聞いてみたいな」と思い、何人かの方とお会いした。そこで外から見た自分の価値を教えてもらったわけだ。「外側から見ると、紺野さんのポジションと、もらっているであろう報酬は釣り合っていないんじゃないですか?」と言われ、「あ、そうなんだ」と。ただ、だからといって、より大きな報酬がもらえる会社に行こうとは考えなかった。まず、「外からの評価と内の評価がズレているなら、それを直さなければ」と考えた。私の考える「正しい」のなかでは評価も大変重要だ。自分が評価されなければ自分の部下も評価されていないわけで、そこはきちんと是正したいと考え、創業者と話をした。(31:50)
で、そのときは自分の給料もそれほど気にしていなかったし、会社の事業をすべて支えていたつもりだったので、「全員の給料を教えてください」と言った。それで教えてもらったのだけれど、実際に見て驚いた。5年前当時は70人ほどの従業員数だったと思うが、私の給料は11番目。「これはおかしい」と。そこで創業者に、「私に対する評価が外部と社内でズレている点についてはどう思いますか?」と聞いた。それで、「たしかにそうだな」と。創業者は真面目で良い人だったのだけれど、委任型だったので私と創業者の間にいる人の評価が結局は私の評価になっていた。「であれば、このタイミングでズレを見直していただくことは可能ですか?」と。もしそれができないのなら、この事業もこの会社も嫌いではないけれど、より大きく正しいことをするために別の会社で働きたいという思いを伝えた。そこで創業者は私を選んでくれた。(33:27)
また、そのタイミングから、会社をより大きくしていくために上場や他社とのアライアンスを推進していった。結果としてその過程で、「一定のタイミングが来たら紺野君が代表を務めたほうが、会社としては前に進むだろう」という風に、創業者におっしゃっていただいた。そこで1年ほど時間をいただき、きちんと結果を出していくとともに、「自分が代表を担ったほうが大きく正しい仕事も実現できる」という考えになり、最終的に社長職を選択したのが5年前になる。(34:26)
本荘:特にベンチャー企業の創業者は、そこでなかなか聞く耳を持ってくれない方も多いけれど、その辺は「なんでも言って」といった感じだったのだろうか。(35:06)
紺野:よく言われるが、私が2代目経営者となった現在、創業者は一株主で、社外役員ですらない。こういう状態の会社がそれほどないというのは事実だ。たぶん、創業者にとって会社は自分の子どもであり、そして2代目経営者はその恋人や結婚相手に近いのだと思う。アイレップの場合も、創業者はその結婚相手として僕が最適であると判断なさったのだと思う。ただ、そこで1年の時間をかけた。そのうえで、1年目は創業者が代表取締役会長兼CEOで、私が代表取締役社長兼COOとなった。で、2年目に僕がCEOを受け継ぎ、創業者はファウンダーになった。そして創業者は3年目に代表権手放し、4年目には役員からも外れている。そのあいだはほとんど何も言われず、ファイナンス以外は任せていただいた。自分の子に対する思いだけを強く持っていた創業者ということで、その辺は結構すんなりいったのだと思う。(36:01)
本荘:EDSJapanを辞めたあとアイレップを選んだのはなぜだろう。(37:18)
紺野:僕は会社を大きくしたかったから、会社にその意思があるかどうかを面接で直接聞いた。また、「正しい」ものの定義は難しいけれど、自分の娘が誇れるどうかといった狭い見方で言えば、やはり世の中の役に立つことだ。そのうえで、当時は上場していなかったけれども、そのことを外側へIR的に伝えられる会社で働きたいと伝えた。そこで、「それは約束する」と言ってくれたのが実はアイレップだけだった。(37:32)
本荘 修二氏
本荘:少しモードを変えてみよう。皆さんは小さい頃、何になりたかっただろう。また、これまでに影響を受けた人やモノがあれば、そちらも併せて伺いたい。(38:03)
後藤:何になりたかったかははっきり覚えていない。ただ、家の隣には家業の工場があって、会社経営している親を近くでずっと見てきたということはある。また、父は政治もやっていたので、その両方を見ながら、「どっちも嫌だなあ」なんて思っていた。政治は政治で面倒くさそうだし、会社は会社で、まあ歴史があって成熟しているからそこそこ食っていけそうだけども、「これも飽きそうだなあ」と。だから何になりたいというのもなく、ずっとモラトリアム。で、その時々で部活に熱中するとか、数年先のことしか考えていなかった。もちろん、やっているときは熱中していたし、それが中学の頃はテニスで、冬になれば駅伝だった。それが続いて、たとえば今でも時間があるときにトライアスロンをやったりしている。大学時代もサークルでアメフトをやっていたし、とにかくやっていることにはいつも没頭する、ということの繰り返しだった。(39:18)
あと、影響を受けた人というのも特にない。ただ、ケンコーコムをはじめた頃はちょうどITバブル崩壊の時期で、潰れかかってどうしようもなくなっていたとき、大前研一さんにサポートしていただいたことはすごく大きかった。それと、自分の生き方を考えるうえで、たとえば困ったに読む本というのは何冊かある。そのなかの1つが『三国志』で、玄利という僕の名前の「玄」は劉備玄徳から取ったものだ。(41:39)
出雲:小さい頃、いつも『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(以下、こち亀)を読んでいた。私の教科書みたいなものだ。特に85巻に「ザリガニ合戦!?」という回がある(会場笑)。「フランス料理屋に売れば儲かるんじゃないか?」と考えた両津さんが、ザリガニを捕まえるべく池にスルメを入れるエピソードだ。すると、ザリガニが一気にそれを食べに来るシーンがあった。それで、あるとき僕は、「いい話を聞いた。自分もやってみよう」と思い、スルメを持って捕まえにいった。でも、多摩ニュータウンのザリガニはグルメで(会場笑)、まったく食べに来ない。こういうことは本当にやってみないと分からない。で、いろいろ餌を変えてみたら最終的にすごく良い餌を見つけた。チーズだ。チーズを垂らすと、もう入れ食いどころじゃない。当時はそれを説明できなかったけれど、今ならチーズのたんぱく質が低分子になっているからというのが分かる。それでアミノ酸が遊離しやすく、ザリガニが近寄ってくる。スルメにはそれがないから私は両津さんのような体験はできなかった。小さい頃はそんな風に失敗ばかりしていた。(42:39)
で、高校生ぐらいになってからは、1度も外国へ行ったことがないにも関わらず国連というものにすごく憧れていた。男の子なら、たとえば「地球連邦」なんて聞くとワクワクしません? 私はその感じだけで興奮するタイプだ。で、当時は地球連邦政府…、今もないけれど(会場笑)、「“ユナイテッド・ネイションズ”なんて、すごいな」と。自分はそういうところで働く人になりたいと、高校生の頃は思っていた。(44:58)
本荘:その辺が伏線になり、栄養失調の解決というビジョンにつながったと。(45:55)
出雲:そう。国連に就職する際、「現場をちゃんと見てきたとアピールできるんじゃないか?」と考えて行き先をバングラディッシュにしたというのもある。あと、影響を受けた本というと、僕は漫画しか読んでいない。1番影響を受けた人も両津勘吉だ。読んでいただければ分かるけれど、勘吉さんが「学がないからできない」「コネがないから無理」と言っているシーンは1コマもない。どんなシチュエーションでも諦めず考える。なぜベンチャーの教科書じゃないのかと思うほど素晴らしい。あと、皆さんとは少し世代が違うかもしれないけど、『ドラゴンボール』。ネコのカリン様が、1年に10粒しかできない仙豆(せんず)という素晴らしいものを独占している(会場笑)。でも、仙豆が大量生産できたら10億人の栄養失調も解決できる。私はそれを探して、大変スムーズにミドリムシへ辿り着いたわけだ。ミドリムシなら植物の栄養素も動物の栄養素も同時に摂取できるから、仙豆は無理でもミドリムシで本来やりたかったことができる。だから『こち亀』と『ドラゴンボール』が私のベースになっている。(46:02)
紺野:子どもの頃、「何になりたい」というのはなかった。正直、覚えているのはお金を気にせず飯を食べて服を買いたいという思いだ。それぐらい稼げる仕事がしたかった。高校の頃も部活を辞めてアルバイトで稼ぐようになったりしていたし、たぶんハングリーな部分はそこに原点があるのだと思う。それと、影響を受けたのはやっぱりグーグル。僕らは博報堂DYホールディングスというグループの参加に入っているのだけれど、とある先輩に、「お前、広告好きじゃないだろ」と言われた。「たしかにそうだな」と。広告代理店の社長がそんなことを言っていいのか分からないけれど。(49:19)
ただ、とにかく僕がこの会社に入ったのはグーグルに魅せられたからだ。たとえば僕自身がエンジニアだった頃は、Windows NTサーバやWindows 2000サーバでよくトラぶっていた。ブルーのスクリーンに各種エラーメッセージが出てくるわけだ。でも、マイクロソフトでそのメッセージを調べても出てこない。で、グーグル先生に質問すると出てくる。アメリカでも同じトラブルが起きていて、そのときのFAQが残っていたりすると。ほとんどコンテンツを持っていないグーグルが、そんな風に世界中の情報を集めて回答してくれるわけだ。当時、「こんな画期的なサービスはない」と感じたし、それが今この領域で仕事をしている背景でもある。グーグルの広告でNo.1になってやろうと思ったのも、それがあったから。グーグルとの出会いによって、僕が現在担っている役割も見つけられたわけだから、やはり大きなきっかけだったと思う。(50:16)
本荘:人とのつながりやの出会いについても伺っておきたい。たとえば「この人に助けられた」といったような、重要なつながりはあっただろうか。(51:11)
後藤:出雲さんのおっしゃる通り、自分が「これで起業します」と旗を掲げてパッションを示すと、周りに人が集まってくるし、それが起業の面白さだと思う。僕も20年前は1人ではじめたけれども、起業後は「わらしべ長者」のようなものだった。最初は本当に藁1つで始まる。でも、そこに少し人が集まって何かに共感してくれると2〜3人の会社になる。で、それが5〜10人になれば魅力はさらに増して、もっと多くの人が集まる。それが社員でなく取引先でも、仕事に関係なくアドバイスをくれる人でもいい。起業すると、そういった人や“画”が変わっていく。たとえば起業当初はパッションだけで集まってきた人とやっていくけれど、そのうち別のところから人が集まってきたりする。ベンチャーキャピタル(以下、VC)のような、起業直後は考えもしなかったような人たちが次々集まってくる。あるいは先般、僕らは医薬品のネット販売に関して最高裁で勝った。そこに至る過程でも、官僚や政治家や新聞記者さんがその旗に集まってきた。そういうことを経験し続けられるのが起業の1番面白い点だと思う。(52:03)
紺野:特定の人ではないけれど、大学時代は多くの先輩と出会った。そこで覚えていることがある。先輩にご飯を奢ってもらった僕が、「いつか出世したらお金払いますね」と言うと、何人かの先輩は「自分に返すんじゃなくて次の若いやつに払ってやれ」と言ってくれた。これ、すごく大事だと思う。恩というのはその人にも返すべきだけれど、次にもつなげていくべきだと思う。大学時代のそうした出来事は僕の原点だし、そういう粋な人たちに出会えたことがすごく良かったと思っている。(54:26)
出雲:ユーグレナにもステージごとに異なるキーマンがいた。資金がなかったときにお金を出してくれたVCや金融機関も、ブレークスルーを起こすためにアドバイスをくださった先生方も、本当に大切だった。大切な人はシチュエーションごとに大勢いた。ただ、ユーグレナが最も大きく変化したのは伊藤忠商事と出会ってからだ。ある時期までミドリムシはまったく売れず、500社に販売を試みて500回断られるような状況が続いていた。日本の大企業は採用実績がないものを買わない。これは鶏と卵で、売れなければスタートもできない。だから本当に辛かった。それで2007年12月に売上ゼロで10万円という私の給料も払えなくなり、「もう倒産するしかない」という状況になったとき、伊藤忠商事がミドリムシの良さをいろいろ調べてくださった。他の500社は「誰もやっていないからリスクだ」と言っていたのに対し、伊藤忠商事だけは「誰もやっていないからチャンスだ」と。それがユーグレナにとって最大の転換点になった。それで伊藤忠商事が販売するようになってからミドリムシはバカ売れするようになった。(55:13)