グロービス経営大学院とフライヤーが共催した「読者が選ぶビジネス書グランプリ2022」で、『ビジョナリー・カンパニーZERO』(ジム・コリンズ、ビル・ラジアー著)が「マネジメント部門」で1位となった。米ネットフリックスのリード・ヘイスティングス共同創業者兼CEO(最高経営責任者)が10年以上、何度も読み返しているという名著の改訂版で、起業家や経営者にとって「必読の書」との評価が広がっている。本著を翻訳した土方奈美さん、編集者の中川ヒロミさんに、日本語版が出版されるまでの経緯などについて語っていただいた。(聞き手はグロービス経営大学院教員の山岸園子。全2回の前編。以下敬称略)
きっかけはチャットから
山岸:この度は受賞おめでとうございます。早速ですが、受賞の感想についてお聞かせいただきたいと考えております。
中川:この度は賞をいただきありがとうございました。実は発行前は、果たして多くの読者に読んでいただけるのか、不安なところがありました。500ページを超える本当に内容の濃い本なので、読み切っていただける読者がどれほどなのか、特に心配していました。それだけに多くの皆様から支持をいただいたことは本当に嬉しく思います。
土方:投票いただいた皆様にお礼を申し上げたいと思います。『ビジョナリー・カンパニー』の第1巻から翻訳されていたのが(アダム・スミス『国富論』などを手掛けた翻訳家の)山岡洋一先生で、その後、日本経済新聞の先輩で、今はフリージャーナリストの牧野洋さんも翻訳をされたシリーズです。こうした先輩方のバトンを引き継ぐのには、プレッシャーもありました。ただ自分が死んだ後も長年読み継がれていく本を翻訳したいというのは、翻訳者であれば誰もが持つ想いではないかと思います。今回受賞した『ビジョナリー・カンパニーZERO』は、そのような本になるに違いないという感触がありました。
山岸:原著の第1版は1992年に出版されています。およそ30年が経ち、このタイミングで日本語訳が出版されることとなったのには、どのような経緯があったのですか?
中川:日経BPでは、ジム・コリンズによる『ビジョナリー・カンパニー』シリーズを長年出版しています。代々、編集をしてきたのは同じ部署の先輩で、私の担当はというと、それまでシリコンバレーの翻訳書が中心でした。業務を通じシリコンバレーに拠点を置く起業家の方々と知り合うこともでき、色々なお話を伺ってきたのですが、その中の1人でシリアルアントレプレナーの小林清剛さん(グロービス経営大学院2011年卒業)から、30年前に発行された原著『Beyond Entrepreneurship』を読んだと、ある日の朝、チャットをもらったのです。
ジム・コリンズの著書自体は日経BPとしても出版してきましたが、その本は『ビジョナリー・カンパニー』という名前で出したシリーズの第1作より前に書かれたものだったので、日本語版を出すという話など全くありませんでした。ジム・コリンズが注目を集める前の著書であり、本当に知られざる名著という位置づけでした。小林さんから本の存在を教わり、では少し読んでみますと答えて読んでみたら、すごく面白いと感じました。
ジム・コリンズのエージェントに日本語版を出版したいと伝えたのが3年ほど前の話です。すると、今ちょうど改訂版を書いているところだから待ってほしいと言われ、それから待つこと1年半ぐらいですかね。日本語版を出せるようになったのです。
山岸:チャットが出発点となったということですが、編集者として「この本を出したい」と決断するための判断材料には、どのようなものがあるのでしょうか?
中川:基本的に編集者は起業家でも経営者でもなく、何か大きなことができる立場ではないと思っているのですが、リスクをとって大きなチャレンジをしている人々を応援したいという想いは常に抱いています。日本の起業家やビジネスパーソンの方々に役に立つような、マネジメントやテクノロジーに関する本を出したいという視点でいつも選んでいます。
山岸:翻訳をする書籍を選ぶ以外にも、例えば『iPhoneショック』では中川さんから著者に執筆を提案されたと(音声プラットフォームの)Voicyを通じて伺いました。どのように時代の先を読み、テーマを発掘されているのでしょうか?
中川:たまたまなのですが、私も土方さんも記者の出身です。企業取材を重ねると、問題意識を抱くようになります。『iPhoneショック』では、技術力のある日本メーカーがなぜiPhoneを作れなかったのかという問題意識が強まり、その理由について解き明かしたいという想いから企画しました。SNSをチェックしていると、日本企業に対する否定的な意見を目にすることがあります。その会社の従業員は決して無能ではなく、一生懸命、課題に取り組んでいるのです。それでもできないのではなぜなのだろう、との疑問が浮かんできます。
『FACTFULNESS』という本を担当した後もSNSをチェックしているのですが、100万部売れても世の中の人々は新型コロナウイルスに対して恐怖感を抱いている訳です。みんな読んでいないの? 買っただけじゃないの? と書かれている方もいました。一方で、本を読んで理解することと、実行することの差は一体何なんだろう、という疑問も浮かんできます。そういった、本当に身近なところを掘り下げて、本にしたいと思って日々の仕事に臨んでいます。
山岸:ビジネスパーソンが学ぶべき姿勢だと感じます。『ビジョナリー・カンパニーZERO』を今回、出版するにあたって、翻訳を土方さんにお願いした背景についてはいかがでしょうか?
中川:土方さんは、多くの編集者が同じ意見だと思うのですが、本当に優れた翻訳をされるプロフェッショナルです。原著が素晴らしくても、読みやすい日本語でなければ、このような厚い本だと途中で読むのが嫌になってしまうと思うんですよね。経営に関する専門用語についても、日本語訳が的外れとなってしまうと、翻訳書全体の信頼度が低下してしまいます。土方さんはマネジメントに関する本を幅広く訳されているので、安心してお願いすることができました。
大御所らしからぬ「熱さ」を感じる
山岸:正しい日本語もさることながら、著者の意思を訳にしっかりと込めることも難しい作業だと思います。一方で翻訳家としての自分らしさも介在させたくなるのではと思うこともありますが、このあたりのバランスを土方さんはどうとっていらっしゃいますか?
土方:翻訳者によってスタイルは違うと思うのですが、私は自分らしさは「訳者あとがき」で思いっきり出すことにして、基本的に本文では著者に寄り添い、著者に憑依されたように翻訳をしていきたいと考えています。
新聞記者だった頃はインタビューを手掛けることもあり、相手が言いたいことは何かと考えを巡らせ、話し手に寄り添いながら文章を書くトレーニングを積んできました。そういうスタイルが好きなのだと思います。著者の母語が日本語だったら、どのように話すのだろうと想像しながら、翻訳に臨むのは楽しいですし、そうした中で結局は自分らしさも表せるのではないかと思います。
山岸:ジム・コリンズ氏は土方さんのなかではどのような人物なのでしょう?
土方:翻訳を終えた後に、日経ビジネスの企画でインタビューをさせていただきましたが、翻訳を進めている時はだいたい、会ったことのない方の本を訳すことになります。翻訳をしながら抱いたジム・コリンズの印象は、とにかく「熱い」人なんですよね。読者の方々の支持をいただいたのも、大御所らしからぬ熱さが伝わったからではないかと思います。
これまで数々のノンフィクションの翻訳に携わりましたけれども、いくら看板があり、ビッグネームであっても、やはり本の面白さがなくなれば、読者はついてきません。『ビジョナリー・カンパニーZERO』は、企業はビジョンをひたすら追いかけなければいけない、ゴールはないのだと訴える本で、それを体現しているのがジム・コリンズという著者だと言えます。偉大な企業を作る条件とは何か、彼は30年間ずっと、ひたすら同じ熱さで追いかけているのです。
私も熱くなっていますが(笑)。この本を手にとって色々な角度から見ていただくと、(本の小口の色が)グレーと白に分かれていることに気づかれると思います。グレーが30年前に書かれたところで、白が改訂版の刊行を機に書き足されたところです。白の割合は3分の1を超えています。それだけ彼は研究を積み重ねている。このまだら模様がジム・コリンズの進化の歴史のようにも思います。大御所だからといってあぐらをかくことなく、常に学ぶ姿勢を保ち続けているのが、彼の魅力です。
(後編に続く)
『ビジョナリー・カンパニーZERO』
著者:ジム・コリンズ、ビル・ラジアー 翻訳:土方 奈美 編集:中川ヒロミ 発売日:2021年8月23日 価格:2,420円(税込) 発行元:日経BP