本記事は、G1サミット2019「終末期〜人生における幸せとどう死ぬかを考える〜」の内容を書き起こしたものです。(全2回 前編)
藤沢久美氏(以下、敬称略):重いテーマですが、明るく前向きに、本音をどんどんお話しいただけたらと思います。実は、G1でこうした終末期あるいは尊厳死や安楽死の議論をしようという声をあげたのは茂木さん(茂木潤一氏:キッコーマン株式会社事業開発部長)だったんですね。そこで、なぜこの議論をしようと考えたのか、今日はまず茂木さんにお話しいただいてから議論に入りたいと思っています。
なぜ今、「終末期」について考えるべきなのか?
茂木潤一氏(以下、敬称略):終末期イニシアティブ発起人の茂木でございます。私からは、なぜこのイニシアティブを始めたのかと、そのイニシアティブで現在議論になっている問題点を簡単にご報告致します。
会場にいらしている皆さんはバリバリ仕事をして活躍している、もしくはこれから活躍する方々ばかりだと思います。そして、おそらく若い頃から、多様な選択肢の中から自分自身で選択をしてこられたのではないでしょうか。なかには後悔している選択だってあるかもしれませんが、それでもご自身で選択をして生きてきた。でも、いわゆる人生の最終段階、特に亡くなるときになると、日本では選べることが非常に限られています。死に方を選べない。自ら選択をし続けてきた人生から考えると、これはバランスが悪いのではないかという問題意識がありました。「終末期にも選択肢があったほうがいいのでは」という意識で始めたのがこのイニシアティブです。
昨年初頭ぐらいから議論を重ねてきた中で出てきた論点を3つほどご紹介します。1つ目は「そもそも死について語る機会が少ないのではないか?」という点。そういう状況で亡くなり方を決めてしまっていいのかという点です。2つ目は、「すでに安楽死や尊厳死について法制度化した国々ではどんなことが起きているのか?」という点。それを参考にした場合に、日本で制度化を実現できるのか。そして3つ目は「医療現場でお医者さんの保護はどうなるのか?」という点です。また、「地域に医療格差があるなかで安楽死等を選べる環境を作ってしまっていいのか?」という問題点も出てきました。今日はこのようなテーマについて、自由にご議論いただきたいと思います。
藤沢:死について語る機会が少ないということで、会場の皆さまに自分ごととして1度議論していただくのが本セッションの目的でもあります。そこで、まずはパネリストの皆さまに一言ずついただきたいと思いますが、最初に津村さん。津村さんは昨年、国民民主党の代表選に出馬なさいましたが、実はその公約に「安楽死」の言葉がありました。そこで、「なぜ公約に?」ということと、「公約に掲げてみてどうでしたか?」といったお話をお聞かせください。
選挙公約に「安楽死」という言葉を入れた理由
津村啓介氏(以下、敬称略):我々世代は第2次ベビーブーマーというか、団塊ジュニア世代です。でも、残念ながら団塊世代が子どもをつくり団塊ジュニアをつくったのに対し、我々世代は第3次ベビーブームをつくることができず、それが少子化の時代的背景になっています。そこには経済的問題も社会的問題もありますが、結論から言うと、私たちは少子化問題の、いわば主犯格の世代なわけです。そこに正面から向き合う必要がある。ですから、今はひとりっ子が増えているなら選択的夫婦別姓も必要ではないか、と。あるいは、少子化対策とは少し違うかもしれませんが、同性婚やLGBTの方々の議論にも向き合う必要があると考えました。
そうした論点を並べて私は代表選に挑んだわけですが、そのなかで最も反響が大きかったのは安楽死の合法化です。これは生き方の規制緩和だと思っています。多様な生き方があっていいわけで、その選択肢を広げるという問題提起ですね。ただ、これを最初に掲げたときは「この表現は変えろ」と、仲間の議員たちに厳しく言われました。「本気で勝ちに行くなら51%を取らなきゃいけない。それなら『安楽死』というのは先を行き過ぎている」と。
ですから、あとで言葉の整理が必要かもしれません。ただ、安楽死について最も積極的なオランダやベルギーでは精神的な意味での、たとえば将来を悲観した安楽死、いわば自殺まで認めています。間接的な自殺も含めて、です。そこまでの話なのか、それとも延命治療の中止、いわばマイルドな安楽死・尊厳死という話なのか。まずはそこから議論をはじめるべきではないかということで、「尊厳死(安楽死)の合法化」という形にマニュフェストは変えました。ですから、私としてはそうした話を積極的に議論したいと思っています。
藤沢:医療現場を見ている古川さんは尊厳死・安楽死をどう見ていらっしゃいますか?
賛成派・反対派の両方の意見を取り入れて議論すべき
古川淳氏(以下、敬称略):津村さんがおっしゃる通り、これは大変難しい問題です。私どもで支援させていただいている病院でもホスピスや介護はやっていますが、安楽死の議論をしていて1つ気付かされたことがあるんですね。世の中には多くの患者団体があり、そのなかにALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者団体があります。ALSにかかった人は、その初期段階では人生に絶望して「未来もない。死にたい」と考えてしまいます。今は体も動くけど、精神的に大変な苦痛ですから。
でも、ずっと生き続けていると、ALSでもそれなりに人生を楽しめて「安楽死がなくてよかった」と、時間の経過とともに患者の精神的な状態も変わったりする。だから今はALS患者団体のなかでも安楽死の賛成派と反対派が真っ向からぶつかっていたりするんですね。
この事はすごく考えされられます。「もし安楽死を選択していたら今の自分はなかった」という不可逆的な問題ですから。「これは軽々に安楽死賛成とは言えないな」と思いました。そういうなかで、イニシアティブでは茂木さんと一緒に、多様な事例とともに反対意見も取り込みつつ、どういった制限のなかで法制度化を進めるべきかを議論しています。
また、どちらかというと医療サイドからは「安楽死を軽々に認めると医療の質が下がる」という声が出ます。「それをしなければならないほど取り除けない身体的苦痛が本当にあるのか」と投げかけられると、我々も足が少し出にくくなる。逆に言うと「医療の質を上げればそうした問題も解決するのでは」という提案には、どう向き合えばいいのか。どれも答えがない話ではありますが、今後もG1メンバーの皆さまとそうした議論をして意見形成していきたいと思います。
藤沢:では続いて松山さん。「死」というものと現代の宗教はどう関わっていくべきなのか、あるいはどう関わっていらっしゃるのかといったお話を。
仏教では「死」「命」をどう捉えているのか?
松山大耕氏(以下、敬称略):はい。大原則として、仏教に五戒というものがあります。やってはいけない5つのことですね。1つ目は「お酒を飲んではいけません」。2つ目は不邪淫戒。「淫らなことをしてはいけない」。3つ目は「嘘をついてはいけない」で、4つ目が「盗んではいけない」です。そして1番重要なのが「人の命を奪ってはならない」。そういう5つの戒があります。
では、仏教は命をどう捉えているのか。何を以て命と定義しているのか。医学的には体温・呼吸・意識ですよね。仏教の中でも宗派によって定義も異なりますが、一般的には仏教は意識じゃなくて「識(しき)」です。識というのは意識も無意識もすべて含んだ、もっと深い概念です。語りはじめると長くなるので簡単に言うと「輪廻転生し得る主体」といったものですね。そのうえで今回のテーマである安楽死についてお話しすると、私たちは以前、同じような問題意識を投げかけられたことがあります。脳死移植です。脳死は死なのか。仏教の原理原則では脳死は死と認められないわけです。識ということがありますから。
実際に、それによって助かる命があるのは私たちもよく分かります。ただ、たとえば脳死による移植のいくつかの症例では、臓器を切断したときに涙が出たというケースがあるんですね。もちろん単なる生理現象かもしれない。でも、意識には出ていないけれど、何か感じているのかもしれない。それは分からない。それほど深い問題なんだと思います。ただ、20~30年経った今、脳死による臓器移植は社会に認められていますし、やはり新しいことをするには社会的合意の形成にひと世代かかるなと思います。
同じような例ですが、30年前の新聞を紐解きますと、センセーショナルに「試験管ベイビー」と書いてあります。「人間が神の領域に入った」と。そのときも命をどう捉えるかという問題を私たちは突き付けられましたが、昨年は約20人に1人が体外受精の試験管ベイビー。今は一般的な医療技術になりました。やはり受け入れられるのにひと世代かかっている。ですから、そうした社会的合意の形成を私たちはどうサポートするか、もしくはその議論をどう深めていくかが課題ではないかなと思います。
安楽死の法制度化を進める上で議論すべき問題点とは?
藤沢:続いて柳川さん。このテーマで法制度化を議論していくうえでも、私たちが考えておかなければいけない論点を共有させてください。
柳川範之氏(以下、敬称略):自分も20年以上前に母親をがんで亡くしています。会場の皆さまもいろいろな経験をなさっていると思いますが、やはりそういうときに家族は一体どうすればいいのかと、すごく悩みますよね。今は昔ほど死が身近ではないですし、終末期に人が苦しんでいるところを見ていたり、幸せに死んでいく姿を見ていないことも多かったりして、どうしたらいいのかよく分からない。そこをきちんと考える機会が必要だという、大きな問題意識があります。
また、先ほど「選択肢を広げる」というお話がありました。経済学も自己選択の学問ですし、一番良いと思う選択を自らしていくことが幸せな世界につながると考える。ですから「死の局面でもそれができたほうがいいのでは」という茂木さんのお話はとてもよく分かります。ただ、これが難しい。自分が末期となって下の世話を周りに頼るようになったら、「そんなに長生きしていたくもないな」と。助かる見込みがあるなら頑張るけれど、そうでないならラクに死なせて欲しいと考えるかもしれないし、その意思決定ができるようにしたいと思います。
でも、そこでいくつか問題がある。1つは古川さんがおっしゃった通り、今はそう思っていても、もう少し頑張ると違う気持ちになるかもしれないという点ですね。また、特に法制化を考えるにあたっては「その人の気持ちって何なの?」という話が大変難しい問題として関わってくる。反対論としてよく聞くのは、たとえば体に障害を持つ人が周囲に気を使ってしまい、「もう迷惑をかけたくないから死を選択させてください」と言わされちゃうような状況になったりしないかという話です。それで、「むしろ障害を持つ人々の生き方を狭めてしまうのでは」という声も聞きます。
となると、自分で決めるというのは一体どういうことなのか。特にそれを法制度化して「こういう意思表示をすればいい」とするためにはどうすればいいのか。相当難しい話だと思います。けれども、難しいからといって「選択できないままにしましょう」とするのが正しいとも限らない。だから、制度化するなら「どんな条件が必要なのか」「何をチェックすればいいのか」といったことをきちんと議論できたらいいなと考えています。
あと、さらに大きなポイントとして、本人以外の家族がどう思うかという話がありますよね。さらに重要なのは医者の方々。安楽死・尊厳死に大きく関わるのは、医者が何をどんな基準で判断するかという点です。茂木さんもおっしゃる通り、そこで「医者に過度の負担がかかっているのでは?」「医者が意思決定をせざるを得ないのでは?」という話がある。僕は医療現場にいないのでよく分かりませんが、もしそこで難しい判断が起きているなら我々が積極的にそこを明らかにする必要がある。それで、誰がどう決めるのがいいかを明らかにしたほうがいいという問題意識があります。今は答えを持っているわけではないですが、そこもきっちり考えることができるような場と仕組みがあればいいと思っています。
藤沢:ありがとうございます。このテーマは非常に広いんですね。そこで、この問題を自分ごととして考えていただくため、まず会場の皆さん自身を例にとって議論を進めたいと思います。たとえば皆さんが今日「末期がんです。余命3ヶ月です」と宣告をされたら、どうなさいますか?のちに大変な苦痛がやってきて、寝たきりになって、いろいろお世話もしてもらわなければいけなくなると宣告されたとき、ご自身で最期を選択したいと思いますか?それとも生きていけるのならできるだけ長く生きていたいと思いますか?
「積極的安楽死」「自殺幇助」「間接的安楽死」「消極的安楽死」
この質問をする前に、尊厳死および安楽死という言葉の定義として4つの種類をご紹介します。1つ目は「積極的安楽死」。狭義の安楽死とも呼ばれるもので、これは致死薬物の投与等により医師の手で死に至らしめる方法です。一般的に言われる安楽死はこれですね。2つ目は医師による「自殺幇助」。お医者さんから自死用の薬や方策を提供された患者さんが、自分で命を絶つという方法です。「これを飲むと死にます」と言って眼の前に置かれた薬を自分の手で飲む。これはお医者さんによる自殺幇助になるそうです。
で、3つ目は「間接的安楽死」。緩和ケア用の薬物等を使用することで結果的に生命を短縮する方法です。たとえば痛くて辛いからと、少しずつモルヒネを打つ。これは結果的に死期を早めるので間接的安楽死という風に定義されています。そして4つ目が「消極的安楽死」です。尊厳死と言われるものですね。今は国のほうでも、主にこの尊厳死について議論がなされています。胃ろうもせず、水も食物も与えないといった延命治療の不開始、または、そのとき行っている延命治療の中止です。
この4つに分けたうえで質問させてください。余命は3ヶ月。そこで4つのうちどれかを選択して、自分で死期を決める方はどれほどいらっしゃいますか?(会場挙手)たくさんいらっしゃいますね。では、どの方法を、なぜ選択するのかも伺ってみたいと思います。
余命3ヶ月と宣告されたら、あなたはどんな最後を選ぶか?
会場参加者1:家族に感謝の気持ちを伝えたあと、2番の自殺幇助を選ぶと思います。最初は1番がいいと思いましたが、それはお医者さんに負担を与えてしまう方法なので、それなら自分で選択したほうがいいと思いました。
会場参加者2:どれに当てはまるか分かりませんが、政治家である私は余命3ヶ月と分かったら、自らの命を絶つことによって何か1つでも政策を前に進めたい。そこに命を使いたいと思います。
会場参加者3:間接的安楽死がいいと思いました。痛みはないほうが、最期までいろいろと考えることもできていいかな、と。
会場参加者4:何番目かは別として、がんで亡くした人を身近で見ていた経験から、あの苦しみを引き受けるかどうかを自分で判断したいと、強く思います。
会場参加者5:「間接的安楽死」です。母が「消極的安楽死」を選んでいたので、消極的安楽死は最低ライン。で、私自身は緩和ケアを選択して静かに最期を迎えるのが一番いいと思っています。
会場参加者6:「間接的安楽死」です。周りにあまり迷惑をかけなくないと思っています。
会場参加者7:「間接的安楽死」です。最低でも「消極的安楽死」。母はケアつきの老人ホームにいましたが、発作が起きたときに救急車でがんセンターへ運ぶと結局は先生が延命しちゃう。医師は医師法で放っておけないから。なので、「ご家族で合意が取れているなら、もうそちらのケアセンターで看取ってください」と、先生に言われました。
会場参加者8:「間接的安楽死」です。2番の「自殺幇助」を選ぶには度胸がない。
藤沢:では、逆に自分は尊厳死や安楽死を絶対に選びたくないと思っている方にもコメントを聞いてみたいと思います。いかがでしょうか。
会場参加者9:キリスト教徒なので。神が与えられた命を取ることはできないと考えています。
藤沢:ありがとうございます。そうした宗教的課題もあると思いますが、海外を見るとキリスト教の方が多い国で安楽死の法制化が進んでいたりもします。では一方で、ご家族がその状態になっていて、それで「安楽死したい。もう延命はいらない」と言われたらどうなさいますか?その意思を尊重したいという方は?(会場挙手)結構いらっしゃいますね。逆に「いや、あとになって『お前が殺したんだ』なんて他の家族に言われるのも嫌だし、できない」という方は?(会場挙手)いらっしゃいますね。また意見を聞いてみたいと思います。
会場参加者10:私が意気地なしで、それだけの勇気を持ちきれないのではないかと思います。それと、小学校からキリスト教の学校で育っているので、信者ではなくてもそうしたマインドを持っているのかなという感覚があります。
藤沢:ありがとうございます。お医者さんの立場の方にも聞いてみましょう。
会場参加者11:仮に余命3ヶ月の状態だったとしても、実際の医療現場では「どんな苦しみがどの程度あるのか」といった話がいろいろ出てきます。「安楽死したい」と言っても、「いや、まだいろいろと苦しみを取る方法があるよ」という段階なのか、もう精神的に絶望していて「苦しみを取り除いて欲しい」と強く願っている段階なのか、と。皆さんも1度や2度は身内の方で経験していらっしゃると思いますが、状況には結構なバリエーションがあります。
そのうえで自分に関して言えば、「今決めろ」と言われても、そのときになって「やっぱりもっと生きたい」と思うかもしれない。ですから、今は「前もって決めておこう」といったことがよく言われていますが、ちょっとそれは…。患者さんでも1ヶ月ごとに気弱になったり元気になったり、いろいろあるので、前もって決める流れになるのは少し危険かなと感じます。
藤沢:保険証の裏では臓器移植に関する意思表示ができますけれども、あれは、ある意味では「脳死は自分の死と認定していただいて結構です」と、前もって決めているわけですよね。では、そこに尊厳死を含めてしまっていいのか。そんな意味でも今のお話は大変重要なご提言だと思います。
後編に続く>>
執筆:山本 兼司