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「キャリア」 MBAの先に見えるもの 〜ジャンプアップのチャンスを掴め〜

投稿日:2007/09/10更新日:2019/04/09

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「環境変化の激しい昨今では、従来のキャリアデザインに対し、キャリアドリフトという考え方が主流になりつつある」――。あすか会議2007「キャリア」セッションでは、流れに上手く乗り、経営のプロへの道を高速に駆け上がった2人の経営者が、その過程を振り返った。

人材市場では大きなパラダイムシフトが起きている

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グロービスの岡島悦子です。先ごろまでグロービス・マネジメント・バンクの代表を務めていましたが、7月から心機一転、講師・フェローという立場となり、社内外に活動の幅を広げています。ヘッドハンターとして年間1000人を超えるビジネスパーソンと会い、また、キャリアセミナーなどを企画してきた経験も活かしながら、本日は、“早回し”で経営のプロとなる要諦を探っていこうと思います。

まず、このセッション開催の背景説明から、始めさせていただきます。

一般に、ある程度の規模の企業の経営者を目指そうと思うと、最低20年は経験を積まなければならないと考えられていると思います。しかし今、人材市場では大きなパラダイムシフトが起きています。経営知識と実務経験を効果的、効率的に積むことで、これを倍速で実現する若いプロ経営者が続々と登場しているのです。

経営のプロを目指す方にとって、MBA取得はゴールではなく、あくまでスタートです。MBAを通じて得た知識に、重ね合わせる実務経験が肝となります。転職だけが解とは言いませんが、望むキャリアに対して適切な経験を積むためには環境を選ぶことも大切です。

このセッションでは、キャリアの早回しを実現する、成長機会獲得の方法や活かし方を、ロールモデルとなる2人のパネリストから伺っていこうと思います。まずは、自己紹介から、お願いします。

笹井:オムロンのグループ会社、オムロンコーリンの社長をしています。当社の前身は、1975年に創業した医療機器会社、日本コーリンです。スポーツジムなどに、腕を筒に入れて血圧を測る機械が置いてあると思いますが、あれを日本で初めて作った会社です。成長著しく、店頭登録まで果たしたのですが、その後、経営不振に陥り、2003年に完全破綻。当時、私は外資IT企業に所属していたのですが、売却先のファンドから声がかかり、2004年から経営企画担当役員として事業再生に関わることになりました(ファンドに売却後の社名はコーリンメディカルテクノロジー、以下コーリンと記述)。

その後、幸いにして1年半で経営状態を立て直すことができ、2005年6月にオムロンヘルスケアにエグジット。同年9月に、37歳で(売却先子会社としてのオムロンコーリンの)社長に就任しました。

コーリンは製販一体の医療機器会社でしたが、オムロングループにエグジット後、グループ内で事業再編が進み、現在はオムロンヘルスケアが医療機器の開発を担い、当社(オムロンコーリン)が販売とマーケティングというすみ分けになっています。売上高は90億円。私は現在、39歳です。

須原:Gabaというマンツーマンの英会話スクールで、3年前からCOOをしています。現在41歳です。

Gabaは1995年に設立された会社で、2004年7月に創業オーナーが100%エグジットしました。当時、全国20カ所に教室を展開し、売上高は50億円、社員200人という規模。創業者のカリスマで、そこまでの規模には達したものの、次の展開を考えあぐねている状態でした。IPO(株式公開)など諸々の展開を検討の結果、創業者の意思などから、最終的にはMBO(経営陣買収)により事業継承をしました。その後、現在の経営陣で新しい成長の軸を構想し、2006年に東京証券取引所マザーズ市場に上場。現在は、IPO後の社内基盤整備に取り組んでいます。

ちなみにIPO前とIPO後とを比較すると、IPO後の企業経営のほうが何倍も難しいというのが今の私の実感です。IPO前というのは、健全な売り上げと利益さえあれば、監査法人、ベンチャー・キャピタル、弁護士など、様々な人たちが寄って助けてくれますが、IPO後は波が引くようにしていなくなってしまう。そんな中、継続的な成長を支える戦略や基盤を作り上げるのは、遥かにチャレンジングなことと感じています。

1歳年上のCEO、青野(仲達・代表取締役社長兼CEO)さんとは、理想的な二人三脚をされているとの認識ですが、具体的には、どのように役割分担をしているのでしょう。

須原:平たく言うと、彼が「考える人」、私が「実行する人」です。彼が「将来を見る人」、私が「現在を見る人」という言い方をしても良いかもしれません。彼が構想するビジョンを、私が現実的なプロセスに落とし、数字を作り込む役割です。

経営のプロを目指すビジネスパーソンの市場価値は、主に経営知識と実務経験の掛け合わせで高まっていきます。MBAでアドバンスのクラスを受講したり、戦略コンサルティングなどに従事したりすると経営知識の部分が向上し、マネージャーとして事業運営などに携わり、実績を積めば経験値が上がります。

これに加え、私がヘッドハンターとして経営者候補を評価する際には、大まかに3段階のマネジメントステージに分けて判断しています。1段階目は、自身でプロジェクトなど創出してP/Lを立てられるかということ。2段階目は、人を動かしてチームとしてP/Lを作れるかということ、そして3段階目が、事業としてP/Lを作り、また、先行投資や組織変革などしながら、成長を永続させるB/Sを描けるか、ということ。

お二人は、この3段階目を、かなりやっておられますが、この切り口で(シニアマネジメントとして)何をしていらっしゃるか、もう少し詳しく教えてください。

笹井:経営破綻した会社なので、最初はキャッシュフローのマネジメントからやりました。エグジット後は無借金経営となったため、将来的な投資を重視したマネジメントに軸足を移しています。

須原:サービス業はヒトのモチベーションがP/Lに直結する特質を持つため、組織開発に一番、エネルギーを注いでいます。現在、34校を展開し、インストラクターが1000人、社員が300人強、社員の25%は外国人という多様な人材を包含する組織のため、このパワーを最大化する仕組みづくり、ヒトづくりが肝になると考えています。

HPでは戦略を実行に移す難しさを肌身で感じた

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「1000人」と言葉にするのは簡単ですが、1000人の組織を動かすというのは大変なことです。お二人がしていらっしゃるのは、MBAの教科書に書かれているようなことではありますが、知識として知っているのと、実際に遂行するのとでは、大きな違いがあります。お二人は、どうして“できる”ようになったのか。現在に至るキャリアを振り返りながら、聞かせてください。

笹井:スタートは住友銀行。1991年という一番、良い時期に入社しました。『バブルへGO!!』という映画が公開されていますが、あの時代です。

転機は入社4年目ぐらいでしょうか。学生時代の友人と集まって話をすると、勤め先によって(わずか4年の間に)、任されている仕事の大きさや視座に差が出てきていることを、いやがうえにも感じずにはいられなくなるんです。例えば、戦略コンサルに入社した友人が、「夜なかに海外からファクスが送られてきて、それを見てデータ分析をして・・・」なんて言い出すだけでも、自分の仕事と引き比べて焦る。

それで「このままで良いのか」と考えました。「ここにいても、(会社の期待に準じた)成長はするだろうけれど、自分自身、決して自立心が強いほうではないので、プラスαの成長は難しいだろう」「より角度の大きな成長を迫られる環境に、身を置きなおしたほうが良いのかもしれない」。そこで(戦略コンサルティングファームの)ベイン・アンド・カンパニー(以下、ベイン)への転職を決めました。

次の転機は、転職から(コロンビア大学経営大学院へのMBA留学も含めて)8年が経過した後です。「コンサルタントとしてではなく、そろそろ経営の実務に携わりたい」と思い始めていたところ、日本ヒューレット・パッカードから営業本部長としての参加を求められました。2002年、34歳のときです。当時の同社トップは樋口(泰行)さんで、ちょうどコンパックコンピュータと合併したタイミング。私が統括を求められた事業部というのは、それなりに儲かってはいるものの、会社の中ではあまり日が当たらず、社員のモチベーションが低下している組織でした。しかし、樋口さんほか、熱心に誘ってくれる人たちの想いを意気に感じて転職。合併後の事業再編と成長戦略に携わりました。

コンサルタントとして外から事業に関わるのと、実際に企業の中にどっぷり浸かって事業を動かすのとは似て非なるものです。実業の世界に飛び込んでいくことに不安は感じませんでしたか。

笹井:当時は、その難しさに、あまり気づいていませんでした。そのため、ヒューレット・パッカードでは小さな失敗を幾つもしました。

どういうことでしょうか。

笹井:何らか事業を興す場合、戦略策定にかかるリソースが3割とすると、残りの7割は実行なんです。実行のほうが重たいんですよね。ヒューレット・パッカードではその難しさ、現場のスタッフの理解を獲得して戦略を実行に移す難しさを肌身で感じたように思います。

例えば、きれいなプレゼン資料を作って戦略を説明し、「明日から頑張りましょう!」と鼓舞すると、皆、首は縦に振る。しかし、フタを開けてみると9割の人が腹に落ちていない。そこでそのまま、酒でも酌み交わしながら話をすると、5日ぐらいして、ようやく理解が得られてベクトルが揃う。また例えば、部下から「大きな絵が見えない」「戦略が明確ではない」などと言われて、言葉どおりに受け止め説明をすると、実は彼らは「自分たちの話を聞いてほしい」と別な言い方で訴えているだけだったりする。そうした、表面に見えている動作や言葉と、裏に隠された真意の差異とに、最初はなかなか気づけませんでした。

いわゆるコンサルタントの中には、そこに気づかず、同じ失敗を繰り返してしまう人もいます。笹井さんは、なぜ気づけたのでしょうか

笹井:「このタイミングで分かった」という明確なポイントは残念ながらありません。「もっと酒を飲まなければダメだよ」とアドバイスしてくれる知人がいて、どうして飲まなければいけないのか、正直、よく分からなかったのですが、痛風になるまで(部下と)飲みました。また、海外出張の道中なども、とことんまで話をしました。そうする中で、(自分自身がこれまでにいた組織との)コミュニケーションの違いが徐々に見えてきたという感じです。

ベインでも笹井さんは事業再生のサポートをしておられたとのことですが、ヒューレット・パッカードでのキャリアを差し挟まなくても、コーリンの再生は成功させられたと思いますか。

笹井:(ヒューレット・パッカードのキャリアがなければ)難しかったと思います。ヒューレット・パッカードは、そうは言っても母体が大きく、半年程度であれば(トップが)転び続けていても持ちこたえられた。しかし、コーリンは小さな会社なので、トップがラーニングを蓄積する間に取り返しのつかないことになっていたでしょう。

コーリンの再生は、どこから着手しましたか。

笹井:まず、住民票を小牧市に移しました。私を除く取締役は皆、籍を東京に置いたまま再生に入ったのですが、私は家族を連れて移転した。その姿勢を見て、「この人は本気だ」と思った社員は多かったようです。

古参の社員からすれば、自分よりも10歳も20歳も年少の経営者が落下傘で降ってくるわけで、それは「どれだけ本気なのか」と一挙手一投足を見て推し測っていますよね。その後は何をされたのですか。営業を伸ばすところからでしょうか。

笹井:いろいろやりましたが、最初の3カ月に最も留意したのは、社員の話をきちんと聞くことです。ファンドからは、「笹井さん、いつになったら結果が出るのですか」と急かされ、社員も腹の中では恐らく、「高い給料、払っているんだから・・・」と思っている。自分自身にも焦りの気持ちはありました。けれど、信頼の基盤もできないうちから、「グローバル市場では・・・」などと語っても、小牧(というローカルな立地)の社員は恐らく、「はぁ?」と途方に暮れてしまうのだろうと考えた。ですから最初は、焦る気持ちをじっと抑え、現場の理解を得ること、実行力を高める下地づくりに時間をかけました。

人に動いてもらわないことには始まらない。そうは言っても、ファンドからのプレッシャーは相当に強かったのではないでしょうか。

笹井:そのとおりです。ただ、ファンドから来ている役員は(経営の知識はあるかもしれないが)一般的には実業は経験していない。自分自身は(ヒューレット・パッカードで)実業を経験してきた分、理論だけでは、どうにもならない部分を理解していたので、対等に議論する自信がありました。

最後のところもお聞きしたいのですが、ファンドが(コーリンを)オムロングループに売却したところで、笹井さんには別なキャリアに進むという選択肢もあったと思うのですが、なぜ残られたのですか。

笹井:事業再生においてファンド側から入る経営者に求められる役割は、既存の組織や社員を引き立てる黒子に近いと私は考えています。歌い方のあまり上手ではないメインボーカルを、バックコーラスとして引き立てる「プロの仕事」というイメージです。ですから、私自身の美意識としては、メインボーカルが独り立ちした(エグジットまで辿り着いた)時点で舞台を降りよう(辞任しよう)と考えていました。

ところが、オムロンの経営陣が「笹井にやらせよう」と言ってくれたのです。それまでオムロングループに30歳代の社長というのはいなかったのですが、「若いキミがやるのがいい」と、推挙してくれました。私個人のキャリア以前に、伝統ある大企業が「若手に任せてみよう」という方向に動いたことが嬉しく、(その流れを無為にしないよう)お受けしました。

一人のビジネスパーソンとしての価値向上を目指して転職

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須原さんも、ここに至るまでの軌跡をお話しいただけますか。

須原:私は住友商事からスタートしました。不良社員で、入社来ずっと、年初の誓いは「今年こそは辞める」でした(会場笑)。それでも10年間も在籍したのは、仲間に恵まれたからです。「こんなに良い環境にいられて、しかも給料までもらってしまっていいのだろうか?」と、いつも思っていました。

けれど、入社7〜8年目ぐらいから、そうした魅力的な上司、仲間が憂き目を見始めたのです。人事異動など見ていると、「あ、(重要なラインからは)外れたな」ということって、何とはなしに分かりますよね。それと同時に、会社が求める理想の人材像というのも見えてきて、その姿と自身の漠然と願う生き方とに乖離を感じたのです。それが、転職を決めた一つめの理由です。

もう一つの理由は、仕事で出会うアジア諸国のビジネスパーソンと自分自身を引き比べる機会があったこと。商社ではインドネシアやベトナムなど各国に出向いて商談にあたったのですが、対面に座る相手が皆、大変に優秀なのです。しかし、聞いてみると自分のほうが3倍から10倍の給料を取っている。やっている仕事の内容は自分と同等、或いは彼らのほうが高い付加価値を出しているにも関わらず、です。自分個人の価値を、会社の価値によって押し上げてもらっているような居心地の悪さを感じました。

転職先としてボストン・コンサルティング・グループ(以下、BCG)を選んだのは、肌馴染みが良いように感じたからです。ビジネススクール在学中、採用活動に来たコンサルティングファームの方々と食事をする機会があったのですが、マッキンゼー、ベイン、A.T.カーニーに振る舞ってもらったのが洋食のところ、BCGは和食。旨い和食と旨い日本酒をいただきながら、「オイラには、ここが、いちばん良いなぁ」と(会場笑)。食事の内容は冗談にしても、BCGには、身銭を切ってプライベートの時間に食事を共にしたいと思える人々が沢山いました。「経営を学びたい」という気持ちも、もちろんありましたが、会話をとことんまで楽しめたということが決定打でした。

「どの業界に属するか」「何をするか」「誰と働くか」など、キャリアを決める際の軸はいろいろありますが、須原さんの場合は「誰と働くか」が重要ということでしょうか。

須原:そうですね。その後、Gabaに入った際も決め手は人でした。青野(仲達・代表取締役社長兼CEO)から誘いを受けたときには、Gabaが何の会社であるかすら知らなかったのですが、「“結婚”する前に、まずは“同棲”を」と頼んで3カ月間、コンサルタントとして関わったところ、多くの魅力的な社員と出会うことができました。「これは面白い、自分がやりたいと思っていた人材育成の事業でもあるし」と、腹が据わりました。

須原さんは「人」が意思決定要因ということですが、笹井さんがキャリアを選択する際の軸は何ですか。

笹井:「何をするか」ですね。課題や期待役割を重視します。

話を戻し、須原さんがBCGからGabaに移った経緯を、もう少し詳しく教えてください。

須原:BCGでは、非常にタフな時間を過ごしました。周囲は頭の切れる人たちばかりで、いい加減な性格(と思っていた)の私が睡眠薬なしには眠れなくなってしまうほどでした。

そんな時、住友商事在職時に世話になった人から、CFOを養成するビジネススクールを立ち上げるから一緒にやらないか、と誘われたのです。BCGでは、それなりの報酬を得ていたものが、いきなり収入ゼロ、自分の食い扶持は自分で稼げ、となるわけですから、迷いました。けれど私は、子供の時分から、人材育成に取り組みたいという希望を持っており、「これはチャンスなのだ」と考え、思い切って飛び込むことにしました。

ただ、その後2年間、試行錯誤するうちに自分たちの選択した市場が極めてニッチであることに気づかされたのです。ビジネスモデルとして成立はするものの、トップ営業が不可欠で、いつまでも自分たちが動き続けなければならない。規模化、仕組み化の方向が見えず、悩んでいたときにGabaからの誘いがあったのです。

須原さんはハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得されています。経営の知識は既に身につけていたわけですが、仮にその後、BCGに入ることなく、GabaのCOOに就任していたら、どうなっていたと思われますか。

須原:(BCGのキャリアがなくても)何とかなったとは思います。BCGで学んだことが、GabaのCOOとしてのスキルコア、マインドコアではないからです。ただ、コンサルタントとして企業経営者と打打発止の議論をしたり、机上で構築したビジネスモデルを現場に落としこむ際、何がボトルネックになるかをつぶさに見た経験が、支えになっていると感じる場面はあります。

ビジネススクールで学ぶことと、戦略コンサルタントが行うことは、共通点が多いですが、両方の経験が活きているのでしょうか。

須原:ビジネススクールの経験で役立っていると感じるのは、とにかく大量のケースを裁いたこと。限られた時間内に何らかの仮説を立てる癖がつきました。そこでの頭の働かせ方や、クラスでの議論の組み立て方は今に活きていると思います。ただ、マーケティングや人材マネジメントなど、学んだ内容そのものは、あまり活用していません。(活用しているのは)アカウンティングとファイナンスの知識ぐらいでしょうか。

笹井さんはベインでの経験が今、活きていると思われますか。

笹井:特定のプロジェクトで、ダイレクトに役立ったものはないですが、コンサルタントとして様々なプロジェクトに携わった結果として、考える習慣は付いたと思います。何を考えるべきか、とか、どのフレームワークを使って考えるのが効率的か、とか、とにかく「考えること」を徹底的に学びました。社長というのは限られた時間内に山積する経営課題への回答を導き出すのが仕事ですから、コンサルタント時代に経営視点での効率的な頭の使い方を訓練できたのは非常に良かったと思っています。

私自身、ビジネススクールもコンサルティングファームも経験していますが、大切なのは「フレームワークを知っていること」ではなくて、「フレームワークを正しい場面で使うこと」であると感じました。正しい使い方というのは失敗を繰り返しながら身につくもので、頭でっかちに知識だけ振りかざすことは大変に危険です。とりわけリーダーシップに関わるフレームワークなどは、正しく使わなければ“ニセの魔法使い”になってしまうんですよね。

笹井:おっしゃるとおりで、フレームワークや経営理論を表面的に理解し、型どおりに使っても意味がありません。例えば、ベインでは家族同伴のクリスマスパーティーがコミュニケーションの円滑化に寄与していますが、コーリンのような純日本企業ではそのような習慣がなく、効果的とは思えません。どこにでも通用する万能の打ち手などというものはなく、ビジネススクールで教えられるのは幾つかのパターンだけ。大切なのは、何を取捨選択するかなのです。

須原:Gabaはクリスマスパーティーを始め、社内イベントが好まれる会社です。先日はインストラクター、社員と、その家族を集め、東京ドームを借り切って運動会を実施し、好評でした。ただ、こうしたイベントは非常に大切なことであると同時に、味付けに過ぎないという側面も、経営者は認識すべきと肝に銘じています。ビジョンがあり、戦略があり、それを支えるプラットフォームがあり、という、経営の根幹がしっかりとあって初めて味付けが意味を成すと考えています。

「キャリアデザイン」から「キャリアドリフト」へ

これまでお話いただいたなかで、お二人が、経営のプロへの“早回し”を実現したポイントはどこにあったと思われますか。ここが転機だった、このステップは不可欠だった、というところがあれば教えてください。

須原:「ここ」と明確に言えるポイントは、私の場合にはありません。常に目の前の現実と自分なりの真摯さで対峙し、その結果として今があります。

キャリアの選択に関わらず、あらゆる局面で人は「理屈」と「理屈を超えたもの」の衝突に悩みます。例えば転職の機会が訪れ、ワクワクとする。この気持ちは理屈を超えたものです。ただ、仕事として受ける以上、自分自身がそこで付加価値を出せるか、期待に見合う力があるかは判断しなければならない。これは理屈で割り切れる話です。往々にして衝突するこの双方から逃げてはならないと私は考えています。

同じことを以前、元・産業再生機構の冨山(和彦)COOが「情理と合理の衝突から逃げてはいけない」という言葉で説明していらっしゃいました。経営者が「結果は出ていないけれど、あいつも頑張っているから・・・」と情理に逃げたり、「数字さえ合えば・・・」と合理に逃げれば会社は結果として破綻する、と。人生やキャリアにも同じことが言えると思います。

笹井:私も意識してキャリアを作ってきたという感じはありません。目の前の機会に一所懸命、取り組んできただけであって、ここまでお話してきたことは結果から見ると・・・という話に過ぎません。

敢えて言うならば、ベインの後のキャリアとしてヒューレット・パッカードを選んだのは正解であったと思っています。実は当時、投資ファンドへの転職も検討していたのですが、「やはり、一度は現場を見なければ」と、ヒューレット・パッカードでのキャリアを選択しました。この経験がコーリンの再生における、自分自身の実行力強化につながりました。投資ファンドやコンサルティングファームの方が報酬面では良かったと思いますが、結果として、お金では買えない経験ができたと思っています。

考えてみると、私が尊敬するコンサルタントは、一度は現場に出て、理屈では割り切れないマネジメントの難しさに悩むという経験をしているんです。頭でっかちではない、そうした裏づけが、仮に後に(コンサルタントなどの)アドバイザーの立場に戻るにしても、その人の発言に説得力を生むのだと思います。

ありがとうございます。今のお話にまさに象徴されるように、最近、「キャリアドリフト」(drift、流れ)という考え方が出てきています。従来は「10年後に何をやりたいか?」といった視点から、どこで何をするかを意識的に積み上げていく「キャリアデザイン」という考え方が主流でしたが、今は、それが変わってきているのです。

変化の激しい市場環境において、10年後を緻密に設計しても、そのとき考えていたような仕事や業界がそのままの形で存在するとは限りません。入社した会社の社長になることを目指しても、M&Aなどで外から社長が降ってくる、なんて話もザラにあります。

だから、キャリアデザインをしてもあまり意味がない。むしろ、自然に波に乗って、グイグイと進んでいく、そんなイメージのキャリアドリフトという考え方が着目されているのです。

これは、何の考えもなしに、ただ流れに身を任せるという意味ではありません。自分自身が挑戦したいこと、適性があると考えることを常日頃から自覚して、周囲にも伝えておくことが大切です。そのうえで、波の向こう側から女神が来たら臆さずに掴む。掴むためのスキルを整える準備をしておく。そこで掴まなければ、“茹で蛙”になってしまいます。これは特に大企業に勤める人によく見られるのですが、水に浸かっているうちに徐々に温度が変わって、いつのまにやら茹で上がってしまう。引き比べ、本日ご登壇いただいた二人は、大きな組織にあっても自身のキャリアを客観的に見つめる問題意識を持ち、全てのステージで真摯に、時として血を流しながら歩いて来られました。だからこそ、今のポジションにあるのです。時間も迫りましたので、最後に会場にメッセージをお願いします。

須原:目の前にある仕事、チャレンジから逃げずに立ち向かってください。そして、自分が直接的に影響を及ぼせる範囲のことに集中してほしい。この範囲外で起きていることについて、忙殺されたり、悔しがったり、悲しんだりしても、あまり意味はありません。常に一点集中で、自分にできる範囲のことにエネルギーを投下し続ければ、それがどんな仕事であっても、周囲が見ていて、いつか引き上げてくれます。

私は今、41歳ですが、35歳を過ぎたあたりから「自分が40歳のときに何をしているだろうか」ということを強烈に意識するようになりました。「40歳にして惑わず」と言いますが、尊敬する先輩の一人が、「40歳にして惑えず、と読みなさい。そこにいるあなた自身が、その後の人生を左右するのだから」と教えてくれました。この言葉を真っ直ぐに受け止めて、日々を積み上げたおかげで、私は良い40歳代を迎えられたと思っています。

笹井:企業再生に関心のある方が多いようですので、私自身が考える再生に大切なことを二つ、お話しさせてください。一つは、企業ごとの文化を見極め、まず受け入れること。人々の心を動かすのがプレゼンなのか、飲み会なのか、それは色々なパターンがあるでしょう。言えるのは、そこに所属する人々の固有の個性や癖を理解し、その心を動かさない限り、再生のためのプランは絵に描いた餅で終わってしまうということです。経営破綻するような会社は、往々にして悪い習慣がついています。その習慣を、ただ否定するのではなく、見極め、まずは受け入れ、理解しなければならない。それができると考える方は是非、再生に挑戦されると良いと思います。

もう一つは、企業再生はチームプレイが成否を分けるということ。ベンチャー企業は社長の力量がモノを言うところが多いのですが、企業再生は、いかに優秀なリーダーといえど一人では絶対に勝ち抜けません。ファンドと既存組織の利害は相反することが多く、このベクトルを一つにして組織を動かすためには、独裁的な気持ちを捨ててチームプレイヤーとなることが重要で、それができない限り、組織から浮いて蹴り出されてしまいます。企業再生の第一世代を担った経営者は“個人技”で戦いましたが、今はチームプレイのできる第二世代が力を発揮しているように思います。

私からも少しだけお話させてください。経営学を学び、経営のプロを目指す立場にいる皆さんは、間違いなく恵まれた人々だと思います。学ばれたことを、どうか社会のために使ってください。自分が実現したいと考えていることを常日頃から口にして、大いに影響し合って、或いは実現の機会につなげてください。転職が全てと言っているわけではありません。ただ、実績を上げ、次のステップに進む機会を確実につかんでほしい。あすか会議の場を、そんな意識で活かしていただければと思います。本日は、どうもありがとうございました。

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