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スピーカー:
澁澤健 コモンズ投信株式会社 会長
聴き手:
田久保善彦 グロービス経営大学院 研究科長
田久保:本セッションは実は私のわがままと言いますか、私のほうから「どうしても澁澤さんと今回のようなセッションがやりたい」と希望し、実現したものです。ですから、私自身が澁澤さんに教えていただきたいことを皆さんの前で伺うという(会場笑)、そんなセッションになってしまうかもしれませんが、そこはご容赦いただけたらと思います。
澁澤さんは、渋沢栄一さんから数えて五代目の子孫〜お孫さんのお孫さんにあたる方〜になります。ご自身は、小学校2年生のときにアメリカへ渡られ、大学では化学を専攻していらっしゃいました。大学卒業までアメリカにいたということで、完全な帰国子女という感じですね。
その後はJPモルガンやゴールドマン・サックスといった外資系のいわゆる投資銀行に勤務されのち、現在は2007年に創業されたコモンズ投信という会社の会長でいらっしゃいます。実は私もコモンズ投信のファンドを少し持っておりますが、30年で30社に投資を行うというもの。ほかにもさまざまな肩書きをお持ちで、各方面で大活躍をしていらっしゃいます。今日はそんな澁澤さんに「渋沢栄一から学ぶ21世紀の経営」というお話をしていただきます。まず前半にプレゼンテーションをしていただき、続いて私と少し対談、そして会場の皆さんからの質問をお受けします。では、宜しくお願いいたします。
今は「破壊の30年」の22年目、1日の中の真夜中
澁澤:本日はお招きをいただき本当にありがとうございます。東京は雨だったのですが、浜松へ近づくにつれてだんだんと晴れてきました。皆さんの熱意が雲をどんどん吹き飛ばしていたんだなと思うほどの熱気を感じています。
本日の「渋沢栄一から学ぶ21世紀の経営」というテーマについて、「でも渋沢栄一って19世紀の人だよね」と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。歴史を踏まえ、21世紀、要するに我々の未来のことを一緒に考えましょうという趣旨なのですが、本セッションが終わる頃には、そのあたりのつながりが明確になるようできればと思っています。
人間というのは本来、単純なものです。ですから未来を描こうとすると、多くは一直線に引いたその先に未来の像を考えます。それで例えばバブルのピーク時には右肩上がりの成長がずっと続くのではないかと思っていたわけですね。また、現在はこの先も経済の低迷が続いていくのではないかと思っている。そんな風に、現在の直線上に未来を描きがちになります。
けれど、マーク・トゥエインの言葉にヒントを得るなら、‘History doesn't repeat itself, but it does rhyme.’「歴史は繰り返すことはない。けれども韻を踏む」。リズム感があるという意味ですね。そういうふうに捉えることも可能かと思います。
日本の近現代にどのようなリズムがあったのか。ここをまず、少し整理してみましょう。1990年はバブル景気のピークでした。私は1961年生まれですが、その前年からの30年。1960年から1990年は、日本が高度経済成長を果たし、‘Japan as No.1’と言われていた時代ですから「繁栄の30年」という風に言えると思います。それでは、その前まで続いた30年間がどうだったのかというと、一言で表すならば「戦争」です。戦争はそれまで存在した常識を破壊しました。そしてそこからまた新しい常識が生まれてきたという、いわば「破壊の30年」だったと言えるでしょう。すると考えようによっては、この破壊の30年があったから次に続く繁栄の30年があったのかなと。
では、この破壊の30年からさらに30年を遡るとどうでしょう。1904年から1905年には日露戦争がありました。当時後進国だった日本が先進国に追いついていったという時代ですよね。ですからこれも「繁栄の30年」であったと言えるように思います。で、さらにそこから30年を遡ると、これは明治維新の時代です。維新によってそれ以前、つまり江戸時代という約260年にわたって存在した常識が破壊され、近代日本社会というこれまた新しい常識が生まれていった「破壊の30年間」でした。
そんな風に考えてみますと、日本の歴史には明治維新以降、30年の破壊があり、30年の繁栄があった。そしてさらに30年の破壊があり、そのあとさらに30年の繁栄があったわけです。そんなリズム感があったと考えてみると、現在はいかがでしょうか。失われた10年・・・、最近は20年という風に言われていますよね。それならば、もしかすると我々が生きる今の時代とは破壊の30年における22年目なのかなという風に捉えることが出来ます。
あるいはこのリズム感を1日の24時間に合わせて考えてみましょう。朝の6時から夜の6時という日中が繁栄で、夜の6時から朝の6時という夜中が破壊だとします。すると今の時代は夜中の2時過ぎですよね。午前2時から3時のあいだ。皆さんはこの時間帯に何をしていますか? まだ勉強を・・・、していませんよね(笑)。遊んでいるかもしれません。私は寝ています。で、夜中の3時になるとさらに動きたくなくなっています。ですからもしかすると、今の時代というのは最も動きたくないというような、そんな時代なのかもしれません。
次にこのリズム感を1年のカレンダーに合わせて考えてみます。4月から9月の春夏が繁栄で、10月から翌年3月の秋冬が破壊であるとすると、今の時代は2月です。2月というのはすごく寒いですよね。家から出たくない。すると、もしかすると今の時代というのは「家のなかに引きこもっていたい」時代なのかもしれません。
ただ、別に夜が悪いというわけではないですよね。夜は次の日のために体を休め、体力を蓄える時間帯です。冬は次にやってくる春のため、色々な仕込みを行う時期でもあります。破壊の30年というと大変にネガティブなイメージを抱いてしまうかもしれませんが、しかし私としては、我々が今の時代にやるべきことをきちんとやっていれば、日本を必ず夜明けを迎え、春を迎えることが出来るのではないかなと思っています。
結局、破壊と繁栄で60年周期なんですね。この60という数字、私はかなり不思議な数字だと思っています。たとえば1時間は60分ですよね。また、リセットするという意味ではないものの還暦というものもあります。私は丑年ですが、干支も12年に5を掛けて60年の周期になる。何故このような数字があるのかなと、私も自分なりに考えてみました。で、「もしかすると30年というのはひとつの世代なのかな」という風に思うようになったんです。
自分が体験することは当然ながら実体験として、そして意識として自分のなかに残りますよね。けれども人は自分が体験していないことについても、たとえば自分の親世代の体験についても、親から直接聞くことの出来る機会があります。ですから、これもある程度は自分の意識のなかに残るかもしれない。では二世代前、つまりおじいちゃんおばあちゃんの世代についてはどうでしょうか。これも自身では体験していませんが、話は子どもの頃に聞くことが出来ました。おじいちゃんとおばあちゃんに聞かされたことって覚えているものじゃないですか。ですからこれについても少しは意識が残っているのかなと思います。
しかし自分の三世代前、四世代前、五世代前、あるいは六世代前の体験はどうでしょうか。当然、直接話を聞くことは三世代前でもなかなか出来ません。ですから「人間だけに同じことを繰り返してしまうのかな」と、私としては少し考えています。つまり周期というのは人間の世代や寿命に関係している要素があるのかなということです。
次の「繁栄の時代」を牽引する団塊ジュニア
私の父は1922年生まれですが、1930年の人口分布を見てみると綺麗なピラミッド型になっています。そして戦争が終わり、皆が張り切って赤ちゃんをつくるようになりました。いわゆる団塊の世代と呼ばれる方々がこの時代に誕生したわけです。
また私は、1961年生まれですが、1960年の人口分布を見てみると10代の中頃が少し凹んでいますね。しかし1960年の人口分布を見たうえで、現在の例えば国民皆保険や社会福祉制度といったものが構築されていった。この時代にはじまったわけです。
その後、1970年に大阪万博が開催され、続いてバブル期に入り、それがピークを迎えて、さらにはITバブルを経て現在に至っています。2015年の人口分布を見てみるとひょうたん型になっていますよね。こういったものを見ていると、もう「ぜんぜん駄目じゃん」なんていう風に感じてしまいます。高齢化も少子化も進んでいて、もうまったく駄目だと。では未来はどうなっていくのか。2020年、2030年、2040年、そして2050年の人口分布をそれぞれ見ていくと、さらに駄目だということになってしまう。
しかし先ほどの30年サイクルということで考えてみますと2020年前後から新しい繁栄の時代が来るはずなんですね。いかがでしょうか。その繁栄が見えますか? 少し厳しい感じがしますよね。しかし人口分布図を眺めていて、私はあることに気づきました。実は2020年というのは極めて大切なターニングポイントになるんです。2020年から戦後初の大きな社会変革、あるいはパラダイムシフトと言えるものが起こるためです。
改めて人口分布の推移を、連続して見てみましょう。2015年を現在として、2020年、2030年、2040年、続いて2050年の人口分布スライドを続けざまに見てみると何が分かるか。いかがですか? パラダイムシフト 、見えましたか? 団塊世代の男性箇所に注目してみてください。2020年から2030年にかけての推移を見ていると、お、いない(会場笑)。そう。いなくなってしまうんです。
それぞれの時代においてどの世代が社会の主役になるのかといえば、その時代で最も人口分布が厚い世代になるのではないかと思います。で、現在は団塊世代が一番厚いわけですよね。厚いだけではなく、投票にも積極的に足を運びます。お金も持っています。そうした世代が今の時代における社会のあり方を決めるのは当り前の話なんです。
しかし次の時代、次にやってくる繁栄の時代において主役となるのは、実は次の「団塊ジュニア」と言われる方々なのです。私より15歳ほど若い方々ですね。本会場にいらした皆さんのなかでもこの世代の方が多いと思います。実は皆さんが次の時代の主役になる。これはもう明らかですよね。数が最も多いわけですから。
私はこの団塊ジュニアの方々というのは大変面白い世代だと思っています。私より先輩の世代というのは・・・、本会場ではかなりはっきり言えますが、何も考えなくて良かったんです(会場笑)。そうじゃないですか。考えていたのは良い大学に入って良い会社に入ること。あとは何も考えなくて良かった。日本全体が高度成長に乗っかっていたわけですから。そういう意味では、団塊世代の方々というのは成長をつくり、成長に乗っかり、成長に乗りきっていく世代なんですね。
皆さんは違います。バブルのピーク時は大学生でした。つまり大人になってから一度も経済成長を体験していないという、戦後日本で初めての世代です。そう考えると、皆さんとしても「このままじゃ駄目だ」となりますよね。もちろん、そのように考えているだけでは何事もはじまりません。しかしその考えを前向きな行動に移していけば、それが大きな力の源泉になるのではないかなと私は考えています。
散逸する資源を集め、力とする
さて、ではここからは、とある“原点”について一緒に考えていきましょう。東京都中央区日本橋兜町4-3。ここに何があるか、皆さんご存じですか? もちろん兜町には東京証券取引所がありますよね。ただ、この住所は東証のものでなく、そこから100歩ほど歩いた場所にある建物のものです。どこでもありそうな建物ですが、そこにこんな言葉が刻まれた地碑があります。「銀行発祥の地」。この場所に120〜130年ほど前、別の建物が建っていたんです。日本初の銀行である第一国立銀行です。渋沢栄一がつくったと言われる銀行ですね。
現代に生きる我々であれば、銀行という言葉を聞けばそれがどんな仕事をしているところなのか、どのような存在であるかをすぐにイメージ出来ます。しかし当時は銀行というものが存在していなかった。銀行という言葉を造語としてつくらなければならなかったんです。ですから今の言葉で表現すると、当時の銀行というのはベンチャービジネスでした。
では明治6〜7年前後、ベンチャービジネスであった銀行の存在を渋沢栄一は日本社会へどのように伝えていたか。こう言っています。「銀行は大きな河のようなものだ。銀行に集まってこない金は、溝に溜まっている水やポタポタ垂れている滴と変わらない。せっかく人を利し、国を富ませる能力があっても、その効果はあらわれない」。つまりお金という資源があるだけでは駄目だということですね。散らばってしまっていますから。それが銀行に集まってくれたとき、はじめて力になる。そのような考え方をしていたんです。
明治、大正、そして昭和における日本の経済発展について考えみると分かります。たしかに国民の散らばったお金、つまり資源が銀行に集まってきました。産業の発展を支えたのはそのお金でしたよね。銀行ベースで集めていたわけですから。リーマン・ショックのあと、社会では新しい資本主義といったものが色々と問われるようになりましたよね。「グローバル資本主義が駄目だ」、「拝金的資本主義が駄目だ」、「ファンド資本主義が駄目だ」・・・、色々と議論はあったと思います。しかし考えてみると、我が国における資本主義の原点というのは今お話ししたようなことにあったのではないかなと思うんです。散らばった資源が寄り集まってくれら、そこで大きな大きな力になった。
渋沢栄一は500社ほどの会社をつくったと言われていて、それもあって「資本主義の父」と呼ぶ人もあります。これについては私の友人でもある学者が記録を調査したのですが、実際には476件あったそうです。これは株主として、経営者として、あるいは発起人として関与した会社の合計です。なかには現在の言葉で表現すれば事業投資組合のように存在していないものもたくさんありました。今残っている会社もあります。その合計が476件ということでしたので、まあ関与したという意味では、500社というのもそれほど外れていない数字なのかなと思います。
ただ、渋沢栄一自身が資本主義という言葉を使った記録はどこにも残っていません。逆にこの言葉をよく使っていました。「合本制」ですとか「合本主義」といった言葉です。合本、要するに合わせること。では資本主義と合本主義の違いは何なのかと考えてみると、資本主義は英語では‘capitalism’ですよね。で、その語源を見てみると‘capita’という言葉で、これはラテン語で「頭」を意味します。これは資本主義という概念の主役に頭という存在があったということですね。頭というのは賢いじゃないですか。自分を相手と比べたとき、優位性や有益性といったことものが判断出来るという選別能力がある。たとえば資本構成という言葉がありますよね。これ、明らかに順位を決めています。つまりそれが資本主義ということです。
これに対して合本主義を英語でどのように言えば良いのかというと、現在は使われていない言葉だけに正式な翻訳はありません。ただ、考え方としては一滴一滴の雫が集まって大河になるというものです。そうなると、そこから優位性や有益性といったイメージが私としてはちょっと思い浮かんできません。むしろ集まってきてはじめて力になるのですから、有効性というイメージが浮かびます。あるいは共感性でも良いと思います。共感がなければ集まってこないと思いますから。
たとえばがっつり儲けたいという共感で集まってくる場合もあれば、安全と安心を求めるというような共感で集まる場合もある。もちろん社会のために何か良いことをしたいという共感もあるでしょう。色々あると思います。ただ、いずれにせよ共感がないと寄り集まってきませんから、そう考えると英語であれば‘corporatism’という言葉が良いかなと私は思いました。直訳すると「組織化」ですが、語源を見てみるとこちらはラテン語で「体」のことを示しています。たとえば大きな石があって、それをひとりの体、あるいはひとりの力でなかなか動かすことが出来ないという状況があったとします。しかし体を寄せ集めて力を合わせたらその石を動かすことが出来るという、そのような考え方ではないかと思います。
一方で資本主義はどうでしょうか。大きな石があったとして、それをなかなか動かすことが出来ない。でも頭は賢いですよね。ですから長い棒を使えばテコの原理できちんと動くという話になって、ころころと動かします。賢いですよね。ひとりで出来ますし。ただ、もし石が止まり、それが逆回転するようなことがなるとどうなるか。今度はテコの原理が逆に働いて、自分のほうにぽんと跳ね上がります。ときには怪我をする恐れもあるということではないのかなと思います。
この二つの違いは微妙なものなのかもしれません。ただ、新しい資本主義というものにまつわる議論のなかで、たとえばマイケル・ポーター氏が提唱した「クリエーティング・シェアード・バリュー」という概念がありましたよね。ほかにも「責任ある資本主義」ですとか、とにかく色々な考え方が出てきています。私としてはそれらの考え方がなにかこう・・・、「皆で力を合わせてやりましょう」ですとか共感といった意味で合本というものと同じことを言っているような気がしているんです。ですから新しい資本主義というより、どちらかというと原点への回帰を求めている世の中になっているのではないかなと感じます。
「うち」と「そと」を自在に行き来し、創造性の源とする
通常、私たちは枠を抱えながら生活をしているのだと思います。その枠というのは自分が住んでいる地域社会や国ですとか、自分が勤めている業界や会社ですね。大きな会社ですと、もしかしたら部署という単位も枠になっているのかもしれません。何十年も大人をやってきた人であれば、それまで築いてきた自分のなかにある習慣や固定概念といったものも枠として存在していますよね。
いつも我々はそういった枠を抱えながら、そのなかで生活します。何故かといえばそのほうがラクだからです。枠のなかにいれば十分にやっていくことが出来ますから。そこから飛び出してしまうと少し不安になる。で、「枠のなかでやっていればいいや」となるわけです。もちろん、それもひとつの生き方です。しかし枠ののなかにずっと留まっていると、もしかすると枠が徐々に縮まっているということに気が付かないかもしれないですよね。
それともうひとつ、視点というものについてもお話をさせてください。たとえばこの会場は我々の枠ですよね。このなかに色々な人がいます。そしてその枠のなかのコミュニケーションは、通常は話をしながら、あるいは聴きながら行われます。言葉でやりとりをしますよね。しかし、コミュニケーションは必ずしも言葉を介さなければ成立しないというわけではありません。顔の表情やボディ・ランゲージですとか、媒体となるものは色々とあります。では何故それが出来るのかというと、我々は枠のなかにいて同じ環境を共有しているからです。
日本人って「うち」という言葉がすごく好きですよね。「うちはこうなんだよねえ」と言う。「うち」という視点から外の世界を見るという考え方だと思います。では我々のその環境を外から見たとき、何が見えるのか。たとえば本セッションの会場を訪れたのは、私は初めてです。そういう場合、行く前に「とりあえずどこにあるのかな」と思ってグーグルマップか何かで場所を調べますよね。そうして見てみると、我々が今いるこの環境が、実は点になっているんです。どちらから見ても同じ存在ですよね。しかし我々にとってのこの環境が、グーグルマップで見ると点にしかならない。で、「どちらが正しいのですか?」となると、当然ながら両方とも正しいわけです。
今いる環境というものは、「うち」から見るだけではどこにあるのかまったく分からないじゃないですか。東京かもしれませんが実際のところは分かりません。外からの視点によって初めてその場所が分かる。ですからどちらが正しくてどちらが間違っているのかではなく、両方の視点で見ることが不可欠なのではないかなと私は考えています。それによって初めて全体像が見えるようになります。ですから「うち」という固定概念を取り除いて多様な視点を持つことが、企業、社会、あるいは個人の未来を拓く創造力ということなのではないかなと思います。
現状維持は先送り、持続性は「今ここ」にある責任
もう少しだけお話を続けます。『論語と算盤』。渋沢栄一の代表的な著書として有名ですが、日本での最高学歴が小学校2年生の私ですから漢文が読めない(笑)。漢字がめちゃくちゃ弱いんです。算盤も使えません。それならばと、論語と算盤という表現を今の言葉でどのように表すことが出来るのかなと、私なりに少し考えてみました。
するとヒントがいくつかありました。「合理的経営」のくだりで渋沢栄一はこう言っています。「その経営者ひとりがいかに大富豪になっても、そのために社会の多数が貧困に陥るようなことでは正常な事業とは言われぬ。その人もまたついにその幸福を永続することができない」。去年、アラブの春と言われる出来事がありました。あれは、考えてみるとひとりもしくは一族がその国の富と権力をすべて抱え込んでしまっていたという話ですよね。そうすれば「幸せです」となる(笑)。で、それが20年30年、あるいは40年続いたかもしれません。しかし結果としては、その本人あるいは一族の幸福が継続することはなかった。それがアラブの春ということだったのではないかと思います。
また、渋沢栄一はこんなことも言っています。「正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」。だからこそ論語あるいは道徳、そして算盤あるいは経済という、当時でもかけ離れたこのものを一致させることが極めて大切であると言っているんですね。ここで永続というキーワードが出てきました。「あ、そうか。『論語と算盤』で渋沢栄一が言いたかったのは、実はこの言葉ではなかったのかな」と私は思いました。サステナビリティ、つまり持続性です。
当然、算盤勘定が出来なければ持続性は持ちえません。けれども算盤勘定つまりお金儲けだけに固執していると、もしかすると躓いてしまうかもしれない。ただし、だからといって「私は論語読みです」と鼻を高くしていても、「お金儲けなんて卑しい」と言ってみても、それだけでは何事もはじまりません。はじまらないのであれば持続性も存在し得ないわけです。
ですから渋沢栄一は論語か算盤という‘or’ではなくて、論語と算盤の両方‘and’が必要なのだということを言っているわけですね。車の両輪としてイメージしてみると分かります。片方の車輪が大きく片方の車輪が小さければ、同じところをくるくる廻るだけですよね。両輪が同じサイズであってはじめて前進出来る。そのような考え方ではなかったのかなと考えています。
それでは持続性というキーワードと、現状維持という言葉。この違いについて考えたことはありますか?現状維持というのは持続性とはまったく違う意味の言葉だと私は考えています。たとえば現在の豊かな生活という現状を維持したい。これは当り前の話ですし、必要なことです。しかし「過去のおよそ20年で日本政府が我々国民の生活を維持するために何をしてくれましたか?」という話になります。国債をどんどん発行してきました。国債は借金です。借金である以上、いつか誰かが返済しなければいけません。それは我々ではないのかもしれませんし、我々の子供でもないのかもしれません。しかし日本政府が「そんな借金、知りません」と言わない限り 、いつか誰かがそれを絶対に返済しなければいけない。
その意味で我々はもしかすると、我々が営む今の生活を維持するために、まだ生まれてきていない未来の日本人による成長を先食いしてしまっている可能性があるんですね。つけを後世に廻すというのはそういうことじゃないですか。自分たちは払わずに彼らが払うわけですから。ですから現状維持というのは、ある意味で厳しい判断や決断というのを先送りするということではないのかなと私は思っています。
では、持続性というものはどういうものでしょうか。これも未来の話であると感じるかもしれませんが、正確に言えばそうでないと私は思っています。たとえば「企業が自社の未来における持続性を高める」ということはどういうことか。未来に確実なことはひとつもありません。持続性というのは持続する可能性の高さです。ですから企業が将来における自社の企業価値を持続させていくという、その可能性を高めるために何をするかという現在の話なのです。
ひとつには設備投資がありますね。設備投資は何かというと、今、手元にある資源を再配分することだと思うんです。人、カネ、モノ、あとは時間という資源もあるでしょう。それらの資源を再配分することで、自社の将来に渡る持続の可能性を高めるということだと思います。けれどもこれは将来やるものでもないですよね。今やるかやらないか、です。ですから設備投資というものは、時間の旅に出るか出ないかという決断を、未来にではなくあくまでも今日下すものだと思います。
たとえば、私が仲間たちと立ち上げたコモンズ投信の30年の長期投資というと、「あ、それは良い話ですね。いつかはじめましょう」という方はいます。では長期投資のために必要な資源は何かというと、当然ながらお金はある程度必要ですよね。ただ、お金以上に大切なものが実はあります。それが時間という資源です。
時間というものは非常に平等な資源だと私は思っています。これは我々の誰もが持っている資源ですよね。また、誰であっても必ず、毎日1日だけ減るという点でも平等です。それならば、後の時間がたくさん使えるよう、今使ったほうが良いではないですかということです。決断するのは明日より今日のほうが良いし、来週より明後日のほうが良い。決断というのはなるべく早くしたほうが、後に続く時間がたくさん使えるわけです。そこに時間という資源の大切さがあると思います。
カネに色はついている
色々とお話ししているうちに本セッションの残り時間という資源が少なくなってしまっているのですが(笑)、続けてよろしいですか? ・・・はい。では次に参りましょう。私の兄妹が写った1960年代の写真をご覧になっていただくと、私と、下に妹がふたりいます。下の妹が生まれたばかりの写真なので、たぶん1965年に撮られたものです。1965年というのは先ほどお話ししました通り、繁栄していた高度成長の時代でした。そして次に、私の子どもたちが写った現在の写真を見てみましょう。私も、堀さんほどはいかないのですが子沢山で男の子が3人います。1965年と現在の写真を比べてみると、まったく違う世の中になってしまったことが分かりますね。
ただ、二つの時代で変わらないこともあります。1965年当時、私たちの親は私たち子どもに希望を持っていました。「健康に育って欲しい」ですとか「躾もきちんと守って欲しい」といった希望ですね。もちろんそのほかにも、勉強をして良い学校に進学し、良い会社に就職し、そして良い人と巡り会って幸せな家庭を築き、豊かな世の中や社会で暮らして欲しいという希望があったわけです。
それは今、時代こそ異なるものの私が私の子どもたちに希望していることとまったく同じです。皆さんも皆さんのご両親から同じような期待と希望を受け継いでいますよね。お子さまがいらっしゃるのであれば、同じような思いを皆さん自身が抱いていらっしゃると思います。だからこそ時代が変わっても国が変わっても・・・、アメリカでもアフガニスタンでもどこでも、親の世代から次の世代に今日よりも良い明日を残したいという希望がある。これは普遍的な思いである筈です。
しかしそれが一滴一滴、毎日垂れ流し状態になっているのではないか。先ほど銀行のくだりでお金の話をしました。「今日より明日に良くなって欲しい」という気持ちを皆が持っているにも関わらず、今はそれがぽたぽたと垂れ流し状態になっているのではないかと私は思っているんです。しかしそれらを器に集めることが出来たら、そのときにある意味、共感資本というのが出来ます。
時間が限られていますので駆け足になりますが、たとえば子どもが生まれた2000年から、私は自分の子どものために毎月の積立をはじめました。これは別に「子どもに大きな美田を残そう」といったものではありません。先ほど枠のお話をしましたよね。では子どもが大人になったとき、その枠の外にチャレンジしたいと言うときが来るかもしれません。「留学したい」、「事業を立ちあげたい」、あるいはたとえば「アフリカに行きたい」といったものでもいいです。そのときに、「じゃあお前、これ使えよ」という応援資金をつくりたかったんです。
「お金には色がついていない」とはよく言われることですが、でも私は色はついているのではないかなと思うんです。それで「実はこのお金はたまたま手元にあったのではなくて、お前が赤ん坊の頃から毎月積み立てたものなんだよ」と言ってあげたらどうなるか。子どもは「そんなことをしてくれていたんだ」という風に思ってくれないかなという、まあ、期待をね(笑)。もしかすると「あ、サンキュー」だけで使ってしまうことも(会場笑)、まああるかとは思いますが(笑)。ただいずれにせよ、そういったことが出来たらいいなと思っています。そして願わくば子どもたちに、「今度は自分たちの子どもたちに対して同じような思いで何かしてくれたらな」とも、願っています。
で、こういう風に考えてくださる人々というのは、実際のところ北海道から沖縄までたくさんいるのではないかと思います。そしてもしそのようなお金が集まっていったらどうなるか。今日明日売った買ったの世界ではなく…、もちろん私自身はその世界にいたので好きだったのですが、それだけではなく、20〜30年先でも企業価値を創造ことが出来るような会社に投資して応援するような形が出来るのではないかと。そのような持続的価値を応援することが出来るのならば、それが真の長期投資ということなるのではないかなと思います。そう思い立ってコモンズを設立したのがちょうどリーマン・ショックの真っ最中でして、そういう意味でのレベル感はすごく良かったのですが(笑)。
いずれにせよそれでコモンズ投信という会社を立ちあげて、子ども向けの『こどもトラスト』というものをはじめました。そのほか、おじいちゃんとおばあちゃん向けに『まごころ』というサービスもはじめています。60〜70代になって30年投資と言われても、「いや、それは良い話だけど、俺、その頃にいないんだよね」となるわけです。「ではお子さまは?」と訊くと、「子どもはもういい」と言います。独立していますし。しかし「お孫さまは?」と訊くと「あ、孫は可愛いよね」となります。「でしたらお孫さまの積立でスポンサーとなったらいかがですか?」と、今はそんなご提案もしています。
常識の人〜リーダー〜は“知・情・意”が高度にバランスしている
若干“巻き”で続けましょう。最後にひとつ。常識というと、普通は「お前、そんなことも知らないのか」といった類の文脈で使われる知恵のことを指しますよね。知恵や知識。ところが渋沢栄一は知を持っているだけではなく使わなければいけないと言っています。情愛つまりエモーションが必要ではないかということですね。また、情愛だけでは流されやすいので知と情愛に加えて意志も必要になると言っています。ただ、意志が強過ぎると頑固になってしまう。ですから“知・情・意”の三つをバランスさせることが大切なのではないかということを言っていました。
この話を読んで「面白いな」と思ったのですが、私はそれまで、常識とは時代や文化のなかで画一的に成り立っているものと思っていたんです。しかし渋沢栄一の言葉を読んでみると、“常識の人”という人がいて、その人々のなかではある意味で、“知・情・意”がバランスしているということでした。レベル感は別として、です。そうすると「常識の人が集まれば常識の世の中になりますね」という、そういう考え方を渋沢栄一はしていました。それで「本当にそうだなあ」と思っていたところ、ある本に出会いました。皆さんもお読みになっているかと思います。ジェームズ・C・コリンズの『ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則」。英題は『GOOD TO GREAT』ですね。つまり「偉大な会社の経営者とは何か」ということについて書いた本です。
私は本書と渋沢栄一の話に共通点があると思っています。ともに、何が経済エンジンかということを知っているんですね。「何に情熱に持つか」というエモーション。そして「何において世界一になるか」。コリンズの言うグレートカンパニーの経営者は、渋沢栄一の言う“知・情・意”がバランスしている「常識の人」とほとんど同じなんです。
皆さんは『オズの魔法使い』という物語をご存知ですか? 『オズの魔法使い』にはドロシーという少女が登場します。彼女はカンザス州という常識を絵に描いたような場所で生活していたのですが、ある日竜巻に巻き込まれ、オズといういわば“ひっくり返った”非常識な世界に放り込まれます。そこに3人の助っ人が現れます。まずはカカシ。カカシは藁で出来ていて、「自分はブレインが欲しい」といつも言うんです。知識が欲しいということです。彼はずっと文句を言っている。二人目の助っ人はブリキの木こりです。この木こりはブリキで出来ているから胸が空っぽで、叩くとカラカラという音がする。「だから自分はハートが欲しい」と嘆き続けています。最後の助っ人がライオンですね。このライオンは臆病なんです。「だから自分は勇気が欲しい」ということを言います。
ドロシーがカンザスへ戻るためには、つまり自分の常識を取り戻すためには三つの助っ人が必要でした。それは“知・情・意”だったんです。この物語からも分かるように、“知・情・意”というのは洋の東西や時代を超えるひとつの普遍的な考え方なのではないかなと私は思っています。
私がかれこれ40年ほど参加している勉強会があります。私は参加メンバーのなかでも最年少なのですが、その勉強会は毎年夏に合宿を行なっており、私は去年の夏も参加してきました。そこに山内昌之さんという東京大学の先生だった方が講師としてお見えになったんです。近代イスラム史などで広くご発言等をしていらっしゃる歴史の先生です。で、合宿では1日半、歴史学者である山口先生の観点から見た「リーダーとは何か」というお話をずっと聞いていました。お話の締めくくりに「リーダーには倫理的理解力、つまり‘ethical literacy’が要求される」と仰っていました。「倫理的理解力というのは少し難しい言葉ですが、これはまあ、簡単に言えば常識力です。当り前のことを当り前にやりましょうということです」と仰るんですね。
そのお話が渋沢栄一の話と繋がりました。これ、まさにリーダーシップ論ですよね。ここで言わんとしていることは、ただ単に「常識の人になりましょうね」という意味ではありません。この時代に人々は新しい常識をつくらなければならなかった。そのために何が必要かというと「“知・情・意”をバランスさせること」という話なのですが、それは誰かリーダーが一人でやるということではありません。我々一人ひとりの“知・情・意”がバランスすることによって、ある意味で一人ひとりがリーダーになる。そのようなリーダーシップ論のことを言っているのではないのかなと思いました。
新しい常識をつくる世界では、誰かのビジョンやリーダーシップに頼るだけではなくて、自分自身の“知・情・意”によって行動すべきである。私としてはそのような考え方があるのではないかなと思っております。長くなりましたが以上になります。ありがとうございました(会場拍手)。
日本型リーダーは現場と密着している
田久保:澁澤さん、大変ありがとうございました。のちほどすぐ会場の皆さんにも質問を募りたいと思いますので、ぜひ考えておいてください。私のほうからは2点ほどご質問をさせていただきたいと思います。
最後はリーダーシップ論として、“知・情・意”をバランスさせることが不可欠になるというお話でした。このあたりについてもう少しお聞かせください。他セッションでは、たとえば日本のものづくりに関する議論のなかで「リーダーが必要とは言ってもなかなかしんどいよね」という話もちらほら出てきています。澁澤さんご自身はゴールドマン・サックスなどの外資系でお勤めになっていらした時期もありましたよね。外の目線から・・・、先ほどのお話でいくと枠の外から見たうえで投資をしていらっしゃったわけです。その澁澤さんからご覧になって、日本の会社について「こういうところがもっと頑張れるのに」ですとか、「この事業をこういう形に持っていったら21世紀型の日本経営としてもっと頑張れるのでは?」といった印象をお持ちになることはありますか?
澁澤:簡潔にお答えしようとすると難しい質問ですね(笑)。ただ、私としてはひとつよく分からないところがありました。たとえば海外や外資系で勤めているなかで日本人に会うと、一人ひとりは本当に良い方、面白い方、あるいは魅力的な方ばかりなんです。ところがそんな方々でも、ひとたび組織や国に入ってしまうと「急にどうしちゃったの?」というほど姿が見えなくなってしまう。「これはどういうことなんだろう」と、私も思っていました。やはりひとつには立場の問題が関わっていると思います。先ほどお話しした“常識の人”としての立場ではなく、会社のなかに置かれた自分の立場を優先して考えてしまうのではないかなということですね。
何故かといえば、所属する会社や組織のなかで自分の立場を維持したいから。次のポストに行きたいというという話です。ある意味で高度成長時代は「失敗さえしなければ次のポストに行けるんだ」という環境でしたから。ただ、私はそれがもう壊れてしまっていると感じています。何もしないままでとんとん上に行くことが出来るなんていう、そんな甘い会社はもう残っていません。仮にまだそのような甘い会社があるのだとしたら、その会社は恐らく世界では競争出来ないでしょう。
ただ一方で、最近は「商社でも若い人材が海外に出て行かなくなってしまった」といった都市伝説のような話もありますよね。しかしこれ、私としては少し違うのではないかなと思っています。私の前に来る若者たちは皆、元気一杯です。先日、以前からお付き合いしている会社の社内研修のようなところで面白い話を聞きました。これはどちらかというとオフィシャルな研修ではなく私塾のようなところだったのですが、そこには社会人1〜2年目の若い人たちがたくさん来ていたんです。
そこで、ある若い男性社員に「どうしてこの会社に入ったの?」と聞いてみたら、彼が「海外に行けると思ったからです」と言うんです。「へえ」と思って、「同期のうち何人ぐらいがそう思っているの?」と続けて訊いてみたら、彼は迷わず「あ、営業だと100%です」と言い切りました。「へえ!」と思いました。ですからその会社を後押ししていて良かったなと思ったわけですが(笑)。
そういう企業さんもあるわけです。ですから私は「日本の場合、あまり全体や平均ばかりを見てはいかんな」と思います。平均や全体からは変化も生まれませんから。変化が起きるのは尖っているところからじゃないかと思いますね。その尖った部分を、ある意味でそぎ落としていたのが今までの日本でした。しかし世界で成長するためにはそこを生かさなければいけない。
田久保:日本企業という言い方で括ること自体、あまり意味がないのかもしれないですね。ではもうひとつお聞かせください。本セッションにお集まりの皆さんはリーダーシップというものについて真剣に考えていらっしゃいます。やはりこれからリーダーになりたいということだと思うのですが、澁澤さんは今まで本当にたくさんのリーダーと会い、さまざまな議論などを重ねきていらっしゃいますよね。
そんな澁澤さんに、敢えて「日本型リーダー」のような考え方も交えつつ、リーダーになりたいと考えていらっしゃる皆さんへのアドバイスをいただけたらと思っております。どのようなレーニングを行い、どこを磨き、どんなことを具体的にやっていけば良いか。ぜひお聞かせください。コンセプトとして“知・情・意”というお話はよく理解できたのですが、ではそれらを鍛え、いずれは澁澤さんから投資をして貰えるような会社のリーダーになるために、具体的にはどのようなトレーニングが出来るとお考えですか?
澁澤:はい。リーダーにも色々な形があると思います。で、そのなかでも私が色々と見ていて「ここは良いな」と思った会社では、たとえばトップマネジメントの方がちょっとしたオフに現場の方々と一緒にわいわいがやがや出来たりしているんですね。そういう会社、ありますよね。しかし大きな会社ですと入社式で見かけて依頼、まったく見たこともないというところもあるじゃないですか。
ですから日本型リーダーという考え方とも重なると思いますが、やはり日本の良さを活かしている会社はリーダーが現場と密着しているように思います。一人ひとりのところへ行って「これが」「それが」「あれが」と話すリーダーという意味ではないのかもしれない。しかし距離感があってはいけないと思いますね。たとえば、特に3.11後にきちんと対応していらした企業さんというのは、現場の意志ややりたいことと、トップマネジメントが大変近い状態にあったのではないかと感じます。で、近い状態でいるためにはリーダーに魅力がなければいけないですよね。もちろん魅力といっても色々な形があるかとは思いますが。ただ、いずれにせよその距離感がなく、「あ、やはりこの人だったら付いていきたいな」という部分が見えることはとても大切だと思います。
田久保:やはり「この人のために」といった状態をつくらないといけないと。日本企業の特徴といったものも考えたとき、そのようなリーダー像になるということですね。私も3.11後、素晴らしいご活躍や支援をなさっていた企業にたくさん取材を行いましたが、まさに仰る通りであったように思います。トップの判断が現場の動きにぴたりと合っている会社はたしかにありました。とりわけご本業における強みのうえにそういった復興や支援の活動が成立していた会社はすごく有難がられていたというか、外側から見ていても本当に素晴らしいご活躍をしていらしたと思います。
澁澤:トップというのは判断をする人のことではないと私は思っています。判断材料に基いて適宜判断を行うというのは、これは中堅をはじめとした組織の人々がやることなんですよね。それに対してトップの人に求められるのは決断です。判断と決断の違いとは何か。後者はそれを下すための材料が揃っていないかもしれない(笑)。
3.11のときに何をすべきだったのか。あのようなときに「これだ」と言えるか否か。これは決断であって判断ではないですよね。だって状況が分からないわけですから。そこではある意味、それまで蓄積してきたさまざまな知見や、本日お話してきたたような人間的ベースこそ必要になるのかもしれません。それがあるからこそ決断出来るわけで、それが出来ないのなら・・・、決断の出来ない経営者は必要ありませんよね。そんな風に思います。
“知・情・意”のコンフリクトにはどう対処するか
田久保:ありがとうございます。先日、とある売上高1兆円以上の企業で一番上を務めていらっしゃる方とお話をする機会がありました。その方はこう仰っていました。「執行役員までは管理者である」。役員と管理者の違いは、決断をするのか判断をするのかの違いであると言うんですね。必要十分な条件があって判断をすることと、分からない状態でも肚をくくって決断を下すというのは決定的に違う。「しかし執行役員選定の延長線上で役員を選んでしまうから、都合の悪いことも色々と起きちゃうんじゃないの?」と仰っていました。そんなニュアンスにも近いかもしれないですね。
それでは、この辺で会場へオープンにしていきたいと思います。それぞれ手短に3人ぐらいずつ、まとめて伺っていきましょうか。[会場の挙手の多さに]おぉ、すごいな(笑)。
会場:本日は貴重なお話をありがとうございました。澁澤さんが投資を決断する際に最優先させるポイントといえるような要素はおありでしょうか。あるいは私が会社の経営をするときになったら何を一番伸ばしていけば、澁澤さんのような方に目をつけていただけるのか。ぜひお伺いしたいと思っております。
会場:本日のお話では特に、言葉の財産というものを渋沢栄一さんが残していらした点が大変響きました。ですので言葉や生き様が財産になるのか否かという部分について改めてお伺いしたいと思っております。変化球の質問になってしまい恐縮なのですが、もし澁澤さんご自身が何か残すとしたら、お金以外の財産をどのような形で残そうとお考えになりますでしょうか。
会場:学生ではないのですが質問をさせていただいてよろしいでしょうか。澁澤さんお久しぶりでございます。
澁澤:あ、水野(弘道氏、コラーキャピタル (英国) パートナー)さん(笑)。
水野:水野です。学生だと思ってあてられてしまったようですが(笑)。
田久保:すみません、お顔がよく見えなかったので(笑)。ぜひお願いします。
水野:はい(笑)。先ほど「“知・情・意”の三つを平等に発達させたものが完全な常識であると考える」といったお話がありました。まさにその通りだと思いました。ただその一方で、この三つがコンフリクトを起こした場合、澁澤さんはどれをお選びになるのでしょうか。
田久保:ありがとうございます。ではこの3点からお伺いしていきましょう。
澁澤:皆さん、もう少しお手柔らかにお願いしたいのですが(会場笑)。まずは投資のポイントですが、平たく言えば「言っていることとやっていることが一致しているか」という点です。これに尽きると思います。もちろん仰っていることも小さな話ではなく、たとえば「世界できちんと競争力を発揮していくんだ」ですとか、そういう部分についてです。そこで言っていることとやっていることにギャップがあれば、「すみません。ご縁がなかったようです」というお話になるかと思います。
あと、お金以外に何を残していくかですが、愛ですよ愛(会場笑)。と、言いたいのですが(笑)、どうでしょうか。財産という話ではないのかもしれませんが、まず私としては人生最後の一瞬に来し方を振り返ったとき、「色々な人と巡り会えたな」ですとか「色々な人が周りにいてくれたな」といったことが思い出せたら、まあそれはそれで自分なりの財産を築くことが出来ていたのではないかなと思います。で、お金の財産も欲しかったのですが、それはリーマン・ショックで夢のように消えていきましたから(笑)。まあ、やはり愛ですとか、そういったものは大切かなと思います。
で、「今日は水野さんが会場にいらしたらどうしよう」と、実はどきどきしていたのですが質問されてしまいました(会場笑)。コンフリクトになることが・・・、やはりあるのかな。ただ、そのときに敢えてひとつ選ぶとすれば、私自身は情の人間ということになります、すみません。知識もそれほどありませんし、意志も少しふらっとするときがあります。で、なにかこう、情熱的になったり情に振れる場合がありますので、どれかというと私は情になります。B型人間ですので(笑)。
田久保:ちなみに水野さんはどれを。壇上からで恐縮ですが、どんな風にお考えですか?
澁澤:そういう風に切り返しておけば良かったのか(笑)。
水野:これ私のセッションではないのですが(会場笑)、個人的にですが、知と情を持たない人が強烈な意を持つというのは非常に危険だと思っています。ですから三つのなかであればまずは確実に知か情を優先します。その二つのどちらかということであれば、私は知を優先したいと思っていますが、相手と状況によって情かな(笑)。というところでしょうか、はい。
“意”には、自分という軸がなければいけない
田久保:なるほど。ありがとうございます。ではさらにご質問を募っていきましょう。
会場:澁澤さんのお話を伺っていて、私自身は投資に見合うかなという風に思っております(会場笑)。現在はベンチャー企業を経営をしております。まだ10億前後の会社ですが、私たちベンチャーに投資していただけないでしょうか。以上です。
会場:“知・情・意”のお話について改めて質問をさせてください。私としては、この部分を鍛えるのはかなり大変なのかなと思っています。親の育て方などもかなり影響すると思いますので。で、私の親父はどちらかというと情が強く、私もどちらかというと情に流されることがあります。ですから知や意について、どのように意識すれば鍛えていくことが出来るのか。そういった部分で何かお考えがあればアドバイスをいただきたいと思います。
会場:二つ前のセッションで、日本ではリーダーがいない、あるいは探してもなかなか見つからないといった状況がある一方、外資でご活躍をしている方々のなかにはリーダーが育ってきているというお話を伺いました。日本企業と外資系企業では育成方法がそもそも違うものなのでしょうか。それとも外資でご活躍をしている方々の、会社に関係なくご自身で成長しようとする意志が強いために結果として成長しているのか。そのあたりの違いを含め、両方をご覧になっている澁澤さんは育成に関してどのようなお考えでいらっしゃるのかをぜひお聞かせください。
澁澤:はい。まずはベンチャーに投資するかどうかですが、お話しに来てください(笑)。
会場:はい(会場笑)
澁澤:(笑)。ただ、基本的に上場企業にしか投資していないファンドでして、よろしくお願いします。で、知や意の育て方についてですが、まず知については好奇心が大切だと思っています。好奇心を持っている人って色々なことを貪欲に知ろうとするじゃないですか。そのなかで知が自然と身についていくのではないかと思いますので。そして意のほうは、これは私も一番弱いところですが、やはり感じた通り、自分の心の音を聞くことでしょうか。そうとしか・・・、どうやって鍛えるんでしょう、水野さん(会場笑)。すごく強そうじゃないですか。意はどうやって鍛えるんですか?
水野:その辺は著書を読んでいただけたらと(会場笑)。冗談はさておきまして、個人的には先ほど申しあげました通り“知・情・意”に順番をつけております。で、意はその最後に来るものと思っております。逆に知と情が変わらなければ決定したことを最後までやり通すことが出来るけれども、知と情で変化が起きれば“will”は変わっても良いと、私としてはそう思っております。ですから逆に意はあまり鍛えようという意識がないですね。
田久保:なるほど。私も以前、『志を育てる—リーダーとして自己を成長させ、道を切りひらくために』という本を書かせていただいたのですが、先ほどは外資系のトップ御三方がパネルでご登壇されましたよね。そこで「120%やり尽くしたということを見ていてくれて、そこから物事がはじまった」といったお話がありました。
それ、まさに水野さんが今仰っていたような知と情で本当に一生懸命やり尽くしていたということだと感じます。それで認められて次のポジションになり、そこで次に出来ることの可能性が広がる。するとまたそれが育っていったという、そのようなニュアンスなのかなと、今のお話を伺っていて思いました。ですからとにかく自分の能力を最大限に使い、最大限のトライをしているということが、もしかしたら“will”を育てるというところに繋がっていくと。そんな捉え方でよろしいでしょうか。
水野:私は“will”というのは行動するという“will”であると理解しています。ですから知と情に関して澁澤さんのお言葉を使わせていただきますと、それらを使って自分が決めたことを絶対に行動へ移すというところで“will”を確認または運用していけたら良いと思っています。先ほど外資の社長様御三方が仰ったのは、恐らくその三つの循環のことではないかなと思うんですね。知と情でものを決めて“will”で実行したら、誰かが見てくれている。そうしたら、今度はもう少し大きな次のステージが用意されるという、そういうことではないのかなと思います。はい、これで私の話は打ち切りでお願い致します(会場笑)。
田久保:はい(笑)、ありがとうございました。
澁澤:意というものには、恐らく自分という軸がなければいけないと思うんですね。ある意味で自分に溺れるぐらいのものがないといけない。「違うじゃないか」と言われたときに「いや、お前こそ違うじゃないか」と言えるのは、自分にある程度の軸がなければ出来ないことだと思いますから。
で、それは先ほどご質問にもありました「外資と日系におけるリーダーの違い」という部分にも少し関係しているのかなと思っています。やはり外資系に入る方々というのは・・・、私もいたのですが、“勘違いの人”たちが集まるんですね。自分の能力とか才能に自惚れている人たちが来るわけです。その自惚れでどんどんやる人たちが、実はトップにいくという(笑)。ですからある意味で自分という軸を持っていないと、外資ではトップにいけないと思っています。
もうひとつ、コミュニケーションが出来ないと外資では絶対に無理です。ただただ良いことをやっていて、それで「評価してください」では駄目なんです。「私はこんなに良い仕事をしているんだ」ということを伝え回らないと、外資ではなかなかトップにはなれません。
日本企業でそれをやり過ぎてしまうと「出しゃばりやがって」と叩かれる傾向があるのかもしれませんが、それは日本でも会社によって相当違うのではないかと感じます。銀行ですと・・・、会場に銀行の方がいらしたら申し訳ないのですが、銀行にはそんな傾向が比較的あるのかなと思います。一方で商社のようなところですと、ある部分では尖った人でないと逆に難しいとも思いますし。
田久保:ありがとうございます。では続けてご質問を募っていきましょう。
小さな勘違いの繰り返しが枠を壊す
会場:二つほどお伺いしたい点がございます。まず、融資と投資の違いについてどのように考えておられるのかを教えてください。また、コーポレート・ガバナンスについてもお考えをお聞かせいただけないでしょうか。コモンズ投信のホームページなども拝見したのですが、その定義ついては「企業の持続的価値を創造する思考基盤」という風に書かれていたと思います。しかし自分のなかでは、この企業統治と思考基盤がいまひとつリンクしていないように感じておりました。この違いは何になるのか、そしてその思考基盤をどのようにつくっていくのか。この点についてもお聞かせいただけないでしょうか。
会場:枠のお話について改めてお聞きしたい点がございます。「枠に囚われない」ですとか「枠の外から見る」といったお話が今日はございました。「本当にそうだな」と思いましたし、新しい環境に身を置くとそれに気付くことも当然多いと思います。そこで、それらの気付き方以外にも、もしたとえば「こういうマインドでいるとフラットにものを見ることが出来る」といったものとして澁澤さんが意識していらっしゃる点があれば、ぜひお伺いしたいと思っております。
会場:言葉の財産のなかから何かひとつ分けていただけないでしょうか。「集めなければお金の一滴一滴が無駄になる」といったお話を伺って、「一緒に仕事をして頑張っているメンバーの意志や意欲あるいは情熱も、集めることが出来なければ時間とともに無駄になっていく」と感じました。そうしないために行動で見せることも大事だと思いますが、私自身はどうしても言葉による表現量が足りないと自覚していた部分がございます。そこで何かの比喩表現なり、意志を集めるための言葉がございましたらぜひ頂戴したいのですが。
会場:先ほど、企業のあり方としてサステナビリティというものが非常に重要であるというお話がありました。ただ、その一方で企業というものは成長性も求められると思いますし、投資家の方々による視点も絶対にそこを向いてくると考えています。ではそのような状況で持続性と成長性をどこまで両立出来るものなのかという点について、お考えをお伺い出来ればと思っております。
澁澤:はい。まず融資と投資の違いについて。デットとエクイティの違いですが、エクイティは失敗を許します。何故かというと10件中9件失敗しても、本会場にもいらっしゃるようなベンチャー一社が一気に30倍となればポートフォリオとしては成功ですから。融資の場合は10件あって10%の金利があったとしても、一件がとんでしまったらポートフォリオとしてはお終いなんです。ですから融資は絶対に失敗させない。融資と投資にはその違いがあると思っています。
で、コーポレート・ガバナンスについてですが、まずこの言葉を企業統治と直訳するのは私としては少し違うのではないかと思っています。統治というのは柵をつくりルールで縛りつけることだと思うんですね。しかし企業本来の役目とは、やはり将来にわたって持続的に企業価値を造り続けることではないかと私は考えています。株主の意見も当然必要です。ただ、持続的な企業価値の創造が目的であり、そのために顧客、要するにステークホルダーとの対話感が必要になるんです。
ですから私は、企業が一方的にものを申されるだけでその価値が高まるとはまったく思っていません。だって疲れるじゃないですか。先ほどもお話ししましたけれども、こちらだって疲れます。しかし対話があることによって、初めてなんらかの価値を造ることが出来る感じがします。ですから私はコーポレート・ガバナンスというものは、一方的にものを申すルールではなく対話感であると思っています。それも多様な対話感。区分けするためのルールや柵ではなく、多様な価値観を持った人々が立つことの出来る土台というものが必要なのだと思っています。
あとは枠についての考え方ですね。私は、枠というものは小さい勘違いを繰り返すことで広がっていくのではないかなと思っています。何故かというと、たとえば昔の私が30年後、日本で、グロービスのような大学院で、そして日本語でこんな話をするなんて夢にも思っていませんでした。しかしまず小さい勘違いをして、「もしかしたらこれ、出来るかもしれないな」と思っていると、案外出来てしまうようになる。すると今度はそれが実績になります。その結果として枠が少しだけ大きくなるんですね。で、「今度はこれが出来るかもしれないな」と新たに考えて、またそれが実績となり、枠もまた少し大きくなるわけです。そうしているうちに、振り返ってみると自分の枠が広がっていたという話ではないかなと思います。大きな勘違いを起こすと失敗してしまいますが(笑)、小さな勘違いを繰り返していくことが、枠が案外広がっているということに繋がるのではないかなと思います。
それと、仲間の意志や意欲を寄せ集める言葉ですか。私も知りたいです(笑)。「君が大切なんだ」って言ってみたところで集まるわけではないですし。なんでしょうか・・・。ただ、言葉があるとすれば、恐らくそれはなんというか、「お前の気持ちも分かったけれど、俺の気持ちもこうなんだ」といったような、そんな対話のようなものではないかなという風に感じます。
田久保:これはもう、自分自身で見つけた自分自身の言葉ではないと響かないものではないでしょうかね。
会場:「悩みながら自分自身で」ということですね。
田久保:そうです。悩みながら。
澁澤:あと、持続性と成長性のお話についてですが、私は同じように使っています。現状維持というのは成長性がないと私は思っているんですね。持続するためには成長がなければいけないんです。たとえば堀(義人、グロービス経営大学院学長)さんがやっているG1サミットに登壇された華道家の池坊由紀さんは46代目の次期家元です。46代目ですよ。どのようにして46代も持続出来ていたのかということを、私は帰りのバスのなかで池坊さんに色々と伺ったんです。
すると、やはり環境が変わったときにご自身たちも変えていらっしゃるんですね。たとえば海外進出をするじゃないですか。すると日本の花が海外にあるわけでもないし、海外ではフルーツも使っているそうなんです。しかしそんな風にして環境が変わったとき、環境に合わせる部分があるからこそ持続性を持ち得たと仰るんですね。逆に言えば環境に合わせて変わることが出来ないのであれば、会社であろうと生物であろうとなんであろうと、この世から消えてしまいます。ですから私は持続性のためにも成長性が不可欠になると考えています。
ではその成長性の定義という話になると、これはまた深い議論になるかと思います。それはある意味で、21世紀に日本が世界へ示すべきことでもあると思いますし。「成熟した社会の成長というのはこういうものなんです」とね。それが何になるのかというと、まだ私自身も答えを持ってはおりませんが、ひとつ言えることはただのGDPではないということだと思います。
田久保:ありがとうございました。今日は本当にさまざまなことを教えていただきました。我々、これからの時代に何をしていくべきか。あと8年ほどは、もしかしたら壊れた時代が続いてしまうかもしれません。しかし8年が経ったあとは、もしかしたら我々が世の中で最も活躍出来る時代になっている可能性もかなりあるのではないかと私も思います。そんなことも意識しながら、ぜひこの国の未来を皆さんと一緒につくっていきたいなという風に、改めて感じたセッションでありました。澁澤さん、本日は誠にありがとうございました(会場拍手)。