“治さない医療(緩和ケア)”を充実させることが今こそ重要!終末期の「生き方・死に方」を考える〜〜津村啓介×古川淳×松山大耕×柳川範之×藤沢久美

本記事は、G1サミット2019「終末期〜人生における幸せとどう死ぬかを考える〜」の内容を書き起こしたものです。(全2回 後編) 前編はこちら>>

津村啓介氏(以下、敬称略):「間接的安楽死」と「消極的安楽死」は、今でもできると言えばできるし、実際にやっている現場はありますよね。厚労省も延命治療の不開始や中止について「こういうプロセスを踏めばいいです」というガイドラインを出しています。ただ、先ほどのご質問にもあった医師法では、さらに言えば刑法では「自殺幇助」になったり、治療ができるのにしないということで罰せられたりする。ですから、その辺が整理できていないんです。その結果、お医者さんによっても対応が変わるし、患者さんの知識や経験の違いによっても変わってくる。

そこを整理したいと、強く思っています。そのためには法律化がいいのか、あるいは尊厳死協会が推進していらっしゃる「リビングウィル」のように、それぞれ事前に決めておくような運動がいいのか。そこは私としても「これがいい」と今はっきり申し上げられないところがあります。ただ、とにかく現在のように混乱している状態を整理していきたい。

最高レベルのホスピス(緩和ケア病棟)を増やすことが必要

古川淳氏(以下、敬称略):私は兄をサルコーマ(肉腫)というがんで3年前に亡くしています。当時は我々のグループにもホスピスですごく有名な病院があったんですけれども、そこは札幌で遠いから都内でホスピスを探しました。結局、クオリティに本当に大きな差があるから、どのレベルの病院をベースに考えるかという話になってしまって、議論がすごく些末になってしまうんです。各病院がクオリティをコントロールできないので。

今、日本で行われている最高のホスピスがすべての病院に、しかもサプライサイドまで高齢化社会に対応できるほど充実すれば、結構な割合で苦しみは取れる。また、苦しんで死んでいくことも減ると僕は思っています。実際、札幌のその病院で亡くなる方は、本人も家族もすごく幸せに、豊かな最期を迎えています。こういう現場ですから、たとえば亡くなる前は少しずつ摂食を減らすんですが、「食べさせなかったから死んだんだ」と言われて訴えられるケースもあります。死に対する理解が進んでないせいで、そうした反発を受けることは稀にある。でも、その札幌の病院に関して言えば、ほとんどのケースで非常に高く評価されていますし、そうした病院が増えればこの問題もある程度は解決すると思っています。そのうえで最後の最後、どうしても取り除くことができず、切実に必要としている人たちには安楽死等が選択肢の1つになるのかなと思います。

藤沢久美氏(以下、敬称略):「取り除くことができない」というのは、痛みや辛さですか?

古川:がんや病気の種類にもよりますが、少なくとも老衰であれば、そういったことはないんじゃないかなと思っています。

藤沢:松山さんはご自身で「安楽死」を選択されますか?

自分の思い通りにならない苦しみや痛みをどうするか

松山大耕氏(以下、敬称略):今だったらしないと思います。子どもが3歳と0歳。粘るだろうと思いますね。私には師匠が3人いまして、そのうちお二人は膵臓がんで、お一人は尊厳死で亡くなられました。尊厳死で亡くなられた方は90歳ぐらいだったんですが、私が付き人をしているときから尊厳死ということをずっとおっしゃっていた。それで最期、亡くなる2日前に、「辞世の一句はここに入っているから、遺影はこれを使ってくれ」とおっしゃいました。禅僧は皆、辞世の一句を書くのです。で、その2日後にすっと亡くなりました。見事な死に方でした。なぜそうなったかというと、自主的に食べるのも飲むのも止めたから。禅僧は昔からそうやって亡くなっていきました。それを踏襲されたんです。

一方、膵臓がんのお二人はめちゃくちゃ苦しまれていました。1人はすごく威厳のある素晴らしい師匠で、もともと「延命治療はいらない」とおっしゃっていたんです。ただ、たまたま当時は私の弟が付き人をさせていただいていたんですが、その方は、もう大声で「殺してくれ!」「喉が乾いたから水をくれ!」と叫んだりしていたというんです。

で、もう1人の和尚さんも膵臓がんだったんですが、その方は鎌倉円覚寺の前の管長さんから手紙をいただいていました。その内容は「禅僧はがんで亡くなるのがよい」。お釈迦様は「四苦」を説いています。生老病死。これは漢字で「苦しい」と書きますし、実際、苦しいという意味も含まれます。ただ、これは「自分の思い通りにならない」ということでもあるんですね。「最期はがんになって自分の思い通りにならない苦しみや痛みをどうするか。それを自分自身で示すのが一番の布教になる」と、そのお手紙には書かれていました。ですから、どういう亡くなり方がいいとか悪いとかという話ではなく、そこに立ち向かわれた姿が私にとっては印象的だったし、考えさせられる素晴らしい教えだったと思います。

藤沢:自分が何を選ぶかに加えて、「その姿を誰に見せて、それを見た人が何を得るかということもすごく大事だ」と教えていただいた気がします。柳川さんはいかがですか?

学校選びのように「自分に合った病院」を選択できる仕組みを

柳川範之氏(以下、敬称略):なかなかその境地には至らなくて(会場笑)。最期はあまり苦しまずにいきたいな、と。ただ、この話については、イニシアティブで勉強していくなかで1つ分かってきたことがあります。自分の親もがんで苦しんで亡くなったし、「がんは苦しい」というイメージが以前は結構ありました。でも、今は緩和ケアの技術もずいぶん進んでいて、あまり苦しまずに最期を迎えることができるという話もある。

ただ、そういう話があまり知られていないんです。どの病院がそうしたケアをきちんとしているか、分からないじゃないですか。教育現場と似ています。どの学校が子どもに一番合うのか分からなかったりして。ただ、それで今は少しずつ学校訪問やオープンキャンバスといったものが増えていますよね。実際にその学校がどんな風に教えているかとか、その教え方が自分の子どもに合うかとか、そういうことを調べてから選ぶようになってきた。

同じようなことが病院にもあっていいのかなと思います。病院によって技術も相当違うようだし、考え方も違うのなら、少なくともそれを分かったうえで選ぶことができる仕組みが必要ではないかなと思うんですね。それを、たとえばランキングにしてしまうと順位の低い病院から「嫌だ」という声は出ると思いますが、その辺はやってもいいと思います。

“治さない医療”を充実させることが今すごく重要

古川:賛成です。治す医療ばかりが注目されて、治さない医療はどうしても、この世界でも少し馬鹿にされていたりする。でも、治さない医療は今すごく重要になってきているんですよね。そこを充実させるのは大変重要だと思います。まあ、医学部を出てドクターになって、それで「私は治さない医療をやります」と、今はなかなか言いづらいんですが、そういう文化をつくる意味でも、すごく大事な観点だと思います。

柳川:そのためには医者の動きだけではダメで、我々のような潜在的患者が、「私たちが求めているのはこういう医療です」と、声を挙げる必要がある。治さない医療だけれど、苦痛は緩和されて幸せな死に方ができたり、もう少し明るい死に方ができるような。「明るい死に方プランを考えましょう」とか「楽しく踊りながら死なせてくれ」みたいな。

松山:すごく重要な視点だと思います。今までの医療は治すことが前提でしたけれども、たとえば在宅医療でも見守るというのは必要だと思うんですね。愛媛の松山に、在宅医療を中心に手がける、たんぽぽクリニックという診療所があります。松山は離島が多いんですが、そこで先生方はモーターボートで訪問して看て帰ってくるといったことをなさっている。しかも、それは1人の「スーパー医師」が頑張っているといった話でなく、その診療所が在宅医療のためのシステムをきちんとつくって回しています。

それで私はあるとき、そちらの院長先生について、訪問医療で各ご家庭を1日廻らせていただいたことがあります。そうして末期がんの患者さんがいるお宅なんかを伺ってみると、たとえば、お腹に水が溜まって大きく膨れている状態でも、老老介護で看ていらっしゃるご家庭があったりするんですね。

そこで、院長先生はその患者さんに「僕はもう点滴しないよ。やめよう」と言う。そうすると少しずつお腹が凹んで、2食ぐらいは自分の好きなものを食べることができるようになる。そのあと5日~1週間ほどで亡くなります。「おばあちゃん、それでいい?」と聞くわけですよ。それでおばあちゃんも同意していらっしゃいました。そのとき、おばあちゃんがすごく安心していたというか、ホッとしたような表情をしていたのが私としては大変印象的で。

私たちに求められているものもだいぶ変わってきたという自覚があります。お坊さんは亡くなってからの仕事というイメージだと思いますが、最近は亡くなる前に呼ばれることが増えてきました。お坊さんに話を聞いてから死にたい、と。「死んだらどうなるんですか?」とか、「家族にも言えず、言い残していたことをお伝えしておきたいんです」とか、そういう話を私たちが聞く機会が増えてきました。

もともとの自然な生き方と死に方に戻ろう

津村:少し乱暴な切り口になってしまうかもしれませんが、そもそも昔は延命治療なんてなかったんですよね。ですから、自殺幇助が刑法で犯罪になったときも、医師法をつくったときも、延命治療というもの自体を想定していなかった。先ほどは「間接的安楽死」と「消極的安楽死」を選択した方が多かったんですけれども、その意味では、もともとは皆が「消極的安楽死」だったんです。延命治療は不開始。中止どころか、なかったんですから。皆が尊厳死というか、自然死でした。

しかし、そのあと延命治療というものが生まれた。ときにそれは有用なことではあるんですが、今は誰もが機械的に延命治療を行うようになっている。その弊害が新しい現代病として生まれていて、それを取り除こうというのがこの議論なんです。ですから、我々が何かしら倫理的に新たな領域へ踏み込んでいくといった話ではなく、もともとの自然な生き方と死に方に戻ろうよという話だと考えています。

柳川:この話で難しいのは、そこに家族と医者がいる点なんですよね。本人が「自分はそんなに長生きしたくないから自然に死なせてくれ」と言って、そこで医者が何もやらなかったとして、それが本人と医者の関係だけで済めばいい。「本人の意思を尊重して医者が決めた」。それでおしまいなんです。ところが、そこに家族が登場する。下手をすると医者と患者との話を聞いていないというか、医師と患者でコミュニケーションがあったことすら知らない家族がやってきて、「なぜ何もしなかったんだ。ちゃんとやってくれれば長生きしたかもしれないじゃないか」という話になる。

結局、そうした家族の意見や感情を、現状では医者がかなり引き受けてしまっている。本人だって言えたら言っていたかもしれませんが、多くの場合、言えないまま亡くなってしまっているところがある。ですから、法制度についても家族と医者の間で、これまで利害をうまく調整できなかったところに何らかの線を引いていく必要があるのだと思います。そのうえで、「こういうルールだから医者はこの判断をした」「このルールだから家族の意見を尊重した」ということが、もう少しきれいになれば意思決定も進みやすくなるのではないかなと思います。

じゃあ、どうやって線を引いたらいいのか。それがすごく難しい。元気だった5年前に本人が書いたものを見ても、今本当に苦しんでいる段階でどう思っているかというのはよく分からないですよね。そのときの状況を僕らは推測するしかない。いつかはその状況になったとき、「ああ、こんな気持ちだったんだ」と思うかもしれませんが、今は分からないので。あるいは、先ほどの“言わされている感”が出てしまうといった問題があったり。そこでうまく線を引くことができたらいいと思うんですが。

医療が我々をずっと助けてくれるという誤解が蔓延している

古川:すごく難しいんですよね。情報格差があるから。今回のイニシアティブでは死と向き合うことで死を理解して、「善く逝く」ためにどうすればいいかを考えることが大切な目標だと思っています。ただ、その裏側にはもう1つ、医療に対する期待を抑えるというテーマもあると思っています。たとえば出産もそう。めちゃくちゃリスクがある行為なのにとても安全だと思われているのは、現場が頑張っているからなんです。同様に、今はすごく高齢の方でも、ずっと健康で生き続けることができると思われていたりする。

そんなわけはなくて、人はいつか死ぬし、そこで医療はそれほど貢献してくれません。それを理解することも、このイニシアティブで大事な目標になると思っています。ずっと生が続くという誤解が、医療がずっと我々を助けてくれるという誤解が、今は蔓延してしまって、それで家族が死を決められない。「どうしますか?」と言われて、「ああ、もう何本でもチューブをつないでくれ」と言ってしまうところがあるんだと思います。

藤沢:では、ここで会場の皆さまに再度お返しします。この議論を進めるうえで、もしくはイニシアティブで何か形づくるために、何から議論をはじめたらいいのか。質問でも結構ですが、提案もいただきたいと思います。

柳川:今は「提案がまとまりました。こうしましょう」と、我々がプレゼンしているわけでなく「イニシアティブがはじまりました。皆さんもぜひ議論を」という段階ですので。

藤沢:そうです。ですから「このポイントをもっと議論すべきだ」「こういう取り組みをイニシアティブで動かしてみてはどうか?」といったご提案があれば。

会場参加者1:今日の議論は精神論的要素が多く、実際、それが本論だとは思うんですが、せっかく経済学の先生もいらっしゃるので財政的な話もしてみたいと考えています。今は正確な数字を把握していないんですが、おそらく国民医療費の70~80%は75歳以上となる後期高齢者に注ぎ込まれている。たとえばICUのベッドでターミナルケアを受けている患者さんにかかる費用は、3日でおよそ1000万円と言われています。3日間、チューブなり人工呼吸器なりにつながっている患者さんを生かし続ける、その延命治療で1000万円。それが、もちろん日本中で起きている。

本当はその費用を赤ちゃんや若い世代につぎ込むほうが将来世代にとってはいいんですが、高齢者が有権者(の多数派)なので、どうしても政治が高齢者を向いた施策ばかりになっている。しかし、将来を考えるG1では終末期医療の財政的判断も必要ではないかと考えています。冷たい話ですし、誰もこんな話はしたくないと思うんですが、議論の場には論点として提示したいと思います。

藤沢:ありがとうございます。その議論はイニシアティブでも出ていました。ただ、これを言うと「お金のために殺すのか」みたいな話になって、公には議論しないでおこうという話になっていたのですが、たしかにおっしゃる通りだと思います。

会場参加者2:医療費亡国論というか、終末期医療に関して「死ぬ前の1ヶ月に大変なお金がかかる」という話は、とあるG1メンバー2人の議論が先日大炎上したことでご存知の方も多いと思います。ただ、いろいろと誤解もあります。「専門家の方によると」という受け売りですが、終末期医療にかかるお金は医療費全体の3%ほど。なので、そこをなんとかすれば大きな財源になるというお話ではありません。もちろん尊厳とコストは分けて考えるべきだと思いますし、お金のメリットもない以上、やはり切り離して議論するのがいいと思います。

会場参加者3:私が住んでいるスイスでは、先ほどの分類では医師による「自殺幇助」を選択しています。それを支援する団体があるんですね。で、本人の意思確認をして、各種基準もクリアした場合のみ、それを支援する医師が薬を提供します。また、これはいろいろの人が監視しているなかで行われるし、あとでビデオを警察に届けないといけない。そんな状況で自ら飲んで亡くなるというのがスイスのやり方で、私はこの方式をおすすめしたいと思います。キリスト教徒である私自身は絶対やりませんし、同じキリスト教徒の兄弟姉妹にもすすめません。しかし世界はキリスト教徒だけではありませんし、良い社会とは選択肢がある社会だと思っていますので。スイスのやり方は非常に頭が良いと思っています。

会場参加者4:死ぬときは結構忙しいので、たとえば余命3ヶ月の時点で何か選択できると考えないほうが良いと思います。特に、会場にいらっしゃるような皆さんは忙し過ぎて、そんなの絶対にできません。それに「死人に口無し」ではないですが、残されるのは医者と家族だけですし、「あまり心配しなくていいのでは?というのがまず1つ。

そのうえで、今のうちに何ができるか。面白いのが「入棺体験」です。棺に入ってみる。あの本物の箱に入るのは気持ちのうえでハードルが高いんですけれども、実際にやってみると「棺には何を入れてもらおうかな」「服は白装束じゃなくてこれがいい」となるんですね。それで家族も呼んで体験すれば本当に“死んだ感”が出て、そこではじめて「死んだらどうなりそうか」という話から逆算できるようになる。ですから、1度家族ぐるみで死ぬフリをしてから考えるのはとてもいいと思います。最近はそういうイベントもありますし、イニシアティブでそれをつくってもいいと思います。

藤沢:今度からG1で運動会でなく入棺体験を(会場笑)。ほかにはいかがですか?

会場参加者5:もちろん緩和ケアの技術は今後も高めていくべきだし、「それでも最期まで取り除けない場合は安楽死でも良いのでは」という議論はあると思います。ただ、国立がんセンターが昨年行った調査によると、いまだに半分ぐらいの人は痛みが消えないまま亡くなっているというんですね。ですから、そういう方々への配慮というか、そこの議論も同時進行で深めておくべきではないかなと思っています。

古川:そうですね。イエスかノーの2択ではないし、選択肢はあっていいと思います。ただ、僕も数多くの病院を見ているわけではないんですが、すべからく99%の痛みは取り除くことができるという先生もいれば、「そうでもない」という先生もいて、人によって差があるんだろうなと思っています。ですから、そのクオリティを高めましょうという試みをやってから、選択肢ができるといいのかなという意見になります。

会場参加者6:祖父が最期に体調を悪くしたとき、救急車を呼んだ私たちは、それが延命治療のボタンを押していることでもあると知りませんでした。「倒れたら救急車」と、条件反射で呼んでいた。ただ、即「チューブをつないで欲しい」という話ではなかったんです。「お医者さん、これは最期なんですか?」ということが知りたくて。ですから、たとえばナースコールにように「先生来てください」というボタンと、「しっかり医療の限界まで見てください」というボタンが別々にあれば、と思っています。延命治療を考えていない人まで医師法の絡み等で対応ががっちり進められたため、呼んだ人が驚いたという話は私もときどき聞きます。ですから、特に終末期には「救急車を呼ぶことがどういうことなのか」を伝える。もしくは、呼ばれたら「はい、お運びします」としたうえで、病院では一度落ち着いて、「では、どちらにしますか?」と伺うような2段階方式が現実的なのかなと感じています。

会場参加者7:今のお話にも関連しますが、リテラシーの問題があって、ご本人が病気で倒れたときに「延命治療は行いません」と言っても、もうだめなんですよね。ですから、子どもや兄弟を含めて家族が事前に同意したという同意書のようなものをつくっておく。で、先ほどの「消極的安楽死」を望む人はそれを持っておくべきだと思います。その辺があまり知られていないので、あとでいつでも止めることができるようにはしつつ、そこまでの準備はとりあえずしておくという話を広めていくのも大事だと思います。

藤沢:これは良いご提案だと思います。ご家族とそういうお話をしたことがある方はどれほどいらっしゃいますか?少数ですね。では、これも皆さん、それぞれご家族と一度お話をしていただいて、次につなげるのがいいかもしれないですね。

会場参加者8:あと、たとえばスイスはホスピスも大変充実しています。ですから普通の病院に入っていても、「もうこの人はもたない」と思ったら、延命治療ではなくて「ホスピスを紹介します」となる。それで私は親しい友人を3人ホスピスで亡くしていますが、皆、ハッピーに亡くなりましたし、そのご家族も満足して送っていたと感じています。

会場参加者9:その「もう、もたない」というのはどなたが判断しているんですか?そこが最もクリティカルな部分だと思います。

会場参加者8:そこは厳密に確認できていないんですが、ある種、ホスピスにいくのが普通のことと思われているので、何かの判断基準があるんだと思います。

藤沢:大切なポイントだと思います。私の父は、先生に「もうもたないからホスピスに行ってください」と言われ、ホスピスで亡くなりました。ただ、たしかに今はその基準もないですよね。さて、そろそろ時間になりましたので、最後に一言ずついただきたいと思います。

柳川:最後のご指摘は大切なポイントだと思います。いろいろな法制度化にあたっては、どういった基準でどのように進めるかを具体的に考える必要がある。ただ、その裏側では「ホスピスに行くのが当たり前」「医者は治すだけじゃない」といったお話のように皆のマインドを変えていくことも大事なので、イニシアティブでもそんな議論をしたいと思います。

津村:あらゆる議論にはそれぞれ時間軸があると思いますが、このテーマは会場の皆さんが今後20~30年、自分の生き方・死に方の時間軸で考えるテーマであり、社会でも同様の時間軸で議論が進むのだと思います。また、そこで私自身は最終的に先ほどの「積極的安楽死」まで行くべきではないかと思っていますが、20~30年、あるいは50年かけてそこにいくのかな、と。これだけ医療が発達し、これだけ人の生き方も多様になったわけで、最終的な答えはそこにあるのではないかと思います。今後も皆さんとともに考えていきたいと思います。

古川:日本では医療が空気のように当たり前のものとして、実際のところフリーアクセスで当たり前のものとして提供されていますが、実際にはそんな国は少ないですよね。これほどクオリティの高い医療が、限られた医療資源の分配で皆さまに提供されている。この価値を強く感じていただいたうえで、その先にある医療資源の有効活用という観点で、終末期医療を考えることが大事ではないかと思っています。どちらかというと医療提供サイドにいる私としては、今ある医療は決して悪ではない、と。世界水準で見ても非常にクオリティが高く、そして安価だということを強く呼びかけていきたいと考えています。

松山:私としては、平均寿命信仰を止めたほうがいいと考えています。長生きはいいことか。「健康寿命を伸ばす」というお話がありますが、健康寿命が長くなっても私は今と同じように考えると思います。ここは日本一の短命県である青森ですが、では青森の人が他の都道府県の方と比べて不幸せかというと、まったくそんなことはないと思うんです。たとえば健康で100歳まで生きても、お話を伺ってみると「早くお迎えにきて欲しい。誰からも望まれていない」と、すごく寂しそうな顔をするお年寄りがたくさんいるわけです。ですから、自分が大事にしているものは何かとか、生きるとは何かとか、そういうものを皆さんが認識して運命をきちんと消化して受け入れる。そういう体制を普段から取っておくのが一番重要なのかなと思います。

藤沢:このテーマは多様なステークホルダーがいるなかでの議論になるので、すぐに答えが出るものではないんですが、だからこそG1でやらなければいけないと思います。今後も引き続き議論していきたいと思いますし、イニシアティブは毎月第2水曜ぐらいに朝8時からやっております。ぜひスカイプでもいいので参加していただいたり、今日のようにご意見やアドバイスもどんどんいただきたいと考えています。G1の方々は皆前向きですから、どうしても前向きな声ばかりが聞こえてきますが(会場笑)、「いやいや、こんな問題もあるんだ」という声も絶賛募集中です。ぜひご参加いただいて、来年のG1では入棺体験を進めることができたらと思いますので(会場笑)、よろしくお願い致します。今日はありがとうございました(会場拍手)。

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