判断をするには、関係性の幅と深さを読まなくてはならない
堀:野中先生、ありがとうございました。ここからは私との対談ですが、質問をいくつかしたあと、会場の皆さまにご質問いただこうと思っています。まず、野中先生のキャリアについてお伺いしたいと思っております。もともとは富士電機に入社されて、そこからアカデミックな世界へ進まれたのですよね。この辺りの経緯などをお伺いしてもよろしいですか?
野中:自分のキャリアに関する話はあまり人前でしたことはなかったのですが、僕自身は早稲田の政経学部出身です。親父は政治家にしたかったらしいのですが、私の顔を見て「やっぱりやめたほうがいい」と考えたようで(会場笑)。それで企業に行き、富士電機という会社に9年在籍していました。そこであらゆる経験をしたんですね。工場、人事、労務、組合…、学校をつくって経営者教育もしましたし、そのあとはマーケティングも。最後はカネ関係をやっていないということで、企画部で関係会社を見るようになりました。ですからあらゆるオペレーションを9年間で経験させてもらったというのが、私としては非常に良かったと思っています。
ですから基本的には現場人間として、本を読んでいても現実のイメージが直感的にすぐ湧くんです。これは先ほどお話ししたような「文脈を読む」ことにつながってきます。ある事象の背後にある関係性を読むには、どうしても教養を数多く身につけると同時に経験が必要になりますから。それが同じものを見ても背後にあるものの見方を変えていくわけです。判断をするには関係性の幅と深さを瞬時に読めることがとても重要だと思います。そこで修羅場、‘Extreme Experience’が大切になる。私は9年かかりましたが、それをもっと人為的なコンセントリック・ラーニングにするというのもあり得るなと感じています。
もうひとつ。小学生4年生のときに終戦を経験しました。私自身は疎開先で空襲に遭ったのです。グラマンのFGFという戦闘機がありまして、これに機銃掃射を受けた。生き延びることはできたのですが、たまたまパイロットが低空飛行してきたときにそのパイロットが笑っているように僕には見えた。「こいつら今に見ていろよ」「必ずリベンジしてやる」という怨念がありまして(会場笑)。今でもあるんですよ。それが米国留学などともどこかでつながっているんですよね。
堀:それでアカデミックな世界に入られたんですか?
野中:そういうことです。「今に見ていろ」と。ただ、そこで面白かったのは留学した先がハーバードでなくてバークレーだったという点ですね。当時のビジネススクールでは最も理論的な学校だったんです。事例研究なんてやらなかった。「事例なんていくらやったって理論にならない」というプラトン的発想が強かったためです。僕自身も現場で9年やっていたから「また同じ事例研究をいくらやったって大したことはないだろう」と思っていました。それでバークレーでは、理論を徹底的に純化し、モデルにするという訓練を受けました。幸か不幸か、いろいろなところに願書をばらまいているうち、最初に入学許可をくれたのがバークレーだったというだけの話なんですが(会場笑)。ですから分析的に、あるいは経営学的にやった覚えは今までひとつもないですね。
堀:最初からPh.D.(博士号)取得を考えていらしたんですか?
野中:マスター(修士号)で帰ろうと思ったのですが、バークレーとはカリフォルニアのいいところでしてね、ヒッピー・ムーブメントの頃でしたし「もう少し残ろうかな」「会社に帰って仕事をしたくないなあ」という思いがあって(会場笑)。面白いことに会社は留学を最後までバックアップしてくれました。「お前が帰ってくるんだったら留学期間中はすべて出張扱いにする」と言われまして。
堀:結局帰らなかったわけですね(笑)。わかりました。ではもうひとつだけキャリアに関してお伺いしたいのが、先ほどの最も影響力あるビジネス思想家トップ20について、野中先生は日本人で唯一トップ20に入られました。ご自身を分析するのは難しいと思いますが、ほかの‘Business Thinker’とはどういった部分が違ってそのような評価につながったとお考えですか? 「こういった点が出来たから」ですとか、ご自身なりの分析をお願いできますか。
野中:ひとつは9年の社会人経験だと思いますね。会社員時代、あらゆるオペレーションを一応すべて経験出来たというのは恵まれていたと思います。ちなみに最初に工場では事故担当でした。何か事故が起きると僕が行く。山の遭難、鉄道自殺の検死、それから自殺…。自殺未遂で岡山に行った人間を迎えに行ったりもしました。先ほどハイデガーのお話を少ししましたが、人間の死についてさまざまな角度から見たということはひとつの影響になっていると思います。それからもうひとつ。ビジネススクールのドクターコースについてですが、バークレーでは専門を2つ持たなければならず、私の場合は、ひとつはマネジメントでもうひとつは社会科学でした。社会科学では社会学、心理学、社会心理学、オペレーションズリサーチ、それから経済学のうちひとつを専門としなくてはならず、私は社会学にしました。数学が出来なかったので経済学は選びませんでした。ところが社会学は現実事象の背後にある本質を突き詰めて概念をつくるという理論構築で大変厳しいところだったんです。そこで理論構築の方法、概念や理論の作り方を徹底的に叩き込まれました。今思うと、これがその後も生きていたのだと思います。
具体的にはどういう教育かというと、優れた理論をケーススタディするんです。たとえば「マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」など社会学の傑作中の傑作を10点、徹底的に読んで議論し、教官がそれに解説をつけるなどです。最後のペーパーでは自分の理論構築を提案しなければいけなかった。それは『組織と市場』という、たまたま日経賞を貰った本に日本語訳されました。これがデビュー作だったのですが、そういうことを1年間叩き込まれていたんですね。
堀:よくわかりました。ちなみに『失敗の本質』は私も大好きな本のひとつですが、一方では今日お話しになっていたようなSECIモデルや6つの能力、さらには社会学的な分析で自分の暗黙知を表出しながらそれを概念化するプロセスについてまとめた著作もありますよね。こういったお話は、野中先生ご自身の経験を踏まえて書かれたものと考えてもよいかもしれないですね。
野中:そう思いますね。先ほども「現場のただなかで考え抜く」というお話をしましたが、私が一番足を運ぶのは現場なんです。他の研究者と抽象的な議論をしてもあまりピンと来ないし、学者と話をしても面白くない(会場笑)。現場でビジネスマンと直接対話をしながら背後にある関係性や概念をいつも探っています。先ほどソムリエの事例もご紹介しましたが、「これを言葉にしたらどうなるか」「関係づけてモデルにしたらどうか」と。そんなことを絶えず動きながら考え抜いています。だから大変なんですよね(笑)。
堀:実は野中先生の思考プロセスそのものがSECIモデルなんですね。そしてその一方で理想的なリーダーシップのあり方を具現化されたものがフロネシスの考え方であると。そんなふうに捉えると非常に分かりやすいですね。
経験があって初めて事例研究が生きてくる
堀:ではもうひとつ質問させてください。今回、実践知のリーダーは訓練を通じてしか育たないというお話もありましたが、野中先生が育ったのは教育の場でもあったわけですよね。ということは、教育の場でも同じような徒弟制度を当てはめることでリーダー育成が出来るのではないかなという仮説も持ちました。徒弟的な教育メカニズムを導入することによってリーダーを育成することは可能なのでしょうか。
野中:たとえばハーバードのMBAであれば恐らく300ぐらいのケースをやりますかね。やはりそれぐらいやると、かなりの疑似体験になってきます。そこは事例研究のよさだと思います。2~3のケースをやっただけでは逆に分析で終わってしまう。米国では最近問題になっていることがありまして、それはPh.D.取りたてで経験のない教師が事例研究をリードすると、モデルにしてしまうということです。本来であれば事例研究は経験があり、かつ理論的な分析力のあるインストラクターが「この文脈であれば私はもっとこの点に突っ込む」といったことを言わなければいけない。経験があれば事例そのものをもっと豊かにできるのですが、ただ抽象化して普遍化してしまうと事例の意味がなくなってしまう。そういう意味で「インストラクター自身に現場体験がないといけないのではないか」といった反省が今は起こっています。事例というものはインストラクター次第で疑似体験に近づくこともあれば、単なる分析で終わってしまうこともあるのだと思います。
堀:なるほど。グロービスの講師は全員が実践経験を持っていますが、徒弟制度的に具現化してインストラクターの背中を見せながら学ばせるということが出来れば、もしかしたら座学でもリーダー育成が可能かもしれないということですね。
野中:それと同時に…、私たちもそうなのですが、やはり「こうなりたいな」という人、手本が必要です。私が会社にいたときも何人かいました。そういう人と一緒に仕事をしたということが非常に重要だと思います。大切なのは皆さま自身がそういった‘Exemplar’から学ぶと同時に、皆さん自身も‘Exemplar’になり、ディストリビュートしていくこと。そういった考え方が今後はますます重要になるのではないでしょうか。
インターネットでも限りなく身体性に近づき、“共振”できる
堀:今日は身体と身体とのぶつかり合いというお話がありました。しかし現在はインターネットというものがあって、ネットを介して無数の人々と出会っていく側面も出てきています。仮想世界における出会いの場では暗黙知の共感といったものは難しいのでしょうか。現在の技術であれば映像や音声でも通じていくことは可能ですが、そうはいってもやはり限界があるのかなと。この点についてはどのようにお考えですか?
野中:場をつくる目的は皆の主観をつくることだと申しましたが、では皆の主観をつくるときに根底にあるのは何か。これは身体的に触れ合わなければいけないということです。ヨーロッパの哲学者が言っていたことですが、たとえば右手で左手を握ると、最初は「右手が左手に触れている」と感じます。ところがしばらくすると「左手が右手に触れている」と感じるようになる。これは身体の共感が相互に移転するという意味です。これは他者との関係でも同様で、間身体性(Intercorporeality)の概念と呼ばれています。先ほどご紹介したホンダのワイガヤは、実は同じ場で大いに飲み、温泉に入り、身体的に共感しあるいは共鳴しているというポイントがあるんですね。これはホンダの知恵だと思います。理論的に言えばやはり間身体性と言いますか、身体がどこかで共振・共感・共鳴するという必要がある。
最近「ミラーニューロン」という神経細胞が発見されたのですが、これはとにかく一切の言語や分析が排除された状態でも、相手が動いたらまったく同じ反応を示すものです。ですから身体で共振・共感・共鳴すると自分の行動を通じて相手の意図が読める。これは非常に画期的な発見で、今日の話で言えば「共同化」の部分にあたります。共同化というのは言語や相手の対象化によってなされる分析ではなく、とにかく身体が共振・共感・共鳴することで相手の意図が分かることで、そこから気づきが生まれるのです。ですから、ボディとマインドを分けることはできません。これがフランシスコ・ヴァレラというフランスを拠点に活躍した生物学者が最初に提唱した「身体化された心(Embodied Mind)」ですね。我々日本人が持っているDNAのようなものを深く洞察して概念化したのは、残念ながらヨーロピアンだったということにもなりますが。
堀:ということは、やはり触ったほうがよいということですね。
野中:そうです。触ったほうがいい。ただし「目で触れる」というのもありますよね。これは全人的に相手と向きあうときにも生まれる状態です。スティーブ・ジョブズが相手を必ずファーストネームで呼び、相手の目を見て話しかけるというのも、実は目で触れているのです。フィジカルにやり過ぎると最近はセクハラになりますが(会場笑)。いずれにせよ触れるというのは、まっとうに、そして全人的に向き合うという意味を含んでいるのです。
堀:ということはやはりインターネット上では新たな知の創出は難しいということになるのでしょうか。
野中:インターネットではたしかに身体性を得られませんが、身体性に限りなく近づくことは可能です。身体性の本質は、その要件のひとつに即興性があることです。向こうが動いたらパッと動くという即興性。そういう意味で、たとえばTwitterは身体性に近い。今ここでつぶやいているわけですから。累積的に考える前に思いついた瞬間に語れば、共振・共感・共鳴のリスポンスは限りなく速くなりますよね。ですから身体性に近づくということ自体は可能なんです。ただし、それを完全に代替することは出来ないということです。
現実直視できていない点で、かつての日本軍と民主党は似ている
堀:こういったご時世ですので「リアリズムなき政治家が国を壊す」と仰っていた部分についてもお話を伺えればと思います。雑誌『Voice』に野中先生は「浜岡原発を止めたことに哲学が見えない」と書かれておりました。私もまったく同感でして、これについてお聞かせいただけないでしょうか。滅多に人物批判をされない野中先生がここまで書こうと思われた問題の本質とはなんだったのでしょうか。
野中:記事の表題には「リアリズム」という言葉がありましたよね。リアリズムというのは現実直視。今日お話しした6つの条件のなかで3つ目にお話ししたものです。ありのままの現実を直感・直観する能力。直感の感は感情の感ですし、そもそも直観とは「見る」ことです。両方を含めて現実直観。これはSECIモデルでも非常に重要なポイントです。実は以前書いた『失敗の本質』という本がなぜか今売れているんですよ。例年なら8月15日近辺に売れるのですが(笑)。私としては、どうも日本軍の本質と菅政権の本質に人々が類似性を読み取っているのではないかと思っています。
それで雑誌『Voice』の編集者が来まして、「『失敗の本質』の著者のひとりとして何か言って欲しい」と。結局、日本で一番大きな問題は、現実を直視する能力の乏しさでではないかと私は思っています。絶えず過去の成功体験の枠組みを見てしまい、それが真理であると考えてしまう。ですから日本軍でも、大艦巨砲とか銃剣突撃、なんて言っていた。日露戦争での成功が聖典化してしまっていたためです。それが大前提となり、真理となった。真理になるほど、絶えず変化する現実を見えなくしていったのです。そういう意味で、民主党のイデオロギーもどこかに共通項を抱えているように感じます。ある種のマルキシズムと言いますか…、そういうものが正義としてあるわけです。そして日本軍と同様、現実を素直に直視する能力を落としてしまっているのではないかと。
外に向かって開いていく場合は絶えず新しい知が入ってきます。世界のなかの日本という関係性で捉えるのと、日本のなかの日本でという関係性で捉えるのとでは、全くものの見方が違ってきます。過去の日本人は第一次大戦の経験がほとんどないまま、つまり近代戦の経験がないままに、第二次大戦に過去の成功体験を持って突入してしまった。これは世界に向かって閉じており、内向きになっていたということです。組織や場が内向きになればなるほど閉鎖的になり、内部葛藤や政治闘争が起こります。つまりサイロ化していった。そして世界に向けてより大きな関係性で自分のありようを考える能力まで失い、組織を退化させてしまったのがかつての日本で、それと同じようなことが民主党でも起きている。今の政権は世界に人脈を持っていないですし、世界に向かって開かれていない。すべて内向きです。だから権力闘争になるし、現実を直視出来ない。現実を直視すると自分を否定しなければいけませんが、そうした自己否定の勇気がないのです。子ども手当てを含めたマニュフェストの本質的な見直しといった自己否定も未だ出来ていません。そうした閉ざされたコミュニティに欠如しているのは、やはりリアリズムであると言わざるを得ないと思います。世界に向かって開かれた日本でなければいけないのですが。
堀:ありがとうございました。ではご質問を募りたいと思います。
「共通善」に向かって仕事をするために一番必要な場とは
会場:共通善に向かっていくなかで、「文脈(context)」に照らし合わせてジャッジメントしていくというお話に大変感動しました。私は共通善に向かっていくための背景としてリベラルアーツの素養がとても大切であるという印象を受けております。今日は哲学の総合的な話も出ておりましたが、我々日本人が持つ東洋的思想のなかで「基本的にこれは押さえておいたほうがよい」といったものがあれば、ご教授いただきたいと思います。また、リーダーにはレトリックの能力が不可欠とのことでしたが、日本人はレトリックの教育を小さな頃からほとんど受けておりません。この弱みに対して、日常的にはどのような点を意識していけばよいのか、お聞かせいただけないでしょうか。
野中:哲学についてですが、大学の教養課程に哲学がありましたよね。学生時代の皆さんはほとんど関心を持たれなかったと思います。しかし教養というのは大切です。人生に悩み悩んで「我々はなんのために存在するのか」「真・善・美とは一体なんであるのか」、それこそ悩み悩んで教養を身に付けていく必要がある。ビジネスパーソンとして経験のある皆さんにとって、今むしろ学ぶべきものが教養だと思います。教養となる哲学のなかで東洋的なものとなると、よく知られているもので西田哲学がありますね。
また、私自身は古今東西の哲学者8人の著作をすべて読み、それぞれの哲学者が何を言っているのかを考えさせるというエクササイズをしています。プラトン、アリストテレス、西田幾多郎、毛沢東など…。毛沢東を哲学者と呼ぶかどうかは別問題ですが、とにかく東と西の哲学者8人の著作を皆に読ませるというグループスタディです。一人ひとりで読んで書いてきてもらい、さらにそれをチームで「プラトンはこういうことを言っているんじゃないか」と話し合う。これはかなり好評でした。いずれにせよ哲学は存在論と認識論という面がありますから、「なんのために存在するのか」「真・善・美とは何か」ということは学んでおく必要があると強く感じます。
それともうひとつ。私は三井物産の社外取締役をやっておりますが、三井物産では「良い仕事」をすることをひとつのモットーにしています。非常に重要な商談を含めた何らかのプロジェクトについてチームで判断をするとき、皆で「誰にとって‘Good’なのか」を考えるのです。自分にとっての‘Good’なのか、チームにとっての‘Good’なのか。さらには、部門、会社、社会にとってどうなのか。そういった議論をするといろいろな解が出てきて、そのなかで「やはり今回はこのコンテクストでやってみよう」といった話になっていきます。それで間違っていたらそのときに直せばいのです。 “良い仕事”というのはなかなか英語にできませんよね‘Good Job’なんて訳すと少し浅い感じがします。ですから、「グローバルに展開していく良い仕事」としていますが、その代わりに、「何が‘Good’か」「徳とはなんだ」という議論をいつもしています。こうした議論の場を与えると皆も本を読まざるを得なくなります。
つまり、仕事のなかで何が本質かを考え抜くような場をつくることです。皆が自主的に読書会をやるなどでもよいと思います。哲学といっても別に哲学者を呼んでこなければわからないわけではありません。とにかく自分の問題意識で本を読みながら皆でワイワイガヤガヤやることによって、見えてくる部分が非常に多いと思っています。だからこの議論を仕事のなかに組み込んでしまうのです。「ときには青臭い議論をやろうよ」と。
それからレトリックですが、学ぶべきもののひとつはメタファーです。特に暗黙知を形式知にするとき、我々は新しい言葉をつくらないといけない。もちろん新しい言葉はそう簡単に生まれませんが、ここでは零戦の例を紹介させてください。坂井三郎さんという、僕も一度お会いしたことのある零戦元パイロットの方に伺った話ですが、零戦の飛術には「左捻り込み」というものがあったんです。それで敵機の後尾につくという技術ですね。そこで加藤寛一郎先生という東大の先生がその飛術をマニュアルにすれば今日の空中戦にも活用出来るということで、この技術をどうやって形式知化するかという話になった。しかし坂井さんはそこで上手く言えなかった。暗黙知ですから。とにかく身振り手振りで話してみたり、二人が一緒に席に座って「操縦桿はここでこうします」なんて言ってみたり…、いろいろとやったのですがそれでも伝わらなかった。ところがあるとき坂井さんがぼそっと「その瞬間、左足で“味噌をする”ように踏み込むんだ」と言ったんです。この“味噌をする”というのがメタファーです。そこで加藤先生も「ああ、あの感触ですね」となった。そして分析を行なってスペック化し、最終的には形式知化に成功したというのです。
そんなふうに、例えが豊富であることが非常に重要です。なぜ重要か。こうした暗黙知は味噌をすったことのない人にはわからないからです。他者と暗黙知を共有するときにはお互い経験を共有している別の物事を媒介にして言葉をつくります。これがメタファーです。メタファーを可能にするには、日ごろから文学に親しむといったことが鍵になるのではないかと思います。詩も同様で、「何々のように」というメタファーの塊ですから。そのようにして自身の“在庫”を増やしていくことが非常に重要になると思います。
関係性を読む能力は、女性が長けているのではないか
会場:私はリーダー育成のためには、ダイバーシティを尊重出来るか否かが非常に重要だと考えております。本日の『The Wall Street Journal』に掲載されていた記事には「日本の政界は女性比率が低い。この場合、必要な議席数を設けて強制的にでも男女比率を…同数まではいかなくともそれに近いぐらいにしなければいけないのか」といった論調もありました。こういった多様性の尊重に関して野中先生の見解を伺いたいと思っております。
野中:私は以前、エーザイという会社の社外取締役で諮問委員会の委員長を務めていたことがあります。で、当時は女性の取締役がおらず、株主総会でその点について理由を訊かれたことがありました。エーザイのビジョンはヒューマンヘルスケアだったのですが、そもそもヒューマンヘルスケアというビジョンは、実はナイチンゲールが最初に言ったものです。「そんな会社の株主総会で壇上の人間が全員男性というのはいかがなものか」というご意見だったのです。当時から我々は絶えずダイバーシティを試みていたのですが、残念ながら現実には母集団として女性が非常に少なかった。しかし現在は優れた女性の方々も引く手あまたと言いますか…、そういう意味で、これからいかにして女性の母集団を増やしていくかが重要になると思います。そしてその努力はトップが率先してやらなければシンボリックにならないと思います。
あとは、特にミドルマネージャーですね。先ほどは時間の都合もあって省略したのですが、今回資料として用意したミドルマネージャーによるイノベーション事例のうち、2つは女性がマネージャーでした。ひとつはキリンビールの「FREE」開発、プロジェクトのマネージャーは27歳の女性です。もうひとつはJR東日本構内の商業施設である「エキュート」をつくった蒲田さんという女性。この二人は非常に優れたプロジェクトリーダーでした。実は「暗黙知の共感」という点については、女性のほうが豊かな能力を持っているのではないかと思っています。プロジェクトのリーダーやプロデューサー型の人材には、コンテクストを読む力や現実の直感力が重要となり、特に関係性を読む力が不可欠なため、女性に向いている面が多いのではないかという気がします。我々が育成していかなければいけないのは、そうしたいわゆるミドルマネージャーの人材だと思います。女性を登用していく傾向は、現在、ソフトウェア開発を含めたソリューション業界やファッション業界すでに台頭してきており、そこが突破口になるかなと考えています。そうしたプロジェクトチームはグローバルに編成していきますから、ダイバーシティという点で捉えても非常に面白いですよね。
コミュニケーションはコストではなく創造の源泉をつくる投資である
会場:私は現在、社内コミュニティを活性化させる仕事をしていることもあり、本日の「イノベーションを阻害しているのは知識の不在ではなくて関係性の不在」といったお話には大変共感致しました。実際、経営者と話をしていると我が社はたしかにコミュニケーションが不足しており、もっと意見をぶつけ合わなければいけないという意識はあります。ただ一方で、「コミュニケーションというのは生産活動ではなくコストなのではないか」と感じることもあります。ありていに言ってしまえば「余計なことをしゃべっていないで仕事をしろ」といった考え方も、経営者の心理としてあるのが事実ではないかと思います。その葛藤に対してどのように向きあっていけばよいでしょうか。
野中:「企業とは知識創造体である」と概念化した場合、社内のコミュニケーションは知的財産、あるいは物的資産を含めて、ソーシャル・キャピタル、「社会関係資本」と考えます。ですから場づくりを含めた企業におけるソーシャル・キャピタルの蓄積は極めて重要なイノベーションの源泉になりうると考えています。そうなるとコストというよりも投資ですよね。今回の大震災で世界が絶賛したのは、やはり日本社会が持つソーシャル・キャピタルの深い蓄積であったと思います。「連帯」こそソーシャル・キャピタルだと思いますし、ソーシャル・キャピタルこそが場の根本です。これが構築出来ない限り相互主観にも至らず、さまざまな分析を踏まえた暗黙知と形式知のスパイラルも起こらないと考えられます。だからこそソーシャル・キャピタルが場づくりの根幹になければいけないと思います。
今日お話ししたリーダーシップにおける6つの要件では、場をタイムリーにつくる能力を2番目に入れてありますが、言ってみればこれこそがイノベーションの源泉です。そうなるとソーシャル・キャピタルの触発や創造はまさに投資です。ですからコストと考えるのではなく、創造の源泉となる基盤づくり、あるいはプラットフォームづくりと考えていただければと思います。。
無限のエクセレンスを追求していくプロセスそのものが‘Good’
会場:「共通善に向かって絶えず無限にアクションを起こすことが重要である」というお話があったと思いますが、野中先生ご自身の‘Good’はどのようなもので、またなぜそのように思われるか教えていただければ幸いです。
野中:アリストテレス的に言えば、それ自体を追求する絶対価値のようなものが世界にはあり、それは幸福や自己実現になります。たしかにその通りですが、そこに日本的な伝統を織り交ぜてみると私の解釈は少し変わります。新渡戸稲造の『武士道』を読むと、武士道というのは形而上学的で哲学をまったく教えていなかったことがわかります。しかし「世のため人のため」というある種の‘Common Sense’というか、自己犠牲のようなディシプリンは徹底的に教えていた。私としては我々が‘Common Good’のためと言うときに思いつく「世のため人のため」という言葉が、もっと‘Common Sense’的なものではないかと思います。今、何がこの我々のコミュニティにとってよいのか、そのコミュニティの背後をどこまで絞るか…。これは先ほどお話ししました三井物産の例のように人さまざまです。しかしそこで対話を重ねていくうちに「まあこの辺だよな」といったある種の曖昧さを抱えながら、かつそれを実践をしながら絶えず追求をしていくことで、もうひとつの‘Common Good’が出てくるのだと思います。
それは“徳”ということになるのですが、では‘Virtuous’ってなんだろうかと。「徳とはなんぞや」ということです。これに対してはヨーロッパでも日本でも共通だと思いますが、職人道と言いますか、何かの卓越性に向かって無限に努力する、そのプロセス自体が‘Good’なのだと私は考えます。‘Artisanship’、‘Virtuoso’、あるいは‘Professionalism’という呼び方でもよいでしょう。日本の伝統のなかには“型”というものがありますよね。いわゆる「守・破・離」。無限に自己を磨きあげていくというこの考え方そのものが‘Good’ではないかと感じています。守破離で絶えず無限のエクセレンスを追求していくプロセス自体が‘Good’であり‘Virtuous’である、という考え方はアリストテレスの哲学にもあります。日本では武士道なのですが、私自身はそういうところに近いのではないかと思っています。
問題はそのエクセレンスが何であるかということですが、やはりコミュニティの持っている伝統というものだと思います。こういうことが我が社にとって‘Good’なんだ、あるいは卓越性なんだということです。ホンダであれば「現場・現物・現実」というのはある種エクセレンスの基準だと思います。現場に行って何をしたのか。傍観者的に見ていたのか、それとも一緒に汗をかいて相手の視点に立ち世界を見ていたのか。そんな「現場・現物・現実」というエクセレンス。トヨタなら‘Repeat Why Five Times’とかね。「本質、本質、本質…」と5回は繰り返しましょうと。これがエクセレンスの基準です。ユニクロなら「今やる、すぐやる、ぜんぶやる」。こういったエクセレンスの基準には、やはりコミュニティの伝統が深く関わっていると思います。
ただし、伝統というのは固定されてしまいますから、それに挑戦して絶えず超えていくために伝統自身が進化していく必要があります。閉じた瞬間におかしくなってしまいますから、開かれた伝統がコミュニティでは大切になるのではないかと思っています。いずれにせよ、そんなふうに私自身はエクセレンスの無限追求自体が‘Virtuous’であるという考え方に近いと思っています。
堀:野中先生、大変長いことありがとうございました。皆さんも盛大な拍手をお願い致します(会場拍手)。