キャンペーン終了まで

割引情報をチェック!

海外拠点にはエース級人材を置く、フジシールのグローバル展開への要諦

投稿日:2017/11/06更新日:2019/04/09

本記事は10月2日にグロービス経営大学院 大阪校で開催したセミナー「世界を舞台に躍進するフジシールの成長戦略​」の内容を要約したものです。(全2回)

創業120周年、ラベルと機械の両軸が強みに

岡﨑裕夫氏(以下、敬称略): 私たちフジシールインターナショナル(以下、フジシール)は、主に日用品や食品・飲料といった製品等のラベルをつくっている会社です。ある意味、部品メーカーで、表に出ないBtoBのビジネスを手掛けています。

まずは会社の紹介をさせてください。創業は1897年。今年で120周年を迎えます。5月には日本の従業員1700人と海外から集まった従業員100人の総勢1800人で記念パーティーも開催しました。

フジシールの社是は「包んで<価値>を、日々新たな心で創造します」。「パッケージを通じて世界中のお客さまに貢献していく。しかも、毎日毎日新しい気持ちで新しい価値を生み出していこう」というのがフジシールの基本です。

主な商品をご案内すると、まずは「シュリンクラベル」。ペットボトルに採用されたりしている商品で非常に大きな市場があります。そして「タックラベル」。のりで貼るラベルですね。それから「機能性容器」。これは「ソフトパウチ」といって、我々が差別化した商品になります。

また、「自動包装機械」もあります。容器にラベルを装着する包装機械も、どこもつくってなかったのでフジシールがつくり、ラベルとセット販売しています。こうしたセット販売はフジシールしかできないということで、大きな強みになっています。機械の新しいプロジェクトというのは大体1~2年前にお話をいただくんですが、ラベルだけだと、どうしても新商品発売の2~3ヶ月前にしか情報が来ません。そういった意味でも機械とラベルの両方をやっているという強みが発揮できているんですね。

「シュリンクラベル」とは何かというと、熱をかけて引っ張りながら容器にかぶせるフィルムです。熱をかけるとラベルが収縮するので変形した容器にも密着させることができるわけですね。これはお客さんからすると、ラベルのことを考えずプラスチック容器を自由に設計できるということで、すごく喜んでいただいています。

それから「インモールドラベル」。これは容器をつくるモールド内にラベルを挿入して、成形時の熱で融着させるラベルです。それをシュリンクラベルにすると取手部分をなくせるので、容器を14%削減できるという効果もあります。

それから「キャンペーンタックラベル」というのもあります。これは缶の容器でキャンペーンを行いたいというニーズから生まれました。「では、どうすれば毎分1,200~1,500で製造ラインを流れる缶に貼ることができるか」というお話から生まれた製品ですが、これも今ではフジシール製品で独占状態になっています。

それから「シュリンク感熱ラベル」。これは20~25年位前に生まれた製品です。電池の外装をメタルジャケットからフィルムに変えたことで中身の電池サイズを大きくすることができ、容量も17%ほど増やすことができたため、お客さまにもすごく喜ばれました。それと「ハイデコレーションラベル」。きれいにデコレーションできるというものです。あと、「開封タックラベル」。開けにくいプラスチック容器やフィルムに少し傷を入れてタックを貼ることで、すっと開けることができるという製品です。こんな風にして、いろいろと機能性を付加しています。

一方、ソフトパウチに関しては、最後まで残さず詰め替えができるという製品もあります。これは2005年頃から開発していて2010年ぐらいには試作品まで進んでいたんですが、どこにも採用されていなかった。そんななか花王さんから2012年頃にお話があって、そこから生産工程の開発にまた3年ほどかかってしまったんですが、一昨年秋に発売をさせていただきました。環境に優しく、詰め替えも簡単で最後まで残らず、イライラしないで出せるパウチです。

このほか、ラベルをかぶせるスピードが1分間に1,100枚という機械もあります。これは世界最速で、どこも真似できない技術です。

環境変化に合わせて事業を変える

こういった製品を生み出してきたフジシールですが、実は120年におよぶ歴史のうち、最初の60年間は木工業を営んでいました。樽の栓を家内工業でつくっていたんです。当初は法人化もされていなかったんですが、1958年、3代目の社長で現在は名誉顧問の藤尾正明がキャップシールの製造・販売を開始しました。当時は樽が一升瓶等のガラス製品に切り替わっていた時代。だから樽だけで商売をしていたらダメだということで、ガラス瓶への対応にシフトしました。

最初はアルミのキャップシールを使っていたんですが、きれいに外したうえで中身を変な安い酒に変えることもできた。そういうことをされたら困るということで日本酒メーカーさんと開発したのがシュリンクするチューブです。注ぎ口のところにチューブをかぶせ、熱をかけてぐっと握ると収縮する。これがシュリンクのスタートです。それを外すと1回剥がしたことが分かっちゃうという製品です。

ここで法人化以降60年の売上推移を見てみると、2017年3月期はおよそ1,420億円。ラベルに換算すると1枚平均2.5円前後になるので、世界中で560億個の商品に使われている計算です。1日1.5億個の商品が、フジシールのラベルが貼られたうえで販売されていることになります。

沿革を見てみると、まず売上22億円ほどだった1975年にアメリカ進出を決めて、現地生産をスタートさせました。続いて1979年にはヨーロッパに進出。売上は56億円前後の頃です。従業員数はまだ200人。私が入社したのはその翌年の80年になります。で、そのあと売上のほうは以降順調に伸び続け、次に進出したのがASEANです。そのあと97年にJASDAQ、2003年に東証へ上場しました。この頃は内部のいろいろな整備や強化をしていた時代なのかもしれません。そして2004年…のちほど改めてお話ししますが、ホールディング制および委員会設置会社に移行しました。そのうえで今は海外事業が急速に立ち上がっている状態です。

現在、グループ企業は14カ国26社に広がっています。売上比率を見てみると、ヨーロッパ:アメリカ:アジアで「20:18:2」。ただ、これにはタイのFuji Aceという持分法適用関連会社の売上100億超が入っていません。それを含めた売上比率を見てみると、日本と海外で「55:45」というところまで海外事業も伸びてきました。

海外進出については、「そんなに早くから出て何をしようとしていたんだ?」と思われるかもしれません。実際、それまでの海外向けビジネスは細々としたものでした。ワインに特化した特殊なキャップシールを、カリフォルニアとオーストラリアとドイツに、しかもすべて代理店を通じて出荷していた程度です。

ただ、あるとき、当時の社長や営業部長が世界のあちこちを巡ってみて、「やっぱり世界っていうのは広い」となった。パッケージ展示会に行っても新しいものがたくさん出てくる。アメリカの流通を見ても、もうダイエーどころの規模ではないんですね。しかもコンビニというものまでできている。たぶん鈴木(敏文氏:株式会社セブン&アイ・ホールディングス元会長)さんが海外でご覧になった時期と同じぐらいだと思います。とにかく、当時の流通や商品、あるいはパッケージというのは、海外ではどんどん変化していました。

それで、「やっぱりお客さんと直接取引するなかでこの変化を感じ取って、ニーズやノウハウや考え方を勉強したい」と。それで海外に出ることを決めて、前社長の竹田健をアメリカに1年間送ってマーケティングリサーチを行いました。そこで何が分かったか。とにかくアメリカ市場は日本の10倍です。人口は3倍ですが、めちゃめちゃ消費をするわけです。 サラダドレッシングひとつにしても、どかどかつくる。たとえばクラフトフーヅ(現クラフト・ハインツ)からのラベル引き合いとなると年間2億5000万個なんていう規模になったりする。そういう大量消費国でした。

そこでパッケージはどうなるかというと、セルフで手に持って選ぶコンシューマー商品の時代になったということで、「やっぱりフジシール製品の表示機能や安全性が大切になる時代は絶対にやって来る」と考えました。 ただ、そのためには現地生産が絶対条件。ラベルを装着する機械も不可欠です。当時はまだ手でかぶせるのが主流でしたけれども、「これからはそんな時代じゃない。 機械でやらなきゃいけない」と。その2点をクリアしたうえで出て行こうというチャレンジが、アメリカ進出でした。

それで、我々としてもいろいろな開発をしましたし、そのなかから日本でも他の国でも活かせるものを展開していこうと考えていました。そのためにも、日本企業でなく海外大手企業と付き合うということを徹底していった。ですから、ある日、 日本の某食品メーカーさんの注文を取ってきた竹田が…、 当時はアメリカの営業部長でしたが、藤尾にこっぴどく怒られたこともあります。「その注文は返して来い。何のためにアメリカに行ってるんだ。お前は分かってない」と、叱咤されていたことを今でもよく覚えています。とにかく現地生産と現地取引のなかでお客さんの変化を学ぶため、海外に出ていきました。

本気でグローバル化を進めるために組織を変える

その後、JASDAQや東証に上場しながら内部体制を固めていった一方、アメリカとフランスでは買収も行っています。ただ、やっぱり買収することによって、いろいろな面で管理部門の仕事が一気に増えていったんですね。それで海外に出てから20~25年、欧米市場でシュリンクラベルが認められてようやく事業も成長しはじめるというとき、ホールディング体制に移行しました。

これは私自身も日本にいて感じることですが、日本というのは結構ウェットですよね。付き合いとか、そういうものを大切にする。実際、それは大切です。ただ、なにかこう…、実際に仕事をしているような気持ちになれないというか、そこに時間がかかってしまう。管理本部として総務人事を一緒に持ったりするわけですが、やっぱり人材は大切ですし、いろいろとコンプライアンスの問題も起こります。で、そうしたことへの対応で時間を取られているうち、それで仕事をしたつもりになっちゃうんですね。そんなこともあって、「アメリカで買収をしてもなかなかうまいこと仕事は進まない」といった情報も耳に入ってきたりしても「アメリカに行こう!」というアクションになかなか結びつけられないわけです。

だから、海外に焦点を当てた本社組織が必要だと考えました。「日本は日本で人材もすごく育っているわけだから、独立させちゃえ」といった発想もありましたし、そこでホールディング体制に移行しました。また、同時に委員会設置会社にも移行しています。これは2003年に決まり、2004年3月から施行された新しい会社法で、委員会設置会社とか監査役会社とか、会社形態について多様なガバナンスが法制化されました。そこで当社も海外の例をいろいろ見たり、国内で先行して社外取締役制度を採用していた企業さんを研究したりして、「やるなら委員会設置会社にして社外取締役を活用しよう」と決めました。それで、人選で間違わないということは肝に命じつつ、海外へもっと注力をしていくので、海外市場について分かっている人を社外取締役に選んでいった次第です。

それともう1つ、すごくユニークなのは役員の海外赴任化です。ピーク時は取締役で執行役の5人のうち4人が海外にいて、日本担当の社長1人だけ日本にいるなんていう状態でした。

CEOがまだ経営企画の取締役だった時に、ヨーロッパではポーランドの立ち上げがあり、それまではすべて日本製の機械を使っていたんですが、それを「ヨーロッパ製に変えよう」ということで、向こうで陣頭指揮を執っていました。で、その後CEOになったときにヨーロッパの社長も兼務したので「そのままヨーロッパにいるよ」と。

特にポーランドで立ち上げを行ったあとは伝票やモノの流れを全部変えてしまっていたんですが、たった4社でもヨーロッパで流れを変えるのは大変でした。もうあっちこっちで喧嘩がはじまったり、「債権と債務が合わない」なんて状態になったりして、「これは困ったなあ」と。それで私も、「ヨーロッパに行って直接指揮を執ろう」と考えて、2007年11月、ヨーロッパに赴任したんですね。それで取締役5人のうち4人が海外という状態になりました。

それで意思決定は本当に早くなりました。お客様ニーズへの対応もスピーディーになったし、大きな成果だったと思います。

いずれにせよ、2004年以降も海外展開は続けていて、今お話しした通り2005年にはポーランドでグループ会社を設立。そこで自社生産している社内設備以外はほとんどすべてヨーロッパ製の機械に変えています。今では日本国内もヨーロッパ製へ変えています。そちらのほうが世界的に見てもレベルが高かったので。で、続く2008年にはメキシコでグループ会社、2010年にはオランダで持ち株会社、2011年にはベトナムでグループ会社を設立しています。そして2012年には…、これは今も苦戦していますが、スイスPago社の買収を行いました。さらに2014年にはアメリカでインディアナ工場開設ということで、海外市場拡大に合わせて拠点も急ピッチで拡大しています。また、それに合わせていろいろな意味で管理部門の強化も行っています。

ヨーロッパに出て良かったと思うのは、アメリカと話しやすいこと。日本とアメリカだと時差の問題もあって話をしにくいんですが、ヨーロッパにいると違う。朝は日本側と話をして、昼はヨーロッパの仕事をして、夕方になるとアメリカと連絡を取る。そんなパターンで仕事をしていた時期もあります。

多様性をはぐくみ、次世代にバトンを渡す

今後の大きな課題は次の世代にきちんとバトンタッチしていくこと。私が最初に顧問になりましたけれども、どういう形で世代交替を行っていくのか。変化の激しい時代にあって、次の世代がその変化をしっかり捉えることができるようなステージを準備する必要があると思っています。

それからもう1つ。私自身は海外で10年間いろいろな経験をさせてもらって、ビジネスだけでなく文化や考え方まで含めて、やはり日本と欧米では大きく違うと実感することが何度もありました。たとえば、Pagoの買収交渉はロンドン金融会社のコンサルタントの方と進めていたんですが、あるとき、その方が「アフリカのヌ―の大移動の話を知っているか?」と聞いてきた。「いや、知らない」と言うと、こういう話をしてくれました。

雨季と乾期で交互に訪れるアフリカで、水牛の一種のヌーが、7月にタンザニアからケニアに移動して、11月になるとまたタンザニアに戻るそうです。その移動する集団の規模はおよそ160万頭で、しかもシマウマ等が一緒に移動したりするから、最終的にはおよそ200万頭の大移動になる。で、それを眺めるのが観光になっているそうです。ただ、タンザニアとケニアの国境にあるマウ川にはクロコダイルがたくさんいて、川を渡る際、ちょっと流されて群れから外れてしまったりしたヌーの子どもを襲うそうです。その襲うところがまた観光になるそうなんですが、そこで日本人観光客は全員が「きゃー、やめて!」と叫ぶ。ところが欧米の観光客は「噛め!やれ!」と言うそうなんですね。

まぁ、その話を聞いてから買収交渉が何か変わったという話ではないんですが、とにかく日本人はすぐ弱い立場に身を置くというか、すごく心優しき人民なわけで。地震があったときも助け合うことで素晴らしい民族だと世界中に言われて、それは誇りに思ったりもしました。ただ、それがビジネスの世界、あるいはアメリカの大学のような競争社会に入ると日本人は負けちゃう。そこで残っているアジア人はインド人や中国人や韓国人で、日本人は蹴落とされてしまう。とにかく、それぐらい精神構造が違うんだなと思います。

これは良い悪いの話ではないんですね。好きか嫌いかは言えても、良い悪いじゃなくて、事実としてそうなっちゃってる。ただ、そういうグローバル社会のなかで日本は経済力をもっともっと復活させないといけないという、今はすごく大切な時期です。そういうことを知ったうえで、現状を一人一人が乗り越えていくことが必要なんじゃないかなと思います。優しさを持ったまま、日本の良さを持ったまま、現状を乗り越えていく。文化的な話をするのなら、たとえばフランスでも日本に対する尊敬は凄いですよ、本当に。浮世絵から料理から漫画から、多くの面で大きな親しみを持ってくれたりもします。

なので、私としてはそういった部分も、もう少し深堀していけたらいいなと思っています。それが具体的にどう役立つのかは分かりませんが、いずれにしても、今お話ししたようなことが目の前の受け入れざるを得ない事実だと思って欲しいな、と。そういうグローバル世界の多様性を理解し、受け入れたうえで自分に何ができるかという話だと思います。「このままだと日本は負けてしまう」と言われたとき、「非国民か」と言うのでなくて、「じゃぁ、勝つためには何をすべきなのか」という話し合いに落とし込む。そういう風なことをやっていかないとダメなのかなと思います。

新着動画

10分以内の動画コース

再生回数の多い動画コース

コメントの多い動画コース

オンライン学習サービス部門 20代〜30代ビジネスパーソン334名を対象とした調査の結果 4部門で高評価達成!

7日間の無料体験を試してみよう

無料会員登録

期間内に自動更新を停止いただければ、料金は一切かかりません。